陽だまりの部屋
夜中に鳴る電話はろくなものがない。緊急の不幸話に決まっている。
でもその夜は発信者の名前を見てどきりとした。祖父だ。
祖父が電話をくれることは珍しい。要件があるときはいつも祖母から私に電話がかかってきた。祖母の話では、祖父が、「そろそろ真緒に電話したったらええわ」とせっつくらしい。祖母が話している間、すぐそばで祖父がうろついているのか、ときどき咳払いの音や、「ああ、せやせや」などと言っているのが聞こえる。それなのに、祖父はかたくなに電話を替わろうとしない。
祖父母は仲が良い夫婦だった。
祖母がおかしくなったのは三年前の暮れからだった。認知症の症状が出だした。
だんだんとおかしなことを言う頻度が多くなって、去年ふと、母から電話がかかってきた。
「おばあちゃん大丈夫なん」
「体はな。そら元気よ。あの人丈夫やもん」
「そろそろ帰らなあかんなぁ」
呟いた私に、母がぴしゃりと言う。
「あんたは会わんほうがええ」
母は続けた。
「私らがおるから、大丈夫や」
ちっとも大丈夫そうではない声色で、母はそう言うのだった。
ここ十年、実家にすら帰っていない。仕事の忙しさを口実に、私は祖父母のことを考えないようにしていた。意識から追い出すように、そして申し訳程度の金額を仕送りする。時々お菓子を添えて。祖父の大好きな、甘いお菓子を。
「おじいちゃん、どないしたん」
しばらく沈黙の時間があった。とても長いように感じた。実際には十五秒くらいだったかもしれない。
「元気か」
「おう、元気よ」
「ほうか」
また黙り込む。三十秒、いや、もっと長かった。
祖母のことを聞きたかった。でも、質問が喉の奥につかえて出てこない。
おばあちゃんどないしてる? 元気? これだけの簡単なことを、口に出すことができない。私は自分がとても薄情な人間だったことを思い知った。
「さむぅなったなぁ」
祖父が言った。
「ほんまやなぁ。温い冬やと思てたけど、こないだから急に寒なって」
「あんたは小さいころ、よぉ熱出しよったから」
「ああ、せやったねぇ。大人になってからは風邪ひとつ引かんわ」
ちょっとはか弱い女になってみたいねぇ、という言葉を咄嗟のところで飲み込む。
「ほうか」
祖父はまた小さくつぶやいた。
「そら、ええ」
かみしめるように、ええ、という祖父の声が、なんだかすごく懐かしくて、私は祖父母に会いたくなる。
「今度の週末そっちへ遊びに行くわ」
私が言うと、祖父またしばらく黙り込んで、
「せやけど、家のなかぐっちゃぐちゃや」
と言う。
「ええやん、どうせ孫やし、畏まる仲でもないやん」
「あんたがええなら、ええよ」
それから少し話をして、電話を切った。
*******
薔薇のアーチから、つるがあちこちに伸びてアーチというより現代アートのようだった。祖母がもう手入れをしていないのだ、と思う。花壇にもう花は植えられていなかった。私が幼稚園で持ち帰ったパンジーを植えてから、祖母が毎年私のために、チューリップやパンジーやサクラソウを植えてくれていた、花壇。
呼び鈴を押すけど、なかなか出てこない、
しばらく玄関作で待ちぼうけていると、数十分してドアが開いた。
「すまんな、ご飯を食べさしよったんや」
祖父が言う。小さくなったなぁ、と思う。真っ白な髪がふさふさとやわらかくて、まるで鳥みたいだ。子供の頃は、祖父がすごく大きく見えて、近寄りがたく感じていた。
老人斑、というのか、顔に大きなシミがある。祖父は今年幾つになるのだっけ。もう七十を超えてずいぶんになる。
「ええよ、大丈夫」
私は祖父にお土産を渡す。水ようかんを買ってきた。
「おおきに」
おおきに、と言われると、なんと返していいのかわからない。馴染みがない。
