海の中では 2




かれが停止した日、ぼくも一時的に止まった。なにをどうすればいいのか全く分からなかったからだ。人体に必要な安全装置を、かれはなにひとつ身につけていなかった。かれはよくぼくに話してくれた。遺伝情報も、声紋や指紋、思考パターン、筆跡や、心拍数、あるいは本当の名前、それらはいずれも守るべき大切な「秘密」だった。秘密が一つ解き明かされるごとに世界は影をなくした。今ではもうぼくたちに射す影はない。あらゆる方向から正確に照射された光が、影を消し去ってしまった。


古代の人たちは太陽を神として崇めた。今ぼくらが地上に出て有害な太陽光線を浴びることはほとんどない。太陽は神ではなく、単なる間近な恒星になった。光は神性を失ってしまったのだ。

でもぼくは覚えている。かれと暮らした家で、大地を深く穿って鶏糞を鋤き、種をまき、水を与え、収穫し、食べた。太陽とともに起きて太陽とともに眠った。冬はすなわち太陽の死。一日の仕事は日照時間や気温に左右されていた。

かれはどこから手に入れたのか、真水を精製するフィルターを使っていた。育った苗に太陽が注ぎ、ぼくもそれを浴びた。地上と上空の温度の違いが風を起こし麦を揺らす。風が葉を撫でる音をぼくたちは一晩中聞き、虫が奏でる音に耳を澄ませた。太陽はぼくの表面にエネルギーを注ぎ、体を直接あたためた。メラノーマが太陽光に反応して色素を作り出す。かれの皮膚はすっかりたるみ、しわが深い影を落としていた。でもぼくは、かれのがちがちに硬くなった掌が好きだった。まめがつぶれ、分厚く変質し皮膚。


毎晩眠る前、かれは昔の世界がどんな風だったかを語る。地上に人が行き交い、笑い、怒り、憎しみ、恋をする。それはどこかから聞いた話だったのかもしれないし、書物から得た情報だったのか、それともかれ自身の体験だったのかもしれない。ぼくは聞いているうちに眠くなり寝てしまう。話の最後はいつまで経ってもわからないままだ。


かれはいつでもぼくより早く起きて仕事をした。

ところがある朝かれが寝坊して起きてこない。ぼくはかれが寝台の上で動かないので、ひとりで粉をひき、その合間にパンを焼いて、野菜と干し肉をはさんで食べた。それでも起きてこないので、心配になって寝台に近づいた。かれは微動だにせず、皮膚は徐々に固くなり口がこわばっているのが分かった。乾燥しているのが良くないのではないか、と思いやわらかい布に水を含ませ固く絞ったもので彼の体を拭いた。だらりと投げ出された腕を、丁寧に元の位置に戻す。ぼくは人の声が聞こえないというのはとても不安なものだと知った。


その日は雨だったので、一日中家の中で作業をした。藁を編みもこを作り取っておいたつるでかごを編んだ。かれはよく、ぼくを手先が器用だ、と言って褒めた。ぼくのほうがかれよりも指が細いぶん、繊細な作業に向いているのだという。しばらく雨音を聞きながら無心で作業をした。家の中にまで湿った空気が押し寄せるような、強い雨が降っていた。

しばらくすると、かれの皮膚から不思議なにおいが漂ってきた。今まで嗅いだことのないような、独特なにおい。ぼくは手を止めて、彼の手を握った。かれの指は固く、押しても温めても、動くことがなかった。

今思うとふしぎなことだが、ぼくはぼくの生命はかれがいることで維持されているのだと感じていた。だからぼくは、かれが動かなくとも、じぶんが排泄をし、食事を摂り、眠る必要があるのがとてもおかしかった。かれの手足がこわばり固く閉じ、仰向けに死んだ昆虫のようになった時、ぼくはポリタンクに水を汲み背負い、麻袋にパンを詰めてかれのそばを去った。

