陸に棲む人魚
ある朝目が覚めると、家の前の道路が浸水していて、玄関にまで水が押し寄せていた。通勤どころではない。台風でもないのに、季節外れの大雨が街を襲ったのだった。困ったことに、家には食べ物の備蓄もなく、水道も止まっていた。なにか飲み物を買いに行かねば。
汚れてもいい服に着替え、戸締りをし、外に出た。スマホは濡れるといけないから、家に置いていくことにする。ぼくは折り畳み傘をジーンズのポケットにねじ込んだ。
「乗るかい?」
家を出てすぐ、ボートを漕ぐおじさんに声をかけられた。
ぼくの脚はすでに膝まで水に浸かっている。
少し考えて、ボートに乗せてもらうことにした。
「どこに行こうかね」
「……会社?」
おじさんはぼくを見て笑った。
「こんな日にかい」
聞けば電車も止まっているし、主要道路も寸断されているのだという。
「飲料水を、確保しようと思って」
「スーパーにはもう酒しか残ってねぇよ」
おじさんはそう言って、ぼくにストロングゼロのロング缶を投げた。叔父さんの足元にはすでに、空の缶がいくつか転がっている。
……出遅れてしまったみたいだ。
町は思っていたよりも静かだった。お年寄りや子供が優先的に避難所に移っていく。おじさんみたいに手持ちのボートを漕いでいる人たちもいた。家財道具を船に積み込んで、行くあてもなさそうに、虚ろな目でオール代わりの板を漕いでいる。
「雨、ずいぶん降ったんですね」
ぼくの呟きに、おじさんはがははと笑った。
「昨日はそらえらい騒ぎだったよ。明け方にはもう自衛隊のヘリが低く飛んでてさ。あんたあの喧騒の中で寝てたのかい。大した大物だ」
「疲れてたもので。お恥ずかしい」
町はすっかり水浸しで、車は役に立たないみたいだった。
「このボートはおじさんの?」
「釣りが趣味でね」
昨日から色んな人を乗せたんだ。あんたみたいな悠長な人は初めてだよ。おもしろいねぇ。とおじさんは笑った。
陽射しが遠慮なく照り付けて、ぼくの顔や首筋をじりじりと焼いた。朝から何も飲んでいない。転がっているストロングゼロが汗をかいていて、妙に魅力的に見えた。
えいや、とプルタブを引く。朝から飲酒をするなんて、はじめてのことだった。アルコールが喉を刺激する。乾いた体に酔いが染みわたるみたいだ。
「おや、見てごらん」
おじさんが指をさした方向に、ドラッグストアがあった。
「あそこなら、まだ何か残っているかもしれないよ」
ぼくはおじさんに礼を言って、ドラッグストアに向かうことにした。お礼に札を渡そうとしたが、拒否される。物なら受け取ってもらえるかもしれない。するめでも買って渡そうと思った。
ドラッグストアは店内もすでに水浸しで、冷蔵庫は電源を落としてあった。冷えた飲み物を期待していたぼくは裏切られた気持ちで、飲料棚を漁る。甘酒が余っていた。けれどもそれは諦めて、するめ、それから鯖缶を入れた。パンの棚はすがすがしいくらいに空だった。お菓子売り場でビスケットを見つけて、それもかごに入れる。
店員はいなかったので、お金を置いて店を出た。辺りを見回してみても、おじさんのボートは見当たらなかった。ぼくは手にしていたストロングゼロをあおる。ビスケットをいくつか口にして、アルコールでながしこんだ。口の中を消毒している気分になる。
頭がぼーっとして、足元がおぼつかない。たぶん酔っているのだろう。膝下まで水があり、道路は歩きにくい。濡れた衣類が皮膚にまとわりつく。
「あ」
と思った時には遅かった。ぼくはおそらく、農業用水路に足を踏み入れてしまったらしかった。水があふれていて、どこまでが通路で、どこからか水路かもはや判然としないのだ。どう、という水の音が、外から鼓膜に流れ込んでくる音なのか、それとも自分の体から発せられた音なのか、よくわからない。どどどどどど。どう。体が吸い込まれていく。水路に、パイプに、飲み込まれていく。不思議と怖いとか、苦しいとか、感じなかった。たぶん、おそらく、酔っているせいだろう。体にまとわりつく気泡が、ぱちぱちとはじける音がした。それはもしかすると、水路に響く水音なのかもしれなかった。飲み込まれてゆく、全身を飲み込まれてゆく。水は生ぬるく、夏を感じさせる。不思議と心地が良かった。全身を水で覆われていることに、安心していた。しぬんだろうか? しんでしまうんだろうか。それでもいい。ぼくはほんとうはずっと、こうなることを望んでいた気がする。
目が覚めると、ぼくは薄明かりの中にいた。傾いた夕陽だと認識するのに、しばらくかかった。頬に何か冷たいものを感じる。水、液体。くちびるを湿らすそれは、真水だった。ぼくはやわらかい苔のむした岩の上に体を横たえられている。見覚えのない景色で混乱した。ぼくは、流されたんだ、確か。
体を起こすと、「あ」と澄んだ声がした。エメラルドグリーンに輝く髪は、ところどころ明るい黄色や青に光っているように見える。白く冷たい肌をした女性だった。下半身のヒレを見ても、どうしてだか驚く気になれない。人魚の姿をしている。
