虎退治四日目

「兄ちゃん、昨日の夜何してたの?」

いつもの朝、いつもの登校中、なんの脈絡もなく、おそらくそれまではわさびの辛さは耐えられるが、唐辛子系の辛さは耐えられないというような会話をしていたと思うのだが、そんな文脈は全く無視して、妹が言った。

「いやー、いつも通り塾でバイトしてたけど?」

俺はなるべく感情が入らないように、普段通り話すように努めた。

「嘘だ」

「なんでわかんだよ」

「GPS付けといたからね」

「こええよ! どこの世界に、実の兄の行動を把握するためにGPS付ける実の妹がいるんだよ!」

実の妹の行動を把握するために、GPSを付けそうな実の姉には心当たりがあるけれども。

「嘘嘘。別に兄ちゃんが何してるかなんて知りたくないし」

どないやねん。

「でも、夜中トイレに起きたときに見ちゃったんだよねー」

「……」

終わった。

「まあ、何してるかは知らないけどね」

繋がった。首の皮一枚繋がったという感じ。

「でもさ、兄ちゃん」

「なんだよ妹」

俺は、脅かされたり安堵させられたり、気持ちをかき乱されて、もう何が何だかわからないテンションになってきた。もう疲労困ぱい。

そんな俺に、妹はこう言うのだった。

「一人で抱え込まないでね? お金に困ってるなら、私も体張って頑張るから!」

グー。妹は、清々しい笑顔でサムアップした。


どうやら、俺は妹に、とんでもない勘違いをされているらしかった。というか、たとえ俺がお金に困っていたとしても、実の妹に張ってもらう体なんか一つもねえよ。そんな兄貴はとんでもない鬼畜野郎だよ。

嘆息。

「神之倉先輩、どうしたんですか? 何かあったんですか?」

駅前。市電と呼ばれる路面電車の乗り場。俺と北沢は、大学前行きの電車を待っていた。

「いや、まあ……な。色々あったんだよ」

嘆息。

「神之倉先輩? 私は先輩の悩みを聞くために呼ばれたんでしょうか?」

そう、俺は早朝起きるとすぐに北沢にLINEして、いつもより早めに駅に来るように、とお願いしておいたのだ。それはあっているのだが、目的は違う。

「いや、俺のことは何でもいい。お前に言っておきたいことがあってな」

そう言いながら、がっくりとうなだれる俺。

「神之倉先輩、これあげるんで元気出してくださいっ」

「ありがとよ……って、これバナナじゃねえか! いつまで、ゴリラいじりされなきゃならねえんだよ、俺は」

「私が飽きるまでですよっ」

「さいですか」

もう俺は諦めたよ。一回のミスがどれほど重大な影響を及ぼすのか、学ぶ機会だと割り切ってな。まるで、ニュース番組の編集で、失言の部分だけが切り取られ、繰り返しその部分だけを放送される政治家の気持ちだった。あのおっさん達も大変だな。

「っていうかですね。神之倉先輩と話していると、いつも本題に全然辿りつきませんっ。早く話を進めないといけいないのに!」

まるで、外側からの圧でもって、話を進めることを強いられているかのような物言いだった。だから、なんで話を進めなきゃいけないんだ? どいつもこいつも先を急いで。こいつらは何かに追われているのだろうか?

「では、どうぞっ、神之倉先輩! 私に言いたいことを、発表してくださいっ」

どぅるるるるるるる、と器用にも巻き舌を駆使して、ドラムロールを奏でる北沢。

ああ、やりづらいなあ、もう。

どぅるるるるるるる、じゃん。と、北沢のドラムロールが止まる。言え、という合図。

「第一位は! 金曜日!」

「パンパカパーン! ……って、神之倉先輩。それなんの話ですか!? それは、好きな曜日ランキングの映えある、名だたる一位が金曜日、ということですか? 確かに花金と言われるくらいですから、そのランキングの結果に異議はありませんが、そのランキングに意義はあるのですかっ? そもそもどこ調べなんですか」

ランキングの存在自体に異議を唱える北沢だった。畳み掛けるような質問それらに対して、北沢が納得のいくような返答をできる自信はないが、ただ一つ確実に言えることは、このランキングはどうでもいい、ということだった。

「で、一つお前に言っておきたいことがあるんだが」

北沢の質問には完全無視を決め込んで、話を切り出す。

北沢は、はい、と返事をして、身を強張らせた。どうやら、ちゃんと俺の話を聞こうという気は無かったわけではないらしい。ともすると、ここまで本題に入れなかった原因の一端は、俺にあるのかもしれなかった。反省しよう。

