虎退治二日目

「Hey, Wake up! Sota!」

やかましい高い声が耳に入ってくるのと同時に、体を激しく揺すられる。

「ああっ?」

高校生の妹に対してガチ切れの壮太お兄ちゃんである。仕方がない。昨日、というかもはや今日、もっといえばつい三時間前に寝床に入ったのだから、目覚めが悪くて当然である。

「おーーきーーろーー! クックドゥードゥルドゥー!」

「ああ、うるせえなあ。起きた、起きましたよ。お前の大好きなお兄ちゃんは、起きました、目を覚ましました、覚醒いたしました」

俺は飛び起きて、上体を起こした。

「は? 大好きとかキモいんだけどー」

「おい、キモいはこっちの台詞なんだが? 寝ている兄の首に腕を回して、足を絡ませてるこの状況は何だ」

「いやあ、これはもし兄ちゃんが起きなかった場合、実力行使にすぐ移れるようにと思ってね」

俺の妹は、腕を伸ばすストレッチのような形に腕を組んで、首を絞め上げる仕草をした。

「それは起こすどころか永眠させる気じゃねえか!」

「Good morning! 兄ちゃん!」

「どう考えてもバッドモーニングだ」

早く支度して降りてこいよー、と妹は言って、階段を忙しなく降りて行った。

神之倉英梨。それが、あの鬱陶しい妹の名前だ。成績優秀、スポーツ万能。絵に描いたような、スーパー妹だった。ただ、俺の才能は全てあいつに持っていかれたんだ、などと悲劇の主人公面をするつもりはない。なぜなら、あいつは努力しているからだ。努力に裏打ちされた、必然的な能力を持つ秀才だからだ。あいつが早起きなのだって、学校に行く前にジョギングしているからである。また、英語に魅せられた彼女は、外国語に力を入れている大学に進学するために、英語だけでなく他の教科もしっかり勉強し、模試では偏差値六〇後半を維持する程の学力らしい。とんでもない妹もいたものである。ただ、そうはいっても、だからといって、何をしても許されると言うわけではないのだ。人間として尊敬はできるが、うざいものはうざい。鬱陶しいものは鬱陶しい。ま、兄妹というのは概してそういうものなのかもしれない。

俺はベッドを降りて、小学生の頃から変わらない学習机に置かれた教科書、レジュメ、その他大学で必要なものとバイト先の塾で必要なものをリュックサックに詰め込む。そして壁に掛かった一張羅のスーツを着てから、姿鏡を覗き込む。

どうしたらこんな寝癖になる……。スーパーサイヤ人じゃねえか。早く直さないと、またぞろあの妹様がおかんむりだ。

俺はぞんざいにリュックサックをひっ掴み、自分の部屋を飛び出た。


その後、家を出て、最寄駅まで歩き、最寄駅から県で一番大きな駅まで電車に揺られている間、俺は妹と行動を共にしていたわけだが、いつものように、当然のように、というかそれを行うことが験担ぎのルーティンワークであるかのように、俺の生活習慣のなっていなさを叱責した。よくもこう毎日毎日言い続けることができるものだ。もしかしたら、彼女にとって俺を叱ることは、本田圭佑がピッチには必ず左足から入るようにしているとか、イチローが打席に入った後左手でユニフォームの右肩のあたりをクッと引っ張るとか、そういう類のある種儀式のようなものなのかもしれない、とさえ思った。もしそうであるならだぞ。あいつの学業成績や、部活での功績は俺のおかげであるということになり、そう考えれば俺の自尊心も保たれるというものである。んー、我ながら寂しい自己肯定だな。

