虎退治一日目

「おい、ってもうこんな時間じゃん。お前のせいで一ミリも今日の授業進まなかったじゃねえかよ」

壁に掛かった時計を見ると、時刻は午後九時四五分三五秒、あ、今三六秒に。

この女子小学生ーー星野凛花ーーは、全く勉強しやがらんと、ペチャクチャペチャクチャくだらんことばっか言いやがる。まあ、別に、こいつが勉強しなかったところで、俺の時給は変わらんし、実害はないんだがな。つーか、それ以前にこいつ勉強しなくても勉強できるし。

「だってさ、倉っち。あいつがうざすぎて仕方ないんだよ!」

しかし、「勉強しなくても勉強できる」っていうのは、よく考えてみれば変な言い回し、というか矛盾している表現なのではないだろうか。いや、だってさ、「勉強しない」っていう習慣と、「勉強している」っていう反対の状態が、同時に存在することになっちゃうんだぜ? これは、哲学的問題だな。人類が解決すべき、最優先課題といっても差し支えないんじゃないだろうか。

「おい、倉っち、無視すんなよ」

「先生に向かって、おい、とか言ってくれてんじゃねえよ。このアマが」

「おい、倉」

「『っち』という、促音と愛称を表す活用語尾の二文字を抜いただけで、上下関係が完全に逆転しただと!?」

「おいくら?」

「さらに、一店員とお客様という関係になって、立場の差が開いてしまった……! こうなったら、何も言い返せないじゃないか。お客様は神様じゃないか」

「How much is it?」

「お客様、私は税込一〇五円でございます。税抜きでは百円にも満たない、その程度の価値の人間でございます!!」

ガキは、俺が、この俺様が寛大な心で、何の利益もない会話に付き合ってやったというのに、それに対して不遜にも溜息で応える。

「あー、うざいうざいうざいうざい」

「そんなに誰のことがうざいのか知らんけど、お前も相当うざいぞ?」

「おい、くらぁ」

「おいガキ。俺の名前を、こらぁ、と一緒くたにして呼ぶな。手を抜いてんじゃねえよ」

「いやいや、倉っち。『手』を抜いたんじゃないよ。『倉っち』から『ち』を抜いたんだよ。塾の先生のくせに頭が悪いなあ、倉っちは。ひらがなも間違えるの?」

「俺は頭が悪いかもしれないが、お前は頭がおかしいな」

ほら、くだらんこと言っとらんとはよ帰れや。そう言うと、やつは、仕方ないなーと不服そうにそう言って、片付けを始めた。この辺がまだ素直で、可愛いと思えるところだ。それに比べて、あの妹ときたら。

俺は今日の授業の報告書を二枚、即ち、生徒に持たせる保護者用のものと、こっちで管理し、次の授業をする先生に生徒を引き継ぐためのもの、を書いた。もちろん、保護者用のものには、「お子様は、大変熱心に取り組んでいました」とコメントすることを忘れずに。

「とにかく、今日できなかったところは、来週までの宿題だ。わかったな」

アマガキ、元気溌剌に敬礼。

「了解、倉っち。わからないけど、わかったよ!」

「哲学的だぁ!!」


俺が、履き潰した黒の革靴を下駄箱から取り出して履こうとしているところに、背後から、コッテコテの、それはそれはどんだけ太らされた豚から作ったらそんな豚骨ラーメンができるんだというレベルでコッテコテの関西訛りで声をかけられる。

「神之倉くん、今日はおつかれやったなあ」

生徒から元ヤン先生と呼ばれている塾長の、精一杯の猫なで声での労いの言葉だったが、ここは訂正せざるを得ない。

「塾長、『今日は』じゃなくて、『いつも』ですよ」

「あー、せやせや、神之倉くん! 最近、凛花ちゃんにずーっと悩み聞かされとるんやったな」

ははは、と人の苦労を肴に、大きく口を開け、手を叩き笑う塾長。これで大爆笑するようじゃ、関西の笑いのレベルもたかが知れとるな。

「あんなもん、悩みじゃないですね。ただ、勉強したくなくてだだこねてるだけですよ」

「神之倉くん、ようわかっとるんやなあ」

塾長は、暗めの茶色に染めたまっすぐな長い髪を、耳にかける。パンツスーツにジャケットという格好も相まって、どっかの会社の受付嬢みたいである。まあ、実際、この塾で受付も務めているのだが。

