海の中では 3



孤独という言葉を知ったのは、ぼくが住んでいた場所を出て、海底の熱水噴出孔そばのコロニーに住居を割り当てられたときだった。こちらの世界の人は孤独をあまり好まない、意識しないらしい。それもそのはずで、少し意識を傾ければ世界中の孤独に触れ合えるし、寂しさも分け合う形で埋めることができるのだという。ぼくは思春期を過ぎてからこちらの世界のテクノロジーに触れたから、そううまく適合できなくて、自分自身の感情を持て余している。


たとえばぼくは耐圧スーツを着て海に出るのが好きだ。でもこの世界の人たちは、もうそういう遊びをしない。一時期は「リアルさ」や「体感」をこぞって追い求めた時期もあった、でも今はそういう「ハイリスク」で「ハイコスト」な「現実感」を期待するのは極めて前時代的で唾棄すべき考えだ、というふうになっている。


スーツの表面の冷たさとか、光のない世界で輝いている生き物の多様さを、ぼくたちはその場にいないでそっくりそのまま感じることができる。ならわざわざそこへ出向く意味とは? 意味とは。

ぼくにもわからない。ただ、そこで感じられることはぼくの人生のすべてだ。


すべて。光や温度。波の揺らぎ、凍るような静けさ。おそるべき闇に体を投げ出す、この感覚。ぼくの感覚が闇に溶け出して、テクノロジーの力なしに、自分で、自分を拡張できる。傲慢な錯覚だ。錯覚こそがすべてではないか。


「リオン」


ナターシャがぼくを呼ぶ。かれがぼくにくれた唯一のもの。ぼくの名前。


「ナターシャ?」


ナターシャの手がぼくに触れる。ぼくに。ここは仮想の支配が届かない深海なのに。手が。ぼくは彼女に手があることを全く予想していなかった。酸素濃度が一時的に減る。


「あまり見ないで、ありあわせのパーツだから」


こんなものしか手に入らなかったんだけど、どうしても、私あなたのところへ行かなくちゃならないと思って。ナターシャはそう言った。

「きれいだよ」

じっさいのところうっすらと発光した人口の血液が、半透明のからだから透けて、とても綺麗だった。

「あなたに会ってから、わたしずっと調子がおかしくて」

なんどもメンテナンスを頼んだんだけど少しも直らなかった。あなたと会ってからの部分をデリートするしかない、って言われたんだけど、どうしてもできなかった。おかしいでしょう、自分に実体がないのを気に病んだり、あなたに触れる夢を見たり、いつも頭の中にもやがかかったみたいになって。

それでわたし、思ったの。自分の、やりたいことをすっかり叶えてしまったらよくなるんじゃないかって、つまり、有機ボディをもって、物理的に、あなたに会いに行くっていうことを、本当にやってみたらどうか、ってね。それで、ずっと、ずっとそのことばかり考えていたら、どうしようもなくて、いても立ってもいられなくて。


それでね、今こうして、ありあわせの体で、あなたに追いついたんだけど、だけど―――― 

水の中なのに、ナターシャが泣いているのがわかった。ナターシャの体は涙を流すようにできていない。でもぼくにはそれがはっきりとわかった。


「かたちを持ってみて、わかった、わたしは」


わたしは、もう戻れないというのが、どういうことなのか、はっきりわかった。それはわたしの処理能力の限界を超えていたから、でも、でもね、わからなくても、そこになにがあるのかは、理解することができた。あなたと読んだテキストがどいう内容だったのか、はっきりと、体に迫るように。実感を伴って、理解できた。


「いいよ、それ以上は、言わないで」


「あなたといると、わたしは、わたしたちがとても隔たっていることを思い知る」


ふたりでいるほど、差異が際立って、なぞればなぞるほど遠ざかって、途方もない。あなたはずっとその世界にいた、わたしはそのことをずっと、知らなかった。こんなにも、こんなにも。狭苦しい世界に閉じ込められることが苦しいことだなんて、しらなかった、と彼女は繰り返した。ぼくは申し訳ない気持ちになり、胸が苦しくなった。


「むかしの人もきっとこんな風だったんだね」


ぼくたちは静かに浮上する。光が届かない層、わずかにほの明るい層、温暖な海流、驚くほど冷たい海流。光が満遍なく散乱する箇所、すべてをすり抜けて、光の射す方へ。


「こんなに明るくて温かくて幸福なのに」


明るければ明るいほど、暗いところが際立つなんて、しらなかった、とナターシャはさめざめと泣いた。まるっきりそうだ、と思い、ぼくたちはしばらくそこで漂っていた。ただ手を取り、海原に漂って、水を通して太陽を見ていた。 


(了)

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