「北沢、あの手の手紙が届いたのは、一回だけなのか?」

俺は率直な疑問をぶつけた。たった一回限りのものと、継続的に行われているものとでは、だいぶ印象が変わってくる。しかして、北沢の返答は、印象の悪い方のものであった。

「いえ、初めてあれが届いた日から毎日です」

北沢は伏し目がちにそう答えた。

と、なると、北沢の妹、菜奈ちゃんも相当気に病んでいるのかもしれない。もしかしたら、学校へ行くのが辛くなってさえいるのかもしれない。

俺は元々伝えるつもりだった言葉を、元々思っていたよりも、強い気持ちで伝える。

「北沢。妹のこと、しっかり守ってやれよ」

そう言うと、北沢はにっこりと笑って、胸を張る。

「まかせてくださいっ。菜奈は私の大事な大事な妹ですから! 死ぬ気で守りますよ」

死ぬ気で守りますよ、というその言葉を言ったときの北沢の顔は、妹のためなら本当に死ぬんじゃないかと思わせるような、鬼気迫るようなそれだったが、裏を返せばそれは頼もしいということだろう。ここは、そういうことにして、安堵しておこう。菜奈ちゃんのことは、北沢に預けて、俺はこの事件の原因となっている少女、星野凛花の方をどうにかせねばならんのだから。

場内アナウンス。大学前行きの電車が、一つ前の駅を出たという知らせ。俺と北沢は、その電車の到着を待つ列に加わった。


「はあ、倉っちは本当に賭け事に弱いねえ」

「奢ってやってるんだから、余計なこと言うな。金取るぞ」

「幼気な小学生から金を毟り取ろうだなんて、あなた本当に人間ですか?」

「悪いけど、これでも人間だよ。これこそが大人だよ。っていうか、お前は幼気というより、イタイ小学生だ」

「あーー、失望しました。倉っちのせいで、世の中の大人という大人を信じられなくなってしまいました。生きていく希望を失いました。責任を取ってください」

「責任は取るものじゃない、被せるものだ」

「私の前から消えてください。この人でなし」

愉快な会話だった。これが、大の大人と、小学生女子によって繰り広げられているのだから、こいつの言葉じゃないが、世も末だと思った。いや、二日連続で女子小学生に奢らされている大人は、大人として換算していいのかという立場に立てば、案外正常で健全なやりとりなのかもしれなかった。

ここで、こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、俺の名誉の為に言わせてもらうと、俺は今日わざと、こいつとの賭けに負けてやったのだ、ということを承知しておいてほしい。それで、何故わざと負ける必要があったのかと、もっといえば、何故こいつと塾の外で二人きりになる必要があったのかというのは、まあ、これからのやり取りを見といてくれ。

「まあ、なんでもいいさ。ようやくお前と二人きりになれたんだ」

「倉っち、何で、にやにやして私たちが置かれている状況を再確認するようなことを言う必要があるの?」

「おい、誤解を招くような表現をするな」

いや、誰の誤解を招くのかわからんけれども。なんか、外側から誰かに見られているような気がしたんだよな。あいつらに影響されたかな。

まあ、いいさ。誰が見てようが、どんなことを思われようが、俺の目的が達成されるためなら、それはほんの些細なことだ。これから俺が言うことを聞く人は、子供相手になんてことを言う奴だと、俺を酷く批難するかもしれない。それが子供を相手にする大人のやり方かと、遠い目で見るかもしれない。でも、俺の前で困ってるやつがいるなら、どうにかしてやらないといけない。もし見て見ぬ振りをしたり人任せにするようなことがあれば、それこそ、俺は俺自身を非難しなければならなくなる、遠い目を自分に向けることになる。自分で自分を許せなくなる。

「星野凛花、よく聞けよ」

小学生女子は、突然のフルネーム呼びに、驚き、体を強張らせる。先ほどまでの和やかな雰囲気が、その瞬間に消え失せる。

「お前、ここのところ、北沢の、菜奈ちゃんの家に、妙な手紙を投函してるだろ」

俺はなんの婉曲表現も使わず、オブラートに包むこともせず、そう断定した。断定した。相手の返答なんか待たず、そう決めつけた。

しかし、彼女は当然のことながら、おいそれとは認めようとしない。すっとぼけたふりをする。

「な、なんのことかなあ」

それが、彼女にできる精一杯の抵抗だった。

「お前は本当に分かりやすいやつだな。まあ、子供はそれでいいんだ。それが子供らしくていいんだよ」

そういうと、彼女が歯ぎしりをしていることがわかった。子供扱いされて、見透かされて、悔しいのだろう。

「っていうか、なんで決めつけんのよ。証拠を出しなさいよ、証拠を!」

いや、その台詞、完全に犯人のそれじゃん……。

「何から話したものかな」

女子小学生相手に、追い詰めるような真似をしたくないが、認めないというのなら仕方がない。そうだな。

「お前はここのところずっと、授業中に愚痴をこぼしていたな。うざい、うざい、と。そして、昨日? だったかな、お前は俺に教えてくれたよな。菜奈ちゃんとうまくいってない、と、それでお前は手紙を投函した」

「ち、違うよ……! 菜奈ちゃんに、そんな悪いことしたりしない!」

「どうだかな」

俺は、リュックサックの中に仕込んでおいた最終兵器を取り出そうと、手を突っ込んで無造作に探る。そして、俺はそれをやつの鼻先に突きつけた。今朝、北沢から預かってきた、あの手紙を。こいつ自身が投函したこの手紙を。