「まあ、塾長より十も若いですから。それに……」

塾長はさっきまでの笑顔を引き下げて、渋面を作るが、構わず続ける。

「それに、僕も勉強は嫌いでしたから」

拳を突き出して、親指をピンっと真上に立てる。グッドラック。

「神之倉くん? 次の授業では、凛花ちゃん、ちゃんと勉強させるんやで?」

鋭い眼光。ドスの効いた声。腰に片手を当て仁王立ち。さっきの猫なで声と笑い顔はどこへやら。彼女の背後からは、黒い闇が立ち上っているような幻覚さえ覚える。

「はい……」

これが元ヤンの力……。ぐはあっ。これがカーストの違いか。高校三年間、大学一年間、教室の後ろの方の机に三、四人で集まってゲームや漫画の話で盛り上がり、周りの奴らから冷ややかな視線を浴びてきた。虫けらのように地を這い、ミミズのように土に潜ってきた。そんな俺とは、完全に無縁の世界で生きてきたオーラだ。しかし、俺も、クラスの闇、学部の闇。闇という点では俺の方が深い、深過ぎる、深淵だといってもいい。俺は、俺は……、闇で闇を制す……! うおおおおおお!

「お疲れ様でした」

俺は塾の入り口を出てそう言うと、後ろで自動ドアがウィーンと音を立てて閉まった。

外は暗く、明かりという明かりは、塾から漏れる光だけである。気温も昼間の暑さに反して、涼しくなり、ともすれば少し肌寒いくらいだ。そんな空気をすうと吸い込むと、体の中がひんやりとする。

そして俺は、塾での仕事が終わり外に出るとき、いつもそうしているように、当然のように、しかし、嫌々、こう自分に言い聞かせる。

「やれやれ、やってやるか」


俺は大学の屋上で一人、時間と人を待っていた。うちの学校の屋上は、この時間はもちろんだが、昼間も同様に安全面への配慮からだろう、進入禁止になっていて、屋上への扉には錠がかかっている。屋上は四方をフェンスで囲まれていて、有刺鉄線が張り巡らされている。

左手首に付けた、まあ時間が分かればいいやくらいの気持ちで買った、比較的安価な時計に目をやって時間を確認する。一一時五八分三八秒。秒数まで要らないって? うるせえな、いいだろ別に。

「よう、神之倉はん」

後ろから不意に声をかけられる。いつの間に俺の背後にいたんだこいつは。忍びかよ。

「ギリギリだな、酉井はん」

「いやあ、バイト自体はもう一時間前には終わっとったんやけどな。ただ、俺の腹の中に住む狂気が全く言うこと聞けへんくてな」

酉井は腹を抑えながらそう言う。

俺と酉井の間に、静寂が降りる。一つの人の声もなく、聞こえる音といえば、フェンスを吹き抜ける風の音だけだ。俺は、この空気に気圧されながら、重い口を開く。

「お前それ……」

「おう、なんや」

俺は決心を固めて、ごくりと唾を飲み込む。

「ただうんこしたくて腹痛かっただけじゃん」

一瞬の間が空く。

二人の目と目がかち合う。酉井が何か言いたそうな目でこちらを見ている。聞きますか? いいえ。

「俺の腹ん中で狂気が暴れまわっててん」

「酉井、お腹弱すぎだろ。いつもうんこしてるじゃん。うんこの神かよ」

酉井のくだらんボケは華麗にスルー。

「うんこの堕天使言うてくれや。今日も特大のを産み堕としてきた俺のことをな」

負けた…。一本取られた。なんたる敗北感。屈辱だっ。もうだめだ。これ以上一歩も動けない。

「おい、神之倉、何しとんねん。時間や。行くで」

そんなどうでもいいことを考えていたら、気づかぬうちに引き摺られるようにして酉井に引っ張られていた。いや、事実、引き摺られて、引き連れられていた。痛えじゃねえか、こら。