もう話しかけても彼が答えることはない。かれがぼくに手を伸ばしほおに触れることもない。そのことがはっきりわかったからだ。



建物を出て、しばらく歩いて、振り返った。ぼくらの住居は白く塗られた土壁に四方を囲まれ、小さな箱のような単純なつくりをしていた。かれがひとりで作ったのだという。少なくともぼくが物心ついたころには、あの建物はあそこにあった。ずっと今まで、かれとふたりで、あの中で暮らしていた。それなのに

きがつくとぼくの頬をなみだが伝っていた。歩くたびにぽろぽろとこぼれた。かれと星を見ながら歩いたことをおもいだす。ぼくはかれに「月がいつまでも追いかけてくるのはなぜ」とたずねた。かれは「月がお前の想像する何倍も巨大だから」と答えた。それから地面に単純な絵を描いた。丸と、小さな丸と、少し離れたところに大きな丸。ぼくらは丸の表面を歩いているのだ、とかれは言った。「この絵の上では」塵一粒がぼくらなんだね、というと、かれはぼくの頭の掌を添えて、ほほえんだ。かれは昔の人々がどのようにして地球の大きさを計算しようとしたかを教えてくれた。


ぼくは多くのことをかれに教わった。だけど、じぶんと、かれに関することだけは聞かないままだった。そんなことを尋ねる必要に思い当たることもなかった。永遠にふたりだけの暮らしが続いていくと思っていたから。

でもそれは違った。かれが起き上がることは二度となく、ぼくはもうかれの声を聴くこともかれに質問することも、怖い夢から目覚めてなぐさめてもらうことも、できない。そのことをかれがぼくに教えなかったのはなぜなのか。かれはたぶん知っていたのだ。それなのに、なぜ。なみだが乾いたあとに風が冷たかった。




しばらくして海底トンネルへの入り口にきた。この下にはぼくのしらない世界がある。たまにここから人が出てきたり、あるいはぼくらと一緒に休んだ人がここへ帰っていくのを見送ったりした。ぼくは息を呑む。もぐろう。

ほこりが溜まって軋む扉を開けると、ぞっとするような深い竪穴が見えた。頼りないパイプが壁に刺さっている。これを持って降りろと言うのだろうか。息をのんで、呼吸を整え、人が一人通るのがやっとの、狭いチューブを、ぼくはそうっとくぐった。



竪穴は広い横穴に繋がっていた。不思議な円盤が往来している。浮いている? なぜ。ここが本当に海の底なのだろうか。もしかして道をどこかで間違えていないか。いや、竪穴は狭くて他に抜けられそうなところなんかなかった。ぞっとする。

丸い円盤がぼくの目の前めがけて飛んできて、止まった。黙っていると、しばらくしてまたどこかへ動き出す。そのうち生き物ではない何かが飛来して、うるさい音を立てながら派手に飛び回った。「汚染濃度の上昇、緊急マニュアルを参照。経路の遮断を行います」


突然横穴に壁が現れて、何台もの小さな機械がありの大群のように押し寄せてきた。機械はやがてぼくを取り囲んで、意味の分からない光を照射しては、不可解な音色を奏でた。ぼくは円盤の上に寝かされ、四肢を固定され、されるがままだ。

やがて人型の機械がぼくを「往診」し、けたたましい音を奏でて止まった。機械のメンテナスのための機械、それを運搬する機械、メンテナンスされる機械を輸送する機械、あらゆる機械に出会ったが、とうとう人には出会わなかった。「わたしはミザリー。今日はどうしたの? どこが悪い? それとも道を見失った?」「どこも悪くないよ、ただここ、ちょっと変だね。居心地が悪い。不気味」「不安なのね。大丈夫。あなた地上帰りなのね」「帰りじゃないよ、今来たところ。地上から、来た」「大丈夫かしら、えっと、居住区のナンバーを教えてくれる?」「きょじゅーく?」


