海の中では 1

所属する、という言葉が当時どういう体感を持って使われていたのか、自分にはわからない。わからないながらに、当時を生きた人々の残された記憶を頼りに、思いをめぐらせる。

当時の人々は「国家」や「地域」あるいは血縁関係のある、近しい人間で集まった「家族」という単位で行動していたらしい。不思議だ。特にインターネット回線が普及し国家のインフラの基礎となりつつあった時代、コミュニケーションのベースはもっぱら文字だった。ぼくはその頃の人々のやり取りを見ているのがとても好きだ。興味深い。男も、女も、そうでない人も、満たされた人も、そうでない人も、特定の年代を生きたあらゆる人たちの記録をたどるのはとても面白い。わくわくするし、胸が躍る。


「国」というのが定義されたのはいつ? と問うと、ナターシャが関連資料を送ってくれる。今となっては国はなく、ぼくたちはただあちこちに点在して同時にいくつもの場に存在しては消える。もちろん実際に肉体を増やすことにはまだ成功していないし、そもそも倫理的に問題がある。ただ遠隔的に、現実感を持った体感として「他人」を感じる技術は洗練され、ぼくたちはほとんど実体としての自分とアバターとしての自分の境目を忘れつつあった。無数に分裂し、繋がれ、また消えていく。いつかそのうち、ぼくらは「オリジナル」のことなど忘れてしまうようになるのかもしれない。


ナターシャは定義を明確にするのは難しい、と言った。国にはいくつかの段階があった。最終的には国家は主体と呼ばれたらしい。民主主義国家では、主体としての国を人民がコントロールする、のは技術的に不可能であったので、人民がその権限を代表に委託して決定権を行使していたらしい。アリの巣に似たシステムだったのかな? ぼくの意見にナターシャは笑った。


ぼくはナターシャのことが好きだと思う。ナターシャもそう。ときどきぼくはナターシャに「君に実体はある?」と聞いてみたくなる。でもその質問は禁じられていて、ぼくに知る権利はない。ぼくは旧いタイプの人間だから、やっぱり生身の身体を同じ時間に同じ空間に置きたい、という欲求が捨てきれない。ナターシャはどう? と聞くと、なにが? と繰り返される。ぼくにこの質問は許されていない。仕方なく穏やかに微笑む。


「わたしは」ナターシャの声。イルカの笑い声みたいだ。でもわたしは、に続く言葉には砂嵐みたいな不思議なノイズがかかって、ナターシャの声が聞こえなくなる。「今夜は泳ぐにはとてもいい天気ね」「ほんとうに」「あなたは魅力的だし、素敵よ」「君もね」「わたしは、そうでもないと思う。自分のことをそんなにいい風には思わない」「そうかな? なぜ?」「だってわたし」

 

相手がゴーストなのかAIなのか生きた人間なのかを直接尋ねるのはとても失礼なことだ。でもナターシャはぼくになにかを伝えたいみたいだった。ぼくは昔の人たちの残した記録を手繰り続けている。かれらは安易に愛を語り安易に嫉妬を抱き安易に怒りに身を任せくだらないことを文字に記した。自らの性器や顔面をさらし生殖に絡む複雑な手順を単純化し感染を恐れず多くの実体と交わった。それがとても不思議で、ぼくはなぜかれらがそんなことをしたのか知りたい。そうすることで、ぼくは自分の奇妙な嗜癖のようなものを、はっきりと認識できるような気がしていた。


当時の人々の言説には目を見張るものがある。自由さ、それと同じ程度の無謀さ。知識がない、あるいはアクセスすべき知識の選別がなされていないというのは悲しいことだと思う。彼らが生きる世界は、実体を伴った呪いの世界だった。


「あなたがオールドタイプなのは」ナターシャが僕にそっと触れる。くらげの脚腕のような感触。やわらかく遠慮がちでしめっている。

「かれの影響」「そうだよ」ぼくは生身の人間と生活を共にした数少ない人種だ。彼は機械化された動物を嫌い複製技術をそしり、ぼくと、自分以外のなにも信用していなかった。

