第二短編集:小瓶のなかみ

阿瀬みち

瓶の中の人魚 1

 電信柱に錆が浮いている。肌にまとわりつく潮風がじっとりと重かった。鼻につくのは、魚が腐ったような、あるいはそれに群がった海鳥の匂い。濃密な生き物のにおいだ。ぼくはこの町があまり好きではない。小さな漁港に並んだ、こじんまりとしたいくつもの漁船。エンジンオイルのにおいと、波が船を揉むちゃぷちゃぷという水音。


 砂浜に降りると地面に草が生えていることに気づいた。小さくて丸い朝顔のようなつる性の植物。ぼくはこの花の名前を知らない。でもこんなに風が強くて海の近くの砂浜にも植物が生えるのだと思うと、なんだか感心してしまう。強い。


 父が蒸発した。誰に聞いても足取り一つつかめない。母にとっては晴天の霹靂だったようで、しばらく寝込んでしまうほどだった。僕から見て、夫婦仲の悪いようには見えなかった。周囲からの評判も悪くはなかったようだ。父は真面目だし、無口だけど誠実だ。

 でも、消えてしまった。残されたスマホを見ても、怪しげなやり取りはなかった。若い愛人がいるとか、不審な様子は一切ない。つまらないくらい、仕事のやり取りばかり。

 人って簡単にいなくなるんだな、と思う。一向に体調が改善しない母は、勤めていたデパートを辞め、実家のある海沿いの町に僕を連れて舞い戻った。今日は幼馴染の家に泊まりに行くのだという。僕は慣れない通学に疲れ果てて海を見ている。見慣れない景色のはずなのに、どこか懐かしく感じるのはなぜだろう。波音が耳に冷たかった。


 父親のことを思い出す。今となってはとても遠い人に思える。自分は父のことを何一つ知らなかったのではないか? そんな気がする。

 朝起きると父は母の拵えた朝食を口に運び、食卓に置いてあるラジオで経済ニュースをチェックする。僕は為替なんかは新聞の記事を読んだ方が、ラジオで聞くよりよほど効率がいいのではないか、と思うのだけど、父は気にしない。食事を摂りながら聞けるのがいいのかもしれない。僕が着替えを終え、食卓に着くころに、父は家を出る。毎日時計仕掛けの様に同じ時間に家を出た。雨の日や天候が荒れている日は、普段よりも早い電車に乗るから、顔を合わせることもない。僕は父のことを、真面目で実直な人だと思っていた。でも違ったのかもしれない。父には僕の知らない顔があったのではないか。それがどんなものなのか、怖いような、知りたいような、曖昧な気持ちで、僕は足元にあった石を海に投げる。


 石は海面を二度跳ねて、ぽちゃんと沈んだ。表面に波紋だけを残して。


 新しい中学のクラスは居心地があまり良くない。もともと小さな小学校が幾つかまとまって一つのクラスを形成している。すでに派閥のようなものがあって、僕みたいなよそ者が入り込む隙間はほとんど残されていなかった。品定めをするような、鋭い目つきも、不快だ。


 浜風で吹き寄せられた砂地は、強く踏むと一層足をとられる。無性にむしゃくしゃした。

 

 浜辺に伏せられたボートの影で、不意に人影が動いた気がして、目を奪われる。小学生くらいの子供だった。目が合う。子供のポケットから何かが滑り落ちる。ごとり、と音がした。次の瞬間子供が急に体の向きを変えて走り出した。

 そんなに怖い顔をしていただろうか。一目散に逃げだした子供の背中を見ながら、自分の顔に触れてみる。それにしても、あの子供、何か落として。


 ボートに歩み寄る。船底に水が溜まっている。汚い。子供はボートとボートの隙間に立っていたようだった。なにかいたずらをしていたのかもしれない。それで、見つかったことを恐れたのかも。

 色褪せたボートの横に、ジャムの入っているような、無骨な瓶が落ちていた。ごとり、とあの子供が落としたのはこの瓶だっただろうか。拾い上げる。ちゃぷん、と中の液体が揺れた。


 ベタの尾ひれの様に薄く優雅に広がる尾。キラキラと輝く深い青のヒレ。


 あ、


 声にならない声が口から洩れた。瓶の中に浮いていたのは、小さくてか細い人魚だった。

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