虎退治三日目
次の日、俺は大学の授業が終わってからバイトまでの間の時間に、北沢と会う約束を取り付けた。本当なら、こういうことは妹に頼むべきなんだろうが、なんせ事情が事情。夜の仕事(なんか卑猥な表現だなあ)が絡んでいるだけに、妹に知られるわけにはいかなかった。
北沢の家に入って行った虎。普通に考えて、あの虎は北沢家の誰かが生み出した摩物だろう。ただ、それこそ不法侵入はしていないから、北沢家の間取りまで把握しているわけではない。よって、あの虎が入っていった部屋が誰のものなのかは特定できない。しかし、状況から鑑みるに、あの手紙が関係している可能性が高い。そう踏んで、俺は北沢にアポを取ったのだ。
そこで、肩に人の手の感触があった。
「うほたせしましたっ、神之倉先輩!」
「くどいぞ北沢。芸がない。それにもはや言葉の原型がわからん」
「うほうほうほうほっ、神之倉先輩!」
「原型がゴリラ語だという体で話を進めるな」
「えっ、そういうことじゃなかったんですか。すみません先輩」
しょぼーん、とした様子……ではなく、彼女自身がその妙な擬態語を口に出してがっくりとうなだれる。
こいつは素でこういうやつなので、もはや先ほどの発言が本気だったのか、それとも冗談だったのか、彼女の態度からは全く判断がつかないのであった。やれやれ、こんな珍妙な後輩を相手に今から真面目な話をしようだなんて、する前から疲れちまう。
「で、今日お前を呼んだのはだな」
「な、何ですかっ。神之倉先輩っ……」
「おい、両手で肩を抱えて、もじもじするのはやめろ。なぜお前は、いつも俺を犯罪者に仕立て上げようとするんだ」
「え、ええっ。別に……そんなつもりはありませんよっ。ご、ごめんなさい」
そう言いながら上目遣いで、ずずと半歩下がる北沢。男子大学生の高圧的な態度に、何も言い返せない女子高生の図がここに完成していた。やめさせるどころか、状況はさらに悪化していた。処置無し。降参。白旗で鯉のぼりが作れそうだった。そんな全部の鯉が真っ白な鯉のぼりなんて、誰一人として喜ばねえよ。
「頼む。普通に話を聞いてくれ、お願いだ」
真剣に頼む、というもはや手段ともいえないような、そんな方法しか俺には残されていなかった。もう、しょぼーんとでも言いたい気分だった。
「わかりました。真剣に聞きます」
その後に、小声でドキドキとか言ったような気がしないでもないが、もうこれ以上かまっていられないどころか、お巡りさんにかまわれてしまう可能性が出て来てしまうので、スルーを決め込んだ。
「この前の手紙の話なんだが」
「あ、手紙の話、ですか」
そっかそっか、そうだよね、と独り言のように呟く北沢。なんだか、先ほどより浮かない顔になった気がするが……、それもそうか。この話は北沢にとって決して気分のいい話ではないもんな。
ただ、俺としてはほっとくわけにはいかんのだ。
「そう。それで、実際、あの手紙が誰に宛てられたものなのか、心当たりはないか?」
北沢は、黙って考えた後、顎に片手をあてて口を開く。
「心当たりというほどのものではありませんが……」
俺は、かまわない、と言って先を促す。
「あの筆跡は、小学生くらいのものだと思います。妹の書く字がちょうどあれくらいの字なので」
少なくとも、高校生の書く字ではないです。と北沢は付け加えた。
俺はあの手紙の文面を思い出す。確かに、子供が書くような字だなあというのは、俺も第一印象として持った。もし、この検討が外れていなければ、あの手紙は北沢に宛てられたものだというよりも、むしろ北沢の妹に宛てられたものだという可能性が高い。字体だけで判断するのはやや性急という気も否めないではないが、しかし、実際問題、小学生くらいの歳の頃の人間が、北沢と関係を持っているというのは、ましてや、そのご両親と関係を持っているというのは、どう考えたって考え難い話ではある。
「じゃあ、あれはお前の妹に」
というが早いか、北沢は被せ気味にまくし立てる。
「妹はあんな風に人から恨みを買ったりするような子じゃありませんっ。私の可愛い可愛い菜奈ちゃんは、とってもとっても良い子なんです! クラスでも、みんなの中心なんですから!」
「顔が近い顔が近い! わかったわかった、お前の妹は良い子だ。認めよう。だから、頼むから、俺を犯罪者に仕立て上げるような行動を取るのはやめてくれ!」
痴漢だって、冤罪で捕まる時代。何もしていないのに、男は疑ってかかられるそんな世の中。たとえ女子高生の方から、顔を接近させてきたという事実があってさえも、見る人が見れば、その事実は簡単に塗り替えられ、キスを迫る男子大学生の画に取って代わるのだ。本当迷惑。迷惑千万。
「ご、ごめんなさい」
急にしおらしくなって、すっと身を引く北沢。だからなんかその態度もなあ。そんなに落ち込まれると、それはそれで俺が恫喝してるみたいになって、あれなんだが。この子には普通にするということができないのかね。
まあ、存外普通にするというのが人間一番難しいのかもしれんな。特に、こいつの場合、妹の話となれば熱くなってしまうのが常だ。それがこいつにとっての普通。当たり前。妹のことが大切で大切で仕方ないんだと。俺には全くその気持ちは理解できんが。
「そうだな。俺も良くなかったよ。どうも俺は、俺の妹をベースに考えてしまうきらいがあるらしい。お前の妹は俺の妹とは違って、どうやら良い妹をやってるらしい。お前の妹は菜奈ちゃんは……」
そこまでいって、俺は言葉を切った。
菜奈ちゃん……?