「兄ちゃん、私はあっちだから。じゃあ」

「ああ、そうだった。ぼーっとしてたわ。じゃあな」

「あ、そうそう」

妹は一度向こうへ行こうとしたが、足を止めて振り返った。

「花菜がなーんか最近元気ないみたいだから、声かけてあげて」

「ああ、あいつか。あいつが元気ないなんて考えられんが。でも、声かけるならお前の方がいいんじゃないか?」

妹は、がっかりしたというふうに、深い溜息をつく。

「兄ちゃん、花菜は兄ちゃんの直属の後輩でしょ? 私より、会う頻度多いだろうし。それに、兄ちゃんが高校の時、花菜によくしてもらったこと忘れたの?」

「そうだな。頭に留めとくわ」

よろしい。と妹は満足したように言った。それに、と妹は続ける。

「私で事足りるなら、お兄ちゃんに頼ったりしないしね」

一瞬、前言撤回しようかと思った。が、やめた。妹の言い方はかなり不遜だが、だがしかし、あの後輩に非があるわけでは全くない。ったく、余計な事を言うなよ。妹様は、いつも一言多いんだから。

と、妹の方を見ると、そこにはもう妹はいなかった。

その時、後ろからポンポンと肩を叩かれた。

「うほっ!?」

いけねえ。不意をつかれたせいで変な声が出てしまった。でも、これは断じて仕方がない。噂をすればなんとやら、という言葉があるけれど、肩を叩いたのは、高校の時の俺の後輩、北沢花菜その人だったからだ。

「うっほようございますっ、神之倉先輩!」

とびきりの笑顔だった。初対面の人なら、その輝かしいばかりの笑顔に、お花がぱーっと開いたような笑顔と形容するのかもしれない。なるほど、それはたしかに花菜という名前に名前負けしない笑顔である。

「出会い頭に馬鹿にしてくれるじゃねえか、北沢後輩」

しかし、俺の場合には、とりわけ今この場面では、褒められたような笑顔ではなかった。悪意を感じる。

「てへっ」

北沢は、わざとらしくそう言った。怒りさえ覚える。

しかし、よく考えてみれば、今どき「てへっ」と声に出していう女子も珍しいのではなかろうか。まるで、ミドリガメが、外来種であるミシシッピアカミミガメに生息地を追われるが如く、「てへっ」という言葉が「てへぺろ」という言葉に、その領分を奪われているこの時代において、この後輩は貴重な存在なのではないだろうか。レッドデータブックに彼女を載せるべきなのではなかろうか! そう思うと、許してもいいような気になってくる。

「北沢」

「はいっ、何ですか先輩?」

にこにこ顔の北沢。その顔に、俺は神妙な面持ちで、こう言葉をかける。

「俺がお前を守ってやる」

「ええっ!?」

突然の俺の特別保護宣言に面食らう北沢。彼女はもじもじして、俺から視線を逸らし、そっぽを向いている。

このやりとりが、早朝の人通りの多い駅前で、男子大学生と女子高校生によって繰り広げられているのであるから、はたから見れば事案物である。「女子高校生の笑顔に勘違いした男子大学生が告白する事案が発生」とかいって、まとめサイトにでも上げられてしまうかもしれない。俺は神妙な面持ち、女子高校生は縮こまって俯き加減であるという状況を鑑みるに、俺の方が圧倒的に部が悪いのではなかろうか。

「おい、北沢。大丈夫か?」

俺は、このどっからどう見ても俺の不利になりそうな状況を一刻も早く打開すべく、北沢には顔を上げて、普通に、ごく普通に、まるで兄と妹であるかのように話してもらいたいと思った。

「だ、大丈夫、大丈夫! ちょっと、先輩がシャバーニ君みたいにイケメンに見えて、照れちゃっただけだから、大丈夫だよ!」

「やっぱりばかにしてんじゃねーか!」

俺の一番最初の、うほっをいつまでも引きずりよって!

気遣って損したわ、と一息ついていると、ふと妹の言葉を思い出した。

こいつ、元気ないんじゃなかったっけ?

