銀杏の木の下

 生きているだけ、毎日同じことを繰り返して。ただ息をしているだけ。


 ときどき息すらどうやって吸うのかわからなくなってしまいそうになる。わかっているのはただ、どうやら私は生きるのがあまり得意ではないらしい。ということだけ。


 職場でも常に些細なミスを繰り返して叱られている。家に帰っても、母親にいつまでたっても同じお説教をされている。友達と遊びに行っても、私なんかと遊んでいて楽しいだろうか、とか余計なことを考えてしまい、かえって相手に気を遣わせてしまって、ちっとも息抜きにならない。つまらない女だ。ほんとうに。


 ある日ネットを使っていて、一枚の絵を見つけた。水彩で描かれた絵だ。ユーザー名がHiro Yamamoto となっている。他に情報はなかった。毎日絵や制作過程の写真をもくもくと上げているだけ。

 不思議な魅力を感じた。日本の原風景の中に、架空の生き物が描かれている。毎日その人の絵を見ることが私の癒しだった。


 あるときYamamotoさんの絵が不意に変わった。写実に近い絵を上げるようになった。人物のデッサン、クロッキー。綺麗な女の人だ。大学生くらいの年齢だろうか。前髪に少しくせがある。やわらかいおくれ毛が光に透けている様子がやわらかい鉛筆で画面に描かれている。


 はじめはモデルの人と目が合わない絵が多かった。斜め後ろや、後姿。だんだん絵の中の女性がこちらを見る。目が合う。微笑む。会話のない、あたたかな空気感。私は自分の心の中でなにか得体のしれない感情が沸き上がるのを感じた。

 Yamamotoさんはこの女性のことが好きなのだ、と思った。


「どーしたんですか、いつにも増してぼーっとして」

 アルバイトの柳井さんに話しかけられるまで、すぐそこに人がいることにすら気づいていなかった。お客さんが触っていた洋服を直す。

「いや、疲れてて」

「寝不足ですか? よく眠れるって話題の動画があるんですけどURL送りましょうか」

「いい、いらない」

 柳井さんの薬指に光っている指輪が、なんとなく目に刺さるように感じた。


 寝不足なのは体調不良からくるものではない。SNS依存症みたいなもので、画面を見てからでないと眠れないのだ。

 最近、彼のアカウントに、人物画ではなくて、近所の公園やテーマパークを描いたものが多くなった。以前は風景の中に人の姿はなくて、代わりに神獣とか、大きな怪鳥が描かれていたのに、今は街の景色そのままが描かれている。


 あ、意外と近い。電車で行ける距離だ、と、とある公園が描かれているのを見て思った。そう思うと、ほかの景色にもなんとなく見覚えがある。たとえばこの海岸線は昔車で通ったところだし、観覧車も、隣町の有名なランドマークだ。


 そのうち、景色の中にあの女性が描かれるようになった。はにかんだように笑いながら、初夏の風に吹かれながら、ベンチに腰掛け、あるいは電車のシートで眠るように体を預けて、光とともに、描かれている。


 私は休日に、彼らの通った道順を再現し、中華街で買い物をし、タワーの下でソフトクリームを食べ、海風に吹かれて、海浜公園のバザーで小物を買った。ひとりで。たったひとりで。


 帰りの電車の中で、カップルの姿を見るたびに、相手があのモデルの女性と似ているんじゃないか、確認してしまう自分がいた。会いたいのだろうか、彼らに。自分でも、自分がなぜそんなことをするのかわからなかった。


「最悪じゃないですか? やばいですよ」

「いやでも、危ないよ、リアタイで自分の居場所ネットに上げるのは」

「え~、でもめちゃくちゃ人気のドーナツ屋さんで。西日本初出店の。もうず~っと楽しみにして、めっちゃ並んで! そこでまさかのストーカーと遭遇とか。やばくないです? 引きますよ。実際死ぬほど怖かったんで」

「だからさ、顔とか、年齢とか、通学経路とか、勤め先がわかるようなこと載せちゃだめなんだって」

 柳井さんは大学生と言っていたけど、確か十九歳とかで、すごく若い。お店の裏口に待ち伏せしている車があるとかで、従業員の間で話題になっていた。どうも男はここから柳井さんの実家を割り出そうとしているらしかった。前回は店長が話をつけたらしいけど、ストーカーは彼女のSNSアカウントから行動を先読みしてつけてきているのだそうだ。お店だけでなく、買い物先や、通学途中の車両でも。

「私なんか、勘違いしてたかも。こういうのって、可愛いから、やばい人に目ぇつけられると思ってたんですよ。え、でもうちめっちゃブスじゃないですか。もうなんか、誰でもいいんだなって。つまり、あれなんですよ。どういう見た目でも、ついてくる人はついてくるっていうか、だから」

