プロポーズとカレー

 海の中に沈んでいる。ぶくぶくとあぶくを吐いて。ヘドロや他のゴミと一緒に、砂の中に半ば沈んでいる。


 ぼくにとって人のかたちを保つのは難しい。席を立って台所へ行ってマグカップを取ってインスタントコーヒーを淹れる。パンを焼いてバターを塗って冷蔵庫の野菜を取って皿に入れる。それだけの単純な作業も、どうやってやるんだっけ、とわからなくなることがよくある。

 だからしじゅう頭を使ってかんがえている。考えないと動けない。でもときどき、考えすぎてわけがわからなくなって、本当に動けなくなってしまう。まるでヘドロに半身をからめとられてしまったみたいに。


 君はそんなぼくを見かねて、ぼくの代わりにコーヒーをいれてパンを焼いて野菜をちぎって、たまごを焼いてくれたりして、食べるように促す。ぼくは君の細い腕を頼りにヘドロから引き揚げてもらう。ヘドロだと思っていたものはただの重い空気で、砂だと思っていたものは実際は安普請のフローリングなんだけど、ぼくにとってここは海の底なんだよね、って言っても君は笑うだろうから黙っている。水の底から太陽を見ると、やわらかくてとても綺麗なんだけど、だからいっそう、空気の中で太陽に触れるのが億劫になってしまう。


 テーブルの上でも溶けてしまいそうになるぼくは、何でもないふりをしてパンを飲みこむ。味がほとんどしなくておかしいな、と思うけど、食べないと死んでしまうんだよ、と君が脅すからぼくは食べる。一日に三回も食事を摂る必要があるなんておかしいよね。変だよ。野菜がぱりぱりしていて口の中に刺さるみたいだ。


 ぼくがぐずぐずしているうちに、君のお皿は綺麗に空になって、食器も片付けられてしまって、ぼくはまだ半分もパンを食べていない。お皿のパンをなんとなく指先でつまんだまま、君が身支度をしているのをぼんやりと眺めている。君の動きには無駄がない。まるでダンスをしているみたいだ。


「じゃあもう行くから、鍵はいつもの場所だからね」

 君がぼくの肩に少し触れる。温かさを感じている間もなく離れてしまう。部屋の中はすっかり静かになってしまった。君のいない部屋の空気はしんとして冷たくて、泣き出す前の温度に似ている。


 すっかり冷たくなったパンを食べ終えた頃には、お昼の時間になっていた。



 会社を辞めてラーメン屋を始めたのが、ほんの昨日のことみたい思える。実際には七年の月日が流れていて、ぼくは店を手放してしまった。腰をやられてしまったのだ。もう長くは続けられないな、と思っていた矢先に、店の権利を譲ってくれないか、という人が現れた。ぼくが考えたロゴの店は、だから、今も別の人が経営してそれなりに店舗数を伸ばしている。味は様変わりしてしまった。ぼくのかんがえたさいきょうのラーメンは、今はもうない。


 それからほんとうに動けなくなってしまった。何をしていいか全くわからない。もう遅くまで起きてスープの仕込みをしなくてもいいし、帳簿とにらめっこしてうめき声を出す必要もない。店の掃除も道具の手入れもなにもかもから解放されたはずなのに、今度は次に何をしたらいいのか、想像もできなくなってしまった。

 動きたくない。動けない。考えたくない。考えられない。

 動けないのに愛されたいとか認められたいという気持ちだけ大きくなって、ぼくの体は風船みたいにパンパンに膨らんでいた。中には何もないのに。


 不安になって彼女の体を求めた。それも「明日も仕事あるんだから」と怒らせてしまってから、怖くて触ることすらできない。なぜこんな人間といつまでも一緒に暮らしてくれるのか、あるいはいつか突然ここを追い出されてしまうのではないか、と思うと気が気ではなかった。