「北沢、最近なんかあったか?」

俺は、軽い気持ちで聞いてみた。

「え、ええっ」

いちいち頓狂な声を上げる奴である。とかなんとか突っ込んだら、またぞろ、うほっを蒸し返されそうなので言わないが。

「妹に聞いたんだよ」

「あ、そっかぁ」

急に落ち着く北沢。心なし先ほどより元気が無くなったように見える。やっぱりなんかあったのだろうか。

「で、最近なんかあったのか?」

しつこく聞いてみる。

「う、うーーん」

煮え切らない態度の北沢。やはり、話しづらいことがあるのかもしれない。当然だ。誰だって、聞かれてすぐに話すような悩みなんだったら、そもそも悩みはしまい。俺だって、そういった経験くらいある。いや、あるってば。

「話してみろよ。大して力になれんかもしれんが、聞くだけなら俺にだってできるぞ」

こう言ったら、大抵の人は話し出すものである。

「え、えーとー」

おやおや、なかなかどうして話してくれないものだな。よっぽど、深刻な話なのかもしれないな。まあ、今日強いて聞き出すこともないだろう。また今度話す気になったら、話してもらうとするか。

「話しにくいんだったらいいや。また今度、話したくなったらいつで」

も、と言いかけるかどうかというところだった。

「鼻痛い鼻痛い鼻痛い!」

「おい、落ち着け北沢! 焦り過ぎて、俺に顔面を殴られたか、鼻フックされたかみたいになってるぞ! この状況でそれはまずい!」

実際、通行中のサラリーマンや学生達が、足を止めてこちらを怪訝そうに見ていた。北沢は、恥ずかしさからか、顔を抑えて俯いているもんだから、余計に大人の男性が女子高生を殴ったみたいな絵面が形成されてしまっている。一体、俺は、今朝だけで何回ツイッターで吊るし上げられなければならないのだ。

俺は、すいません〜、妹が電柱に顔面をぶつけてしまっただけです〜、大丈夫です〜、と釈明になっているかもわからない釈明をし、何とか難を逃れた。

そして、しばらくののち、北沢は落ち着き、ようやく話し出してくれた。北沢の話はこうである。

「手紙?」

手紙ねえ。手紙なんてものは、新年の挨拶として年賀状を出すくらいの俺としては、馴染みの薄い代物だな。

「はい、そうなんです。郵便受けに手紙が入ってるんですよ」

伏し目がちに言う北沢。

俺は、うーん、と考えて。

「手紙はむしろ、郵便受けくらいにしか入れないだろう」

「むー」

北沢は視線を上げて、俺の目を覗き込む。

「神之倉先輩。ちゃんと聞いてくださいっ」

北沢は、頰を膨らまして、もうっ、と言って上目遣いに俺のことを見上げた。

「何というか、お前、絵に描いたように女の子っぽいリアクションを取るよな。古典的というか何というか」

「神之倉先輩、それはチョベリバですっ」

指をびしっと俺の鼻頭に突きつける北沢。

「いや、それは何というか……。読者に伝わるのかというくらいの死語だな」

チョベリバ、チョベリグなんて小学校低学年の頃聞いた以来だぞ。

「オバタリアンですっ」

「全くその通りだよ!」

こいつ、本当に高校生なのか? 一〇才くらい鯖読んでない? いや、まあ、俺は小さい頃からこいつのことは知ってるから、鯖の読みようはないんだが。

「っていうか、お前、話す気あるのか? そんなくだらない事ばっか言って」

「神之倉先輩、そのくだらない話を振ってくるのは、あなたです」

はて、そうだっけか。

「いやー、すまんすまん。話を始めてくれ」

「もうっ」

ぷんぷん、とかいう妙な擬音をつけやがる北沢。今時、こんなことを言うのは、漫画やアニメのキャラでも滅多にお目にかかれねえぞ。こいつは、絶滅危惧種級の女だな。俺が守ってやらねば。

……あ、話を振っていたのは俺でした。すいません。

そんなお粗末な俺のおつむを尻目に、北沢はぽつりぽつりと話を始めた。

「あれは、先週の月曜日のことでした。うわー、今日からまた学校かー、やだなーと思っていたので、間違いないです」

うわ、めっちゃ嫌そうな顔! 臨場感に溢れてる。

「学校、嫌だなぁ、怖いなー怖いなーと思っていると、リビングのドアの曇りガラス越しに、何かぼやーっとした影が……」

稲川淳二かよ。ほんとによう知ってんなこいつ。もう突っ込まないけれども。

「まあ、それは菜奈だったんですけどね。あ、菜奈というのは私の可愛い妹です。で、私は、おはようと普通に言うのもなんだなーと思って、出会い頭にしこたま頬擦りしました」