「こいつに見覚えがあるか? ない、なんて言えないよな?」

彼女は、その手紙を目の前にして、肩をびくっと震わせた。予期していなかったことなのだろう、目も泳がせて、気が動転していることは明らかだった。

「そ、そんなの。そんなの、みたことないっ」

渋面を作り、泣き出しそうになりながらの必死の抵抗。しかし、それは、肉食獣に襲われ、噛みつかれ、すでに肉を引き千切られていながらも、最後の命を振り絞りもがく、草食動物のそれだった。もはや、時間の問題だった。

「こんなことはしたくないが、お前に認めてもらわなきゃ仕方ないんだ。菜奈ちゃんはな、俺の可愛い後輩の、可愛い妹なんだよ。妹のこととなると、あの後輩は自分のことのように、自分のこと以上に悩んで苦しむんだよ。俺はそれを見ていられない」

そして、俺はポケットを探り、一片の紙を取り出した。それは今日、授業で実施した小テストだった。

「この『死ぬ』という字。この手紙のものと同じ筆跡だ。騙すようなことをして、悪かったと思ってるよ」

果たして、「死ぬ」という字をこいつが習っているのか、習っていないのか、こいつの学年に適した問題なのか、そうではないのか、定かではなかったが、しかし、この場面においては効力を発揮したらしかった。

彼女は、肩を震わせ、両のこぶしを力一杯握りしめて、何かに耐えていた。それは、涙なのかもしれないし、怒りなのかもしれない。それは分からなかったが、俺が提示した結論を彼女が認めた、という瞬間だった。

実を言うと、こいつに話を切り出すまで、八割型見当がついていたとは言え、状況証拠のみで、百パーセントの確信は持てていなかった。しかし、最初の質問で全てがはっきりした。こいつが北沢の家に悪質な手紙を投函した、というのはどうしようもなく確定してしまった。なぜなら、俺は妙な手紙、と言っただけで、それが悪質な手紙とまでは言及していなかったのだから。

「頼む。認めてくれ。そして、こんなことはもうしないと、約束してくれ」

俺は必死にお願いした。やめろ、と命令するでもなく、やめるよな? と良心に訴えるでもなく、お願いした。それが、子供を、いや、一人の人間を追い詰めた、俺にできる唯一のことだった。

彼女は、先ほどまで力ませていたこぶしを緩め、重い口を開く。

「倉っち、認めるよ。もう手紙を出すのはやめる」

そう言って彼女は、帰り道の方に一歩を踏み出した。かと思えば、ぴたっと止まり、こちらを振り返る。

「でもね、倉っち。間違ってることがあるよ。私は、あの手紙を、菜奈ちゃんじゃなく、お姉さんに出したんだよ」

そう言い残して、彼女は雨の降る中を、傘をささずに歩いて行った。俺は、そんな彼女に傘をさしてやることも、声をかけてやることさえ出来ず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。


間違っていた。俺は、俺の考えは、どうしようもなく間違っていた。完全に誤解していた。そして、その間違った推理とも言えないような推論を、一人の小学生女子に押し付けた。彼女は、大人という暴力の前に、反論することもできず、言われたことを全て飲み込んだ。そして、最後に言った。「あなたは間違っている」と。

「虎の子」

酉井は呟いた。

時刻は、一〇時半。先ほどのことがあって、すぐのことだった。いつもの集まる時間からすれば、まだ夜は浅く、民家の明かりも多くがついていた。

「虎の子やな。昨日、神之倉はんから話聞いてから、ちょいと調べてみたんや」

俺は黙ってその話を聞いていた。何か意見を挟むような、そんな余裕はなかった。

「そしたらな、こんなこの状況にぴったりな言葉があるか!? っちゅうくらいのやつを見つけたんや」

酉井は一呼吸置いて、先ほどの言葉を繰り返す。今日は、夕方雨が降るらしい、くらいのそんなお気楽な感覚で、こう話す。

「虎の子。なんでも、虎はその子をえらくかわいがるところから、大切にして手放さないもの。秘蔵の金品。っちゅう意味になるらしいで」


虎の子。俺はその言葉を反芻した。そして、自嘲した。何が、虎の威を借る狐だ。大人にもなって、なんて安直な考えだったんだろうか。

俺は、今日の仕事は酉井に任せて、一人北沢の家へと向かっていた。あいつが寝てしまう前に話をしたい。もう何日もあの虎を始末できないでいる。眠ってしまってからでは、手遅れになる可能性がある。あいつが眠る前に、摩物が現れる前に、本人に働きかける形で、解決をしなければならない。

こんな早い時間から、人に見られる可能性が非常に高いこんな時間から、箒に乗ることはできない。俺は、酉井の自転車を拝借して、大学を後にし、北沢の家へと向かう。

虎の子。《虎はその子を非常にかわいがるところから》大切にして手放さないもの。秘蔵の金品。スマホで調べると、一番上のサイトにそう書かれていた。こんなにぴったりな言葉も他にない。まさしく酉井の言う通りだった。

妹のことが大好きな姉。狂おしいほど、狂ったように溺愛する姉。妹を手放そうとしない姉。あの小学生は俺にそう言っていたじゃないか。訴えていたじゃないか。最近、菜奈ちゃんと遊べていないんだ、と。そして、あの女子小学生が、元気だった昨日、菜奈ちゃんと久しぶりに遊んだと言っていた昨日。その日、姉はどこで何をしていた? 俺と会っていたじゃないか。

