たびするたび

 白い壁の周りをぐるぐると周っている。細い手すりのついた螺旋階段を上っている。ここの壁には窓がない。だからぼくは自分が今どこまで上っているのか見当もつかないのだった。時折下から風船が飛んできてぼくを起こしていく。白い階段に果ては見えず、疲れから地面に足をつきそうになる。

 それでも、上っていく昇っていくのぼっていく。


 階段の手すりから緑のツタが垂れ下がり始めた。窓のない部屋でどうやって育っていくのだろうか。ぼくは青々とした葉を不思議に思いながら眺めては、上っていく。すると、遠く上の方からかすかに水音がするのだった。

 誰か住んでいるのかもしれないな。ぼくは上っていく昇っていくのぼっていく。


 ふとももが張って熱をもち始めた。階段は相変わらずの様子で続いている。けれども徐々に幅が狭くなり、最上階に近づいている気がした。涼しげな水音が一層大きくなる。やがて天井をふさぐ板に階段が吸い込まれていくのが見えるようになった。あそこにせめてたどり着けたら。ぼくは階段を上り続ける。フロアの手前に歯窓があり、そこから明るい日差しが差し込んでいた。


 たどり着いたフロアは板張りのシンプルな部屋だった。大きなプランターがあり、そこから蔓が勢いよく飛び出している。あるいは丸い鉢植えに小さな姫リンゴの木がある。その対極に小さなレモンの木。窓の側の鉢植えからは苺が実っている。簡素なベッドと本棚があり、部屋の中央には小さな噴水から水が湧き出て、溝を通ってプランターの足元を濡らしていた。冷蔵庫を覗くとコップとサンドイッチが入っていた。ぼくはコップに水を汲んで飲み、むさぼるようにサンドイッチを食べた。

 その日はそこのベッドで眠った。寝心地はあまり良くない。けれども、疲れていたのかすぐに深い眠りに落ちた。


 目が覚めると、足がひどく痛んでベッドから降りられない。すぐそばにあった本棚から本を手に取って、ペラペラとめくっては眠り、水を飲んでは眠り、そう言う暮らしをしばらく繰り返した。

 不思議なことに一晩経つと、冷蔵庫の中は補充され、果物もあるのでおなかが空かない。しばらくどのくらいその部屋で暮らしていただろう。あるときぼくは、その部屋からさらに伸びる階段に足を掛けた。


 そうしてまた、上っていく昇っていくのぼっていく。


 同じ景色がしばらく続き、また同じようなフロアにつく。見たこともない実をつけた、かわいらしい木があり、恐る恐るもぎとった実に鼻を近づけてみる。甘いかぐわしい芳香に思わずかじりつきたくなる。硬い皮に爪を立てると、ひびが入った。中から半透明に透き通った乳白色の実が出てくる。かじりつくと甘い。

 しばらくその実を食べて、寝てを繰り返した。机の上にスケッチブックと色鉛筆があったので、木や実を描きながら暮らした。


 はじめに食べたときはあれほど美味しいと感じた果実も、日を重ねるごとに飽きてしまって、ぼくは最後の三つをポケットにねじ込み、また階段を上り始めた。はじめの頃よりも楽になった気がする。足が軽い。ぼくは足取り軽く、上っていく昇っていくのぼっていく。


 しばらくしてまた水音が聞こえ始めた。たどり着いたフロアはこれまでとは違い、真っ暗で、ただ水の涼しげな気配だけがしている。手探りで歩く。ぶつかる。こける。ぼくは盛大に水をかぶる。ひさびさに水浴びをした。心地はいいけれども、乾いたやわらかいタオルや着替えがあったらもっと最高だったろう。


 真っ暗な部屋では気が狂いそうになる。あふれ出てくる雑念がぼくの心を殺す。ぼくはどうにかしてこの部屋から出たい、と念じるけれども、出口はどこにも見当たらない。なぜか息苦しい。もしかしてここから出られないまま死んでしまうのではないか、と思った。日にちの感覚がないまま、床に伏せて過ごしていた。時折このままではいけない、と立ち上がるものの、出口を見つけることができず、ましてや戻る道も見つからず、ぼくは不貞たように眠った。


 あるとき壁沿いに歩いていると、太い蔓のようなものが壁を伝って垂直に伸びているのに気がついた。ツタを手でたどっていくと、天井付近にパイプが張り巡らされており、そこから瑞々しい葉が茂っている。もぎった葉をちぎると、青臭い香りがした。ぼくの手が葉に触れるか触れないかの高さを探っていく。ふと、一段と冷たくてつるつるしたものに手が触れた。指でつまんでみると、丸い。引っ張るとプチりと潰れた。手につたう汁を舐めると、甘い。ブドウだ。


