タネ


 ママが電車に乗ろうと言った。ぼくは嬉しかった。スイカをピ、と鳴らすのをやらせてもらう。嬉しい。ぼくもスイカがほしい。と言ったら、ママは少し考えて、隣町に英会話を習いに行く? と聞いた。ぼくは考え込んでしまう。いまはバスでプールに通っている。クロールできるまではやめたくない。お友達もいる。でも英会話を習うと、学校の友達と遊ぶ時間がなくなってしまう。近所の雄大くんとともくんとそれから、まさき。うーんと考えていると電車が来た。ドアが開いて、中に入ると電車のことで頭がいっぱいになってしまう。外の景色が流れていく。ぼくは座席に張り付いた。いつもの町があっという間に遠ざかる。小さな駅を幾つか通り過ぎて、普段使っている駅に着いた。

「乗り換えるよ」

 ママが言う。ぼくはママの後ろをついて歩く。ママが並んだところにぼくも並ぶ。

「ママのお友達に会いに行くの。二つ上のお兄ちゃんと一つ下の男のがいるよ、遊んでもらえるよ」

 ふーんとぼくは言った。柱に「キュウオウジャーがくるぞ!」と張り紙をしてあったのですごく見たい、と思ったけど、ぼくは小学生なのでわがままは言わない。我慢をする。そのあと普段と色の違う電車に乗ってすごくうれしかった。シートの色まで違う。

「次で降りるよ」

 ママがぼくの手を握ってドアの側に移動した。じっとしていて体がむずむずしていたので、ドアが開いた瞬間、思わず走り出してしまう。駅の近くなのに、一面キャベツが植わっている畑があって、面白いなと思った。ボロボロの柵が畑の方に向かって建てられている。柵の下をくぐろうとしたら簡単に通り抜けてしまった。

「こら! 待ちなさい!」

 ママの声がする。あ、怒られる!と思ってとっさに近くにあったくぼみに隠れた。線路の下のところかな? 積んでいる石に隙間があって、ぼくの背丈にぴったりだった。中には潰れた空き缶やお菓子の袋がくしゃくしゃになって入っている。草の根っこが上から生えてきて垂れ下がっていた。触ってみるとひんやりしている。不思議だなぁと思った。土がなくても根っこがあって、水がないのに根っこは冷たい。キャベツも根っこがあるのかな? ママがスーパーで買ってくるキャベツには根っこがついてない。

 駄菓子の袋に根っこを詰めて遊んでいたら、周りで大人が喋っている声が聞こえた。大人の男の人の声だ。怖くなって息を殺す。

「ドアが開いた瞬間、こっちに走って行って、それで、久しぶりにかかとのある靴を履いてて、追いつけなくて」

 ママの声だ。

「改札を抜けずに出て行ってしまったんです。それで私、追いかけられなくって、確かこっちの方へ行ったと思うんですけど」

「どしたぁ?」

「子どもが迷子なんだって」

「迷子か、そら大変だ」

「駅員さん昔はいたんだけど、今は無人駅になっちゃって。都会の人はびっくりするでしょう」

「昔はこっちにも改札があったんだけどね、なくなっちゃって。柵はその名残なんですよ」

「駐輪場の方は探されましたか?」

「そういえばあっちには公園があったな」

「服装なんか憶えてます?」

「赤地に白と黒の星柄のシャツに、カーゴパンツです、ユニクロの。靴は白地に赤いラインの入ったスニーカー。俊足です」

「いくつ?」

「六歳です。一年生」

「お名前は」

「白戸祐樹です」

「万が一があったらいけないので、私は線路の方を見てきます」

「防犯パトロールの方にも連絡しときましょうか」

 いろんな大人の声がして怖くなった。出て行ったら怒られるんじゃないか? どきどきして心臓の音で耳が聞こえなくなりそう。どうしたらいいんだろう。袋をきゅっと握りしめる。しばらくして人気がなくなったとろで、そっと外に出てみた。駅には怖いくらい誰もいない。

 ひょこひょこっと道路に出てみても、車どおりがほとんどない。お休みの日なのに。不安になって走り出す。途中で黄色いバッタを見つけて追いかけていたら道がほとんどわからなくなった。


 どうしよう、とうとう本当の迷子になってしまった。怖くなってあちこち歩いてみるけど、誰とも会わない。うわー、どうしよう、お母さん! と呼びそうになった時、がさ、と音がした。背の高いキリン草の藪からにょき、と顔を出した、枯れ草色のマントの男の人。