なにもかもがこんな調子で、頭がおかしくなりそうだった。かれがいないぼくの人生は不安だった。わけのわからないことばかりが起きる。元の世界に戻りたくてもそれはできなかった。世界は不可逆で、知らなかった頃にもどることなんてできない。かれはなぜそういうことをぼくに教えておいてくれなかったのだろう。ぼくはまるで異物だった。世界の遺物でもあった。この世界の人たちは海底や地底の世界に慣れすぎて、二度と地表に出ようとは考えない。命知らずの人たちがときどき旅に出て、そしてまた帰ってくる。ぼくは地下の世界から地表に出た人々とは違い、そもそも世界に認識すらされていなかった。そしてそれは彼らにとってはあり得ないことらしく、その事実にぶち当たると何台もの機械がおかしくなった。


そこで得た情報をまとめるとこうだ。地球表面をほぼ覆う、衛生による監視装置がほころびを見せたのは、第四次世界大戦が終わった後だった。深刻な大気の汚染や火山活動の活性化に伴って人類の七割が地下に潜った。地表のことはしばらく人々の歴史から忘れ去られていた。衛星装置のいくつかがメンテナンス不足、あるいは寿命で落ち、宇宙を漂いあるものは地球に向かって落下し、地表に住んでいる人のことを誰も構わなくなり、物好きな研究者や命知らずの旅行者がときたま現れる以外は、地球の表面はとても静かだった。


その時期に地上に残った人たちの生き残りが、かれだったんだろうか。ぼくは誰から生まれてなぜ生き残ったんだろう。ぼくはかれのことを何も知らない。ぼくはぼく自身のことも何も知らない。もちろん地底の人たちだってかれのことは何も知らない。記録にも一切残っていなかった。


ぼくはどこから生まれどこからきたのか。どのように地上で暮らすようになったのか。ぼくの持つ疑問は、現在においてはとても異質なものだ。ありとあらゆるものが記録され、あらゆる角度から解析される。しらない、わからない、感じないということはありえない。そう、ありえないことなのだそうだ。だから自分の生まれを問うなんてことは、頭のおかしい、異常な行動だと認識されている。そういう事情で、ぼくの思考ログは有害とされて、はじめあらゆるものから遮断され隔離された。古代のウイルスが氷河の氷から溶け出してきた、というような扱いだった。でもぼくの持つ隔たりから、伝播性は薄いと判断されて、解放されたのが少し前のことだ。ナターシャみたいなもの好きと出会うまで、ぼくは永らく孤独だった。なにせこの世界の人たちときたら、みんななにか問題が起こると脱皮するみたいに人格を捨てる。ぼくの存在と触れただけで精神に変調をきたす人も少なくなかった。


それでも致命的な事件にまでいたらなかったのは、彼らのこだわりの薄さに起因していると思う。この世界の人たちは分裂と統合を繰り返していて、旧い人たちが病的だと名付けた状態よりももっとひどい。ぼくと関わったことでなにか問題が起きれば、その記憶や形跡を本体から切り離してしまえばいい、というわけらしい。

けれどもナターシャだけは別だった。ナターシャはときどき拒否反応を起こすように、ぼくとの対話の上で“落ちる”。普通はそれでおしまい、もう二度と出会えない。でも彼女は違った。古風な名前を自ら名乗るくらいのもの好きだから、あるいは人並み外れて好奇心が旺盛なのかもしれない。

ぼくと関わりたがるのは、彼女みたいな“危機管理意識の低い”生命や思念、はたまたマシンだけだった。


ぼくはなんども、適応のためのプログラムに挑んだ。何種類ものナビゲーターを試した。物好きな「古代技術オタク」とも話した。でも誰もぼくに興味を示してはくれなかった。いや、ぼくが求めていたのは興味ではなく、純粋な、関心だった。それはこの世界ではとても異質なものだ。あり得ないものだ。

最後まで残ってくれたのも、ナターシャだけ。でも今度の一件で、ぼくはもうだめかもしれないな、と感じていた。ぼくが彼女に会うことは、もう二度とないかもしれない、と。

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