夜が私を食べにくる

「夜はどうして暗いのかな」

 布団の中で尋ねてみる。答えはない。一階からパパとママの言い争う声。ぎゅっと目をつむる。布団の中はシンと冷たくて、心が割れそうに痛い。アニメの中の女の子は小さな友達と仲が良くて、外でも家の中でもずっと一緒でうらやましい。私にもそういう「ともだち」がいたらいいのになぁ。


 一階で何かが割れる音がした。私は耳をぎゅっと抑えた。


 耳がついてて、淡いブルーで、羽があって、近くを飛んでいる。そんなともだちの姿を想像して、大丈夫、って自分に言い聞かせた。それでも心の中に穴がぽっかり空いたような気持が収まらなくて、涙がにじむ。

 こわいのか、不安なのか、さみしくてたまらないのか、自分にもよくわからなかった。ただお母さんが隣に来てくれたら、きっと温かいだろうなと思った。


 学校に行くとともだちに会える。学校から帰って遊びに行くとともだちに会える。でも夜になると、次の朝までぜったいに誰にも会えない。ひとりぼっちになる。真っ暗の部屋の中で、朝がくるまでひとりきり。

 朝まで、ずっと。


 お母さんが階段を昇ってくる音が聞こえる。私は涙をぬぐって眠っているふりをする。寝息のように、穏やかに息を吐く。目を閉じて、眠っているふり。ねむっているふり。

 がちゃ。ドアが開いてお母さんがこちらに歩いてくるのを感じる。音とか空気の流れでわかる。私はただ息を吐きだすことに集中する。お母さんの手がそっと私の頬に触れた。

 布団がかけ直され、私の髪を整えて、お母さんは私の額にキスをした。


 私は息を殺して、お母さんが自分の寝室に移動するのをじっと待つ。一階からお父さんの見ているテレビの音がする。子供部屋の扉がぱたんと閉まって、部屋の中はまた静かになった。私は想像する。窓の外で夜が暴れている。夜は悪い大人や悪い子供を食べてしまう。窓の向こうから覗き込んで、悪い子をじっと探している。だから私は布団から出ずに良い子で眠っていないといけない。夜につかまらないように。夜が私を見つけないように。みじろぎひとつしないで、布団の中にくるまっていないといけない。


 本当に私は悪い子なんだろうか? 見つかると食べられてしまうような、悪い子なんだろうか? きっと悪い子だ。夜もなかなか寝られないし、朝の支度は遅いし、ときどき宿題を忘れる。このあいだもピアノの時間に遅れてしまったし、自転車の鍵を落として友達に探してもらったし、それに、もし私がほんとうにいい子なら、お父さんやお母さんはケンカなんてしないはずだ。夜に見つかったらきっと食べられてしまう。


 しばらく布団にくるまって丸くなっていたけど、やっぱり眠れない。

 私は恐る恐る布団の隙間から窓の外に目をやった。

 窓の外には大きな金色に輝く瞳がふたつ、ならんでこっちを見ていた。


〇〇〇〇〇〇〇〇〇


「優奈ちゃん今日は早いのね」

 ママがびっくりしていった。まだ朝ご飯の支度ができていないみたい。私は顔を洗って、大きな赤いタオルで顔を拭いた。

「え、言われる前に顔を洗っているの?」

 ママがまたびっくりしている。私はリビングのランドセルに今日の用意が間違いなく入っているか確かめて、持ち物を確認して、入り口の近くにおいてから、着替えるために二階に戻った。


 いい子にするいい子にするいい子にする。食べられませんように、食べられませんように、食べられませんように!


 その日はがんばって一日中いい子で過ごした。町のゴミを拾い、買い食いを断り、ママの言いつけは全部聞いた。これでもうあの黒いのは現れないと思う。現れない。絶対に。

 見ているテレビの途中で、ママに怒られる前にお風呂に入ったし、髪も自分で乾かしたし、晩御飯も残さなかった。歯磨きだって念入りにした。絶対大丈夫だ。私はいい子だ。


 お布団に入って電気を消した。今日は漫画も読まなかった。


 しばらくしてお父さんが帰ってくる。何があっても聞こえないふりをして目をつむる。いい子だからいい子にするからお願いだから、食べないで!


 じっと目をつむっていたけど、どうしても胸が苦しくてたまらなくて、私は顔までかぶっていた布団をはねのけた。布団の上に乗っかっていた黒い塊が真上にジャンプした。「ひゃあ!」開いた口がふさがらなくて、私は両手で自分の口を押えた。黒い黒いおばけの目が金色に光っていて、口が耳まで裂けている! お化けは私の顔を見て嬉しそうに笑った。食べられる!

「ばあ」

 黒いのが言った。私は自分の目から涙がこぼれていることに気づいた。


「やあともだち」

 

 黒いのがまた言った。ともだち? 今なんて? 私のともだちは、淡いブルーで、顔の上に耳がついてて、羽が生えてて、目がおっきくて、ブルーの透き通った瞳をしているの!