「いや、全くなんではないだろ。普通に挨拶しろや」

「朝起きて妹を見かけたら、まずはしこたま頬擦りする、というのが姉の義務じゃないですか」

真顔で小首を傾げる北沢。

「どこの偉い人が定めた義務かわからんが、それは姉の義務であって、兄の義務ではないようだな。で、その話は必要なのか?」

「必要です。不可欠です! 私が妹を愛しているという情報は、何にも増して大切です! テストで出ます」

「テストで出るの!?」

そんなテストがあったら、俺は赤点確実だろうと、杞憂する。文字通りの杞憂である。取り越し苦労といってもいい。

「そのとき、お父さんに新聞を取ってきて欲しいと言われた私は、妹を連れて郵便受けに行きました」

妹もいい迷惑だろう。こんなにお姉ちゃんに猫可愛がりされて。

「で、そのとき不覚にも妹が郵便受けに手を伸ばしてしまいました。私はそのとき止めるべきだったのにっ」

「なんでそんなに後悔してるんだよ。郵便受けの戸が妹の手を取って食ったわけでもないだろう?」

「それ以上ですよ……、神之倉先輩」

「え?」

「妹は郵便受けに手を入れると、新聞紙ではない、何かメモ用紙のようなものを取り出しました。それを見た妹は……、泣き出しました」

「? 話が見えねえぞ、北沢。もっとわかるように話せ」

俺がそういうと、北沢は肩を震わせ出した。俯いていて表情はわからない。が、笑いを堪えて震えているわけでないことは、容易に想像できた。北沢は拳を握りしめ、何かに対して怒っているのか、恐れをなしているのか、とにかくその握りしめた拳の中に負の感情を閉じ込めているようだった。

北沢はその握りしめている手を、制服のスカートのポケットに忍ばせ、中を探って、そして一枚の紙片を取り出した。その紙片は四つ折りに雑に畳まれていた。

俺がその紙くずに目を奪われていると、北沢は手をそろそろとこちらの方に持ってきて、その手紙といっていいのかわからないような、粗末な代物をゆっくりと開いて、見せた。それは、落書きのような走り書きで、ギリギリ文字と判別できるような塊で埋め尽くされていた。




死ね 死ね うざい

邪魔だ 消えろ

死ね うざい

返せ 死ね死ね

死ね 死ね 死ね 死ね

返せ 消えろ消えろ消えろ

うざいうざい

死ね死ね死ね死ね死ね




「なっ……!」

俺は開いた口が塞がらなかった。その文字を構成する線一本一本は、まるで呪いを込められたかのように禍々しくうねっていた。その呪いの手紙と、震える北沢を前に、俺はその場に呆然と立っていることしか出来なかった。


呪いの手紙か、はたまた、ただのいたずらか。どちらにしても、タチが悪いことには変わりがない。俺の見た限りでは、その筆跡は子供のもの。手紙の内容から見ても、その線が妥当だろう。今時手紙なんて風流だなあと感じる心は、今時の若者であるところの俺にもあるのだけれど、しかしどうして、久々にお目にかかった手紙が、このような悲惨な、もっといえば、凄惨な内容なのかと、残念に思う良識も持ち合わせている俺は、きっといい奴なのだろうと感心する。きっと、ガラス玉のようにデリケートで、優しく清い心を持った好青年なのだろう。

