あの子とキスを

 大切にしているものを大切に感じるのは、そのもの自体に魅力があるからなのか、それとも大切に扱っている自分の行為に、その積み重ねに愛着を感じているからなのか、という風なことを時々考える。


 松戸ななせが空き教室の机に伏して寝ている。私はななせのことがとても好きだ。淡い栗色の髪が窓から差し込む光に透けて赤みがかった金のヴェールのように見えるところ、髪の毛と同じ色のまつげ。はりのある頬は瑞々しく、肌の薄い頬や唇はその下の鮮やかな血液の色を思わせる赤や、あるいは桃色をしている。触りたい。思わず差し出した手を慌ててひっこめた。ななせのまぶたがぴくぴくと動いたからだ。


 しばらく見守っていると、ななせの寝息が聞こえてきた。私はななせが起き出さないことに安堵し、昨日のラインのやり取りのことを考える。

「野木ー」

 クラスの男子から声を掛けられるとき、話題は大体ななせのことだ。あいつ気が利くよな、とか、あいつ意外と頼りになる。とか。私も別に断るでもなく男子の話を聞いてしまう。だってななせはすごくいいやつだから。男子の気持ちもわかる。私が適当に合づちをうっていると、概ね会話はこのように流れる。

「松戸って彼氏とかいる?」

 この場合私の答えは決まっていた。

「いない。でもすきなひとはいるっぽ」

「まじか。相手、どんな?」

「同じ塾の他校生」

「他校!くっそめちゃ青春じゃん」

「すごいいけめん」

「うそーーー松戸ーーー」

 ほんとうはななせに好きな人がいるかどうかなんて知らない。でも私はこういう風に答えると決めていた。だってめんどうだもん。


 ななせは取り立てて美人というわけではない。でも性格が良いので、見ている男子は見ている。彼らはとてもいい奴なので、本来なら私はこっそりななせの前で彼らのことを褒めたり、間を取り持ったりするべきなのだろう。

 わかっててもそんなことはしないけどね。しんでもやだ。

 私はななせと違って性格が悪い。ほんとうに、ど悪い。そんな私の目の前で、ななせは惜しげもなく可愛い寝顔をさらしている。


 そうっとななせの髪を耳にかけてあげる。ななせの髪は細くて、やわらかくて、光をとおしてとても綺麗。野球部の佐藤君や吹奏楽部の東雲君をさしおいて、ななせを一番好きなのはたぶん私だと思う。中学の頃からななせのことを見ていた。ななせはスキが多いので、ちょろい男子はすぐその気になる。たとえば早朝の誰もいない教室で、ななせがふっと微笑んで、「おはよう」と声をかけるだけで。あるいは委員会の会合で消しゴムを貸してあげただけで。男子はなぜかななせのことが気になって仕方がなくなって、一番仲のいい私からいろいろな情報を聞き出そうとする。みんな考えることは同じで、笑ってしまう。私はでも彼らとななせのことを話すのが好きだ。彼らの気持ちはよくわかる。なぜなら私ももうずっと長いこと、同じようにななせのことを思い続けてきたから。ライバルというよりは同胞という気持ちで、つい話に乗っかってしまう。


「しっかりしているようで意外と抜けている」とか「主要三科目以外のテストが壊滅的」とか、お互いが見つけたななせのいいところ(?)を報告しあうのは、これでけっこう楽しい。それになにより、彼らの浅い頭の中が、会話を通して時折透けて見えるのもいい。彼らの考えていることが、私には手に取るようにわかった。

 冬服のやぼったいブレザーを脱いで、シャツとベストだけになった日。ベストがなくなって、夏用のカッターシャツとリボンだけになった日。私はななせを目で追う途中で、ぼーっとした男の子たちの視線に気がつく。同じものを目て追っていて、きっと私も外から見ると彼らと同じように間抜けな顔をさらしているのだと思った。それでもいい、仕方がない。だって私は。


 そのへんのあさましい男子と同じように、私はななせにキスをしたい。柔らかい胸の奥の鼓動を聞きたい。首筋を噛んで恥ずかしがる姿を見たい。もっとひどいことをして、ななせのいろんな顔を見たい。


 でも、ひどいことをしたい、というのはもしかして、好きとは違うのかも。これは単純に性欲で、私はななせのことなんて、少しも考えていないのかもしれない。本当に好きなら、私はななせに好きな人がいるか確かめて、その恋を応援するべきじゃないかな。そうしないのは、これが好きじゃなくて、ただの、性的な関心だからじゃないのかな。私はななせの耳元にそうっと、慎重に顔を近づけて、ほんの一瞬くちびるをくっつけた。ななせは少しだけ眉をひそめて、でも起きはしなかった。ほっとした私は、ななせの机の前にひざまづく。


 耳にキスすることに成功したので、次は頬。つやつやと白い桃のような頬。髪を耳にかけて、ななせの体に触れないように慎重に、これ以上ないくらいに慎重に、やわらかい頬にくちづける。白い産毛がきらきらと輝いていて、採ってきたばかりの桃のように瑞々しい。果実のようなシャンプーの香りに、くらくらする。

 起きないな、この子は。なんでこんなに、午後の明るい日差しの中で、健やかに眠ることができるんだろう。お日様の下にいるために生まれてきたみたいな子だな、と思った。ななせといると不思議な気持ちになる。意地悪したいような、いじめたいような、それでもななせの一番でいたい。矛盾している。


 最後に、と、瞼にそっと触れた。眉のあたりにくちびるを落とす。


 ななせの髪は驚くほど細くて、触るととてもやわらかい。ふわふわした眉毛も栗色で、どうしてこの子はこんなにかわいらしいんだろう。ふいにぱちっと音がして、ななせの目が開いた。淡い、緑がかった茶色の瞳。心臓がぎゅっと苦しくなって、慌てた私は思わずしりもちをつく。がた、と机といすの動く音。目の前にななせの顔。


「つづきは? ないの?」

 ななせがふっと微笑む。体を支えている手の上に、ななせの手がそっとかぶさって、私の肩にななせの髪が触れる、

 ちゅ、と音がして、あたたかくてやわらかい、弾力のあるくちびるが、私の口に、ふれる。ななせの指が私の指に絡みついた。

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