瓶の中の人魚 2
誰かに見つからないか、ひやひやしながら祖母の家へ戻った。あの子供もきっと、今の僕と同じような気持ちだったに違いない。見られてはいけない、尋ねられてはいけない。
「お帰り」
祖母が結いあげた髪をなでながら、微笑む。美容院に行ったのだろうか、前髪にパーマがあたっていた。
「ただいま」
僕はぎこちなく微笑む。
「おやつ、こんなものしかないけれど。男の子がどんなものを食べるかなんて、なにせこの家に子供が来るなんて久しぶりのことだから」
祖母は机の上を見た。机の上には、ポテトチップに、カップ焼きそば、菓子パンやパックに入った和菓子が並べられている。
「うん、ありがとう。宿題があるから、後で食べるよ」
「ごめんね、何もないところで。塾だって遠くて、お前の母さんだって」
「大丈夫だよ、こんなに海が綺麗な場所、他にないよ。勉強なら勝手にやるから、心配しないで。ほら、これ。有名予備校の授業を配信してくるアプリ。こういうので、なんとかなるよ、きっと」
僕がスマホを繰ると、祖母はくすぐったそうに笑った。実際ほつれ毛がくすぐったかったのかもしれない。しきりに髪をなでている。僕は早く部屋に引っ込みたくて仕方がない。
「あとで飲み物とお菓子を持って上がるから」
うん、とだけ言って、階段の方へ走った。ずっと、ポケットの中の瓶を握りっぱなしだったからか、はじめは冷たかった感触が、すっかり温くなっている。不安に思いながら居間を出て階段を上った。古い家のにおい、僕に馴染みのない、家の香り。
部屋に入って中から鍵を閉めた。母が昔使っていた部屋。机と本棚だけが残されている。ほこりをかぶった児童文学全集。百科事典。サンリオのキャラクターのシールが貼られた本棚は、日に焼けて色が変わってしまっている。カーテンは祖母が捨ててしまったのだろう、残されていない。母の部屋からは容易に海を望むことができた。遮るものが何もない、高台の真下に広がる海。
僕ははやる胸を押さえた。ポケットから瓶を取り出す。中には人魚が浮いていた。本物だろうか、怖い。長い髪が海草のようにゆらゆらと揺蕩っている。綺麗だ、と思った。
おそるおそる、瓶の蓋を握る。回そうとすると、硬くてなかなか動かない。子供が落とした際に、口を歪めてしまったのかもしれない。やっとのことで少し蓋が緩んだ、そう思った瞬間、ドアノブをガチャリとひねる音がした。慌てて学習机の引き出しの中に瓶をしまい、ドアの鍵を開ける。内鍵は母がつけたものだろうか。
祖母が差し出したプレートを受け取って、僕は扉を閉めた。勉強をしている様子がないことや、制服のままでいることに触れられないかとヒヤヒヤしていた。汗をかいたグラスに麦茶と、白い無地のお皿にポテチの袋と菓子パンが乗っている。勉強をしている孫のためを思って用意してくれたものなのだと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
母は結婚してから実家とは疎遠だった。結婚を祖父に反対されて、それ以来会う機会を設けなかったようだ。祖父は数年前に事故で他界したと聞いた。その時やっと僕は、母に連れられ、この場所にやってきた。僕の姿を見て、祖母は泣いた。母も泣いた。僕だけが置き去りだった。
受け取ったプレートを机の上に置いた。それから、そうっと引き出しを開け、瓶を取り出す。傾いた西日が窓から射し込んでいる。緩んだ金属の蓋を力を込めて捻る。中の液体が傾いて、長い髪がふわりと揺れた。
鞄の中からスポーツタオルを取り出し、机の上に広げる。瓶の蓋を取り除き、中から人魚の体を掬う。折れそうな背骨の下に人差し指を差し込んだ。かるい。肩のあたりをつまむようにして、引っ張り出した。ぐったりとした体、伏せられた目、死んでいるのかもしれない。
僕はタオルの上に彼女の体を横たえた。タオルで挟み込むようにして水けをとる。淡いエメラルドグリーンの髪の毛、真っ白な肌、好きお通るように青い尾。けぽ、と彼女の口から水が漏れた。うごいた。
あわててうつぶせにして、背中を何度か指の腹でたたく。たんたん、と乾いた音がして、げほ、という声がした。ぬらぬらとしたしっぽが光っている。タオルに剥がれたうろこがへばりついている。薄くて、透明で、きらきらとまぶしい。
指先に鋭い痛みが走った。人魚の細い指が僕の指に食い込んでいる。長い髪の間から、赤い目が僕を見た。
僕は椅子に倒れ込むようにして背を預けた。
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