どっかで聞いたことがある名前。そして、既視感。溢れ出るデジャヴ感。菜奈ちゃん、菜奈ちゃん、菜奈ちゃん。一体どこで聞いた名前だったか。いや、もちろん、以前北沢の口からその名前は幾度となく、嫌というほど聞いてはいるはずなのだが、それとは違う引き出しに眠っているような気がする。いや、それを言うなら、引き出しに眠っているというよりも、机の上に乱雑に置かれているといった感覚。つい最近の記憶に基づいているという気がしてならない。
家の鍵とか、書類とか、机の上に無意識に放ってしまって、行方が分からなくなることってよくあるよなあ。あれってすごく不思議だよな。絶対そこに置くからそこにあるはずなのに、見当たらないんだよなあ。ああいうとき、本気で物には足が生えてるんじゃないかと思ってしまう。
などと、どうでもいいことを考えていたら、ついぞ菜奈ちゃんの正体に行き当たった。なんのことはない。机の上に置いたと思って無くした物は、案外ポケットの中とか、カバンのなかに入っているものなのだ。
「おい、小学生。その、昨日言ってた菜奈ちゃんとやらとはどうなった」
バイト先の塾の一角。個別に仕切られたブースの一つで、俺は俺が担当している小学生と対面で座り、言葉を交わしていた。授業の内容も、今日は珍しくちゃんと終わり、その余り時間を、生徒の日常生活についてでも聞いて、今後の生徒指導に活かそうという、有意義に使おうという、先生の鏡ともいえる行動の真っ最中なのである。
「いや、倉っち。言葉の端々に先生とは思えない表現が感じられるんだけど」
「おや。これはこれは、俺としたことが、不注意だったな。何がまずかったのかな?」
「嫌、倉っち」
「おい、お前。今絶対、会話を切り出す時の『いや』を、『嫌い』という文字で代用しただろ」
「嫌々、倉っち」
「俺の授業は嫌々受けているというのか!?」
小学生女子に、けちょんけちょんに舐められる、男子大学生であった。俺の方が一回りもながくいきているというのに。これも時代の変化か。最近では年上というだけで、その人に敬意を払う、という文化は廃れてきているのかなあ。
「で、菜奈ちゃんとやらとはどうなったんだよ。見たところ、今日のお前は元気そうだが」
彼女は、はあ、とため息を吐いてから、話し始める。
「全く、倉っちは。 一つも反省してないじゃん。大人って反省しないよね」
どうやら、彼女は小学生にして、世の中の大人というものに失望しているらしかった。幼気な小学生にこんな思いをさせるなんて、なんて酷い世の中なんだろうと、痛切に感じたよ。
「まあいいよ、倉っち。こんなことを繰り返してても、話が進まないからね。いいよ、質問に答えてあげる」
いや、別に俺としては話は進まなくても問題ないんだが。彼女には何か、話を進めなければいけない事情があるのだろうか。何か外側からの圧を感じるような物言いだな。
「今日は、菜奈ちゃんと遊んだんだ」
上機嫌に言う彼女。なんだ、ちゃんと年相応の表情もできるじゃないか。自然、ふっと笑みが溢れる。
「そうか。良かったじゃねえか。じゃあ、一応和解というか、仲直りできたんだな?」
「いや、まあ、仲直りというかなんというか。そもそも喧嘩してたわけじゃないし……」
心なし、表情が曇る。
「そうなのか? 喧嘩じゃなければ、なんなんだ?」
「黙秘権を行使します」
法律を盾に使われた。
「いや、なんでだよ。別に答えてくれたっていいだろ」
「年頃の女の子の心にずけずけと土足で入ろうだなんて。そんなんだから倉っちは、彼女ができないんだよ」
傷つくことを言う女子小学生である。はあ……、そうなのか。だから俺には彼女がいないのか……。本気でしょげるなあ。
「いや、待て。なんで俺に彼女がいない前提で話が進んでいるんだ! 一言もそんなことは言ったことがないぞ」
「読心術だよ」
そう言いながら、彼女は左目の前で、両手で三角形を作り、その間から俺のことを覗き込んだ。