 考えなくてもいいことばかり考えてしまう。考えなければいけないことにはひとつも集中できないのに。


 だから横になってヘドロに沈んだ妄想をして、夢と現の間をさまよっている。そうするのが今は一番楽だった。とても自然な感じがする。自然と一体になっている感じ。


 ある日彼女からメッセージが届いた。このごろぼくは、彼女のメッセージをすぐに確認することができない。別れ話だろうか、ということを考えて怖くなるのだ。

「図書館にいるから迎えに来て」

 どういうことだろう。

 起き上がって洗面台に向かった。そういえばしばらくひげを剃っていない。面倒なのでクリームを使わずにシェーバーを滑らす。長いこと手入れをしていなかったのですぐに毛が挟まって詰まってしまう。鋏をまず使うべきだった。後悔しながら、傷だらけになった顎を撫でた。


 コートを羽織って外に出ると、空気がすっかり冷たくなっているのに気がつく。家の中にいるだけではわからなかった。外の季節はどんどん進んでいる。ほんとうに、取り残されてしまっているんだな、としみじみ感じた。


「お、来たね」

 図書館のベンチに座っていた君が顔を上げてぼくの顔を見た。微笑んだ様子にこれ以上ないような安心を感じる。わかりやすいように、入り口付近のロビーで待ってくれていたようだ。

「何読んでるの」

「ネコエッセイだよ」

 言われてみれば確かに、表紙に大きくネコの写真が使われているのだった。

「順ちゃんも一冊借りておいでよ」

「カード持ってきてないから」

「私が借りてあげるから、選んできて」

「でも」

「いいから、早くして。時間ないよ」

 追い立てられるように本棚の前に連れていかれる。でも何を読めばいいのかちっともわからない。選ぶということがとてつもなく難しく感じた。みっしり詰まった本棚の姿に気後れしてしまう。ぼくを見かねて、彼女が声を掛けた。

「じゃあ今日は料理の本借りてよ。私美味しいものが食べたい。順ちゃん作って」

「美味しいものって?」

「それを探すのがあなたの仕事でしょ」

 それもそうか、と思ってレシピ集の並んでいる本棚に向かう。料理関係の本が置いてある場所は大体把握していた。ラーメンを作ろうと決心したときからずっと、この図書館にはお世話になっていたから。経営の本や、経理の本、集客効率を高めるための心理学の本やインテリアの本、あの頃は色々な本を借りていたっけ。役に立ったものもあれば、何のために読んだのかわからなかった本もあった。

 いつからこの場所に来なくなってしまったんだろう。経営が軌道に乗り始めた頃だったろうか。忙しくて本を読む間もなくなってしまって、いや、本に書いていることに現実が追いつかなくなってしまったんだっけ。どっちが先だったかわからない。でもあのころのぼくはラーメンのことと店のことしか頭になかった。何か他の情報を頭に入れようとは、少しも思わなかった。苦し紛れに彼女に尋ねる。

「お肉がいいの、魚?」

「う~ん、お肉?」

「疑問形やめてよ」

「そういうのはさ~、サプライズ的にしてほしかったりもするわけだから」

「めんどくさい」

「乙女心バカにすんなよ」

 脇腹のあたりをつねられて、思わず笑いが漏れた。あ、ぼくはいま「人間」をしている。なんとなくそういう気がした。

 結局カレーの本にした。ぼくが食べたかったからだ。


 帰り道、ひさびさにふたりで外を歩いた。見知った土地のはずなのに、どうしてだか見慣れない場所みたいに感じる。

「買い物して帰る?」

 君がぼくを見上げるけど、ぼくは首を横に振る。

「今日はもう疲れた」

「そう」

 夜空を飛行機が横切っていく。あれの中にもたくさんの人が乗っているんだ。どこかに行ったり帰ったりするために。そう思うととても不思議な事のように感じた。


 彼女がいなくなった後の部屋で、借りてきた本をめくっている。カレーには大きく分けて欧風とインド風があって、普段日本人がよく作るのは欧風のカレー。これには理由があって……。

 レシピ本というよりは日本におけるカレーの歴史だな、と思いながら本をぱらぱらとめくる。流し読みと言うやつだ。不思議なことに文字を眺めていると眠たくなってきた。以前はこんなことなかったのに。少しまどろんでは、ページをめくる。少しまどろんでは、また次のページを読む、ということを繰り返しているうちに、日が暮れていた。部屋の隅のほこりが目に留まる。明日は掃除機をかけようと思った。


