午後零時、駐車場で

 籍を入れたのはほんの三年前のことだ。十五の時に男の子をひとり産んだんだけど、法律上の理由でとむ君が十八歳になるまで籍を入れられなかった。地方のさびれた都市で、一年遅れで中学を卒業して、私は高校生になり、卒業して近所の中華屋さんで働いている。

「上の子がもう六歳か」

 とむ君がスマホでゲームをしながら言う。私たちはワンボックスの車の中でふたりきりだ。

「早かったね」

「ほんとあっという間だった」

 お前はな。少なくともお前はそうだろうね。という気持ちを飲み込んで、遠く下に望んだ夜景に目を凝らす。

 男の子よく逃げなかったね。えらいね。私たち二人の話をすると大体そういう答えが返ってくる。普通は父親というのは姿をくらますものなんだそうだ。なんだその普通。子供の父親をやるのが普通だろうが。という言葉をぐっと飲みこんで、へらへらと笑う。そのたびに心が死ぬ気がする。

 

 私たちが結婚したのはひとえに、とむ君の両親の熱心な協力があったからだ。とむ君のお母さんは異常な子供好きで、聞けばそれはとむ君の妹を幼いころに亡くしたことからくるものなのだそうだけど、とにかく私たち親子をとても慈しんでくれて、いつでも最大限の協力をしてくれた。一緒に暮らしましょう、と何度も迫られたけれども、私は頑として実家に住むことを譲らず、とむくんが通う形になった。週末はとむ君の実家に子供を連れて泊まりに行く。そのたびに熱烈な歓迎を受け、私は私の目の届かないところで義理の母の洋子さんが、子供に甘いお菓子を食べさせていないか、歯を磨いて寝かしているか、などに目を光らせていなければならなかった。


 とむ君の両親はとても優しい。聞いたところによると、とむ君は今まで一度もお義母さんに怒られたことがないのだそうだ。私がとむ君に惹かれたのも、一度も無下にされたことのない人独特の鷹揚さというか、そういうところだった。

 とむ君は実家ですくすくと育ち、順調に進学して、今も大学に通っている。周りに若くて綺麗な女の子がたくさんいるのだろう。私がわからない話を、その人たちとたくさんするのだろう。日に日に私への興味が薄れていくのがわかる。

「なに、その歌」

「最近ハマってるボカロ曲。ここの歌詞がおもしろい」

 私たちは小さな画面を一緒に見つめて喋る。車用の芳香剤の香りに紛れて、嗅ぎ慣れない香水の香りがするのに私は気がつかないふりをする。

「りょーくん、最近あれだよ。水泳やめて、書道始めた」

「まじか。俺は中学になるまでずっと通ってたな、水泳教室」

「サッカーもやってたんでしょ?」

「今からすると信じらんねぇな」

 とむ君がタバコを吸う。私はそれを見ている。大学楽しそうだね。とは言えなかった。嫌味になってしまいそうで。でもその話題に触れないと、私たちの間にあるものがあまりに小さすぎて、何を話したらいいのかわからなくなってしまう。とむ君はきっと私といて退屈していることだろう。私も、自分が何を話したいのかよくわからなくなる。美容院に行った話、中華屋さんを営んでいるご夫婦の話、それから、お母さんたちとのたわいない会話。頭の中にあるのはそんなことばかりで、どれもきっととむ君が面白がるものではないのだろう、という自覚がある。


 車も、とむ君が大学の側に借りている部屋も、なにもかも洋子さんのお金でまかなったものだった。私の今着ている服も、すぐにサイズが代わって履けなくなる子どもの靴も。なにもかも。洋子さんの。そんな中で私たちは、まるで自分が親です、子供を立派に養っています、と言う風な顔をする。世間の人たちは私たちが子供を連れいているのを見て顔をしかめるとか、ぎょっとするとか、中には直接何か言ってくる人たちもいる。苦しい、息が苦しくなる。名実とも、わたしたちを親にしてくれるもの、親として保証してくれるものなんて、何もないように感じた。


 見ている夜景が涙に滲みそうになる。車の中の空気がふっと冷えていく。

「別れようか」

 とむ君が言った。

「そうだね」

 瞬きをすると泣きそうだから。目を見開いて正面を見据える。

「月に一回は子供に会ってもいい?」

 うなずいたところで涙がこぼれた。私、何で泣いているんだろう。

「養育費はちゃんと払うよ。涼太が大学行けるように俺がんばるから」

「分かってる。わかった」

「ごめんな」

 返事ができなかった。とむ君がエンジンをふかす。車が動き出す。私は背中をシートに深く預けて、静かに目を閉じた。思い出す。中学生の頃のデートで初めてキスをした。帰りの電車の中でだった。恥ずかしさと、うれしさと、それから、わからないけど、怖かった。


 あの時の怖さの正体はこれだったのかな。背筋がひゅっと寒くなる。

 やっぱり愛されなかった。


 目尻に熱いものが流れるのを感じながら、ブランケットにくるまって私は寝たふりをした。とむ君に家まで送ってもらって別れた。「困ったことがあったらいつでも言って」と言うとむ君に、軽く微笑んで手を振った。


 家に帰ると涼太は寝ていて、母も一緒に寝てしまったみたいだった。涼太になんて言おう。寝ている子供の頭を撫でる。額の広いところがとむ君にそっくりだった。ずれたかけ布団をもとの位置に戻して、そっと寝室を出た。



 とむ君と一緒にいればいるだけみじめな気持ちになる。どうしてそうなるのかはわからない。洋子さんはきっと離婚に反対するだろう。でも私は。洗面台に映る自分の顔を見た。まだ二十一歳なのに。疲れている。肌が荒れているのはストレスからだろうか。メイクを落とし、顔を洗う。皮膚科でもらった薬を塗りながら、私は目を閉じた。

 別れても夫婦じゃなくなるだけで、私たちが涼太の、世界にたったふたりだけの親であることは違いがない。もとから一緒に住んでなかったし、夫婦らしくもなかった。とむ君と一緒に家族三人で暮らしてみたくなかったかって言うと嘘になるけど、でも。これでいいのだ。自分に言い聞かせる。これでいい。

 結婚指輪を外して、洗面台に置いた。かちりと冷たい音がした。

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