瓶の中の人魚 4


 夢を見ていた。夢の中で僕は一匹の金魚だった。頭上に巨大な影が浮かび、浮き餌がぱらぱらと水に落ちた。なぜかはわからないが、父さんだ、と思った。「ねぇ」母さんの声がする。僕は餌が水に沈み、落ちてくるのを待っている。「和人の養育費のことなんだけど」「うん」父さんの覇気のない返事。僕は耳をふさぎたくなる。でもふさぐ手がない。

「あの子私に懐いてるわけでもないし」

 母さんの声だ。

「そうやってまた逃げるのか」

 父さんが母さんに言う。

「逃げてるわけじゃないわ、ただその方がいいでしょう、合理的だと思う」

 私の稼ぎじゃ子供の大学進学の費用、捻出できない。父さんがため息を吐く。僕はこれ以上この部屋にはいたくないと思った。すると―――――


 ざぶん、と波の音がして、たくさんの気泡と一緒に僕の体も海の底へと引き込まれた。海の水はさっきよりも冷たい。潮水が染みるので、僕は目を開けることができない。そのうちだんだんと体が温かくなって、ふわふわと軽い気持ちになった。つんつん、と僕の肘に触れるものがある。恐る恐る目を開けると、思ったよりも沁みない。誰かの手が僕の腕をつかんだ。ふわ、と波の動きに合わせて長い薄青の髪が揺れる。彼女が指さす方向に光があった。でも僕はそっちには行けない、と思う。ど、ど、ど、と音がする。僕の心臓の音だろうか。淡い光が水の中に広がって白く照らす。足元を見ると、深い黒がどんよりととどまっていて、僕はただそこに落ちるのだと思った。


「こんなこともできないのか」父さんが笑う。日曜の公園で、買ってもらったカイトの糸を絡ませてしまった。父さんは糸を切らないようにそうっと絡まりを解きほぐした。僕は黙ってそれを見ていたけど、我慢できずに走り出してしまった。木の陰でセミを見つけて、手を伸ばすけど、もう少しで掴めるのに、届かない。僕はしばらく木の根元で飛び跳ねたりしていたけど、諦めて父さんのところに戻った。

 父さんは糸のよれたカイトを飛ばして、まぶしそうに眺めていた。


「あの子はやっぱりあなたに似ていると思う」

 母さんの声。僕は母さんより父さんが好きだと思った。


 目を覚ますと僕はやはり泣いていて、頬から伝った涙が顔と腕の間に溜まっており、冷たい。ふと水槽と見ると、人魚と目が合った。彼女も泣いている。涙を流していた。喉の奥がひりつくような、乾き。


「かなしいね」

 人魚に語り掛ける。水槽の中に手を差し伸べると、人魚は僕の手を避けるように、とぷんと水に飛び込んだ。


 窓の外は青みがかった太陽の光で照らされつつあった。黙っていると波の音が聞こえてきそうだ。でもガラス越しに音は届かない。僕は起き上がって出窓から外の景色を眺めた。暗く、青い海の果てから太陽が顔を出そうとしている。僕は水槽の方を振り返った。なぜか彼女はもうそこにはいないのではないかと思った。


 でも人魚はあいかわらず退屈そうに、水槽のガラスを手でなぞっている。



 僕は机の上に置きっぱなしだった瓶を丁寧に洗い、そこにもう一度人魚を詰めた。人魚はひどく抵抗したが、蓋を閉じるとものの数分で静かになった。家を出て海の方へと歩く。道路は静かで、人通りもほとんどない。もくもくと砂浜を目指した。


 人気のない浜で、静かに寄せる波がしずかに音を奏でている。僕は波打ち際にしゃがみ、瓶の蓋を開いた。朝の白い光が空を半分覆っている。掌の上に中身をあけ、透明な水にそっとさらした。驚いた顔で人魚が僕を見上げる。僕はぎこちなく微笑んだ。彼女を海に放とうと思う。

 人魚が僕の指先を掴む。初めての時のひりりとした痛みを思い出して、僕は思わず顔をしかめた。でも、彼女は僕の人差し指の先に優しく口づけて、僕を振り返って微笑んだ。そして柔らかく手を振り、音もなく水の中を滑るようにして姿を消した。途中、沖の方で一度だけ、小魚が跳ねたと思った。あれはもしかすると彼女だったのかもしれない。


 清々しい気持ちと、胸に穴の開いたような喪失感を持て余しながら、僕は緩慢に立ち上がる。強く踏み込んで、やわらかい砂浜に足をとられる。バランスを持ち直して陸の方を見ると、歩道を歩いている女性の姿が見えた。見慣れた顔だ、母だ。

「お母さん」

 僕は呼びかけた。大きく手を振るが、気づかれない。走り寄って、肩に手をかけてやっと、母は僕を振り返った。


「和くん」

 驚いた顔の母に微笑みかける。息が切れた。

「どうして?」

「早く目が覚めたから。散歩。母さんは?」

「私も同じ」

 泊めてもらってるおうち、あそこなの。と母は海辺の家を指さした。小さなカフェの隣の家だった。

「幼馴染のお店」

「ふうん」

 しばらくふたりで海のそばを歩いた。黄色い太陽が斜めから地面を照らしている。

「朝日って綺麗ね」

「うん」

 父親のことを声に出すのははばかられた。かといって他に話題があるわけでもない。気まずい思いを隠し切れないまま、母の斜め後ろを歩く。

「母さん結婚してからここに帰ってきてなかったでしょ」

「そうなんだ」

「思ってたより悪くない街だなって」

「ふうん」

「あなたは不満でしょうけど」

 不満? 不満と言っていいのかわからない、でも満ち足りてはいない。でもそれは場所でのせいでもなく、どこにいっても同じ気持ちだろうと思う。実際のところ満たされた気持ちになったことはなく、経験上、あったところでそれは長続きしない。場所や人に関わらず、僕はいつでも同じ気分だ。所在がなくて、憂鬱で、誰からも遠い。


 沈黙に耐え切れずに、言葉が口を突いて出た。

「もし、父さんが帰ってきたらどうする?」

「そうね……」

 母が足元の「ほろよい」の空き缶を蹴った。軽い音がする。父さんの話はしないと決めたはずなのに、結局こうだ、僕はやはり愚かだ。

「仕事放り出して、子供放り出して、奥さんほったらかして、何してるのって」

 殴る。と母は右フックを決めた。 僕は少しだけ笑った。

「あんた、顔色悪いよ。寝てないんでしょう」

「そうだよ。母さんも」

「そうね、もうずっとよ。でも昨日やっと少し眠れた」

 母が唇の端をほころばせる。悪戯っぽい笑みで。

「私何かしたのかな」

 笑顔はでも、すぐに曇ってしまう。だから僕は母の背中に掌を添える。だけど、言葉が出てこない。僕たちはもう何度もこういうやりとりを繰り返して、結局答えには永遠にたどり着けないことを知ってしまっている。母さんは僕を憐れむように、あるいは慈悲深い目で見て、言った。

「そろそろ戻らなきゃ。心配させちゃう」

「うん」

 母さんは僕に手を振る。僕も少しだけ振り返す。気恥ずかしいから、ごく短い間だけ。朝日はもう随分高くに昇っていて、僕は砂浜を後にする。人魚はもういない、空の瓶がポケットの中で、歩くたび揺れている。


 さようなら、僕は海を見て呟いた。

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