北沢は、大事にするがあまり、愛するがあまり、妹を独占し、妹が友達と遊ぶことを、禁じていた。

北沢の妹が、菜奈ちゃんが、それに対してどんな気持ちを持っていたかはわからない。でも、それでも、菜奈ちゃんがあの小学生と仲のいい友達であったことは、間違いない。少なくとも、あの小学生にとって、菜奈ちゃんは、かけがえのない友達だった。お姉さんに取られて、酷く嫉妬してしまうほどに、大好きな友達だった。それは、紛れも無い真実だと、俺は自信を持っていえる。毎日のように、比喩ではなく事実毎日のように顔をつき合わせている俺にはわかる。

問題を抱えているのは、俺の教え子でもなく、その友達でもなく、俺の可愛い後輩、北沢花菜、その人だ。高校生にもなって、妹離れできない、一人の姉だ。

「ったく。妹がそんなに可愛いのか? 全然わかんねえよ」

完全に八つ当たりだった。全く見当はずれな考えをし、苦しんでいる小学生を追い込んだ、自分に苛ついた。

俺は、その怒りと、北沢はもうすでに寝てしまっているのではないか、という焦りに任せて、自転車を漕いだ。大学前の大通りを抜け、橋を渡り、市街地に出る。地方都市にしてはわりと高いビルが並び、その間を路面電車が走っている。俺はその路面電車を追い越さんばかりのスピードで、ペダルを回した。ビルの明かりはほとんどが落ち、駅前に近づくにつれて、飲み屋の明かりが増えてくる。平日だということもあって、そんなに多くはないが、数組の飲み屋帰りのサラリーマンとすれ違ったところで、駅が見えてくる。地下道を通って、北側に出るとそこはオフィス街で、その間にまばらに民家が見える。その中の一軒が、俺の可愛い後輩の家であり、教え子の友達の家であった。俺はその件の家の前に自転車を止めた。自転車は疲弊したかのように、その場に横倒しになった。

呼吸が乱れ、汗が止まらない。こんなことは、高校の部活以来だ。シャツの袖で汗をぬぐい、呼吸を整える。

二階の一室、いつも虎が入っていくその一室は、既に暗くなっていた。果たしてその一室が北沢のものなのか、それとも妹と共同の部屋なのかは分からなかったが、いずれにしても、虎の子の御神体は就寝していることを表していた。制限時間終了。タイムオーバー。

「くそっ、なんであいつ、高校生にもなって、そんな規則正しい生活してんだよ」

普通なら褒め讃えるべきところだったが、今日に限っては、その限りではなかった。

グルルルォオ。俺の頭上から聞こえる獣の唸り声。突然の襲来に身体が強張る。威嚇。その類の言葉がしっくりくる、重々しく低いその雄叫びに、錆びたロボットのような動きでその声のする方を見上げる。

と、そこには、予想に反して、予測に反して、小さな子虎が一匹、愛くるしい表情でこちらを見つめていた。

「なんだ、お前、まだ小さかったんだな」

胸をなでおろす。てっきり俺は、もう成長して成獣になってしまったのかと思っていたのだが、どうやら杞憂に……。

「なっ……!」

グルォォオオオ!! 威嚇。雄叫び。咆哮。もうそんな言葉はどうでもよかった。その獣の声になんという名称を用いようが、表しようのないその唸り声とも、叫びともつかない音と共に、屋根の上から現れた……巨大な虎。もう、普通の大人のサイズは通り越して、像の巨体と比べてもどちらが大きいか、というくらいの大きな虎。眼光鋭く、こちらを睨みつける。

ーー殺される。

俺は倒れた自転車を起こし、わけもわからずまたがって、漕いだ。とにかく漕いだ。どこに向かっているかもわからず、一目散に漕いだ。虎は追ってきているのか、それともそうではないのか、そんなことは確認することもせず、その場から離れた。とにかく遠いところへ、安全なところへ。

虎は、二匹いたのか。なんで二匹? あの巨大な虎は一体なんだ? 今回の一件は、「虎の子」じゃなかったのか? なぜ大人の虎が。問題を抱えているのは、北沢。その摩物が、子虎。そして、あの大人の虎は……。

「そうか……!」

ーー虎の子。なんでも、虎はその子をえらくかわいがるところから、大切にして手放さないもの。秘蔵の金品。っちゅう意味になるらしいで。

虎の子は、可愛がられる方だったんだ。大切にして手放さないもの、それが子虎。それは、北沢の妹、菜奈ちゃんだ。そして、あの巨大な虎。大人の虎といっても、あの大き過ぎる虎は、北沢だ。どれだけの時間が経てば、あんなに大きくなるんだ。あんなに大きな摩物、見たことがない。もう、手遅れなほどに手遅れ過ぎる。北沢はもう、あの虎に飲まれている。

街頭に照らされた足元を、影が覆う。そして、その影は前方に移動し、俺の行く手を阻んだ。

巨大な虎。四足のたくましい脚で立ちはだかり、俺の行く先をふさいだ。

「オイ、神之倉ァ」

俺は耳を疑ったが、たしかにその声は虎のものだった。いや、声と言ったが、耳で聞いているというよりは、頭に直接響いてくる感覚。いずれにしても、何故かこの虎は、俺の名前を記憶している。

