いばらの庭
雨が降っている。じっとりと湿気た空気が重い。地面はどこもびしゃびしゃで、背の高い雑草が落ちてくるしずくに全身を揺さぶられている。
「行かないで」
女の腕が俺を掴んだ。行こうにもこの土砂降りの中じゃ。
どうにもならない。
半時ほど前のことだ。母親とけんかになって、原因は些細なことだった。提出期限の切れたプリントが机の引き出しから出てきたとか、なんとかで、こっちも勝手に持ち物を漁られて腹が立った。言い返したら、口論になって、口汚くののしりあった結果、俺は土砂降りの中家を追い出された。母親は直情型の人間で、腹を立てると話が全く通じなくなる。交渉も譲歩も望めない。外は雨。クラスの友達に迷惑をかけるのは嫌だった。今時保護者同士もラインを交換していて、息苦しくて仕方がない。同じ中学に通う友達の母親はいくつかのライングループを経由するとほぼ全員がつながる。地獄みたいだ。
そこで俺は以前から目をつけていた廃墟のガレージにもぐりこんだ。大きな家で、人は住んでいない。時々誰かが雑草を刈りに来る。車が停められることはほとんどなかった。ガレージの中には、芝刈り機やチェーンソー、日曜大工の道具が放置され、ほこりをかぶっている。
こんなほこりっぽくかび臭い場所に、先客がいるとは、思いもしなかった。体のラインを隠すようなベージュのワンピース。腰まで届く長い髪、まっすぐに切りそろえられた前髪。幾つくらいなんだろう、見当もつかない。話している口調だけ聞くと、同じ年くらいの、あるいはもっと幼い少女を連想してしまう。
「止まないな」
呟くと、女はこくりとうなずいた。
「ここはあんたの家なの?」
首をかしげる。
「広い庭」
荒れ放題だったが、敷地はどこまでも広かった。遊び放題だな、サッカー、バスケ、ドッジ、缶蹴り、子供が三十人くらい集まってかくれんぼしても、日が暮れるまで見つからないやつが出てきそうだ。
敷地の入り口を示す門はかんぬきが壊れていて、開けっ放しだった。ポストには大量のダイレクトメールがあふれている。名前も知らない白い花が、ガレージの側で咲いていた。
「ねぇ、しよう」
女が俺の手を取った。
「なんだよ、やだよ、気持ち悪いな」
女の手を振り払う。ずいぶん冷たい手だなと思った。ガレージの入り口に女物の白いレース模様の傘が投げ捨てられている。この女の持ち物だ、と思った。女はまだ何かぶつぶつ言っている。
「なんでこんなとこに?」
と俺は聞いた。
「逃げてきた」
女は答えた。
「なんで逃げるの?」
「こわいもん」
ふうん、と言って、まぁ自分と似たようなものかな、と思った。
「死にたい」
と女が言うので、俺は女の顔をそっと見た。母親よりは若いかな、と思う、口調はまるで中学生だ。ちぐはぐだった。服装も、表情も、なにもかも。ばらばらで、統一感がない。
「死にたいんだ」
俺は答える。施設に入った祖母のことを思い出していた。祖母は祖父が死んでから一人で暮らしていたものの、玄関を出てすぐのところで転び、足を折って入院することになった。一人での生活が難しくなったので、親戚一同で話し合った結果、施設に預けることになったらしい。祖母は俺が会いに行くたび、「こんなになって生きているなんて恥ずかしい」「死んでしまいたい」と繰り返していたので、心配して母に「おばあちゃんが死にたいって」と訴えると「あの人は殺しても死なない人だから大丈夫」とあっさり退けられた。なんて薄情な人だ、と内心おののいたが、母の言うことは本当で、祖母はいまだにぴんぴんして、介護士さんたちを呼び止めては「ここが痛い」だの「夜眠れなくてつらい」「早く迎えが来ないものだろうか」と訴えている。最近では医者ですら「あなたは業が深いのでそう簡単にはいきません」と真剣な顔で祖母に説くのだそうだ。祖母は祖母で、地獄の方が手ぐすね引いて待っている、とやはり俺に訴える。
「そう、死にたいの」
祖母に似ているようにも見えないことのない、見知らぬ女は深刻そうに言った。
「なんで?」
「理由なんてないよ」
女はガレージの奥の角に背中をあずけ、ずるずると腰を下ろした。服が汚れるとか、考えないのだろうか。淡いベージュの服が心配になる。
「君もおいでよ」
そう言って自分の隣を指し示す。顔をしかめて拒絶の意思表示をした。女は特に気にするそぶりも見せない。俺の鼻先で、弱まりかけた雨がまた一層強くなった。水がけむって地面をえぐる。雨のにおい、雨がコンクリを打つにおい。
「死ぬのはこわくないの?」
俺が尋ねると、女は心底不思議そうな顔で俺を見た。
「こわくないよ」
なんでだよ。と俺は思う。俺は死ぬことが怖い。死にたくないし、生きたいと思う。
「神様が」
女が言う。
「神様が私の名前を知ってくれてるから、こわくないの」