「準備はできたか?」

酉井はフェンスに立てかけられていた箒を手に取り、それに跨りながらこちらに顔だけを向けて言う。

「もちろんだ。金はちゃんと頂かなければな」

時刻は〇時。秒数をいうのを端折ったわけではない。〇時丁度なのだ。〇時は大事な時間だ。〇時は就業開始の時間で、今このときから時給が発生するんだからな。

俺もまた箒を持って跨り、そしてーー地面を両足で強く蹴る。

体が、跨った箒と共に、勢いよく宙に浮く、いや宙に飛び出ると行った方が正確か。とてつもない風圧に上半身を持っていかれそうになりながら、箒の柄の部分に上体を沿わせるように低くして屈む。そうすると、俺と箒が一体となり、弾丸のように夜の闇を切って進んでいく。前方には酉井、俺を先導するように飛んでいる。

「酉井、今日はどんな感じだ?」

飛行中は声を張らなきゃ聞こえない。疲れるぜ。

「今日は二、三体狩って終わりって感じやなー」

移動も入れたらそんなもんやろ、と酉井は付け足す。俺は、なるほど、とだけ言って、二人の会話はそれっきりで、ただただ黙って、静かな夜の街を飛んで行った。さっきまでいたうちの大学を背にして、俺たちの前方には住宅地が広がっている。移動時間にして五分ほど、距離は二キロほどしか離れていない。ここが、今日の俺たちの仕事場だ。

「さて、この辺でええか」

俺と酉井は、数ある一軒家のうち、適当な一棟のーー適当にというのは、いい頃合いのとか、そういう意味の適当ではなく、ランダムという意味でーー屋根の上に降り立った。

「やってやろうじゃねえか」

俺と酉井は、さっきまで乗り物として使用していた箒を、日本刀さながらに、というよりも、俺たちにとって箒は、侍にとっての日本刀だ、とでも言わんばかりにどっしりと構える。男性諸君であれば、小学校の掃除の時間に、こんなことをよくやったんじゃないだろうか。まあ、その時と違うのは、これが全くもってお遊びじゃねえってことだが。

視線の先には、一匹のーー猿。闇夜の中で、ただその一匹だけが、周囲の風景から遊離しているように、ズレているように、存在感を放っている。この物質世界に調和することができず、不和を起こし、ふわふわして、悪目立ちしている。

「覚悟しろよ、猿野郎」

俺は、その標的目掛けて駆け出す。驚いたのであろうか、猿は逃げようとも、身を守ろうともせず、固まったようにその場に留まっている。そして、俺は一気に距離を詰めて、箒を一振り。その一撃を見舞われた猿は、煙のように霧散して、そしてーー消滅した。跡形もなく。そこに元々存在しなかったかのように、消えた。

「神之倉はん、あれは猿野郎やない。猿や」

そんな減らず口をききながら、酉井が悠々とこちらに歩み寄ってくる。

ふふふ。酉井、それはとんだ失言だな。らしくないじゃないか。酉井にしては詰めが甘い。

「それを言うなら、猿でもないだろ。猿でもなくて、何でもない。あれは、そう。ただの、人が生んだ灰汁のようなもんじゃないのか」

酉井は、はははと笑ってみせる。

「いやあ、神之倉はんは、うまいこと言いよるなぁ。まあ、それを言うんやったら、人が膿んで出た灰汁とも言えるやろし、灰汁やなくて悪とも言えるんやろけどな」

酉井はそこまで言って、再び笑った。

なぜだ。なぜ、俺は酉井に勝てない。完敗だ。何一つの言い訳もなく敗北だ。無念……。

俺は両手、両足を着き、首をがっくりうなだれる。はぁ……、俺はいつまでも、酉井を倒せ……。

「ぐおおおぉっ」

何っ、俺の思いが通じたのか!? 念力で酉井を倒したのか!?