「ね? ぼくの言ってる事わかった? 個人情報は載せちゃダメ!」

「え~~それはまじでないです、無理ですって」

「くそ~~~、さっきからこの話七巡目なんだけど! ちょっと吉井さん! 女性の視点から柳井さんにアドバイスしてあげてよ~、俺じゃ無理だよ~」

「あ、……えっと、危ないから、アカウント消して作り直した方が。あと過去にあげてた写真とか使い回すと、また同じ人に目をつけられちゃうかもしれないから、ほんとにゼロから、、、」

「ないないないないないない!!!! ないって!!! ここまで育てたのに!」

 パートの柴田さんが困ったように駆け込んできた。

「ちょっと店長、またあの車ですよ。警察に相談したほうがいいんじゃない?」

「あ~、柴田さんそれは無理です~。ママにばれたらやめさせられちゃう」

「バイトを?」

「バイトもスマホも!」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろう!」

 店長が怒鳴った。全員黙り込んでしまった。


 ストーカー騒ぎは結局、店長が相手の男性に話をつけて、丸く収まったみたいだった。親御さんとも相談して、柳井さんはSNSのアカウントを作り直した。


 ストーカー。


 なんとなくその言葉が痛くて、あんまり仕事に身が入らない。

 苦しい。へんなの。わたしべつに、そんな。

 そんなに悪いこと、してるわけじゃなくて。


 あ、だめだ、なんか

 気持ち悪い。立ってるだけで、ふわふわしてくる。


 わたしって、そんなに。

 気持ち悪いのかな。

 悪いことしてる? わからない。

 柳井さんは若いから。若くて可愛いから。だって、それだけで、

 え、なに、私今なんて言おうとしたんだっけ

 ずるい、

 とかなんか、

 そんな




 そんな



 



 あ、あのお客さん、えんじ色のベレー帽の、


 私あのベレー帽知ってる。

 見たことがある。


 絵の中、中で。

 画面の、


 透明な


 色彩の、


 紅葉した


 公園の

 池沿いの

 小道を


 あ、


 かい

 ベレー

 帽

 を

 かぶった

 あの女の、

 女、


 の


 

「すいません、この色違い、Мサイズの、在庫あります?」




 絵の中の女が私に言った。


「確認してまいりますので、少々お待ちください」


 絵よりきれい、そんなことを、思った。


 金色のおくれ毛が、


 編み込んだ髪の、


 緩やかなカーブ


 あ、わたし、今、息を

 

 息を


 止めて


 た



 あんなに会いたかった人なのに、いざ目の前にするとどうしようもなくて、私はマニュアル通りにただ丁寧に接客することしかできなかった。あ、あなた今、画家とお付き合いをされているんですか。専門学生ですか、それとも美大生、絵を描く人と、どういう、関係で。でもわたしにはわかる。あれはどう考えても恋をしている人の目で、恋をしている、彼はこの女性に、確実に、恋を。


 恋を。


 女性の手元を見る。指輪がない。


「ありがとう」


 女性は軽く会釈をし、店の奥に歩いていく。私は動機がして、息を吸うと痛い。痛い。爽やかな花の香り、なんていう香水だろう。絵の中の彼女より、目の前の人の方がずっと、綺麗。きれい。生きて、やわらかくて、はじけるようで、なまなましい。


 家に帰って私は何度も、あの花の香りを思い描いた。癖のある前髪、やわらかいおくれ毛。「ありがとう」想像よりもずっと、穏やかで落ち着いた声質。私は着替えもせずにスマホを手に取り、今日のあの人の投稿を確認する。手元、女性の手元。白いシーツの上に乗った。手。マットなパープルがかったベージュのネイル。


 あ、爪、見そびれた。


 爪。


 つめ、

 つめつめつめつめ、爪。


 もうそのことで頭がいっぱいになってしまう。爪。

 かぐわしい花の香。絵には描かれない、香り。そのことを考えると

 いても、たっても、いられなくて、私は


 彼女が買っていった商品を身につけて、鏡の前に立ち尽くす。

 女。知らない女。私。私が。こっちを、見ている。

 似合わないな、ああ。


 ああ。


 ああ。


 あ


 あ

 涙が

 視界を

 遮るから


 でも、画面のなかの、あの人は

 正しく、世界を、見ることが できるので


 あ、あ、


 爪を塗らなきゃ、いけないな。

 ピンクベージュのネイルを、剥いで。

 パープルがかった、ベージュの。


 絵の中の。彼女は正しいから。

 正しくて、美しいから。


 あ

 鏡の中の

 知らない女が。

 見ないで

 わたしを。

 みない

 

 で



 柳井さんがバイトを辞めた。

 私は特定していた柳井さんのアカウントを時々眺めている。十九歳の女の子の、これが、声なんだ。写真、日常。なんだ。柳井さんは大学の近くの部屋で一人暮らしを始めたらしい。カフェでバイトを始めた。彼氏とは別れた。