なんだよそれ。
「神様はいちいち人間の名前なんか憶えないよ」
「ううん、大丈夫なの。毎日欠かさず、お祈りしてるから」
「神様って……どこの」
女は自分のこめかみを指さした。あたまの中。くちびるだけでそう呟く。俺はあきれてものも言えない。まぁでもそれが本当だとしたら、完璧な自己補給経路を築ける気もする。頭の中に神がいるとすると、神は自分の何もかもをお見通しというわけで、ある意味最強の神通力だ。
「一緒に死ぬ?」
と女は首を傾げた。どこまでも軽いんだな、と思う。自分の中でだけで完結していると、他人のこともどうでもよくなるんだろうな。それはとてもおめでたいことだ。
「死なない」
俺は自分の口の端が歪むのを感じていた。ごうごうと獣のような唸り声をあげる土砂降りの雨の中に、体を投げ出す。バケツをひっくり返したような雨だった。滝行みたいだ。水滴に全身を打たれている、と感じる。おかしくなって、つい笑ってしまう。髪の毛も、シャツも、スニーカーも、一瞬で水浸しになった。今更傘を差すのはばかばかしかった。
「待って」
ぱしゃぱしゃぱしゃ、と軽い音がする。女がレースの傘を俺に差し出した。バカだ、と思う。俺は自分の傘を持っている。わざわざ女が濡れる必要はなかったはずだ。それなのに、めい一っぱい腕を伸ばし、傘をこちらに差しだしたせいで、女の体はもはや水がしたたるほど濡れている。
「いらないよ、もう濡れてるし。あんたも」
「あ……そっか、ほんとだ」
愚鈍な人だな、と思った。
雨は一向に止む気配がなく、見上げた空をバカみたいに分厚い雲が覆っている。空気の中に湿気が充満していて、そこにいるだけで息苦しい。不意に女が俺を抱き寄せて、強引に傘の中に入れた。薄暗くて、音がこもる。くっついたところから、女の心臓の音が聞こえるかと思った。実際には雨の音がうるさすぎて何も聞こえない。
ばかじゃないのか、と俺は思った。
「死ぬなら傘なんかいらないだろ」
「いる。天国に傘はないから」
「俺は帰るけど」
「うん」
「あんたは?」
「帰る」
「死なない?」
「今日のところは」
女の傘を持つ手が震えていたので、その手を包むように重ねた。女は驚いたように俺の顔を見て、何も言わずにうつむいた。撥水加工の施された布は、豪雨の中ではみじんも役に立たず、俺たちはしとどに濡れて、雨に容赦はなく、女が俺を抱きしめる手は固く、ばあちゃんが電動のベッドから立ち上がる時の様子を思い出しながら、俺は茶色い水が流れる側溝を見ていた。
足を折ってからというもの、療法士の資格を持っている叔母の勧めで、祖母は毎日リハビリに明け暮れることとなった。どうも俺以外の親せきは、祖母は簡単に死ぬはずがない、と思っているらしかった。祖母は痛い痛い、と怒りながらも、一人でいるときにもこっそり教わった方法でストレッチや筋トレを続けていたらしい。負けず嫌いだから、あの人。と母は呆れていた。
リハビリ中の祖母を訪ねたこともある。「お孫さんのところまで頑張りましょう」と励まされて、祖母は器具を頼りに俺の方へ近づいてくる。牛歩のごとく、というのはこういうことを言うのだろうか、と思った。ゆっくりしていて、おそるそる、ときどき不安げに作業療法士の人や俺の顔を見ながら、祖母は歩いた。体や足が震えているように見えた。
とうとう俺と祖母の距離が十五センチほどになった時、祖母の乾いてしわしわの手が俺の腕を掴んだ。「ああ、疲れた」祖母は言葉とは裏腹に、照れたような笑顔で俺の方に倒れ込んだ。頼られると怖くなる。でもばあちゃんが俺の手を取って恥じらっている様子は、何とも言えない特別な気持ちを生む。「母さんもあんたといると妙に素直だから」母の言葉がよみがえった。
◇◇◇
家に帰ると玄関にはバスマットが投げ捨ててあり、その隣にタオルと、洗濯かごが置かれていた。濡れたスニーカーに丸めた新聞紙を突っこみ、靴下をかごに入れる。
廊下から母親がむすっとした表情を隠さないまま、出てきた。
「ただいま」
俺は何食わぬ顔で玄関先に腰かけ、足の裏を拭く。
「どこにいたの」
母親がスマホの画面を俺に突き付ける。短時間記録的豪雨、不要不急の外出を控え、河川の氾濫に十分注意、などなど。いや、あんたが出て行けと言ったんでしょうが、というのを飲み込み、うん、と声を出す。
「お化け屋敷のところで雨宿りしてたんだけどさ、変な女の人に会った」
「変な?」
「うん、ガレージのとこで」
「あそこ、もう誰も住んでなかったと思うけど」
「だよね」
「住んでたおじいちゃんが亡くなってね、若い女の子が住んでたんだけど」
「え?」愛人だか孫だかって噂だったけど、と母は言った。
「その人も今どこかに出て行っちゃって」
「なんだ、死んだとか言うのかと思った。怪談かよ」