果たしてその構えが何を表しているのかは分からないが、一つだけ明白なことがある。
「読心術は嘘だ。この前見抜いただろ」
「じゃあ、今倉っちが何を考えているのか当てましょう」
「いいだろう。外したら、今後一切、読心術ができるだなんて妄言を吐くんじゃないぞ」
「じゃあ、私が当てたらどうする?」
ん? ああ、そうだな。確かにこちらだけ条件を提示するというのもフェアじゃないか。まあ、ありきたりではあるが、いや、ありきたりということは、定番ということで、定番ということはそれがベストなチョイスとして選択され続けてきたということだから、やっぱりこういう場合は、これがいいだろう。
「わかった。じゃあ、お前が当てたら、ジュースでも奢ってやるよ」
「ジュース!」
目をキラキラ輝かせる小学生。うーんと唸って、眉間にしわを寄せる。熟考の末、彼女は指で俺の顔を指し、こう答えた。
「倉っちは今、なんで自分に彼女ができないのかと悩んでいる」
「負けました」
こいつ今、ジュースと俺を馬鹿にすることを天秤にかけて、ジュースを取りに来ただろ絶対。だっていつもだったら間違いなく即答で、俺をいたぶりに来てるもん。ゲンキンな奴め。ずる賢いというか、単純というか、とんでもなく欲望に忠実な奴だった。
まあ、でも負けは負けだ。男に二言はない。ここで、「それは読心術じゃない。今の会話の流れからなら誰でもわかる」とでも言おうもんなら、「倉っちは人間が小さいなあ。だから彼女ができないんだよ」とでも言われて、傷口を広げるだけだからな。
「わかった、帰りにジュースを奢ってやる。その代わり、一つ質問に答えろ」
「負けたくせに条件を提示してくるとは、強欲な男だね」
強欲て、どんなボキャブラリーだよ、この小学生。俺がとんでもない悪党みてえじゃねえか。
「そんなんだから、倉っちは彼女ができないんだよ」
「なんでこうなるの!?」
結局、どんな選択肢を選ぼうとも結果は同じなのだった。あのタイムリープを繰り返した少女もこんな気持ちだったろうか。
「わかったよ、倉っち。寛大な私が答えてあげる。可哀想な倉っちのために答えてあげる」
「ありがとよ。同情してくれて嬉しい限りだ」
さて、こいつの遊びに付き合ってやるのもここまでだ。やれやれ、小学生の相手をしてやるのも疲れるな。なんだかんだいって、こいつもまたまだガキだよ。大人の俺が、大人の態度で接してやって、なんとかこの状態だ。大人っていうのは大変だなあ。子供を傷つけないようにしながら、相手してやらなきゃいけないんだから。
ここからは、至って真剣。真面目モード。授業中、大切なことを言うときのように、声のトーンを一段落として、ゆっくりと一言目をつぶやく。
「北沢菜奈」
そうすると、小学生はさっきまでのおちゃらけた態度から一変し、耳をこちらに傾けた。北沢菜奈というワードが効いたのかもしれない。おそらく、俺が名字を知っていることに驚いたのだろう。構わず続ける。
「お前の言う菜奈ちゃんっていうのは、北沢菜奈だな?」
そう言うと、彼女は肩をびくっと震わせる。図星のようだ。彼女はこくんと、首を縦に降る。
「北沢菜奈は、クラスでどんな子なんだ?」
その質問を受けて、きょとんとする彼女。思いのほか、意外な質問が飛んで来た、という感じ。まあ、俺も本来これとは別に、核心を突くような直裁的な質問を持っていないわけではないのだが。その質問をするのは、まだ早いというか、確信が足りないというか、とにかく今すべきではない、という判断を下したのだ。
彼女は、思ったよりも答えやすい質問だったのだろう、比較的軽い口どりで、説明する。
「菜奈ちゃんは、クラスの中心にいるような女の子だよ」
ふむ。この辺は北沢が言っていた通りか。
「正確に言うなら、中心というよりは、中心円の中にいるって感じかな。少なくとも、クラスで委員長をやったり、勉強で一番だったり、徒競走で一位を取ったりとか、そういう子ではないよ。常に三番目か四番目にいるって感じかな」
「というわけだ」
