第2話 天才だけが天才を知っている
シューマンの残した膨大な言葉のなかに、題のようなものがある。
ブラームスの才能を認めてデビューを後押しした晩年のエピソードは、まさにこの言葉を裏付けるようだ。
でも、違和感ありまくり。
偉大な作曲家で天才には違いないけど、自分を天才と言っているようで何か嫌な感じだな、など思われなかったのか。さらに、彼の謙虚な性格にそぐわない感じ。
作品68子どものためのアルバムの付録だった「音楽座右銘」の最後から二番目にも、「おそらく天才を完全に理解するのは、天才だけだろう」とある。子どもに向かってまで書いている。どうしても残したい伝えたい意図が感じられる。
そう、どうしても言い残したいと思っていたのだ。
彼が音楽評論家として身を立てていた頃。
当時、ドイツにはたくさんの雑誌が発行されていた。音楽評論誌も。その文章を書く評論家が問題だった。
シューマンはしばしば、評論に腹を立てた。
ある音楽新聞を発行している評論家は音楽の素人。なのに知ったかぶって、演奏を評価する。どこかを褒めたら、どこかをけなしてバランスをとっている。
そうやって適度に音楽家を貶めることで、自分の価値を上げる、権威を守っている。
ショパンもずいぶん酷いことを書かれ、いち早く認めていたシューマンはカンカンだった。
音楽の素人が適当なことを書き広めることに、彼はうんざりしていた。
音楽をわかる人間が音楽評論を書くべきだ。音楽家の才能があればあるほど、その価値がわかるのは同じぐらい才能豊かな者ではないのか?
そんなことを言ったら評論できる人はすごく限られるし、そこまででなくても音楽家への敬意と音楽への愛があれば、わかる範囲のことを書いてダメってことはないでしょう、と私は思うのだけど、シューマンはど素人の横暴にとにかく腹を立て、その怒りは、「新音楽時報」を創刊するエネルギーにもなったんですね。
これ以上若い音楽家が、まぬけな評論家どもに傷つけられるのは見ていられない。よし、ならばまともな評論誌を出そうじゃないか、とね。
音楽をよくわからん奴が音楽評論などするな!
ごちゃごちゃ言うなら自分で作曲してみろ!
と言いたいところを、「天才だけが天才を知っている」と短い一文に込めたんじゃないかなあ。
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