ぼくはかれがなぜ、ぼくとふたり、という単位に固執したのか、それが知りたい。かれが信じる「にんげんの暮らし」とはいったいなんだったのか、あるいはかれが呼ぶ「にんげんに」


にんげん、という言葉にナターシャが震えるのがわかった。ぼくはときどきこうして、誰かをひどく傷つけてしまう。ぼくは野蛮だ。そしてそんな野蛮な自分が、とてつもなく悲しい。


悲しむぼくを慰めるように、ナターシャが笑う。海のさざ波の音で。「わたしは、あなたがなにか自分にできることを探している。そういうところが好き」「好き?」「なにかしたいことを見つけるのって、とても骨が折れることだし、面倒でしょう」「そうでもないよ?」「あなたにとってはね。でもちがうの。いろんな人のサポートをしたけど、あなたは特別よ、おもしろい。とても」


おもしろい、というのは独特だ、ということばの言い換えだと思った。ぼくの経歴は少しだけ特殊で、他の誰とも共有たためしがない。独特だ、というのはこの世の中では、というだけで、昔にはわりあい普遍的な生活だったらしい。ぼくを養っていたかれが、なぜそんな、時代遅れのくらしにこだわり続けたのか、ぼくにはわからないけど。


「つまりぼくはね」「あの人が考えていたことをしりたい」「かぞくってなんだったのか」「ぼくとあの人はほんとに」「ほんとに家族だったのかって」「そういうことを」


「なぜないているの」ナターシャが言って、ぼくは初めてじぶんが泣いていることに気がついた。あくびをする、えいがをみる、イルカがまじわる映像。仲間外れにされたオスの泣き声、ぼくは毎回をそれを見ると泣いてしまう。意味は分からないけど。


もろもろの感情に触れたとき、泣く、ぼくは泣く。なみだを流す。ぼくは泣くんだ。なぜ? なみだが、めじりを、つたい、おちる。アバターのぼくは泣かない、ないてもその目じりの微細な傷を刺激する涙のしおからさまで、表現できない。外面上の、なみだ。生理反応としての、涙。


泣いていると伝えることと泣くことは全く別のことだ、とぼくは思った。ナターシャが戸惑っているのがわかった。沈黙、暗闇、無音。ナターシャは思考を止めている。止まっている。どうしてだか彼女の気持ちが痛いほどわかった。ぼくが以前この状態におちいったのは、彼が「停止」した時だったな、そう思った瞬間、ナターシャが「落ちた」 


ぼくはしばらく無音の環境をあじわい、涙がそろそろ止まりそうなところを見計らって、接続を、切った。


現代において、なにかに所属するということはとても難しい。ほとんどの行為は誰の主権も侵害することなく遂行できるし、人間の能力の足りないところはマシンが補ってくれる。どんなところにも物好きはいるわけで、あえて個人と交流を試みたり、当時の人たちの言うところによる「ラブロマンス」を好む人たちもいた。でも悲しいことに、いくらでも代わりはいるのだ。昔の人々や、昔のぼくのように、物理的に居住区や行動範囲を制限されているわけでもなく、何かを「継続」することにほとんど意味がなくなった。知識のバックアップも簡単にとれる。その人でなければならない理由などほとんど存在しない。過度なメランコリックや不安は治療の対象だった。治療と言っても昔のようにおおざっぱに化学化合物を投与する方法ではなく、負荷の大きい思考形式をデバッグする。


ぼくのこの状態も治療の対象になるかもしれない。でも誰もそんなことを担当したがらないだろう、と思った。実際のところ、ぼくはここでは非常に扱いにくいイレギュラーな変わり者だ。欠陥だらけのマシンを愛する。病的な対象とばかり関わりたがる。ぼくはこの世界の人たちとうまく世界の基盤を共有できていなかった。もちろんそんなことは些細な問題だ。ぼくにとっても、誰にとっても。ただ、セオリーが通用しない、厄介な相手だというだけ。

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