 ぼくは夢中で暗闇をまさぐり、ブドウの房を探した。一度触れたからには必ずまだそこに残っているはずだ。空しく宙を掻く手を何度も振るう。


 あ、あった。慎重に蔓と房の境目を探し、爪で表皮を剥いで、もぎ取った。ずっしりと重い感触に手が震える。ひんやりと滑らかな肌触り。ぼくは一粒を口の中に放り込んだ。かぐわしい香りと爽やかな甘みが口いっぱいに広がる。皮を噛むとほのかな苦みと青臭さが鼻に抜けた。ぼくは夢中で一房食べきった。


 どうやら地面の近くと天井付近では空気の流れg違うようだ。手をかざしながら真っ暗な中を歩き回る。あるときふと、天井に切れ目のような四角の跡を見つけて、ぼくはそれを叩くように押し上げた。すると切れ目から白い光が差し込んで。余りのまぶしさにぼくは目が見えない。


 しばらくして目が慣れた頃に気がつく。天井にあいた四角い穴から。古びたロープのほつれが覗いており、それを引っ張ると、縄梯子が落ちてきた。


 梯子を上るとフロアの向こうにまた階段が続いていた。ぼくは疲れてその場で眠ってしまった。どれくらい眠っていたのだろう。一日よりもっと長く、だったように感じる。高いところの窓から外の明かりが差し込んでいた。


 不思議なことに起き上がることができない。疲れはないはずなのに、体を起こすことができなかった。やがて月明かりが窓から差し込んだ頃、ぼくはようやく立ち上がり、小さなテーブルにあった丸パンに口をつけた。五感が研ぎ澄まされていたのか、香りや甘みが普段よりもかなり強く感じる。けれどもぼくはそれを、おいしいと判断することができないでいた。ただ必要があるから、食べている。



 どれくらいその部屋にいただろうか。時間の感覚がすっかりなくなっている。あの暗い部屋に戻ることは考えたくもなかったし、かといってこの部屋から出ようとも思えなかった。


 しばらくすると、壁に一匹のヤモリがいることに気がついた。ヤモリは壁の蛾や小虫をとって食べているようだ。じっと眺めていると不思議な心持になる。愛おしいような、不思議な感覚だ。あるときたまたま肩に止まった蛾がいたので、そうっと摘まみ上げてヤモリの口元に持って行った。ヤモリは初めは警戒していたが、やがてぼくの指ごと噛みついた。ベージュの蛾が、金色の鱗粉をまき散らした。まるで時間が止まっているように感じた。ヤモリは蛾にかみついたまましばらくじっといていたが、やがて顎を上向け、蛾をゆっくりと喉の奥の方へ押し込んでいった。


 ぼくはヤモリのすぐそばの壁にもたれ、眠った。目を覚ますとヤモリはいなかった。ぼくは立ち上がり、また階段を目指した。


 はじめのうちは白く塗装されていた階段も、コンクリートの色が剥き出して、ところどころ剥落が見られる。このあたりまで来る人はあまりいないのだろうか。そういうことを考えながら、無心で階段を上る。しばらく行くとだんだん塔の幅が狭くなって、小さな板の間が見えた。


 階段を上りきると、目の前に扉がある。すりガラスの窓がはめられた簡単な扉だ。ぼくは古びたドアノブに手をかけゆっくりと周す。ドアの隙間から、ごう、と風が吹き込んできた。霞む視界、ぼくは雲の中にいる。目の前には小さなロケットがあり、燃料は片道だけ、という張り紙があった。


 ぼくは後ろを振り返り、しばらくそこに座り込んで考えていた。夜になると空一面をおびただしい星が覆った。光り輝く空を見ながら、ぼくはひとり考え込む。


 朝になり、ぼくはもう一度、塔を囲むように作られたバルコニーを一周した。ロケットのちょうど反対に、小さな気球があり、ぼくはそれに乗り込んで、ゆっくりと地上に帰っていく。気球のかごの中にはミルクとパンがあり、ぼくはそれを食べながらぼんやりと考えていた。ぼくが階段を上り続けたことに意味はあっただろうか。ぼくはロケットに乗り込んで宇宙を目指すべきだったんだろうか。たったひとりで、帰るための燃料もない旅を、するべきだったんだろうか。それがぼくの役割だったんだろうか。


 強い風に気球が揺れて、上から銀の輪がからんと落ちてきた。白金の指輪を指にはめて、ぼくは遥か地上を望んだ。ぼくが育った町、ぼくを育てた土地。畑があり町があり駅があり港がある。今でも多くの人があそこで暮らしている。


 気球はぼくの知っている町を通り過ぎ、ぼくの体を遠く遠くへ運んだ。やがてぼくは知らない砂丘に舞い降りる。砂の山を滑り降り、ぼくはまた歩き出した。一歩一歩、歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る