瓶の中の人魚 3

 動くだなんて、思いもしなかった。僕はただ、綺麗だから、持ち帰りたくなっただけで、まさか、そんな、僕はどこかおかしいんじゃないか? 頭がぼうっとして、夢を見ているみたいだった。というかきっとこれは。夢だ。


 ちく、と走る指先の痛みに、夢だと断じた心が揺らぐ。僕の指先を掴んだ彼女の力は思いのほか強くて、冷たかった。感覚が妙にリアルだ。人魚の髪を撫でる。従妹の人形の髪と違って、限りなく人毛に近いと思った。


 タオルで濡れた髪をぬぐい、学習机に備え付けて立った蛍光灯のスイッチを入れる。彼女は眩しそうに目を細めた。慌てて手で光を遮る。鱗が蛍光灯の光を反射してキラキラと光った。


 僕の掌の上で、人魚が体をひねる。けだるそうに上体を起こした。くすぐったい。両手を持ち上げて大きく伸びをする。

「おはよう」

 思わず語りかけた。人魚は小首をかしげて僕を見上げる。

「どこから、きたの」

 人魚は意に介さずといった感じで、きょろきょろと辺りを見回した。僕もそれに合わせて視線を動かす。母親が昔使っていたままの、時間の止まった部屋。色あせた雑誌や漫画の切り抜きが貼られた机、占いやお菓子のレシピを記した本。ほこりっぽい、褪せた部屋。

 嫌だ


 唐突に思い立って、机の上にあった母の私物を剥がし、ごみ箱に入れる。そのあいだ人魚はタオルの上に置きっぱなしだった。

 いらないものは押し入れに押し込み、部屋を片付ける、よくわからないけど、彼女がいるには似つかわしくない部屋だと思った。古びた道具と、日に焼けてすっかり色の褪せた本や写真に囲まれた中に、彼女を置いておきたくない。目についたものを片っ端から片付けた。この部屋に足を踏み入れた瞬間に感じた、母の思い出への遠慮みたいなものは、一切捨てて、僕の頭の中にあるのはただ、美しいものだけを彼女に見せたい。という気持ちだけだった。

 

 それでも、いくらものを押しのけても古臭い部屋は一向にきれいにならなかった。容赦なく陽が翳りゆく中、蛍光灯の灯りだけが室内を照らしている。ふと机の上の人魚と目が合う。小さくて、なんて繊細なつくりをしているんだろう。手荒に触れたら壊してしまいそうで、怖かった。


 あ、でも。ふと思い至る。人魚はさっきから置かれた場所から動かない。というか、動けないのではないだろうか。


 水


 みず、と思ってタオルを掴んで慌てて階段を降りた。古い家の階段は急で、少し慌てると足を踏み外しそうになる。そのまま洗面所に駆け込み、白い陶器のシンクに水を張った。焦っているのでシャツを水で濡らしてしまった。少しだけ水の勢いを落とす。早く溜まらないかと気持ちだけがはやる。


 なみなみと湛えられた水に安心して、タオルをそっと開く。人魚がぐったりしている。僕はそうっと人魚をつまみ上げ、しっぽの先の方を水につけた。

 薄い膜状のヒレが、水の中で花開いたように見えた。ぱしゃん、と人魚が水面を尾ひれで叩きつける。蛇口から流れ出る水を止め、僕は流し台に人魚を放った。す、と細い体が水の中を滑る。髪の毛が水の流れに少し遅れて広がる。

「うわ……」

 綺麗だった。タオルの中に横たわる姿の何倍も、綺麗だった。優雅で、非の打ち所がないような美しさ。僕はただぼうっと、人魚の泳ぐ様を見ていた。陶器に落ちた影が揺れる。

 しばらく泳いで疲れたのか、彼女は仰向けに浮き上がって天井を眺めた。


 どうも水の中の方が居心地が良さそうなので、海で貝を拾った、飼育したいのだけどよい容器はないだろうか、と祖母に尋ねてみた。

「紀子が昔使っていたのがあると思うんだけど」

 階段の下の物置を漁りながら祖母が言う。昔、母が縁日の亀をその中で飼っていたのだそうだ。亀は水替えのときに逃げ出してしまい、それっきりだという。物置の奥から引きずり出された水槽は、思いのほか大きかった。


 蜘蛛の巣がはった大きな水槽を、浴室で洗いながら、底にビー玉でも敷き詰めらた綺麗だろうなぁ、と思った。

 そこで、トイレの流しに置いてあったアクリルの置物をいくつか拝借して、流しにいるはずの人魚を迎えに行く。人魚は髪を洗っている最中だった。僕に気がついて慌てて水の中に潜る。

「怖くないよ、へいきだよ」

 そう話しかけながら、僕は来た時と同じようにタオルで彼女の体をそうっと包み込み、水槽を置いた部屋へ急いだ。


 水槽の中に人魚を放つと、まるでこの世のものではないみたいに綺麗だった。瓶の外側から眺めていたのとは違う。ガラスを隔てて人魚が優美に泳いでいる。

 亀の天日干し用だろうか、大きくて角のある、多孔質の黑い石。人魚はときどきそこに乗り上げて座り、ぼうっと窓の方を眺めている。そしてまた水の中に飛び込み、浮いたり沈んだりして、石に体を預け眠る。


 


 気がつくと辺りは暗く、夜空は静かに星々を湛えていた。水槽の中の人魚を見ながら、うとうととまどろむ。僕は祖母の作ってくれた大量の唐揚げを無理やり押し込んだせいで、胃もたれをおこしていた。母は旧い友人の家に行っていて帰らない。僕は慣れないベッドで眠れなくて、机の上に伏して、寝ては、起きてを繰り返していた。

 

 この家に来た時母は祖母と寝ていた。なんだろう、その時僕は、何とも言えない気持ちになった。気持ち悪い、違和感がある、居心地が悪い。わからない、五十を超えて自分の母親と一緒に眠る母の気持ちが、わからない。ただぼんやりと拒否感を感じる。嫌だと思う。

 顔の側に置いた水槽のガラスがひんやりと冷たかった。人魚は石の上に腰かけて、細い声で歌っていた。なんて言っているのかはわからない。でもとても、心地いい声だ。今まで聞いたどの言葉とも似ていない。甘く、せつない歌声。


 窓の外にはちょうど月が出ていた。淡い光に照らされて人魚の顔が暗闇にはっきりと浮かんでいる。声が一層高くなって、叫ぶように嘆くように押し寄せてくる。気がつくと僕の目から涙がこぼれていた。絞り出すような歌声に涙があふれて止まらない。悲しいわけではなかった、ただ胸が締め付けれられるような思いがする。苦しい。


 しばらくして水音が聞こえた。僕は目を閉じ再びまどろみながら、きっと人魚が水に潜ったのだと思った。


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