って、馬鹿なことを言っている場合ではない。猿がいたということは、その側には間違いなくーー犬がいる。猿がいるところには犬がいて、犬がいるところには猿がいる。それが理だ。

声のする方に目を向けると、予想通り、予想に反することなく、犬がいた。そして、その犬が酉井を押し倒して、今にも嚙みつかんばかりに、口を大きく開けている。

低く唸る犬。その口からは、涎が滴っている。

不意を突かれた酉井は、起き上がることができず、視線で牽制する。犬と酉井の睨み合い。睨み合いとはいえ、酉井の方がいささか部が悪いか。

刹那の睨み合いを経て、酉井はやっとのことで体勢を立て直す。その直後だった。

悲痛の叫び。

声を上げたのは、犬ではなく、酉井の方。酉井は反撃に出ようとしたところで、その出鼻を挫かれた。しかし、彼に攻撃を加えたのは、犬でもなければ、はたまた彼自身というわけでもない。

「おい、神之倉っ。何しとんねんお前! どつき回したろか?」

俺だった。

「いやー、ごめんごめん酉井。勢い余って、当たっちゃったわ」

いやー、すまんすまん、と誤魔化し笑いを飛ばす。そう、今言った通り、俺は瞬時に犬と距離を詰めて犬を消しとばしたのだが、その近くにいた酉井にも、そのスイングの余波で攻撃してしまったのだ。まあ、攻撃と大袈裟に言ったが、箒が当たったくらいで人間の体が消滅するわけでもあるまい。擦り傷がつく程度がせいぜいだろう。

「いや、まあ、ええんやけどな。犬も狩れたし、俺の身の方も問題ないんやから。ただ、お前がそこまでする必要があったんか? もう一秒あれば俺がやってたで?」

確かに、酉井の言う通り、俺は犬からやや離れたところにいたし、酉井も体勢を立て直して反撃に出るというところだった。俺が犬を始末する必要は、なかった。

でも。それでも。もし、また俺が同じ場面に遭遇したら、俺は当然のように同じようにする。俺の頭が改造されない限り、俺は何度でも、何回でもそうするのだろう。そして、何度でも、何回でもこう答えるのである。

「俺はお前を助けるために助けたんじゃない。俺がそうしたかったからそうしただけだ」

俺は、沈黙に耐えかねて酉井から視線を外す。そして、さっきまで犬が存在していた辺りを、ぼんやり眺める。

「ああ、せやったなあ。そういえば、お前はいつも、そういうとるわ。せやかて工藤。この際やから聞くんやけど」

「なぜ今、かの有名な推理漫画の西の高校生探偵を挟んだ」

「この際やから聞くけど」

いや、ちゃんとボケを回収しろや。なかったように続けるな。

「自分が助けたいから助けたって、結局それは俺を助けたことには変わりないんとちゃうか? 万に一つ、俺の反撃が間に合わなかった可能性やって、ないわけでもあらへんやろ?」

ふん。まあいい、寛大な俺様が、些細なことは水に流して、質問に答えてやるよ。やれやれ仕方ない。本当に俺以外の人間ってやつは、育ちがなってなくて困るぜ。

「お前を助けたことには変わりないさ。ただ助けることによって、誰を満たしているかって話だ」

酉井が怪訝そうにこちらを見る。

「人間ってやつは、結局自分を満たすために生きてるんだよ。する事なす事、全て自分のためだ。自分のためじゃないことなんて、何一つない」

酉井の怪訝そうな顔は、一向に変わらない。どころか、さらに曇ったようにも見える。

「そうか? 俺は人を助けるとき、その人のことを考えて行動しとるつもりやけどな」

「もちろんそうだろうな。ただ、その先には、その人を助けないと気が済まないという自分がいるんだよ。人間はその気を済ませるために、助けているに過ぎない」

酉井は、ほーん、と言って、明後日の方向を向く。その方向には、暗い暗い夜空があって、ここが田舎ということもあって、星がよく見えた。

酉井がそちらを向いたままで、俺に言う。

「俺は、自分がどうなったって構わない、そういう人助けもあると思うねんけどな」

俺は、酉井のその言葉に、ほーん、とだけ返して、その後には何も続けず、黙って空を見上げた。


「おら。消えろ」

俺は箒を振るって、目の前の虎を掃除しにかかる。箒だけに。

ネコ科の動物だけあってすばしっこいな。サイズが小さく身軽なようで、隣の屋根から隣の屋根へ飛び移っていく。

首だけをこちらに向け、尻尾を振る子虎。

なんだ。追いかけてほしいのか? 可愛いやつめ。

「ははは、待てえ」

と、こんなやりとりを、かれこれ三十分は続けている。酉井がいれば、両方向からいって挟み撃ち、ということもできたんだろうが、あいにく酉井は定時帰宅。俺は一人で、この子虎と追いかけっこだ。