日常で関西弁を使わなくなってしばらくが経った。それでも、いつも通り話しかけられると、自然と口をついて出るから不思議だ。まるで言葉が私の体に染みこんでいて、語り掛けられることで初めて思い出されて、表面ににじんでくる、といった風だ。
それでも祖父のような人が使う旧い言葉には、ときどきなんと返していいのかわからなくなることがある。
家に上がってみて、ぐちゃぐちゃ、という言葉の意味が分かった。通路にうずたかく積まれた生活用品の入った段ボール。家の中には雑多なものがあふれていた。片づけをするのにも体力が必要なのだ、と思う。
祖父母の家は、昔はそれは神経質に片付けられて広かった。
「お茶でええか」
「ええけど、おかまいなく。私淹れるで」
「ええ、ええ。どうせついでや。あんたは座っとき」
祖父にお茶を淹れてもらうのは、初めてだ。と思った。
机の上にはお茶菓子やインスタントのスープの素、開封済みのパンの袋、カップおしるこ、などが散らばっている。そのせいで私のすぐ目の前に、ミカンをおいたかごが迫っていた。
何の気なしに、机の上のものを整頓する。するとお父さん、お父さん、という祖母の声が聞こえてきた。
私は思わず立ち上がってその声のする方へ行く。介助用のベッドに腰かけている祖母の姿は小さくて。記憶の中の祖母よりもとても幼く、可愛らしく見えた。
「おばあちゃん」
声を掛ける。祖母が私を見て固まっている。
「お父さん! お父さん!」
怯えたような祖母の顔を見て、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
「お父さんどこ、どこなん」
「あ~、あ~、そない叫ばんでも、ここにおるが」
祖父が背後から部屋に割り込んで、祖母の前にひざまづいた。
「知らん女がおる」
「真緒や」
「嘘や!」
祖母ががなる。
「出てって! ここはお父さんとあたしの家や」
「あんた、出てって!」
「嫌や! お父さん、お父さん」
足をバタバタさせながら、立て続けに叫ぶ祖母を、よしよし。と祖父が撫でる。呆然と立ち尽くす私に祖父が目配せした。私は外から見たら、たぶんすこし青い顔をしていたと思う。何もできずに部屋を出た。
しばらく祖母の泣いている声が聞こえていた。
祖父が私と浮気をしているという祖母の声を、まるで異世界の言葉のように聞く。
やがて恨み言は歌に変わった。祖母の若いころの流行歌だろう。祖父が一緒に歌う。歌が家の中に沁み込んでいく。私の体に関西弁がしみ込んでいるのと同じメカニズムで、この家の中には祖母の歌に呼応するなにかがあるのだ、とぼんやりと思った。
祖母は歌の好きな人だった。よく私に、子守唄を、歌ってくれていた。
ああ、うまいなぁ。おばあちゃんは、相変わらず、歌が上手い。
祖母の澄んだ声に、こぶしのきいた祖父の声が重なる。
だんだんと祖母の声が小さくなって、祖父の声が響き渡る。
祖父が台所に放置していたお湯とお茶っ葉で、ひとりで勝手にお茶を淹れる。祖父のぶんを湯のみに注いで居間へ持って行った。低い机と、座椅子と、テレビ。若いころから読んでいた、経済新聞。老眼鏡と、色鉛筆。絵を描くのだろうか。祖父母が。意外だった。
「すまんすまん」
祖父が部屋に戻ってきた。
「おばあちゃんは」
「寝たわ」
「ほんま。なんかごめんね」
「いいや」
こっちこそ、と祖父は鼻の頭を掻いた。
「あんた、こんなん使うか?」
祖父が戸棚のところに積んであったなにかを引っ張り出す。
キルト生地のポーチだった。引っ張り出されたポーチの上から零れ落ちた、ティッシュケース、子供が通園に使うような、小さなカバン、
「これ、どないしたん」
「あの人が作ったんや」
「へぇ、上手やねぇ」
「ああ、頭はあかんようなってもな、体は、手が覚えてるんやろなぁ」
あかんようになる。という言葉がなんだか痛くて、それに反して、私が手にしている手芸品は祖母の几帳面な性格を反映して、丁寧に曲がらない縫い目で、合わせがきれいで、乱暴に縫われた安物の量産品のことを思い出すと月とすっぽんで、