「いやいや、倉っち。倉っちの心はデリケートというより、バリケードっていう感じだと思うよ」

バイト先の学習塾。いくつかのブースに区切られたその一角で、机を挟んで対面に座る凛花という小学生が、平然として言う。

「バリケードって、全く逆じゃねえか!」

実のところ、たった二文字を変えただけで、正反対の言葉になったことに関して、感心して、怒りより感動が先にきたため、そんなに声を荒げることはなかった。

「っていうか、どうやって俺の心を読んだ!」

声を荒げた。驚きで。

「読心術です。私は人の心を読むことができるのです」

小学生は、いつもより声のトーンを下げて言う。

「じゃあ、俺が今何を思ってるか当ててみろよ」

「凛花ちゃんって、勉強もできるし、可愛いし、その上読心術までできるなんて、こんな完璧な女性はほかにいないよ!」

「残念だな。俺は今、お前みたいに不完全な人間は他にいねえと思ってたところだ」

「それはおよそ大人が小学生に対してする発言とは思えませんね、神之屑さん」

「おい、俺の大事な『ら』を『ず』に変えてくれてんじゃねえよ」

「紙屑さん」

「俺の名前って、そんなにひどかったの!?」

たった二文字変えただけで。言葉っていうのは、大事にしなきゃいけないと、改めて思ったよ。

「はあ」

「なんだよ、さっきのことなら悪かった。ごめん」

ため息を突かれるほど、傷ついているとは思わなかった。冗談のつもりで言ったつもりだったが、こいつも一応子供か。大人気ないことをしてしまったな。

「いや、倉っちが器の小さい人間だってことはわかってたから、あれぐらいの発言は大丈夫だよ。その程度で、倉っちのことを塾長にちくったりしないって!」

「それだけはやめてくださいお願いします」

全身全霊の土下座だった。あの元ヤンに殺される。死ぬ。っていうか社会的に死ぬ。職を失う。

「で、どうしたんだ、ため息なんかついて。また、なんか悩みか?」

この前誰かがうざいとかなんとかで、荒れてたよなこいつ。

「……」

なんだこいつ。今日は妙にしおらしいじゃねえか。いつもなら、こういう風に訊いたら、「そうなんだよ、倉っち、あいつがうざくてさあ!」なんて、友達のことについて話してくるんだけどなあ。

今回は、ちゃんと聞いてやるべきかな。大人として。いや、別にさっき器が小さいとか言われたからじゃないぞ。俺は元々優しいんだ。

それから、俺は押し黙っていたが、結局、彼女は一度も口を開かなかった。国語のテキストを開いて、シャーペンを持って、椅子に座っているだけだった。まあ、側から見れば、彼女は真面目に勉強しているように見えただろうから、俺としては好都合だったが。

いつもこうだといんだけどなあ。

「よし、今日はもう時間だ。帰る準備するぞ」

まあ、その実、何も勉強しちゃあいないのだが。

「……」

目の前の小学生は、ろくに荷物を片付けようともせず、ただ黙りこくってうつむいている。

「やっぱり、なんかあったんだな? 友達と喧嘩でもしたか?」

彼女は首を横に振る。

喧嘩でないとすると、他に何が考えられるだろう。

「あれか、いじめられたか。いや、お前はいじめられるというよりもいじめる側か」

ははははははは。

傷心の小学生女子を目の前に、高らかに、朗らかに、大爆笑をかます大学生男子の姿がそこにはあった。有り体に言って、人間のクズだった。

「屑っち、私はいい子なんだよ。だから、私がいじめるのは屑っちだけなの。屑は人間に入らないから、いじめたって罪にはならないよね?」

「おい、言いたい放題言ってくれるじゃねえか。さっきまで一言も喋らなかったくせに、俺を貶めるチャンスだと分かった途端、水を得た魚のように元気になりやがって。お前こそ屑なんじゃないのか?」

「屑は屑でも、紙屑の倉っちとは違って、私は星屑だね!」

……なぜ、同じ屑という言葉を付けたはずなのに、ここまで印象が違うのだろうか。俺は自分の名前を恨んだ。この恨み、末代まで忘れはせんぞ! と思ったが、末代までずっと神之倉なので、状況は好転するはずがないのだった。