「どう、カレー。面白い?」

 帰ってきた君と、レトルトのスンドゥブチゲを食べる。辛い、痛い。

「まぁまぁかな。年のせいだと思うけど、全然文章が頭に入ってこなかった」

「年寄りのために図解本はあるんだと思うよ」

 こんなに辛いのに、スプーンが止まらないのが怖い。辛さが豆腐の甘さを引き立てているように感じる。

「明日おれも図書館に行こうかな」

「ふうん?」

「スパイスの本でも借りてくる」

 君が少し微笑んだ気がする。その日久しぶりに、ふたり同じ布団で眠った。


 早くに目が覚めたので、寝床で本を読む。それから、腰が痛い、というのを言い訳にほとんど家事をしていなかったことに思い至った。ふたりで暮らし始めた頃はこうではなかったのだ。家事は平等に分担していて、お互いが苦手なところを補い合うようにしていた。洗濯物の管理は君、洗い終えた衣服の管理はぼく、料理はぼく、掃除は君、日常の買い物はぼくが、週に一度の買い出しは君が車を出して、ふたりで。

 でも事業を始めてから、ほとんどすべての家事を彼女に任していた。ぼくは家に帰る暇もないほど忙しかったのだ。店舗の座敷で仮眠をとって、泊まり込みで作業をしていた。帰る暇もなかった。別れずに続いていたことが不思議だ。

 ラーメン屋を手放してからも、腰痛を理由に、ほとんどの家事を放棄していた。腰が痛かったのは本当だった。医者にも通ったが、心因性では? と言われて頭にきて途中で治療を打ち切ってしまった。

 本にも飽きたし、腹も空いたので、久々にキッチンに立つ。パンをトースターにセットする。お湯を沸かす。卵をフライパンに二つ、落とす。保存用コンテナに入っているサラダを皿に盛りつける。

「起きてたの?」

 わあ、朝ごはんだね。と嬉しそうな声を聴いて、初めてぼくの部屋に彼女が泊まりにきたときのことを思い出した。不意に涙があふれそうになった。

 壊れ物のように、思っていた。丁重に扱わないと、割れてしまって二度と元には戻らない陶器の置物のように。

 起きがけの顔を見ていつも思う。あの頃の彼女は若くてきれいだった。一番若くてきれいだったころ、ぼくは彼女と一緒にいられなかった。

「ちょっと、ちょ、なんで泣いてるの」

「なんでもない」

「痛い? ごめんね、無理したんじゃない?」

 腰に手が添えられるのを感じる。温かい手だ。

「なんで」

 ぼくの口から声が漏れた。涙声だ。情けないな、と思う。

「なんで別れないの」

 ああ、とうとう聞いてしまった。これを言葉にするのがずっと怖かった。怖くて、こわくて、ずっとずっと、とっくに呆れられていて、とうに気持ちなんて残っていないんじゃないかと思って、怖かった。会話が減っていくのも、メッセージのやりとりが事務的になっていくのも、体の触れ合いがなくなるのも、全部、ぜんぶ、いつかくる別れの日へのカウントダウンなんじゃないかと思って、怖かった。怖くて、怖くて、何もできなくなっていた。

 恐る恐る顔を上げると、なぜか彼女も泣いていた。

「別れてほしいと思ってたの?」

「そうじゃなくて」

 そうじゃないけど、そうじゃない。でもなんて言っていいのかわからなかった。こういうとき、ごめん、でもなくて、ありがとう、でもなくて、どんな言葉がふさわしいのか、わからない。

「初心を思い出して、それで、なんか違うかったんじゃないかって」

「初心?」

「はじめて、君が家に来た時の、」

 彼女はへたり込むように椅子に腰かけ、目の前の皿をじっと眺めた。トースターがパンの焼きあがるのを知らせる。ぼくはバターを塗り、皿に運ぶ。フライパンから焼きあがった卵をパンの上にスライドさせた。テフロン加工のフライパンは軽い。