「あそぼう」

 黒いのが黒いからだから取り出してきたのは、トランプだった。

「あそぼう」

「やだ。遊ばない! 友達じゃない」

「ちがう、ともだち」

「違うもん!」

 

 夜が私を食べに来た。悪い子だからだ、悪い子だから、神様がこのおうちにこの子はいりませんって、夜に告げ口したんだ。私は布団にくるまってまるまって、しくしく泣いた。

 でも気がつくと黒いのは布団の中に入っていて、私の胸元からひゅっと出てきた。ぺろりと涙を舐められる。

「ともだち。さみしがりやのともだち」

 黒いのは真っ暗で、目だけが金色に光っていて、触るとちょっとだけ温かかった。私は布団をのけて、明かりをつけた。黒いのは明かりをつけても真っ黒で、体と空気の境目が煙みたいにふわふわしている。

「私のともだちは、淡いブルーで、ねこみたいな耳をしてて、背中に羽が生えてて、それから……」

 ばたばたばた、お母さんが階段を上がってくる音がする。私は電気を消してベッドに飛び込んだ。でもお母さんは私の部屋にはこないで、自分の寝室に入るとバタンと扉を閉めてしまった。真っ黒のともだちが、私の隣にぴったりと貼りついている。


 気がつくと私は泣いていて、声もなく泣いていて、窓の外にはともだちと同じ色の夜が静かに街に覆いかぶさっていた。


 それから私はむくっとベッドから抜け出し、明かりをつけ、黒いのとトランプをした。神経衰弱は黒いのが無茶苦茶弱かったので、私が圧勝してしまった。可哀想だったので、ババ抜きをした。また勝ってしまった。七並べをした。黒いのは弱かった。

「ほかの遊びする……?」

 手を変え品を変え、二十六連勝したあたりで、空の端っこが色を変え始めているのに気がついた。

「もう行かなきゃ」

 黒いのが言う。

「ねぇ、私が悪い子だから、私のところに来たんでしょう? 私を食べに来たんでしょう」

 黒いのはびよびよと良く伸びた。黒い霧のような湯気を出している。怒っているのかもしれない。

「ともだち!」

 何回言ったらわかるのか、と言う風な感じだった。そうか、ともだち。

「もしよかったら、パパのところにも行ってあげてくれる?」

 黒いのはベッドからずるりと落ちて、よちよちと窓の側に近づいていく。それから名残惜しそうに振り向いて、窓枠の隙間から、外に出た。


 ああ、よかった。食べられなかった。すると急に体の力が抜けて、眠くてたまらない。私はベッドに倒れ込んで、そのまま意識を失った。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 部屋に差し込んだオレンジ色の明かりがまぶしくて目を覚ました。


「目が覚めた? お寝坊さんだね」

 パパの声がして私はびっくりする。パパは私のベッドに腰かけて本を読んでいた。

「パパ、お仕事は……」

「今日は休んだよ」

「なぜ?」

「みおこが目を覚まさなくて心配だったからだよ」


 夢なのかな、と思ってほっぺをつねってみた。痛かった。


「おなか空いたろ、ちょっと待ってて」

 パパが部屋を出て行く。私は1日がもう終わりかけていることに呆然とする。小学校に入るときに壁につけてもらった針の時計が、五時を指していた。学校、休んじゃった。


 一階に降りていくと、パパがチャーハンを炒めていた。お醤油の匂いがする。パパの大根葉のチャーハン。ちりめんじゃことたまごが入ったチャーハン。私はスプーンを二つ机に並べて、ご飯ができるのを待つ。そういえばとてもお腹が空いているみたい。寝ているだけでおなかが空くなんて、不思議だ。


「おいしいね」


 パパのチャーハンを二人で食べた。ママの姿はなかった。私はなんだか夜になるのが怖い気がしてきて、そわそわしてしまう。またお化けが来るかもしれない。来たらどうしよう。


「なにか学校で嫌なことでもあったの」


 パパの声が優しい。私は首を振って否定する。


「学校ね、楽しいの。お池に鯉がいてね、おっきくてね、お池に大きな鳥が遊びに来るんだよ」

「鯉ね、パパが子どもの時もいたんだよ。池は先輩たちが授業で作ったって言ってたなぁ」


 しばらくパパの子供の頃の話を聞いていた。楽しかった。一緒に食器を洗って、シャボン玉を作った。テレビを見て、ソファでごろごろした。いつもならママに叱られるけど、今日はママの姿がない。


「歯ぁ磨いて寝よっか」


 パパが言った。私は窓の外にあの大きな金色の瞳を見つけて身動きができなかった。


 昨日の夜と同じように、黒いのは窓枠の隙間をするりと通り抜けて、家の中に入ってきた。パパが黒いののほうを見ている。パパにも見えているんだ。私はびっくりする。パパはなんだか悲しそうな、寂しそうな目で黒いのを見ていた。


「やぁともだち」


 黒いのがパパに言った。昨日私にしたように、黒いのはそっとパパの足元に忍び寄り、するすると足を上って顔のところへ行く。涙を舐めるつもりなのかな。黒いのはもしかすると人間の涙を食べて生きているのかもしれない。


 パパがあんぐりと口を開ける。黒いのが見る間にそこに吸い込まれていく。ゴクリ。パパが黒いのを飲み込んだ。私は息ができない。パパがゆっくりと私を見た。「ごめんね」パパが言って、部屋が真っ暗になる。私はどうしても真っ暗な部屋でパパのところにたどり着くことができない。しくしく泣いていると、不意に電気がついて、ママが帰ってきた。「どうしたの」ママがびっくりして言う。私は返事ができない。

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