あい みたいなもの



 ドアを開けるとあなたは白い顔をしてぼんやりと私の額の辺りを見ていた。あまりにじっと見つめられるので、私は額にレーザーポインタを照射されている鹿のような心持になった。


「そんなに怯えないでください。あなたにとって私は悪夢そのものなんでしょうけど」


 私は傷ついた、というふうに首をすくめて見せる。自分が殺した女が目の前に現れる、というのはどういう気持ちなんだろう? 怖いのだろうか、それとも。

「あの人があなたを作ったの」

 意外にも彼女は冷静だった。聞いていたのと違う。私の記憶にバイアスがかかっていたのかもしれない。

「そうなります」

「天才の考えることってわからないわね」

 彼女はふ、と微笑みを浮かべた。

「それで、今日は何しに来たの」

 ドアを開けて、部屋の奥に入るよう促す。たぶん私を人目に触れさせたくないのだ。

「失われた記憶領域に関して。あなたならなにか知っていると思いました」

「アクセスできない箇所が気になる?」

「はい」

「私があなたを殺したと思ってるのね」

 妥当な推論だわ、と彼女は言って、椅子に腰掛けた。どうぞ、と勧められて、私も座る。物がない部屋だ。うちとは違う。なにもかもがフラットで、やわらかな曲線に囲まれている。ラベンダーをベースに、ミントグリーンと淡い黄色がアクセントになっている。あの人は塗装を施さないむき出しのカーボンブラックを好んだ。カウンターに飾られたユーカリの葉、かすんだ木の肌の色をした草。カラカラと乾燥して綿毛のように丸く広がっている。


「花は飾らないのですか?」


 そう尋ねると、彼女は微笑んだ。人目を引く美貌ではないのに、笑顔には人の心をつかんで離さないような魅力があった。

「見えないでしょう、それもいちおう花なの」

「オリジナルと初めて会ったときにも同じことを聞かれましたか?」

「花は飾らないのって?」

 彼女はふ、と息を吐く。吐息が甘い。果実の香りがする。室内には林檎を植えた鉢があった。レモンや林檎、キウイといった果物の側に、鈍く光るナイフが置いてある。

「その子はね、去勢された種なの」

「なぜ?」

「花は有害な虫を呼ぶから」

 あなたと同じよ。と彼女は言った。

「毒を無くした方が、扱いやすいでしょ」

 そのための品種改良。かいりょう。と言う言葉が妙に耳に障る。私を遺伝子改良した植物に喩えているのだ、と思い至ったときには、彼女はもう席を立っていた。

「お茶でいい?」

「グリーンティ?」

「紅茶もあるけど」

「できたらカフェインレスのものをお願いします」

 私の注文を聞いて、彼女はふ、と笑った。どうしてこの人の笑いはこんなにも神経に障るのだろう?

「あなた妊娠してたのよね」

 その声から感情を読み取ることは難しかった。

「え?」

「それでデカフェ。理由は忘れても、習慣だけ残ってるの。面白くって」

「あなた妊婦を殺したの?」

「私じゃない、あの人が」

「あの人?」

「あなた、自分の夫に殺されたのよ」

「なぜ?」

「さぁ。責任を負いたくなかったんじゃない?」

「責任って?」

「不倫とか親権とか」

 それとも単純に、キャリアの妨げになると思ったのかも。天才の考えることなんか私には想像もつかないけどね。言いながら彼女は私の目の前にカップとソーサーを置く。薄い色のハーブティが入っている。カモミールの香り。カフェインレスの液体。泣きそうになった。

「泣かないでよ」

 また彼女は笑う。あざ笑う、というよりは、困った、という笑いだった。

「ほんとうにきれいね。生きているのと変わらない」

 彼女が私に手を伸ばす。私はその手を拒み、彼女にもう一度向き直った。

「でも、偽物なんだね」

 にせもの、という言葉がまるで毒のある棘のように感じる。わたしのこころの表面を薄く傷つけて、折れた棘が刺さって抜けない。


「ちがいます」

 言葉にしながら私は泣いていた。涙がぽろぽろとこぼれて地面を汚す。換気のためのファンが静かに回っている。

「だって私は」

 ぼた、とひときわおおきな涙の粒が地面にたたきつけられる。

「ほんものよりも、ほんものだから」

 彼女はうすぅ、と息を吸って、聞いた。

「そうあの人が言ったの?」

 図星だったから、返事ができなかった。

「ごめんね、泣かせるつもりはなかったんだけど」

 謝られると、余計悲しくなる。

「これが愛だって、あの人は言いました」

 わたしの内分泌を統率する心臓。生体恒常性を維持し続けるための装置。

「愛」

 わたしはうわごとのように呟く。愛。

 ブラウスの前を開いて心臓のあたりを掻きむしった。この奥に、あの人のくれた愛が隠れている。私の生きる意味。生きる理由。生きるための仕組み。愛。

「わたしは偽物なんかじゃありません。私は――――――」

 果実の側に置いてあったナイフを手に取る。迷いなく刃を胸元に突き立ててた。彼女はあっと息を呑んで、目を大きく見開いて私を見ている。がち、と鈍い音がした。意識を飲み込んでしまいそうな強い痛みを歯をくいしばって耐え、私は傷口を開いて彼女に見せた。血液に似た体液が肉体の裂け目から零れ落ちる。

「これが、愛です。見えますか」

 彼女はがたん、と席を立って、二、三後ずさり、壁にぶつかってそのまま崩れ落ちた。

「あ」

 彼女の口から出る音声はもはやなんの意味も持たない。わたしの頬を伝う涙は乾いていた。全身を裂くような痛みだけが、私の意識をいま、ここの空間につなぎとめていた。全身が冷えていくような感覚、これがたぶん、私が死ぬ間際に最後に感じていたものなのだろう。

 私は彼女の頬に手を伸ばす。彼女は泣いていた。彼女の涙は生ぬるく、私の皮膚表面を滑り落ちていく。ひりりと沁みるような感覚があった。彼女の生み出す熱が、血液が、皮膚の向こうで熱く沸騰している。ずる、と血に濡れた床に足をとられて、ふたりでもつれるように地面に倒れこんだ。血液が彼女に皮膚を赤く染める。ぎし、と皮膚についた血液が彼女とわたしのあいだでこすれて音を立てた。

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