あの後、俺は、やつに約束通りジュースを奢ってやり、家に帰した。ジュースを奢ってやったら、元気にスキップなんかして帰って行きやがったが。まあ色々と気にするべきところがないでもないけど、なんにせよ、今日は元気そうで良かったというのが、本心からの気持ちだった。
それから、俺はいつものように、大学の屋上に行って、今は酉井と二人。今日知り得た北沢菜奈のこと、星野凛花のことを、酉井に話していた。
「その凛花って子が、虎を生み出す原因になっとるいうことでええんか?」
酉井は、俺の話からそう結論づけたらしかった。
「いや、まあ、そこまでは断言できんけどな。ただ、俺の知ってる範囲では、北沢菜奈に関係を持っているのがそいつだったってだけで」
と、対面的には言っておく。何というか、確定していない段階で、あいつが犯人であるかの如く公言してしまうのは気が引けたのだ。
だが、実のところ、全くの当て推量というわけでもなかった。まず第一に、あの小学生が最近友達といざこざを起こしているということ。喧嘩なのか何のかは聞けなかったが、何か仲違いを起こしていることは確かだった。そして、第二に彼女はその友達に対して何か恨みを持っているということ。彼女自身は「うざい」という言葉でそれを表していた。確かにあの手紙の文面には、それ以上にきつい言葉も見られたが、あの子の性格上、そういう言葉を使っていても不思議はない気がした。そして、三つ目。これは、あの子の授業を担当しているから知り得たこと。俺じゃなきゃ気づかなかったことだが、手紙の筆跡と、あの子がプリントに書き込んだ字が、そっくりだったということだ。
「まあ、わしらに出来ることはあれやな。虎を退治するっちゅうことやな」
「そうだな」
まあ、俺個人としては、あの小学生に直接当たるということができたわけだが、俺たちに出来ることというのはそうだろう。昼間は酉井の力を借りることはできない。この仕事で得た情報は、仕事時間外では口外できないからだ。
「ほないこーや」
「おう」
そう言って、俺たちは昨日の件の一軒に降り立った。
やはりそこには、小さな虎が一匹。白いぼやーっとした光を放って、ちょこんと座っていた。
「こんな小さな虎、ほんまに害あるんかいな」
「確かに、襲っても来ないしな」
「こんなに放っといても大きさが変わらん摩物会ったことないで。もし、この虎の本体に問題があるんやったら、どんどん大きなるはずやのに」
「ずっと子供のままだな。虎柄の猫なんじゃないかと間違うほどの大きさだわ」
そんなやりとりをしている間にも、虎はお利口さんに、行儀よくそこに座ってこちらを見ていた。俺がそちらに目をやると、虎は小首を傾げた。
「かわいい……」
「言うとる場合やあらへんで。あいつはあれで立派な摩物や。問題のないうちに始末せえへんと、厄介なことなるで。ところで先生?」
「なんだよ。なんか気持ち悪いな。生徒にだって呼ばれないのに」
「いや、それはそれで問題やろ……」
哀れみの目だった。
「で、先生。虎、といえばどんな言葉があるんや?」
虎ねえ。
「まあ、ぱっと思い浮かぶのは、虎の威を借る狐だろうな」
酉井は、俺の言葉を繰り返して、反芻する。
「やっぱそうやよな。わしもさっきの話聞いて、そのことわざを思いついたんや。話に合っとるいうか、当意即妙とはこのことやな」
自分の考えに、うんうんと頷く酉井。勝手に話を進めないでほしい。
「どういうことか説明してくれよ」
「いや、その菜奈って子。クラスの中心的なメンバーって言うとったやん?」
「ああ。そういう話だった」
それがどうかしたのだろうか。
「俺も小中高となあ、クラスでそんな感じのポジションやったから、ようわかるんやけど。クラスの中心、じゃなく、中心的なメンバーの一員いうんは、その人自身が権力を持ってるかいうたらそういうわけじゃないねんな」
俺も、勉強できるわけでも、運動がべらぼうに出来るわけでもなかったんや、と自虐的に続けた。ただ、そういういろんな意味でクラスのトップである奴の周りにいただけだと。自分はその威光に預かってただけだと。