「で、なんだよガキ。誰かとなんかあったんだろ? ここまで俺を怒らせたからには、お前が名前を吐くまでテコでも動かんからなぁ!」

「何で、私は共犯者をかばって、共犯者の名前を白状しない、仲間想いの犯人みたいになってんのよ」

と、一息に言った。

まあ、共犯者といえば共犯者か。とか、ぼそっと付け加えたように聞こえたが、まあ、いいだろう。そこは、確かにそう言ったかどうかも不明瞭なので、気にするまい。

「いいよ。言ってあげる。菜奈ちゃんだよ」

「菜奈ちゃん?」

そう言って、言葉を反芻し。

「どっかで聞いたことある名前だなあ」

俺は腕を組み、頭の中の名簿を探る。しかし、どうやら、すぐに探せるところには、その名前はないらしい。

「倉っちが知ってたらやばいと思うけど……」

同級生だよ。と、彼女は付け足した。

まあ、普通に考えれば、小学生女子と知り合いというのは、なかなかやばい臭いがするというか、犯罪臭いという感じではある(塾の生徒を除けば)。でも、どっかで聞いたことがある名前なんだよなあ。芸能人かなんかだったろうか。

「覚え違いかもな。で、喧嘩でもしたのか?」

「喧嘩っていうか……」

言いにくそうに口ごもる。

「喧嘩っていうか?」

「最近遊べてなくて」

そこまで言って、再び口ごもる。

「神之倉先生〜。閉める時間なんで、早く凛花ちゃん帰してくださいね〜」

と、受付の方から塾長の声がかかる。口調こそ穏やかなものの、それがかえって恐怖を助長する。きっと、顔は鬼のような形相をしているに違いない。

時間は一〇時を過ぎていた。

俺は早口に言う。

「おい、ガキ早よ帰るぞ」

「うん、わかった、すぐ片付ける」

急に聞き分けの良い彼女。こいつも小学生なりに、塾長の怖さを分かっているらしい。いつものこいつからは想像もつかないくらいのテキパキした動きで、そそくさと片付けて、すぐにブースから出て行った。

壁を一枚隔てた受付からは、時間は守らなあかんやろ、とドスの効いた声が聞こえた。ような気がした。が、気のせいだろう。塾にヤッさんがいるわけがないのだから。

俺は報告書を書きながら考える。今日、北沢から聞いたことを。あの、胸糞の悪い手紙のことを。

誰が何のために、あんな手紙を書いたのだろうか。そして、北沢家の誰に宛てたものだったのだろうか。それとも、なんの目的もなく、誰に宛てたのでもない、愉快犯的な犯行なのだろうか。愉快犯であるとすれば、それこそタチの悪いいたずら、ということになるが。いたずらで、あそこまでの内容が書けるとはとても思えない。

紙面から溢れんばかりの呪いの言葉。死ね、邪魔だ、消えろ。誰があんなことを平気で生身の人間に対して使える?

「死ね、邪魔だ、消えろ」

「!?」

俺は豆鉄砲を食らった鳩のような気分で、声のする方を見た。

「あー、すまんすまん、神之倉くん! 心の声が出てもうたわ!」

あー、びっくりした。謝ってくれたということは、良くないことだという自覚はあるんだな。

「いや、危うく謝られたから聞き逃すところでしたけど、今心の声とか言いましたよね!? それ、本心なんですよね!? 同僚にそんなことを平気でいう教育者がいていいんですか!?」

そもそもの話、こんな大人がいていいのだろうか。こういう大人に学んでいる子供達とは一体……。

「いやー、同僚やから言うたんやないで? 神之倉くんやから、言うたんやで?」

思っていたよりも酷かった。まさに残虐非道。元極道。

「とにかく、もう塾閉めるで、早よ出て行きーや」

とにかく、と言うのであれば、とにかく、謝罪の言葉を述べるのが最優先されるべきことだと思うのだが。悪いことをしたらまず、ごめんなさい、という教育は、どうやら塾長の地元までは行き届いていないらしい。このような塾長が経営する塾の下で勉強している子供達を、不憫に思わなくもなかった。

なにはともあれ、いや、なにはなくとも、塾長とのこれ以上の議論は不毛でしかない。全く、こんな人だったとはがっかりだ。見損なったと言ってもいい。心底失望したよ。やれやれ、俺は付いていく大人を間違えていたようだ。こんなひとのもとで働いてられるか。やってられんわ。

