からだとこころが

 何が原因だったのかは忘れてしまった。一体いつからこうだったのか。父さんがぼくを殴るようになったきっかけは、母さんが浮気をしていたのがバレた事だったかもしれない。でもその前から父さんはクソ野郎だった。たまたま目の前にいたぼくがいかにも弱そうだったから殴った。それだけなのかもしれない。きっと理由なんかないし母さんが堂々と外泊を繰り返すようになったのも理由なんかない。ただそういうものなんだろう。ぼくたちは悪い流れの中にはまってしまって、大体何を言っても、やっても、そこから出られないようになっている。きっとね。


 口の中を切ってしまって血の味がする。腫れあがった頬の肉が歯茎に触れて不快だ。いっそのこと噛み切ってしまえば楽になるのかもしれない。


「何してんの?」

 声を掛けられて必要以上に怯えてしまう自分が嫌になった。

「いや、別に、なにも」

 マンションの非常階段の入り口で時間を潰していた。何をしているというわけではなかった。

「あんた」

 顎を掴まれて顔を引き寄せられる。爪が肉に食い込む。痛い。

「血、ついてるよ」

 女が指の背でぼくの口元をぬぐった。手元のビニール袋に手を突っ込み、中身を取り出す。頬に缶を押し当てられた。

「これで冷やしな」

 じゃね、と言って女が階段を上っていく。細いヒールが甲高い音を立てる。押し付けられた缶は、よく見るとチューハイだった。アルコール分八%、の文字が目に飛び込んでくる。階段に座り込み、プルタブを引く。ぷしゅ、と音がして、つんと鼻先を刺激するにおい。缶に口をつける。舌先ではじける炭酸。ちくちく、ひりひりする。辛い。口の中いっぱいに広がる酒臭さ。人工香料、レモンのにおい。洗剤みたいだ。飲み込むと粘膜がカっと熱くなった。目をつむって、ごくごくと缶を煽る。頬の傷が痛む。消毒だ。父さんに浴びせられた罵声が蘇る。忘れたい。かき消したい。どどど、と耳の奥で音が鳴る。「殺すぞクソ餓鬼」掴まれた首が、くき、と音を鳴らす。白くなる視界。母さんはいない。帰ってこない。「バカにしやがって」ひゅう、喉の奥が鳴る。耳の中で音が響いている。「死ね」頭に強い衝撃。地面に打ち付けられる。殺す。ころす。殺すころすころすころす。「殺す」くちびるが動いた。声は出ない。目の前がちかちかする。頭が重い。割れるようだ。いっそのこと頭を開いてしまって中身を洗ってしまえば楽になれる気がした。洗浄。瞼が下がる。息が苦しい。




「飲むかー。そうきたかー。お前未成年だろ」

 冷やせっつったろ。と言って女がぼくの頭をぱしんとはたいた。何のことを言われているのかわからず、戸惑う。後頭部と尻に痛み。階段の段差が刺さっていたい。シャツが濡れて冷たかった。近くにチューハイの空き缶が転がっている。こぼしたのか。ぼくは階段を背に踊り場に頭を投げ出して寝ていた。胸がむかむかする。あたまが痛い。起き上がろうとしたけど、ふっと頭に血が上らない感覚がして、そのまままた寝転んでしまった。

 ぼくの脇に女が足を振り下ろす。缶がへしゃげる音。エナメルパンプスがまぶしい。

「ぱんつ見えてます」

「うるせぇ目ぇつぶってろ」

「あ、気持ち悪い」

 吐いた。特になにを食べていたわけではないので、黄色い液体が出てきただけだった。鼻をつく刺激臭。喉が、灼ける。



 お姉さんの家にはウォーターサーバーがあって、そこから出てくる水は冷たかった。食道が洗われるようだと思った。

 シャワーを浴びろと言われたので、浴室でゲロにまみれた制服を洗う。シャンプーしているときに、頭にできたこぶに気がついた。いつできたものだったのだろう。髪の向きが動くたびに痛む。お姉さんに「冷やせ」と言われたのを思い出して、泡を流した後に冷水ですすいでみた。痛みが治まる気がする? 気のせいだろうか。


 浴室を出ると、オーバーサイズのTシャツとスラックスが置かれていた。脱いだ衣服を洗濯槽へ放り込む。衣料用の芳香ビーズが見えて、母さんがこっそり使っているのと同じだ、と思った。


 風呂場を出ると机の上にパックご飯の上にカレーを注いだものに、大きめのスプーンが突き刺さっていた。女の方を見る。顎でカレーの方を示された。食え、と言われている気がする。