「オレサマノシュジンニ、ヨケェナコトシテンジャネェョ」

いつのまにか、遅い時間になってしまったのだろうか。人気はない、車通りもない。線路沿いの道で、俺と虎、一人と一匹が向かい合っていた。

「シュジンニカカワルナ。ソシテ、オレニモカカワルナ」

強い口調だった。どうしようもない拒絶。取りつく島もない拒否。それ以外に選択肢はない、ということを暗に表していた。しかし、俺はそれ以外の選択肢を選ぶ。

「断る」

虎はすぐには返答しなかった。その代わりに視線で訴えていた。その選択を撤回しろ、と。

俺がそれに応じないでいると、かったるいといった態度で、虎が口を開く。

「ソウカ。ナラーーコロス」

言うが早いか、虎はこちらに猛進してくる。雄叫びを上げながら、躊躇なく、突進してくる。

速い……!

俺は跨っていた自転車を捨てて、横っ飛びした。柔道の前回り受け身の要領で、立ち上がる。俺の元いた場所を見ると、虎が酉井の自転車を口に咥えていた。車体が折れる音がして、虎の口の両端から、前輪と後輪が別々に、アスファルトの地面に落ちる。

「うそだろ……」

酉井になんて謝ればいいんだ。などということが頭をよぎる隙は一つもなかった。いやあ、すまん! お前の二輪車は、一輪車になっちまったよ! なんて、発想は全く浮かばなかった。俺はただただ、原型を留めないその自転車を見ていることしか出来なかった。

「ナゼ、ソコマデシテ、シュジンニカカワロウトスル?」

虎はこちらを向いて言った。ホレテンノカ? と、軽口を叩く虎。そんな冗談に付き合ってる余裕があると思うか?

「俺は、自分で自分に納得できないんだよ。あいつを放っておく自分が許せないんだよ」

俺はいつも酉井に言うように、いつものごとき調子でそう言った。

虎は、ナルホドと言った。

「ツマリ、オマエノエゴ、トイウワケカ。ニンゲンハヨクブカイナァ。オマエモ、シュジンモ」

呆れた様子の虎。真っ二つになった自転車の前輪を、猫が毛糸玉で遊ぶように、持て遊ぶ。

「それを言うなら、お前もじゃないのか?」

「オレサマハ、シュジンノノゾムコトヲシテイルダケダ。ムシロ、タニンオモイダゼ」

そんなことをへらへらと言う虎。よく、ペットは飼い主に似る、というが、お喋りなところは北沢そっくりだった。もっとも、北沢と虎の場合、どっちがペットでどっちが飼い主なのか、もう分からないところまで来ていたが。

「マァ、オレサマトシュジンハ、モハヤイッシンドウタイダカラ、ソレモマタエゴナノカモシレンガナァ」

ハハハ、と快活に笑い飛ばす虎。何が面白い。全く笑えねえぞ。冗談にしては、タチが悪過ぎる。

北沢の妹コンプレックスは異常だ。病気と言ってもいい。でも、元々の原因は些細なことだったはずなんだ。それが、ここまで成長してしまった。妹との仲を邪魔するものは殺す、と言うまでに、その想いは大きくなってしまった。そして、その想いは北沢を支配し始めている。いや、おそらく、もう支配されている。自分ではコントロールできないほどに。

「どうやら、お前を消し去るしか、方法は無いみたいだな」

俺は、虎を睨み返す。完全に強がり。空元気だった。それでも、それしか方法がない以上、覚悟を決めるしかない。

商売道具の箒は、どうやら無事なようであったが、傘を持ち運ぶが如く、自転車の後輪に差して来たので、それは虎の足元にある。虎は、俺が「あの〜、申し訳ないんですが、あなたを倒すためにその箒が必要なので、拝借させていただいてもよろしいでしょうか?」と、お願いしてみたところで、「あー、どうぞどうぞ、いいですよ。あなたも大変ですねえ、虎退治なんて」と快諾してくれるような雰囲気でもない。万事休す。絶体絶命。

そもそも、こんな巨体を箒の一振りや、二振りでどうにかできるものなのだろうか? 全くもって不可能な気がしてならない。箒がダメなら、モップでも持ってくるか? いや、モップくらいじゃ変わらないか、ごみ収集車でも用意するか?