「ほら」

 男の手の中から、ふわふわに膨らんだすすきの穂がでてきた。フクロウのかたちにくくられて、目玉がついている。

「うわぁ」

 男はぼくの掌にフクロウを乗せてくれた。

「見て」

 プロペラ型の種をプイ、と飛ばす。男はポケットの中から色々な種を取り出してぼくに見せてくれた。

「いいなぁ、どこで見つけるの?」

「しりたい?」

 ぼくはうなずく。

「ついてくる?」

 少し迷ったけど、ぼくは男の後をついて歩くことにした。

 男はためらいなく藪や草むらに入っていく。お母さんなら絶対に怒って止めるようなところ、「土地の管理者の人に怒られるからやめなさい!」とか「くっつき虫がたくさん引っ付いて、誰が洗濯すると思ってるの!」とか言いそうな土地にずんずん入っていく。ぼくもおそるおそろる男の真似をした。するとびっくりするほど色々な種類の植物が見つかる。学校の裏庭や園の庭にあったものとは比べ物にならない。ぼくは驚いて何度もすごい、と言った。

「食べれるよ、食べてみろ」

 蔓にくっついた紫の実を取って男が口に運ぶ。ぼくも真似をする。

「酸っぱい」

「こっちは甘いぞ」

 男は木の実もたくさん集めることができた。

「どうしてこんなにたくさんあるの?」

「秋だからだよ」

 家の近所にはこんなにたくさんの木の実を見たことがない。男は神社の裏や山の中、空き地の茂みの中にたくさんの木の実を見つけることができた。不思議だ。

「ねぇ、ぼくのお母さんしらない?」

「知らない。はぐれたのか」

 男が聞く。うなずく。

「帰りたい」

 ぼくが言うと男がこっちを見た。今までに見たことがない怖い顔だった。

「どうしてそんなことを言うんだ」

「だってもう暗くなるよ。暗くなったらお家に帰らなきゃいけないよ」

「そんなことはない」

 そんなことはないんだ。と男が言った。今までにない強い口調だった。

「陽が沈んじゃう、お母さん会いたいよ」

 ぼくは泣いた。

「そんなこと言っちゃだめだ」

 男がぼくの肩を掴む。揺さぶる。涙で視界が歪む。

「お前は悪い子だ。悪い子供は帰りたいなんか言わないものだ」

「ぼく悪い子じゃない。おうちに帰りたいよ、帰るよ」

「お前が帰ったら俺がまた一人になるじゃないか」

「おじさんは帰るおうちないの?」

 男がぼくの肩を離した。

「パパとママは?」

 男がうなだれる。

「いっしょに帰ろう? おうち帰ろう」

 街の明かりの方を指さす。男は力なく地面に膝をついた。

 男の目から涙の代わりの植物の種が零れ落ちてくる。ぼくはぎょっとした。

「俺は帰れない」

 男の口から、目から、鼻から、耳の穴から、何種類ものたねが零れ落ち風に流れていく。ぼくは男の手を取った。手のひらに乗せた手が、風にするすると解けていく。軽い風に舞うたね。遠くまで旅するために軽いんだって、幼稚園の先生が言っていた。「待って」呼びかけた瞬間、男の体がずる、とくずれおちる。ボロボロに風化したマントから、何種類ものタネが飛びだして、一部は草むらの中に落ち、一部は風と共に舞い上がっていく。あっという間に男の体はばらばらになってしまった。ぼくは呆然とそれを眺めていた。


 おーーーーーーーい!!!

 どれくらい時間が経っただろうか。遠くの方で人の声が聞こえる。おおい、おおい、ゆうきくーん。ぼくははっと顔をあげて、しゃにむに走り出した。さっきまで明るかった空がどんどん黄色く霞んでいく。黄色は赤みを濃く変化させて、どんどんどんどん暗くなる。

「おかあさん!」

 ぼくは叫ぶ。

「おかあさんどこにいるの!」

 口から吸いこんだ空気が不意に冷たくて泣きそうになった。

「今子供の声がしなかったか?」

「こっちだ」

 LEDライトの鋭い光に、思わず目が眩む。

「ゆうきくんだね」

 ぼくはうなずいた。

「お母さん! こっち! こっち!!」

 男の人が叫んだ。

「ゆうき!」

 お母さんの声がする。いつもの怒っているときの声と違う。今にも泣きそうな声だった。

「おかあさん、おかあさん!」

 ぼくは何度もお母さんを呼んだ。駆け寄ってきたお母さんがぼくを抱きしめる。赤ちゃんみたいだ、と思いながらぼくは種のついた綿毛がふわふわと風に乗って散っていくのを眺めていた。


「もう、こんなにタネを引っ付けて」

 帰りの電車の中でお母さんがぼくのズボンの裾を叩く。

「とっちゃだめ!」

 ぼくは慌てて止めた。

「え?」

「持って帰るの!」

 持って帰って、おうちを作ってあげる。お庭に植えて、花を咲かすの。

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