「いただきます」

 女はぼくの正面に、白いボウルと発泡酒を置いて座った。ボウルの中にはタコとトマトをオリーブオイルとバジルで和えたものが入っている。

「食べる?」

 女がボウルをこちらに傾ける。タコを一切れもらった。美味しかった。赤い漆塗りの箸を器用に操る女は、発泡酒に口をつけながらテレビのスイッチを入れた。しばらくころころとチャンネルを合わせた後、電源を落としてスマホを繰る。

「大人ってなんでお酒なんか飲むんですか」

「そら美味いからでしょ」

「美味いかな、まずかったけど」

「最初はね。ってかあんた多分弱いんだよ。飲まないほうがいいよ」

 外でつぶれたって誰も助けてくれないんだからね。と女は串切りのトマトにかじりついた。しばらく無言でお互い目の前のものをむさぼる。


 女の部屋は殺風景だった。机、いす、キッチン、パソコン、薄くて小さなテレビ。観葉植物の緑が唯一目に入る色だった。明るい髪の色や、目に刺さる色のシャツからは信じられない、地味で清潔な部屋だった。

「その怪我、けんか?」

「いえ、違います」

「先生? コーチ?」

 黙ってごはんを口入れる。

「親?」

 水の入ったコップを一気に飲み干した。女はタコのぶつ切りを咀嚼する。室内に沈黙が充満する。もくもくとカレーを口に運んだ。胃液を吐くよりカレーを吐いた方が楽だ、きっと。だから無理をしてでも口の中に押し込む。まだ胸が重い。

「母さんが」

 あまりに重く押しつぶされそうだったので、あえぐように話した。

「帰ってこなくなって」

「それから、」

 母さんはどこだ。本当はお前も知っているんだろう。俺に隠している。俺だけをのけ者にしやがって。お前もどうせ。

 家に帰ってくるなり父は寝ているぼくを叩き起こして詰問するようになった。ときどき最中に母が帰ってくる。入浴剤やシャンプーの飛び切りいい匂いをさせて。帰ってきた母があまりにあっけなく「遅くなっちゃった」「夜食作ろうか」などと言うので父は地蔵のように押し黙る。「ふみくんもおいで」母はぼくをキッチンに招いて、簡単な料理を作ってくれる。年々ちいさくみすぼらしくなっていく父と比べて、母は華やかに装うようになった。背筋が伸びて、まるで女優のように自信に満ちていくのがわかる。

「父さんが、ぼくを殴るようになった」

 はじめは肩や背中やお腹、太もも。服で隠れて目立たないところだけだった。そのうちにエスカレートして、頬をはられたり頭を殴られたりするようになった。

「帰ったらまた殴られるかもしれない」

 こわい。と言うと女はふっと顔を上げてぼくの目をのぞきこんだ。そしてすぐに目をそらし、頬杖をついて、もう片方の手で机をコツコツと叩いた。

 また、女の目がぼくの方を見る。

「殴られたくない?」

 ぼくはうなづいた。痛いのは嫌だ。怪我をするのも嫌だ。

「どうしたらいいか、教えてあげようか」

 女の人差し指が机にかつん、と振り下ろされる。磨かれた爪が宝石みたいに部屋の灯りを反射している。

「横っ面はり倒してやんな。思いっきり。加減はいらない」

「え、でもそんな」

「仮にも親だし、とか思ってる? まともな親は子供に暴力なんか振るわないよ」

「でも、もっと、」

「暴力がひどくなるかもって? 黙って耐えてたら勝手にひどくなってたでしょ」

 じゃあもう一緒だよ、殴っちゃえ、殴っちゃえ。と女は拳を突き出す動作をした。いやー、とかなんとか言いながらぼくはカレーを食べる。サトウのご飯のにおいは家で食べるごはんとはちがう、甘いにおいがする。

「でもぼく、殴るなんて、父さんのこと……」

「ひとつだけお姉さんからアドバイスね。絶対当たるって思って拳を振るの。それだけ」

 女は缶に残っていた発泡酒をぐっと煽り、にこっと、微笑んだ。

「まぁ、私にはどうでもいいことだけどね」

 席を立ってシンクに食器を運ぶ。

「食べ終わったらゴミは洗って捨てて、スプーンは洗って拭いたら、この引き出しに戻してね」

 では、私は寝ます。てきとーに帰っていいよ。気持ち悪かったら休んでいってもいいし。仮眠をご希望でしたらあちらのソファでおくつろぎ下さい。じゃ! と勢いよく言い残して、女はシャワーを浴びに浴室へ向かってしまった。