などとアホなことを考えていると、大きな巨体はのっそのっそと、そのたくましい四肢をゆっくりこちらの方に運んできていた。

「ドウシタ? イセイハヨカッタガ、モウオシマイカ?」

余裕の態度。王者の貫禄。生態ピラミッドの頂点に君臨する肉食獣、虎。人間は高度な思考を持ち、理性があり、自我もある。他の動物とは一線を画す存在だと言われるが、このように獣の王を目の前にすれば、そんな戯言は意味をなくす。ピラミッドなんか想定するまでもなく、絶対的な存在。絶対評価で定められた最も畏怖すべき獣。人間などとは、比べるまでもない、比べようもない。

足がすくんだ。情けないが、腰が抜けた。このどうしようもなく強大な相手を前にして、為すすべは何もない、と本能が告げていた。

それでも、俺はここでこいつに殺されるとしても、こいつに言わなければならない。伝えなければならないんだ。

「お前は、北沢の気持ちを考えたことがあるか?」

虎は足をぴたりと止めた。それは、単にもうこれ以上進めないからであって、俺の話に聞く耳を持ったということではないと思う。虎の前足は、俺の影を踏んでいた。

「北沢の心に耳を傾けたことはあるか?」

虎は一呼吸置いて、笑った。嘲笑った。下等生物を見るような目で、嘲った。

「ソレハ、グモンダトイウシカナイナ。オレサマハ、シュジンノココロソノモノダゾ?」

確かに、こいつの言うことは合っていた。こいつは、北沢の心が生み出した存在で、今はこいつが北沢の心を支配している。だから、こいつの言うことは、もっともで、正しすぎるほどに正しかった。正しかった、が、それが全てではないこともまた、正しかった。

「確かに、北沢の妹を思う気持ちがお前を生み出し、お前を育てた。だから、お前は北沢の心の一部だ」

虎は鼻を鳴らした。何が言いたいんだ、と。人間風情が、何をほざくかと。

「お前は、あいつの心の、一部でしかないんだよ」

「ダカラナンダ?」

虎は顔を近づけた。鼻先と鼻先がくっつくほどの距離で、俺たちは面と向かい合っていた。

自然、体が強張り、怯む。震えそうな声で、しかし、構わず続ける。

「お前は一部なんだよ。北沢のある一面でしかないんだよ。お前は、北沢のことを近くでずっと見てきたんだろ? 北沢の心に寄り添ってきたんだろ? なら、分かるはずだ。妹を独占して縛り付けるだけが、あいつの全てじゃないってな!」

「ナニヲヌカス。ソンナコトハ、オレサマニトッテハドウデモイイ」

「どうでもよくたっていいさ。黙って聞いてろ」

俺は虎に対して啖呵を切った。俺にとっては、お前にとってどうでもいいことが、どうでもいい。お前は、お前が言った通り、北沢の心そのもの。俺の言葉は、お前を介して北沢に伝わるはずなんだ。

「グルォォオオオオオ!!」

咆哮。轟き。

ゼロ距離で発されたそれは、俺の鼓膜を劈かんとばかりの音量だった。

ーー黙れ。俺様に関わるな。

その咆哮は、そう告げていた。

ーー殺す。殺す。殺す。

頭に響く、言葉。悲痛の叫び。虎は、北沢は、葛藤の中で叫んでいた。叫び、暴力に任せることでしか、今の心を癒せないでいた。妹を取られたくない、離したくないーー一人にしないで。邪魔するものは、目の前から消えろ。

虎はその大口を開けた。人間一人はゆうに入りそうな大きさだ。そしてその中には鋭く生え揃った、鋭利な牙。獲物を仕留めるために備え付けられた武器。俺は、今、ここで、こいつに殺される。

目を瞑り、覚悟する。

結局、俺ではどうすることも出来なかった。困ってるやつを助けなければ気が済まない。そう思ってやってきたが、結果はどうだろうか。このザマだ。散々たる結果だ。浅はかな考えで、女子小学生を追い込み、そんなことをしている間に、可愛い後輩の方は手遅れになっていた。全ては俺の身勝手な行動のせいだった。一人で暴走して、空回りしただけだった。いや、空回りしただけなら、まだましだったろうな。一人の人間を傷つけ、もう一人の人間を間違った方向に導いた。何が、「困っている奴がいるから、手紙を出すのはやめてくれ」だ。困っているのは、手紙を出したその本人じゃねえか。何が、「妹を守ってやってくれ」だ。そんなことを言ったら、逆効果じゃねえか。何なんだよ、俺は。自分は特別だとでも思ったのか? 自分がやれば、全てがうまくいくとでも思ったのか? とんだ思い上がりじゃねえか。何一つ事態は好転していないじゃねえか。

待てよ。どんだけ、待ってくれるんだよ、この虎は。映画やドラマなんかで、死ぬ前に主人公が過去を回想するような場面が描かれたりするけれども、現実はそんな風に語る時間を与えてくれたりしねえよ。でも、まだ俺はこの頭で考えられる。つまり、生きている。

俺は恐る恐る目を開けた。実は既に虎の腹の中なのではないか、とびくびくしながら、瞼を上げた。

そこに、虎はいなかった。元々虎など存在しなかったかのように、当然のように虎はいなかった。

「北沢……?」

先刻まで虎がいたところに、俯いて立っているのは、北沢だった。スウェット生地のハーフパンツに、Tシャツという出で立ちで、普段の雰囲気とはまるっきり違っていたが、見間違えというわけではなかった。