 彼女がレタスをフォークで刺す。自分の体が刺されたようにひりりと緊張が走る。青い葉にかじりつく。まるで自分が噛みつかれたような気分になる。がしがし、がしがし、乱暴に食物を口に運ぶ。

「違ってたら」

 彼女が呟いた。

「違ってたらここまで保つわけないでしょ」

 怒っているんだろうか。ぼくもパンにかじりつく。ザク、という音が顔中に響く。ぼく好みの、良く焼いたパン。耳までサクサクの。彼女が袖口で涙をぬぐう。鼻水も垂れているのでぼくはテーブルの上のティッシュを一枚とって彼女に渡した。ふたりで鼻をかむ。

 彼女は親の仇のように食パンにかじりついた。黄身の中心をフォークで突き刺す。半熟の黄色い液体がこぼれる。パンにレタスと一緒に挟み込んで、口いっぱいにほおばる。あまりに勢いよく食べるので、喉を詰まらせるんじゃないかと心配になって、冷蔵庫から冷たいミルクをコップに注いで彼女の目の前に置いた。無言で牛乳を飲み干す。

「ごちそうさま。美味しかった」

 流しに移動して、食器をがっしゃがっしゃ洗い出すので、これはきっと怒っているのだと思った。

「手伝うよ、皿洗い」

 手をスッと差し出されて、制止される。やっぱり怒っていると思う。なんで? 今何か怒らせるようなことを言っただろうか。朝ごはんを作った上に、なぜ怒られなければならないのか。


 食器を洗い終えた彼女は、マスクをかけて財布と鍵をコートのポケットに突っ込み、玄関を出て行こうとする。

「待って」

 彼女がちらりと俺の顔を見た。マスクで顔の半分が隠れているとはいえ、感情が読み取れない。だいたい彼女がメイクもせずに出て行こうとするのはとても珍しいことだった。それだけ緊急事態ということではないだろうか。第一コートの下はまだパジャマだ。

「行ってきます」

 声は小さくくぐもっていて聞き取りにくかったけど、確かにそういった気がする。ぼくは閉ざされたドアの前からしばらく動けなかった。行ってきます、というからには、帰ってくる気があるんだろう。きっと、そうなんだろう。すごすごと部屋に戻る。

 それからふと思い立って、顔を洗って着替えをして、家に施錠して外へ出た。彼女のためにカレーを作ろうと思う。


 図書館の自習コーナーでスパイスの図鑑を開く。何を買うべきかわからない。とりあえずメモを取りながら手持ちのレシピブックと突き合わせて調べていく。スマホでページを撮るのは著作権的にどうなんだろうか? 私的使用だから問題ないよな? そんなことを考えながら小一時間過ごした。


 近所のスーパーで材料を探す。スパイスコーナーの品ぞろえが思ったよりも少ない。カルダモン、ガラムマサラ、クミン、コリアンダー、白コショウ。聞いたことのある名前のスパイスをかごに放り込む。肉や他の素材を見たけど、あまり鮮度が良さそうに見えなかった。赤く発色する牛肉を見ていると不安になる。思い切って近くの町に買い出しに出かけることにした。

 電車を乗り継いで、ラーメンを作るときによく通っていた商店街へ向かう。ひさびさに電車のガラスに映った自分を見る。肥っているのに、やつれているように見える。いかにも不健康そうな中年がこっちを見ていた。仕事を辞めようと決心したときの自分はもっと若かった。ラーメン屋を成功させて、彼女と結婚して、子供に俺の作ったラーメンを食べさせてやる。あの時は確かにそう思っていたのだ。会社に残った人間よりも、幸せになるつもりだった。今でも、店を売ってしまったのが正解だったのか、悩む。自分は間違っているのではないか。正解のレールに乗りそこなってばかりいるのではないか。


 鶏ガラやとんこつを集めるときに世話になった肉屋で、カレーに使う肉を探した。時間がないから、ガラから出汁をとっている暇はない。ならば何を使うべきだろうか。牛か、豚か、それとも鳥か。散々悩んで、結局牛すじ肉と、牛脂を分けてもらうことにした。