「ああ、なるほどな」
それで、虎の威を借る狐、か。それは、義務教育を経験した人間なら、経験的に感じるところだろう。俺は全くもって、クラスの中心などではなかったけど、分かる。あいつは特に秀でるものがないのに、なんで人気者なんだろーなーとか、思ったことは幾度かある。結局、それは、どんな種類の人間とつるんでいるかによるのだということも、知っている。なんて不平等な世の中だと、そいつらを恨んだこともある。結局それは、ただの妬みなんだけれども。
「北沢菜奈は、クラスの中心的人物だけども、中心的なのであって、中心ではない。特に秀でるものがあったわけでもない。けれども彼女はクラスの中心的人物であり続けた。それは、クラスの真に中心である人間のおかげであった、と」
そして、俺みたいな人間からあらぬ恨み、妬み、嫉み、その類のものを持たれた。いかにもありそうな話ではある、し、北沢菜奈のケースに当てはめても整合性はある程度あるようにも思われる。北沢自身は、もちろん姉の方であるが、妹は恨みを持たれるような子ではないと言っていた。が、それはあてにならない話だろう。実際北沢の場合には、親馬鹿ならぬ、姉馬鹿のきらいがある。北沢の話は、話半分に聞かなければならない、と注を付けておくべきだろう。
「まあ、そういうことやと思うで。まあ、そんな細かいこと気にせんでも、この虎をやってまえばええだけのはなしやねんけどな!」
そう言って、酉井は虎の子目掛けて突っ込んでいった。
それから、約一時間後。そこには、昨日と全く同じ光景が広がっていた。結果から言って、俺たちは今日もこの虎を退治することができなかった。
虎はこちらを一瞥すると、ぴょんっと跳ねて、ベランダにおり、昨日とおんなじように、二階のある部屋に、おそらく北沢菜奈のものであろうと思われる部屋に、入っていった。
「くっそ、何やねんあいつ。ちょこまかと逃げやがって。卑怯な奴やで。男なら真っ正面からかかってこんかい」
酉井は昨日と全く同じ台詞で悪態をついた。
だから、オスかメスかもわかんねえんだよなあ。むしろ、本体が女の子なのだから、あいつもメスと考えるのが普通だしな。
「まあ、明日も北沢や、あの小学生に直接当たってみるよ。結局そうしないと、根本的に解決したことにはならんしな」
星野凛花には塾で必ず会うし、北沢も、妹に直接会うわけにはいかないが、姉の方から色々と話は聞けるはずだ。
しかし、酉井は、はあとため息をつく。あんなあ、石倉はん、と呆れ顔で呼びかける。
「ほんまにお前はお人好しやなあ。お人好し過ぎて、反吐が出るわ。あんなもんなあ、虎を始末してまえば、それでええねん。一応それで、一応の解決にはなるんやからな」
「だから、俺はお人好しでも、優しいわけでもないんだよ。ただ、自分のためにやってるだけだ。結局自己満足なんだよ」
毎回言ってるだろ、と念押ししておく。
だが、意にそぐう形の返答ではなかったのか、酉井は再びため息を吐く。呆れたというか、諦めと言った方が近いか、とにかくお手上げだというようにジェスチャーをする。
そして、こう言った。
「自分のためやろうが、なんやろうが、わしの目から見たら、お人好しには変わらへんねん。ほんで、何でもかんでも、誰彼構わず、助けりゃええってもんやないねん」
俺には、酉井が何を意図して、なんの目的でその言葉を発しているのか、果たしてピンとこなかった。が、次の言葉で、俺は酉井の意図を理解し、その言葉は俺の胸に深く刺さることとなる。
「ほんまに大切なものを、自分にとって大切なものを、人を見失うんやないで。助ける相手を間違えるんやないで」
そう言い残して、酉井は飛んでいった。後には、俺と、その酉井が残した言葉だけが、そこに残った。
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