「間に合ったみたいやな」

と言ったのは、酉井。北沢の後ろに、付き添うようにして立っている。

「どう……なってる」

俺は、状況を飲み込めないでいた。虎が北沢になった? いや、いくら心を支配しているといっても、そんなことはありえない。じゃあ……なんで。

「この子の家まで行って、起こして、連れてきてん」

もちろん、窓から侵入してな、と。

何がもちろんなのかは全く分からなかったが(後に、酉井は、正攻法でお宅を訪ねたら、ご両親に怪しいやつだと思われるだろ、と説明した)、目の前に本物の北沢がいるのであって、家で寝ているわけではないことは分かった。摩物は、本体が寝ている時にしか現れない。ならば、本体を起こしてしまえば、摩物は消滅する。いや、正確にいえば、本体に戻っていくだけであって、消えて無くなってしまったわけではないが。

「神之倉先輩。ごめんなさい」

と、北沢は俯いたまま言う。

果たして、それは何に対しての謝罪なのかは分からなかったが、彼女が軽い気持ちでその言葉を発しているわけではない、ということはよくわかった。

酉井は北沢にどこまで話したろうか。こうやって、いつも通りとはいかないまでも、取り乱さずに落ち着いて話すことができているということは、全てを聞いたわけではないのだろう。おそらく、俺が虎に襲われ、殺されるすんでのところまでいったことも。

彼女は一向に俯いたまま、何も喋らずにいた。

彼女の謝罪について、何か言うべきか。傷心の女子高生、おそらく、それなりの勇気を出して謝罪した少女に対して。

「全くだ。いくら謝ったって足りねえよ」

彼女は顔を上げた。目を丸くして、まるで人生で初めて見るものを目の当たりにしたような、そんな表情で俺の方を見る。

おそらく、この場合、男としては「そんなことないよ」「謝らなくていいよ」というのが正解だったろう。あるいは、女子の扱いに慣れたやつなら、そうしたのかもしれない。そして、たぶん、北沢も意識的か、無意識的かはともかく、そのような答えを予期していたのだろう。そして、それが普通なのだと、思う。だが、あいにく俺は普通じゃないし、それに、女の子慣れしていないからな。許されるよな?

「謝罪なんて、求めてないんだよ。お前の口から、しっかり説明しろ」

突き放す。とことん突き放す。取りつく島など与えない。頼みの綱などぶった切る。女の気持ちなんかわかるか。

北沢は驚いた表情を引き下げて、俯き加減の顔に影を落とす。そして、ゆっくりと口を開いた。

「酉井さんから聞きました」

と。あの手紙は妹ではなく、私に宛てられたものである、と。私が妹を縛り付けていて、それで妹の友達が苦しんでいたのだ、と。

「確かに、私は妹を独占していたのかもしれません。でも、それは、私が妹を大事に思っているから、愛しているからです。分からないでしょうね? そんな私の気持ちは。特に、神之倉さんには、妹を思う気持ちなんていうのは、分からないでしょう? そんな神之倉さんに、そんなふうに言われる筋合いはないっ……!」

と、終始強い語気で言い切った北沢。突き放された。俺も突き放した。突き放されるのは当然だし、北沢の言い分は最もだった。

だが。と、俺は思う。

「北沢。お前にとって、妹は大事な存在なんだろう。俺には全く分からんがな、お前の言う通りだ。妹なんて、俺にとっちゃあうざいだけだし、独り占めしたいなんてもってのほか、勝手にどっか行ってくれって感じだよ」

認める。俺は、妹をそこまで思う気持ちは、全く分からない。だけどな、と俺は思う。

「だけどな。お前の気持ちは分かるんだよ」

北沢の表情が、怪訝の色を帯びる。疑いの色といってもいい。

「何を言ってるんですか?」

嫌悪。俺に対する疑念と、拒否。どうやら、俺は全く信頼を失ってしまったらしい。いや、元からそんなものは、俺に置いていなかったのかもしれないな。

「私の気持ちはわからないけど、わかる? 頭おかしいんですか?」

いつもなら、面白おかしい冗談とも受け取れるような北沢のその言葉。でも、今の北沢の言葉は、真面目も真面目、大真面目。本気で俺のことをおかしいやつだと、本気でそう思っている。

でも、俺に言わせれば、全然おかしくないね。おかしくないし、矛盾もない。北沢が真面目だというなら、俺も真面目も真面目、大真面目だ。

「北沢。お前、学校に友達、いないんだろ?」

「……!」

「いないんだよな、北沢。少なくとも、学校の外で仲良くするような友達は」

北沢の顔は、疑念の表情から、驚きの表情、そして、屈辱の表情へと変わる。北沢は、押し黙って、何も言葉を発さずにいた。発せずにいた。

「お前は、登校中俺とよく会うけども、俺はお前が誰かと一緒にいるのを、一回も見たことがない。普通、近所の友達と待ち合わせしたりとかするもんだろ? 基本的に一人で行くっていうやつでも、途中で友達に会ったら、一緒に行こうっていう流れになるもんじゃないか。それに、お前の高校は、市でも人気の進学校で、同じ中学のやつが多くいるはずだ。それなのに、登校中に友達に一度たりとも会わないなんてことはまずあり得ない」

俺も北沢と同じ高校の卒業生だが、俺が通ってた遠くの中学校からでさえ、その高校に進学したやつは多かったし、友達の少ない俺でさえ、一緒に通う友達はいた。普通に生活していて、普通に友達がいれば、何日も登校時に友達に会わないなんてことはありえない。