「久しぶりだね、毎度」

 店主に声を掛けられる。顔を覚えられていたことに驚いた。自分で言うのもなんだが、あの頃はとりガラのように痩せていた。今は不健康に肥っていて、似ても似つかないと思った。

「元気そうで何より」

 差し出された商品を受けとって会釈をする。

「どうも」

 何か話そうか、とも思ったが、他に客が来たのでやめた。野菜を求めて、商店街と、近くの激安スーパーと、高級志向の小さなスーパーといくつかはしごした。とりあえず良さそうなものをいくつか手に取る。徒歩で帰る道のりを考えると、大袋の野菜を買うことはできないから、バラ売りのものを選ばなければ。ああ、米を水に浸していない。家に帰ってすぐに用意をしなければ。

 あわてて買い物を済ませた。電車に揺られているうちに、少しだけ夢を見た。どんな内容だったかは思い出せない。ただとても懐かしい夢だった。


「ただいま」

 と言ってみたところで、部屋に電気がついている気配はなく、彼女がいつも履いている靴もなかった。まだ帰ってきていない。胸がぎゅっと締め付けられて不安になる。ひさびさに電車の座席に座っていたせいだろうか、腰がまた痛む気がする。医者は心因性、と言っていたけれども、数年前作業場で腰を強く打ったのが原因だと自分では思っている。恥ずかしくて診察室で言い出せなかったのも悪かった。そういえば君は「一度ちゃんと検査をしてもらったら?」と言っていたっけ。

 米を水に浸して濁った水を捨てる。流し台で米を研ぐのは意外と腰に負担がかかる作業のようだった。鈍い、嫌な痛みが走る。炊飯器に生米をセットして、食材の下準備に取りかかった。牛肉表面の酸化した油を湯で洗い流し、ショウガや玉ねぎを刻む。にんにくは彼女が嫌がると思ったから使わなかった。

 しばらく放置していたせいか、包丁の切れ味が鈍っている。また研いでやらないといけない。途中で腰の痛みがひどくなりそうだったから、戸棚にしまっていたフードプロセッサーを出した。フードプロセッサーで刻んだ食材を熱したオリーブ油に牛脂を溶かしたもので炒める。換気扇を回した瞬間、野菜のにおいが強烈に立ち昇ってくる。機械で刻むとこれだから嫌だ。

 玉ねぎがあめ色になったあたりで残りの野菜を入れる。水分を飛ばしながらじっくり、ゆっくりと炒めていく。テフロンのフライパンは鉄のものに比べて保温効果が低いのか、端のほうにうまく火が通らない。木べらで満遍なくかき混ぜる。

 別のフライパンで牛肉を強火で炒める。表面に色がついた辺りで、火を弱め、スパイスを振りかける。香気の飛びやすいものは最後に加えるのがいいらしい。ついでに小麦粉を振りかけ軽く火を通す。

 野菜の上に炒めておいた肉を乗せ、水を注ぐ。月桂樹の葉を一枚。こういう丸ままの葉や実を使ったものは初めに入れて抽出するものなのだそうだ。パウダー状になっているもの、特に過熱に弱いものは仕上げに入れるらしい。読んだ本に書いてあった。水がふつふつと煮立ったあたりで、フライパンから圧力鍋に入れ替える。ぴりりと腰が痛んだ。やはり重量の大きいものを支えるのが難しいようだ。特に水は揺れるたびに重心が移動してつらい。


 しばらくぼうっととろ火にかけた鍋を見つめていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。慌てて手を洗って出迎えに走る。

「お帰り」

 顔の面積が半分ほどマスクに隠れていてわかりにくかったけれど、醸し出される空気から、むすっとしているのがわかった。手には大きな花束を抱えている。バラとカスミソウとスイートピーのアレンジだった。赤いバラが豪華だ。真っ赤なリボンが飾られている。