そんなことを考えていると、背中の方から視線を感じた。受付と教室を隔てる扉のところに、塾長、もといスケバンが仁王立ちで睨みを効かせている。俺は、そんな塾長に対し、精一杯の勇気を奮ってこう言ってやったさ。

「お疲れ様でした! お先に失礼します!」


「虎……なあ」

酉井は、訝しげに俺の言葉を反復する。うーん、と考えたのち、ぽつりとこう続ける。

「虎といえば、阪神しか思いつかへんな」

阪神タイガースな。これだから関西人は。

「阪神が勝てなくて、イライラしてる人がいるとか?」

「あー、それあるなぁ。最近勝ってへんからなあ」

金本もイライラしとるし云々と、阪神タイガースの内事情を説明する酉井であったが、内容は全く頭に入ってこない。なにを言ってるんだこいつは。

「……やと思わへんか?」

「あ? ごめん、聞いてなかった。そもそも冗談のつもりだったし」

「いや、俺も冗談やとは分かってたで」

なら、なぜ答えた。

と言いたいところだが、いちいち付き合っていたら話が進まない。ここは、無理矢理にでも話を戻すのが先決だ。

「で、昨日はその虎を追いかけてたんだが、逃げ切られてな」

「そうそう、昨日は追いかけられる展開やったけど、JFKの継投で逃げ切ったんや」

なんでだ。何故、阪神の話に戻る。どう切り出しても阪神の話に帰着してしまう。いや、待てよ。

「JFKって、一〇年も前の話じゃん」

実はこいつ、自分が関西出身だってことをひけらかしたいだけなんじゃないのか?

酉井はかかかと笑って言う。

「いやー、ばれてもうたか。神之倉はん野球詳しないと思ったんやけど」

「JFKくらい聞いたことあるわ」

舐められたもんだな。野球に興味がなくても、男子であれば聞いたことくらいはあるものだろう。久保田、藤川、Jは……誰だったっけ? まあ、その程度の認識だ。

俺と酉井は、昨日俺が虎と出会った辺りに向かっているところだった。夜は暗く、時刻は一二時も回って明かりはまばら。前風にさらされ、肌寒さを感じる。

昨日の虎を探しているとはいえ、一番いいのはその虎が見つからないことだった。なんだか矛盾しているようにも思えるが、虎の御神体である人間が、昼間の間にその問題の人間関係を修復してしまっている方が、考えるまでもなく最善の解決法だからだ。俺たちも好き好んで乱暴な方法を取りたいわけではない。俺たちのやっていることはいわば対症療法であって、根治療法ではない。つまり、問題の火種は残るわけであって、何かの拍子に再燃する可能性があるのである。

「ところで神之倉。お前の言うとった虎ってのはあれか?」

酉井が一軒の家を指差して言う。その屋根を見ると、いた。一匹の小さな虎が。

どうやら、淡い期待は抱くだけ無駄だったらしい。まあ、それもそうだ。摩物を生むほどに拗れた人間関係が、一朝一夕には解決を見るはずがない。

「いくぞ酉井。虎狩りだ」

俺は高度を下げて、その屋根に向かう。後ろから酉井が追いかけてくる。

「阪神ファンの俺としては気がすすまへんけど、しゃーなしやで」

屋根に近づくにつれ、速度を落とし、着陸時にホバリングするヘリのようにふわふわと浮いて、それから着地する。

目の前には子供サイズの虎。ぼやーっとした淡い光を纏い、ちょこんと行儀よく座って、こちらを見上げている。

「んー、摩物にしてはえらく小さい虎やなぁ。狩るのも可哀想なくらいや」

酉井が慈悲の目で虎を見る。たしかにそれには俺も同感だが。

「お前、阪神タイガースの虎だからって、こいつを見逃すわけじゃないだろうな?」

じー。

「いや、そういうわけではあらへんねやけど」

ただ、と言葉を切る酉井。

「わしはこれまでに虎にあったことは何回かあるねんけどなあ。ここまで小さい虎は初めてやねん」

なんだか含みがありそうな物言いの酉井。何か思考を巡らせているのだろうか。

「小さいってことは、そんなに重大な事態じゃないってことなんじゃないか?」

「まあ、そういうことなんやろな。ただ、今まで見たことなかったで気になっただけや」

なんであれ、俺らのやることは変わらへん。始末するだけや。と、乱暴に言い捨てて、箒を構える。そして、その対象、虎目掛けて一直線に駆けていく。勢いそのままに一気に距離を縮めて、虎の手前で大きく跳ねる。