「ぼくはたしか、溺れたんでしたっけ」
人魚は不思議そうにぼくを見ていた。溺れるという概念がないのかもしれない、と思う。
「ひどい雨でしたね、まるでバケツをひっくり返したような」
人魚は小刻みにうなずいた。
「水の中はどうなんですか、雨の日でも静かですか」
「音の伝わり方が、空気の中とは違うんです」
と人魚は言った。
「あなたが思うより、水の中ってにぎやかですよ」
「どうしてぼくを助けたんですか」
「あなたが死にそうだったから」
水ってとても重いんですよ、危険なんです。と人魚は言った。
「肝に銘じておきます」
体を起こして見てみれば、ぼくはどうやら神社の境内に寝かされていたようだった。
「あなたは? ご神体?」
ぼくは人魚に尋ねた。人魚は恥じ入った。
「わたしは、ただの居候」
この神社の池が気に入っているんです。と人魚は言う。
「人魚って海に住んでいるものだとばかり」
ぼくが言うと、人魚はますます恥じ入った。
「海は音が多すぎます」
この人魚はぼっちらしかった。
ぼくは人魚が気に入った。ぼくと同じだからだ。
ぼくも都心の喧騒を避けて、往復四時間を通勤に割いてでも、地方の小さな港町に暮らしていた。人が多いのも、騒がしいのも好きじゃない。静かにぽつんと暮らしていたかった。人魚もきっとそれと同じなのだろう。
「むかしは、人間に見つかると食べられてしまうから用心しなさいと、よく言い聞かされたものでした」
人魚はしみじみと言った。
「あー、人魚の肉を食べると不死になるとかいう伝承があったね。今は不死を望む人も少ないと思うなぁ。寿命がのびたでしょう。むしろどうやって死ぬかの方が、現代の人たちには重要ではないかな」
なるほど、と人魚はぼくの話を大事そうに聞いていた。とすると、この人魚は何歳くらいなのだろう。ぼくの想像よりもずっとながく、生きているのだろうか。
「なぜぼくを助けたの?」
ぼくはあらためてたずねた。
「人を助けるのに理由が必要ですか?」
人魚は不思議そうに聞いた。今度はぼくが恥じ入る番だった。
神社は高台にあった。排水ポンプが稼働しているせいか、町の水は徐々に引き始めている。
「ほんとうは、前の洪水の時に、海から川をわたって、この神社の池に迷い込んで、取り残されたのです」
人魚は言った。
「水路を水があふれている今、海に戻るチャンスだったのですが」
ぼくは少し考えて、
「本当に海に帰りたいの?」
と人魚に聞いた。
「助けてもらったお礼に、君を海まで送り届けてもいいよ」
人魚はぎょっとして、それから深く考え込んでしまった。それから、思い出したようにはっと顔を上げて、言った。
「わたし、やっぱりこの池が好きです」
「そうだと思った」
そうしている間に、また雨が降り出した。ぱらぱらとやわらかい雨だった。
「また洪水になるのかな」
「わかりません」
「君は雨が好き?」
「好きです」
雨粒はゆっくりと苔の上を滑り降りていく。
「海と雨とどっちが好き?」
人魚はしばらく考えて、
「陸の上で聞く雨音が、好きです」
と言った。ぼくたちはしばらく雨の音を聞いていた。
「もう少ししたら、完全に陽が落ちてしまいます。その前に帰った方がいいでしょう」
人魚が言った。その通りだなと思った。
「君になにかお礼がしたいんだけど」
人魚は首を振った。
「いえ、いりません」
「あ、そうだ」
ぼくはジーンズのポケットをまさぐる。
薄型の、折り畳み傘が入っていた。
「これを使って」
「いえ、あなたが使って帰るべきです」
「ぼくはもう、どうせ全身濡れているし」
「私だって」
「ぼくのことを、忘れてほしくないんですよ。察してください」
ぼくは傘を広げ、人魚に持たせたまま、神社を立ち去った。
水はずいぶん引いていたけど、押し寄せた土砂やごみがあちこちに散らばっていて、片付けにはまだ時間がかかりそうだ。
「お兄さん、水は買えたかい」
声をかけられた方を見ると、朝のおじさんが缶チューハイ片手に立っていた。
「売り切れでしたよ」
「そうかい。ほら、持っていきな」
おじさんは、ビールの六本パックが入ったビニール袋をぼくに手渡した。
「悪いよ。今なにも持っていないんだ」
「気にすんなよ。どうせみんな、なにもかも流されちまったんだから」
今日ぐらい、それ飲んで寝ちまいな。とおじさんは言った。そうですね、とぼくは言った。温い缶ビールの一本を取り出し、おじさんと乾杯する。
「ぼく、今日溺れて死ぬところだったんですよ」
「はぁ」
「でも助けられちゃって、こういう日もあるんですね。今日は二回も助けられて、朝はおじさんに、二回目は」
ぼくは口ごもった。神社にいるあの娘のことを、話してしまっていいものか。人が多いのが苦手だという、彼女のためには、黙っているのが一番いいのではないか。
「死んだと思って生きるのが一番いい」
おじさんはそう呟いて、美味しそうにチューハイを呑んだ。そのとおりだと、ぼくも思った。
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