「わ、私は、一人で登校したいのっ。一人が落ち着くの!」

北沢は悔しそうな表情のまま、歯を食いしばって、そう言った。叫ぶように、振り絞るように。

「ふーん。じゃあ、俺が連絡した時いつも、三コール以内で出られるのは、いつも一人でいたくて、いつも一人でいるからか?」

「そうだよっ。一人でいたいの」

「俺が話がしたいと言ったとき、放課後はいつも暇だから、いつでも大丈夫だと言っていたのは、放課後は必ず自分の時間を、一人の時間を確保したいからか?」

一瞬間が空いて、それでも北沢は声を絞り出す。

「そっ……そうだよ。それの、何が悪いの!?」

「悪いよ。俺に嘘をつくのは別にいい。でも、自分に嘘をつくのは、悪いに決まってるだろ」

「嘘?」

北沢は、とぼけたように聞き返す。いや、実際、自分で自分に嘘をついていることに気づいていないのかもしれないな。

「強がるなよ。お前は友達がいない。そして、自分の時間が欲しいわけでもない。そうだろ? そうじゃなかったら、俺と会ったとき、あんなに楽しそうにしない。あんなに、あることないことぺちゃくちゃまくし立てるほど、お喋り好きなわけがない。それに、お前が自分の時間が欲しくて、友達もいるなら、妹とずっと一緒にいようなんて思わない。そんな暇なんてないはずだ。そうだろ?」

北沢は黙ったまま、俯いたままで、俺の足元を見つめている。何も言い返そうとしてこない。認めた……と思っていいんだろうな。

ここからは、完全に俺の憶測。妄想の域を出ない、が、おそらくそんなに遠くもないはずだ。

「お前は、小さい頃から妹と仲が良かった。おそらく良すぎるほどに、良かったんだろうな。特にお前は妹にべったりだった。そんなお前は、学校で友達が出来なかった。いや、そのときは本当に作る気がなかったのかもな。お前はそれでよかった。妹さえいれば、それで十分だった」

北沢に目をやる。何か口を挟もうという様子は、ない。

「でも、あるとき気付いてしまった。自分の周りに友達がいないことに。他の子達はグループを作ったりしていたが、自分は一人ぼっちなことに。だから、妹を手放せなかった。それまで以上に、妹を必要とするようになった。お前は、妹が大好きで大切だ。だけど、一緒にいたいと思う直接の理由はそうじゃない。お前はーー誰かにそばにいて欲しくて、妹を、利用していた」

そして、自分自身では気付いていないのであろう。どの時点まで好意によって一緒に居たかったのか、どの時点からそれが二次的な理由になったのか。

「神之倉先輩……」

と、北沢はいくらか気落ちした声で言った。普段の彼女からは、予想もつかない、小さな声で。

「私、そうなのかな? 妹を自分の都合で、側に置いてただけなのかな?」

「だけってことはないだろうさ。お前は、妹のことが大切で、大好きだってことは、迷惑なほど知ってる」

そう言って、ははは、と笑ってみせる。もちろん、北沢は笑わなかったけれども。

「ただちょっと、妹に頼り過ぎちゃった、ってことなんだろうぜ。妹頼みが過ぎちゃった、ってことなんだろうぜ」

そっか。そうだったんだね。と、北沢は独り言のように呟いた。今までのことを思い返すように。自分を見つめ直すように。

見つめ直す。俺もきっと、自分を見つめなおさなければならない。少なくとも、一人の女子小学生を傷つけた。その代償は高くつくだろう。そして、目の前の後輩。これまで、こいつが、妹に異常にべったりだったこととか、友達がいないこととか、そんなことに気づけなかった。思い返してみれば、そんな兆候はいたるところに落っこちていたのに。こんなことになる前に、何とかできたはずなのに。

ごめんな。なんて、謝ったところでもう何にもならない。それこそ、さっきの俺みたいに、全くだ、なんて言われておしまいだ。ならばせめて、今から出来ること、俺が出来ることをさせてもらおうじゃないか。

「頼み、というなら、妹頼みよりも、神頼みだろう」

北沢は小首を傾げて、頭に疑問符を浮かべる。「頭おかしいんですか?」なんて声が聴こえてきそうな表情ではあったけど、さっきのそれとは持つ全く違う。いつもの北沢、いつも通りの北沢。

「お前が暇で暇で仕方ないときは、俺を使ってくれ、ってことだ」

神之倉壮太。女子小学生に、紙屑なんて馬鹿にされるような名前だけど、俺の名前も捨てたものじゃないな。

そんなことを思いながら、帰路につく。

そんなとき、気配を消していた酉井が、ふと絶望にも似た声でつぶやく。

「なんやあれ……」

目線の先には、酉井の二輪車。もとい、元二輪車の現一輪車×二。見るも無残な姿で横たわっていた。

「お前、一生かけて償ってくれるんやろな、神之倉」

「お前の奴隷にならなきゃ許してもらえないの!?」

そんな俺たちの会話を聞いてか、聞かずか、北沢は微笑していた。今までこんなこと考えたこともなかったけれど、北沢と酉井。意外とウマが合うのかもしれないな。

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