 一人残されたぼくは、電気のついていない暗いテレビ画面を眺めていた。



 ふと思い出して、スマホの画面を立ち上げると母親からメッセージか来ていた「いまどこ」「友達の家」「泊まり?」「わかんない。追い出されたら帰る」「うん」「まってるね」

 母さんが帰ってきている。ということは今日はもう帰っても大丈夫らしい。ぼくはスプーンを洗い、シンクを磨いて、浴室から出てきた洗い髪の女に「ごちそうさま」と頭を下げた。「乾燥終わってるから、制服、持って帰るといーよ」女は戸棚の中から紙袋を取り出し、服を入れろ、と突き出した。「あの、この服」「でっかいでしょ。捨てつるもりだったから。処分しちゃって。家どこ? 近いの?」「あ。はい。歩いて十五分くらい」「じゃあまたどっかですれ違うかもね」女の人はにやりと笑った。「お世話になりました」ぼくは頭を下げる。女はぼくの肩を軽く叩いて、ドライヤーを取り出した。

 ちらりとぼくを見て、「元気でね」と微笑む。ぼくはもう一度、ありがとうございました。と頭を下げた。


******


 家に帰ると母さんが玄関の前をうろうろしていた。

「ただいま」

 母さんの顔がほころぶ。でもぼくの顔を見てすぐに曇った

「その痣、どうしたの」

「まぁちょっとね」

 黙りこくる。

「母さんは父さんのほかに好きな人がいるの」

「そういうわけじゃないけど、愛してないからって家族じゃないってことにはならないと思う」

 母さんはぼくから気まずそうに目をそらしたあと、ぼくのからだに目をとめて、

「その服どうしたの?」

 と聞いた。

「あ、これ。ちょっと路上でげろ吐いて服汚しちゃって」

 と言うと母さんは慌てた。

「大丈夫なの?」

「うん。まぁね」

 母さんがいつまでも家の外に突っ立っているので、ぼくは自分から玄関を開けた。家の中は静かで、父さんはもう寝ているのだろうか。殴り返せ、と言われたことを思い出して、胸がずんと重くなる。靴箱の横の姿見に自分の姿が映っているのが見えた。いつの間にかぼくの背は母さんと並んでいる。でもいかに痩せていて弱そうで、頼りない。拳をぎゅっと握って鏡に映る自分の顔に打ち付けた。



********


「あ、君」 

 マンションの踊り場で女性が来るのを待っていた。借りていた服を借りた紙袋に入れて返すつもりで。女性は紙袋を受け取って、ぼくの顔を見た。

「捨ててくれてよかったのに。まぁ彼氏が泊まりに来た時にでも使いますわ。いねぇけど」

 女が笑う。

「それで、私の言うとおりに殴った?」

 小さくうなずく。掴みかかられて、馬乗りになられた。ぼくは体を必死に捻って父親の下から抜け出して、耳のあたりに張り手を食らわせた。それだけだった。たったそれだけのことで、父は呆然と動かなくなった。「あんたがそんなことだから」何か言ってやろうと思った。とてもひどいことを。でもそれ以上は言葉にならなかった。息が詰まるくらい興奮していた。「せめてもっと親らしくしてくれよ」やっとのことでそれだけを吐き捨てて、部屋を出た。絶対に復讐されると思ったけど、父は追ってこなかった。殺しも、殺されもしなかった。

 たったそれだけのことだった。それだけのことで、母さんも外泊をしなくなった。夕飯が毎日用意されるようになった。父さんが情けないくらい大人しくなった。

「あのこれ、お礼です」

 ぼくはスーパーで買ったコーラと「開けるだけでおつまみ」とかいう、少し高価な缶詰が入った袋を女に押し付けた。

「怪我、治ってよかったね。じゃあ、ありがたくいただきます」

「あの、あの時俺本当に困ってて、どうかしてて、死にたいと思ってた。よくわかんないから死んじゃいたいって。でもほんとは俺は、怒りたかったんだって。わかりました。父さんに。母さんに。ちゃんと。キレたかった。お姉さんに優しくしてもらって、わかりました。俺は自分を殺したかったわけじゃないんだって」

 だから、ほんとうに、ありがとう。頭を下げるぼくの背中に手を添えて、「どういたしまして。またね」と女が言う。あの日と同じヒールが奏でる甲高い足音。階段を昇る足音を追うように上を見上げた。地上の明るさで空の星は見えない。ただビルの合間に浮かぶ半月が、ぼくを、笑っているように見えた。

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