いい加減疲れて、一度動きを止め、辺りを見回す。ここから少し離れたアパートの屋根に、白いぼうっとしたものが見えた。あるいは、体をぐるっと百八十度回転させた方角にある中学校の屋上にも、同じようなものが見えた。

俺は、酉井が上がり際に言った言葉を回想する。

「なあ、神之倉。最近、増えてへんか?」

「なにがだよ」

最近増えたといえば、不倫のニュースだとか、芸能人の不祥事だとかしか思いつかないが。

「何って決まっとるやないか。摩物のことやん」

摩物。摩擦物。人間関係の摩擦。

ああ、そうか。

「確かにそうかもしれんな。ちょっと前までは、今日の仕事はなし。って日も珍しくなかったもんな」

今日狩った、猿と犬。仕事としてはこれで十分だが、遠くの屋根を見れば、ぼやーっとした光が見える。あれもおそらく摩物。きっとあれで全部ではないだろう。

「せやな。やっぱり、年度の始めっちゅうのは、人間関係もこじれやすい季節なんかもしれへんな」

別れとそして新しい出会い。新しい人間関係。もちろん気の合う人とのいい出会いもあるだろう。円滑にことが運ぶこともあるだろう。でも。

「まあ学校だったら、話の噛み合わない人とか、変な人とか、尖った人とかは、クラスに何人かはいるしな」

「学校っちゅうのは、そいつらを無理矢理一緒に生活させて、皆んなで仲良く手え取り合いましょー言うんやから、そりゃあうまくいけへんわ。噛み合わない歯車、尖った物体、そんなもの同士を擦り合わせよう思ったら、摩擦が生まれるんは当たり前やいうねん」

そして、その物体の先端や噛み合わない部分が欠けたり、折れたりする。行き場を失った、鉛筆の削り粉、あるいは消しゴムのカスのようなそれは、夜な夜な徘徊する。あの猿と犬のように。

酉井がぼやく。

「俺らの仕事を増やさんといてくれや、ほんまに。どこの馬の骨かも分からんやつのために割く睡眠時間なんかあらへんわ。っちゅうことでわしはこの辺で帰るで」

酉井は箒を肩に担いで、既に踵を返している。

「俺はもう少し残るわ。なるべく減らしときたいんでな」

酉井は、首を回して顔だけをこちらに向ける。そして、冗談半分、呆れ半分に言う。

「ほんまに神之倉はんは、優しいなあ」

「俺は、自分がしたいからそうしてるだけだ」

「ははは、せやったな」

そう笑って、酉井は手を振り、家に帰った。

そして、今現在に至る。

そういえば、今日始末したのは犬と猿だった。犬と猿。犬猿。犬猿の仲。つまり、それは、今日もどこかで誰かと誰かがいがみ合ってたということ、なんだろうな。そういう関係に誰かと誰かがある、というのは悲しいものだ。俺達が始末したことで、すっきり解決するといいんだが。まあ、大した理由じゃなければ、寝て起きれば忘れている。もっとも、忘れさせたのは俺たちだということになるが。

俺は手を座について、肩を上下させる。息が切れるぜ、ったく。

「全然追いつかねえ」

追いかけるのをやめ、少し息を整えたところで、構えていた箒を下ろす。

やれやれ、今日は優しいこの俺が見逃しといてやる。その可愛いらしい姿に、同情させられてしまったことにして、見逃しといてやる。もちろん、この俺が本気を出せば、今すぐお前を消し去ることはできるが、しかし、それはお前のような幼気な存在に対しては余りにも無慈悲が過ぎるというものだ。やはり、俺は優しいからな。優しさの権化と評判のこのおれだからな。やっぱり赤子に手をかけるなんて、そんな非情なことはできないんだよな、うんうん。それに、お前が赤子だということはだよ。お前を生んだ人達にもそれほど問題はないということじゃないか。やれやれ、このような事実に裏打ちされてしまっては、もうお前を生かしておく他あるまい。

「じゃ……、じゃあな、虎」

俺は息も絶え絶えに、声を震わせながらそう言って、帰路についた。

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