「お化けだと思うくらい綺麗だったの?」
「幽霊が綺麗なのは昔話の中だけでしょ」
まぁ実際、そんなに綺麗ではなかった。生きている人という感じで。母はよっこらしょ、と小さくつぶやきながら洗濯かごを持ち上げる。俺は素直にその中に脱いだシャツを入れる。
「迷惑よね、草も生えっぱなしだし。空き家、今、全国で問題になってるんだって」
「空き家、確かに草はすごかった、あとなんかツタ? お化けみたいで」
「だからって、人の敷地に勝手に入っちゃダメ。泥棒と一緒だよ」
泥棒、を働いたわけじゃないけど、確かに勝手に入ったのはまずかったかも。でも雨だし。家を追い出されたわけだし。びしゃびしゃの前髪をかきあげたところで、あの女のうすぼんやりとした顔が脳裏によみがえった。
「あんな広いところに一人でいるのは、うんざりだっただろうな」
そうだね、と母は言って、前に抱えたかごで俺を脱衣所の方へ押しやる。
「脱いだ衣類は洗濯槽へ、ママのシャンプーは使わない、わかった?」
「はいはい」
出て行ったって、何かあったんだろうか。でも戻ってきてたということは、やっぱり何かあったのかなぁ、とかいうことを考えながらシャワーを浴びていたら、シャンプーとトリートメントを間違えてプッシュしてしまった。また母に叱られる。
◇◇◇◇◇
次の日夕方陽が沈みかけた頃に、昨日と同じ場所へ行ってみた。雑草のしげる敷地に足を踏み入れると、草裏の露がジーンズを濡らす。
人の敷地に勝手に入ってはいけない、と言われたのに、あっさり入ってしまった。いばらがあちこちに蔓を伸ばしている。白い花から甘い匂いが漂っていた。敷地の中にはザクロやイチジクの木が植わっていて、青いビワの実が鈴生りに実っている。
不意に茂みをかき分けて、人影が現れた。
「少年」
草刈り鎌を振り上げて、女が嬉しそうに俺を呼ぶ。死神か。
「やっぱりここ、あんたの家だったんだ」
鎌をもたないほうの手には、花が握られている。
「ほんとは違う。私しせーじだから、この家は叔父のもの」
「相変わらず神様と通信してるの?」
「そうだよ、毎日だよ」
女は手にしていた花束を胸元に突き付けてきた。
「これ、あげる」
「いらない」
雑草まみれの中でも、ちゃんと花を咲かせるんだ。そのことが驚きだった。女はにっとくちびるの端を持ち上げる。
「じゃあ、いいこと、する?」
「そういうこと言うの、きもいからやめた方がいいと思う」
「気持ち悪い?」
女の顔が不安そうになる。顔色を窺うように、俺を見た。
「きもい」
一瞬後ろにたじろいで、女は緩慢にうなずいた。
「わかった、じゃあ、やめる。もう言わない」
「貸して」
俺は女の手から鎌を奪い取った。そのへんの草の根元を掴んで、鎌を振り下ろす。ざく、と小気味良い音がする。ざくざくざく。草を刈り取る。
「え?」
女が明らかにうろたえている。
「素手でやると痛いよ、手を切るよ」
そういって鎌を取り上げようとするので、俺はじっと女の顔をにらんだ。
「あんただって、素手じゃん」
「私は……」
女は言いよどんで、さっと手を後ろに隠した。そのままもじもじと、俺が草を束ねるのを黙って見ている。背丈の高い草や蔦、遠慮なく伸びた木の枝におおわれて、鬱蒼とした敷地は、どこまで続いているのかわからない。古めかしい建物の外観の大半を蔦が覆っている。勝手に生えたのか、それとも前から植えられていたのか、あらゆる植物が混然一体となって、まるで森のようだ。果樹も、広葉樹も、針葉樹も、あじさいも、背の高いすすきのような草も、ねこじゃらしも。まるで意思を持った生き物のように、青々と茂っては風に揺れている。俺は昨日の女の言葉を思い出していた。「逃げてきた」こわいから逃げ出したのだと女は言った。女が怖がっていたのはなんだったんだろう。うっそうと茂る草だろうか、木をきりきりと締め付けるつるだろうか、相続にかかる税金だろうか、周辺の住民から向けられた好奇の目だろうか。
しばらくもくもくと草を刈り取っていた。女がもういいから、と何度も言った。俺はようやく立ち上がって、鎌を返した。
「ありがとう」
消え入りそうな声で、女が呟いた。
「あれ」
俺はビワの木を指さす。
「あれが食べたい」
「まだ青くて、たべられない」
「なら熟したら、また来る」
陽がすっかり傾いて、あたりは紺と紫の間の色。女の顔はよく見えない。
「じゃあ」
と言って背を向けると、女が今度ははっきりした声で
「ありがとう」
と叫んだ。掌を見ると、案の定、鋭い草が切り刻んだ、浅い傷口がいくつもあって、俺はそのまま手をポケットの中に隠した。少しだけ痛い。
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