「消えてもらうで!」

酉井は重力の助けを借りて、虎の頭上から、思い切り箒を振り下ろす。

「あれ?」

酉井は、不思議そうに辺りをくるくる見回す。どこ行ったんや、と酉井は必死になって探すが、側から見ている俺にとっては滑稽そのもの。虎は、酉井が飛び上がった一瞬の隙をついて、一軒向こうの屋根に飛び移っていた。

アホヅラを晒してこちらを見る酉井に対して、俺は向こうの屋根を指差してやる。

「くっそ、なんやねんあいつ。バカにしてくれるやないか。許さへんからな」

酉井は悪態をついて、隣の屋根に飛び移る。

俺も昨日はこうだったんだな……。誰も周りにいなくて良かった。本当に良かった。こんなの馬鹿丸出しじゃないか。馬だって、鹿だってこんな醜態は晒さねえよ。という理論は、いっている自分にもよく分からなかったが、しかし、酉井がとんでもなくアホらしいことをやっているかは、経験者であるところの俺にはよくわかった。あいつめちゃくちゃすばしっこいんだもん。ボルトでも追いつかねえよ。

「待てやこらぁ」

という酉井の声がすごく遠く聞こえたのだが、その実、暗闇に紛れて酉井の姿はほとんど目視出来ず、あそこに確かに酉井がいると認識できるのは、その情けない声と、虎の放つぼやーっとした光の支えがあってこそだった。

まったく……。

「待てやこらぁ」

同じく情けない声を上げてしまう俺。

夜の街の空中には、虎を追いかける男子大学生と、その虎を追いかけている男子大学生を追いかける男子大学生という、いささか滑稽な光景が出来上がっていた。そんななかなかにコミカルな、某ネズミと某ネコを描いた海外アニメさながらの追いかけっこを、一五分は演じたところで、虎はある一軒の屋根の上で動きを止めた。自然、酉井が虎に追いつき、俺が酉井に追いつく形になる。知らぬうちに俺たちは、この虎を俺たちという言葉で括っていいのかはわからないが、どうやら駅の向こう側に来ていたらしい。

と、動きを止めたと思った虎が急に駆け出す。しかし、今度は別の屋根に飛び移るのではなく、屋根の上を文字通りの意味でしっかり地に足をつけて、南の方角へと歩を進めていく。

「あ、」

と、俺が追いかけようとした時には、もう遅かった。虎は屋根の端まで行くと、その身軽な体使いでひょいっとベランダに飛び降りて、そして、そのままガラス戸をすり抜けて、部屋に入って行ったのだ。

「くっそ、何やねんあいつ。ちょこまかと逃げやがって。卑怯な奴やで。男なら真っ正面からかかってこんかい」

酉井の鬱憤が溜まったその言葉は、そもそも人間ではない、もっと言えば生き物でもない(そして、オスかメスかもわからない。果たしてその区別がまず存在するかも不明)その存在に対しての物言いとしてはいかがなものかと思わなくもなかった。

「家の中まではさすがに不法侵入で俺らが捕まっちゃうからな。今日はここまでにしようぜ」

俺は、家の方角へと足を向けた。駅を挟んで向こう側には、大学が小さく見える。

そこで俺は、ここからの景色に見覚えがあることに気づいた。既視感というにはあまりにもはっきりした感覚。この場所に心当たりがある、といったほうが今の感覚としては近い気がした。それも、最近の記憶に結びついている感じだ。

あたりの道路、建物、風景それらを一つ一つ確認するように見回して行く。駅からほどない距離、徒歩で五分と行ったところだろう。駅までは難なく歩いて行ける。それらの情報を統合して、俺はここがどこなのか確信する。正確には、この家が誰の家なのか。ここは……。

「ここは……北沢の家だ」

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