ティッシュケースの布が、私が幼稚園の頃に、祖母が作ってくれたお手玉の布と、同じ柄で
涙が出た。
「一時期はずぅっとそんなんばっか作りよったけどなぁ。最近は集中力がもたへんのやろな、かえってイライラするみたいで、ミシンも人にあげてしもた。手でも縫われたらかなんからなぁ」
通園バッグも、コップ入れも、スカートも、ワンピースも、祖母がなにもかも私に作ってくれた。
「真緒ちゃんこんなん好きか」
祖母がそう言って取り出してくれるお手製のものが私はすごく好きで、通園バッグも丈夫で全然壊れないから、何年も、ピアノのレッスンバッグに使って。
「ええもん食べに行こな。お母さんには内緒や」
いたずらっぽく微笑む祖母の顔が脳裏によぎって
私は鼻水を垂らしながらずっと泣いていた。祖父がティシュの箱を目の前に置いてくれる。
「すまんな、なんのおかまいもなしで」
祖父が言う。私は首を振る。
「おじいちゃんは大変やないの?」
「そら大変や。……大変や」
また、あの間だ、と思った。
かみしめるように、大変だ、という祖父の顔は遠くを見ている。
私の向こうの、遠くを、きっと記憶の中の思い出を、見つめているのだ。と思った。
「まぁでもあんたのお父さんお母さんがよぉしてくれるしな」
「お父さんも?」
「せや。最近囲碁教えたってんねん」
「へぇ、囲碁」
「なかなか筋がええで」
そう言ってにかっと笑う祖父がいつもの祖父で、私はなんだか安心する。
「ヘルパーさん頼んでる間にな、わし、絵習いに行ってんねん」
「絵?」
意外だった。祖父は金属加工の工場を経営していて、それも私が大学生の頃に仕舞って、いつでも仕事一筋で、だから趣味なんて、あってないようなものだと思っていた。
「ちょっときてみ」
祖父に招かれて、和室の方へ連れていかれる。ラックにたくさんの服が、クリーニングから帰ってきた姿のままで掛けられていた。明かりをつけると、イーゼルに布が掛けられているのが見えた。
祖父が私の顔を見る。うなずいて、布を取る。
油絵だった。
さっき見たばかりの、介助用ベッドに腰かける祖母の斜め上半身。
すましたような、照れたような口元。
明るい陽だまりの中の絵だった。
祖父のニコニコした顔を見る。
「じょうず」
私は思ったそのままを伝える。ほんとうに、年をって始めたばかりの絵だとは思えない。
「ありがとうさん」
祖父の笑顔に照れが加わった。
なんども、何もできないでごめんね、という言葉を呑み込んだ。祖父の前では言えない。言葉にするとただの自己満足になってしまいそうだ。
「あの人、もっときれいに描いてって言いよるんよ」
祖父は困ったように言う。でもどことなく、嬉しそうだ。
「いいや、きれいよ。綺麗な絵。おばあちゃん、綺麗ねぇ」
「せやな、きれいな人やな」
絵の中の祖母は、私がよく知っている祖母の姿と似ていた。カメラを向けると、上手く笑えずに、口元を真一文字に結んで、それでも、笑顔が結んだ口の端からこぼれてしまうような、照れたような、祖母のいつもの顔。祖父の方を、決して見ないで、どこか遠くの方を見つめている、あのいつもの目。車いすに腰かけて、緊張しているのだろうか、膝の上に手を重ねている。皺だらけの手も、太陽の光に透ける白髪も、色の抜けた眉も、なにもかも、今の祖母の姿のすべてが画面に写されている。あまりに等身大で、ありのままで、どこをどう切っても祖母だった。
きれい。
「あんたは、どや。元気でやってんのか」
「あんじょうやってます」
「ほな、よろしい」
よろしい。と祖父はもう一度呟いて、大きくうなずいた。陽の当らない和室で、絵の中の祖母だけが、温かい日差しの中で微笑んでいた。
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