 ふーん


 Yamamotoさんのアカウントに、絵が増えた。はだかの背中。あの女だ。

 金色の。ネックレスの。金具が。首の。骨の。そばに。


 私は服を脱いで鏡に背を向ける。背中。髪を。掻き上げて。

 寒い。普通に。寒い。


 よくわからないけど、想像する。女の背中。鉛筆を走らせる。

「もう服着てもいい?」

 あの落ち着いた声で。

「もう少し」

 とあなたが言う。

「寒い」

 と彼女。

「エアコンの温度を上げよう」

 と彼。

 からからに乾いた風が上から撫でつけるように吹く。遅れ毛を揺らす。

「もういいでしょ」

 上から服をかぶる。描きかけの絵が残る。彼女が帰った後に、思い出をなぞるように。記憶の中の姿を思い起こして。描く。鉛筆が、走る。


 私は久しぶりに鉛筆を握る。コピー用紙の上を走らせる。あの女を描く。

 とても幼稚な絵。全然うまくない。紙を丸めて捨てる。

「怜ちゃん」

 ママの声。

「入るよ」

 聞く前にもうドアを開けてる。

「はだか? 服着なさい、寒いんだから」

「うるさい、ほっといて」

「ねぇ、はがき来てた。結婚式の招待状。幼馴染のあいりちゃんの」

「後で読むから」

 私は服をかぶる、なかなか頭が出ない。イライラする。無理に引っ張ったせいで、襟元が少し寄れた。

「結婚式か~、ママのウエディングドレス、実はまだ置いてあるんだけどな~」

「もう、置いといてったら」

「ドレス?」

「ちがう、招待状」

「予定ないの?」

「も~」

「いくら自分の部屋でもパンツくらい履いてなさいよ、嫁入り前の娘が、恥ずかしい」

「うるさい」

 あ~働きたくない。仕事行きたくない。実家出たい。でも自炊したくない。洗濯してほしい。犬かいたい。うさぎでもいい。インコでもいいかな? あ~めんどい。無理。もう全部無理。死にたい。


 結婚式は普通にごはんが美味しかった。

 あの女が白い、体に沿ったデザインのドレスを着たら、さぞきれいなんだろうと思った。いつかそういう絵が描かれる日が来るんだろうか。その日まで私は彼の絵を見続けているんだろうか。

 家に帰って引き出物を見ているときにふと死にたくなって、メイクも落とさず布団に入って寝た。翌朝死ぬほど洗顔した。


 柳井さんは大事な単位を落として留年が決まった。

 自分の大学時代を思い出して胸が痛くなったので、これ以上見ないようにしなきゃ、と思った。そりゃあれだけバイトしてたらダメだろうな。


 私は何にも決まらない。

 辞めたいな、今の仕事。


 あの女の人みたいに。

 なって。

 彼の、

 モデルになって。

 それで。


 で。


 で?


 で


 店長と二度寝た。

 自分の醜さを再確認して死にたくなった。

 美しさのかけらもないんだなって。


 パパが定年退職した。知り合いの人の会社を手伝うことになった。

 ママが犬を飼い始めた。私に全然懐かない。

 店長が変わった。


 Yamamotoさんの絵が抽象画に近くなった。あの女が描かれなくなった。







 散歩をしていると、イーゼルを持ったロングコートの人とすれ違った。私は振り返る。池の側でイーゼルを置いて、携帯用の水彩セットを広げて。

 あ。


 


「絵、描かれるんですね」


 逆光のせいだろう、彼がまぶしそうに目を細めた。


「紅葉が綺麗ですね」


「ええ」


 彼が笑う。


「私のこと、描いてくれませんか」


「え?」


「お金を出すので」


「そういうことではなくて」


「ファンなんです。インスタいつも見てます」


 結局三千円払ってモデルにしてもらった。ユニクロのスカート、ユニクロのコートの私が銀杏の木の下にたたずんでいる。


 絵の中の私、は、笑っていた。


 笑って。


 私は銀杏の木を見上げる。ちょっと嫌なにおいがするけど、綺麗。

 人間ってそういうものなのかもな。

 

「ありがとうございました」


 私は頭を下げて公園を出る。銀杏の葉を拾って、カバンにしまった。

 電車に乗って、海沿いの町へ行く。

 大きな船の停泊する港。

 観光客がたくさんいる。


 私はカバンからスマホを取り出して、画面に自分の姿を映した。

 相変わらず醜い。


 海にスマホを投げ入れる。


 とぷん。


 波の中に沈んだのを見届けて、私は駅に向かって歩き出した。

 絵の中の私には顔がなかった。でも口元は笑っていた。


 だから私も笑おうと思う。

 無理にでも、笑っていようと思う。

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