「荷物、もらうよ」

 いかにも重たそうな花を受け取った。よく見るとかごの中に花が活けられていて、包装を解けばそのまま机の上に置けそうだった。せっかくなのでテーブルの真ん中に置く。

「いいにおいがする」

 マスクを外した彼女が言った。

「カレー作ったんだ。一緒に食べよう」

 ふたりで食卓に腰かけて、圧力鍋が具材をやわらかくするのを待った。

「私、お昼食べてない」

 時計は17時を指している。

「俺も」

 途中鍋の様子を見た。硬かった健がほろりとほどけて美味しそうに火が通っているように見える。ジャガイモはとろけて原型がわからなくなっていた。かき混ぜて、はちみつや醤油、ケチャップ、スパイスを足して味の様子を見る。たくさん買い込んだスパイスも、その味自体はよくわかっていなかった。単なる香り付けなのか、それともなにか刺激があるものなのか。とりあえず振り入れて様子を見る。

 ぼくの姿を君は興味深そうに見ていた。

「ねぇ」

「うん」

「そのコートいつ脱ぐの?」

 あ、忘れてた、と言って君は席を立つ。コートの下は、朝出て行った姿のまま。部屋着のままだった。くたびれたシャツに、スウェット生地のボトム。ようやくマスクを外した君の顔が、いつも通りの顔色だったので、ぼくはほっとしてカレーを小皿にとりわけ口をつけた。少し甘い気がする。

「甘口だけど、いいかな」

「いいよ、なんでも。こだわりとか、ない」

 珍しく君がスピーカーから音楽を流す。インストゥルメンタル。ピアノメドレー。iPhoneの画面を触りながら操作している。

「久しぶりじゃない? スピーカー使うの」

 君はふ、と笑った。

「覚えてない? あなたがうるさいって言うから、あれからずっと私、イヤフォンで音楽聴くようになったの」

 どき、と心臓がうごめいた。そういえばたまに、家に帰って仮眠をとるときに、そういうふうなことを言ったこともあった。あったのかもしれない。ぼくがまだラーメンを作っていた頃には。ぼくの困った顔を察知したのか、君が明るい声色で言う。

「カレーまだ? お腹空いてぺこぺこ」

「うん、もうちょっと」

 あわてて何事もなかったかのように鍋をかき混ぜる。そろそろいいだろうか。パウダー状のスパイスを何種類か振りかけ、味を見る。少しだけ醤油を足してみた。美味しい。

 皿に白米とカレーを盛り付け、テーブルへ運ぶ。彼女も配膳を手伝ってくれた。

「いただきます」

「いただきます」

 君はスプーンでカレーをすくって口元に運ぶ。ぼくはそれをじっと見ている。そんな見られてたら食べられないよ、と言うのは、ぼくがはじめてのラーメンを振る舞ったときの君のセリフだ。覚えている。ぼくの記憶の中には、いろんな表情の君がいて、いろんな言葉を話している。でもある時期、君の顔をほとんど見なくなった。忙しくなって、それから。


 それから、暇になった今でもぼくは。

「結婚しよう」

 君が言った。ぼくは現実に呼び戻され、君の手元のお皿が半分ほど空になっていることに気がつく。上の空だった。いつだってそうだ。

「結婚してください」

 ぼくが返事をしないので、あらためて君が言う。紙袋の中から指輪ケースが取り出された。蓋を開けると台座にプラチナのペアリングが収まっている。ぼくはまだ返事ができない。彼女がぼくの手を取る。ぼくの指に指輪がはめられる。指が長い、宇宙人みたい。と君が笑う。その笑い声にぼくはまた我に返る。

「え、その格好で指輪買いに行ったの?」

「そうですけど、なにか」

 なにか、と言われるともう言い返す言葉がない。

「俺だって、カレー食べ終わったら、言おうと思ってたのに」

「じゃあちょうどよかったじゃん。婚約記念日で、カレー記念日。いいよね」

「はい」

「よかった」

 失職中の彼氏に四の五の言わせないように婚約指輪を買いに来ました。ケンカしたから着替える暇もなく出てきちゃって、って言ったら店の人ちょう優しかった。お茶振る舞ってもらっちゃった。とか言って君が笑う。楽しそうに笑う。ぼくはやっとのことでカレーを飲み込むことができて、そのまろやかな味に安堵した。彼女のことを考えながら作った、まろやかで角のないカレー。ぼくの気持ちそのままの、カレー。



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