○第四章

 そして、一週間が経過した。

 勝負の当日。市民会館の駐車場に、普段は存在していないイベント集会用のテントが四つ立っている。二つは『豊』の、そしてもう二つがジョージア陣営がラーメンを作るのに用意された場所だった。

 しかし、鍋や具材など、本来ラーメンを作るために必要な道具が両陣営のテントに運び込まれていたが、すぐ使えるような状態にはなっていない。

 ラーメン勝負と聞いて集まった町内の人達が、どちらもラーメンを作り始めない異様な気配に、ざわめき始める。

 やがて、その人波をかき分けて、一人の憔悴仕切った少女が現れた。ジョージアだ。ここ数日まともに眠ることが出来なかったのか、目にはくまが浮かんでいる。

 そしてジョージアは、掠れて枯れた声でこう言った。

「……負けです」

「何だって?」

(一郎、鬼畜すぎるわ……)

 ケイが何か言っているが、物事の白黒ははっきりさせておいた方がいいだろう。俺は再度、ジョージアに問いかける。

「それで、今なんて言ったんだ?」

 その言葉に、ジョージアは心底悔しそうに俺を涙目で睨む。が、抵抗もそこまで。

「……ワタクシの、ワタクシたちの負けですっ!」

 弱々しく口にされた敗北宣言に、集まった人たちはわけも分からず驚き、両親と月子はそれでも喜びを爆発させている。一方ケイは、俺が見事完全勝利したというのにも関わらず、複雑そうな顔で虚空を見つめていた。

 この結果、この結末は、全て俺の計算通り、目論見通りというやつだ。

 ついに崩れ落ちて膝を地面につけたジョージアを見下ろしながら、俺はこの日のために行ってきた戦略を思い起こす。

 

(ここが、ジョージアの家か)

 月子の手引きで、俺は今日ジョージアと会う約束を取り付けることが出来た。マンションのオートロックに番号を入力。呼び出しボタンを押下する。

『もしもし?』

「俺だよ、俺」

(それだとオレオレ詐欺じゃない)

(今は振り込め詐欺という正式名称があるけどな)

「俺だ、一郎だ。ラーメンを食べに来た」

『! 少々お待ち下さい』

 やがてオートロックの扉が開き、俺はマンションの中へと進んでいく。エレベーターで四階へ行くボタンを選択し、エレベーターにその身を委ねた。そして目指していた場所、ジョージアの部屋である四〇三号室の前へと到着した。

 呼び鈴を鳴らす、前に、扉が施錠。その向こうから、少し息を切らせたジョージアが現れた。

「悪い、立て込んでたのか? もう少し外で待とうか?」

「い、いいえ! 大丈夫です! その、まだ時差ボケが治っていなくて、お恥ずかしながら寝過ごしてしまいまして……」

 どうぞ、と部屋に通される。なるほど、確かにまだジョージアの髪は少しだけ寝癖が残っていた。とはいえ、それは今は対して重要ではない。重要なのは、その先だ。

 部屋着なのか、Tシャツに短パンというラフな格好をしているジョージアの部屋は、なるほどまだ完全に荷解きが終わっていないのだろう。ワンルームの部屋にはスーツケースにダンボールが幾つかと、そして取り敢えず自分に横になってくださいと申し訳ばかりに置かれているベッドが置かれているだけだ。

 いや、まだ置かれている物がある。それは足の短い机だった。だが、どこにでもありそうなその机が、否応なしに存在感を放っている。

 何故ならその机の上には、一杯のラーメン丼ぶりが置かれているからだ。

(来たな、一郎)

 その上に、いや、彼女自身の上に、リブが姿を現した。机の上に置かれているラーメン。あれこそが、ジョージアの思考の一杯。

 何故それが置かれているのかというと――

(そ、それで、マスタ。ほ、本当に、いいのですね?)

(ええ、ワタクシの意思に、変わりはありません。リブを、一郎に食べてもらいます!)

(っ!)

 意を決したジョージアの言葉に、リブが一瞬にして赤面。そして恐れと若干の期待を含み、潤んだ目で俺のことを盗み見る。初対面の時に感じた軍人の如き勝ち気さは鳴りを潜め、今はまるで生娘が初夜に臨もうとしているかのようにも見える。どんな心理変化だよ。

「そ、それで、一郎。一郎のケイさんは?」

 一方ジョージアも落ち着かない様子で、自分の右親の爪を少し噛みながら、どこか期待する眼差しで、ケイを上目遣いで見上げた。だから、どんな心理変化なんだ。

(い、いいわ、一郎。私、食べられる心の準備は出来てるから。一郎が望むなら、私っ!)

(いや、お前もかよ!)

 そう、今日は俺とジョージアが勝負をする前に、自分たちの至高の一杯を食べ合うために集まったのだ。

 理由は、勝負の前に相手の実力を知ることで、自分の作るラーメンを更に極めるため、ということにしてある。

 もちろんそんなものはお題目に過ぎない。本当の目的は、俺がジョージアの至高の一杯を食べること。

 無論、ジョージアも対戦相手である俺からの申し出に一瞬躊躇したが、人に出せないようなラーメンが至高の一杯なのか? と挑発することで、上手くこの場をセッティングすることが出来た。

 対話なしではラーメンを作ることは出来ない程リブを信頼しているジョージアが、リブへの侮辱を許せるはずがないと見切った上での挑発だったのだが、上手く行き過ぎて逆に不安になる。なんでこの人、こんなにラーメン好きなの?

 そもそもなんでこいつら、自分の作ったラーメンを食べ合うだけでこんなに発情したっぽい感じになれるの? 俺がおかしいの? 麺力ってひょっとして中学二年生の性欲が爆発して妄想を垂れ流しているだけなんじゃないのか?

 人外魔境に一人取り残された気分になりつつも、気を取り直して俺は自分の鞄からケイを取り出した。

「こ、これがケイさんの、生まれたままの姿……」

 ラーメンの丼ぶりを、生唾を飲み込んでジョージアが見つめる。見つめられたケイは、羞恥にその身を躍らせた。

(いや、そんなにじっくり見ないで……)

(マスター! そんな鶏ガラじゃなく、ワタシをもっと見てください!)

 本当になんなんだよここは。

 普通、ラーメンが鞄から出てきたことの方に驚くだろうが。

 まぁ、ジョージアは麺力使いなので、至高の一杯がどの様な状態で保管されていたとしても、人に食べられない限り至高の状態を維持できる事は知っているのだろうけれど。

 しかし、この至高の一杯はマジで凄い。スープも横にしても溢れないなんて、ニュートンもビックリすぎるだろ。この力を、何故神はラーメンのためだけに人間に与えたのか、つくづくよくわからない。

「それじゃ、そろそろ始めよう、ジョージア」

「え! も、もうですか?」

「そうだよ。そのために来たんだろ?」

「で、でも、そんな急に! はしたない、ですぅ……」

「ねぇ、ラーメン食べるだけだよ!」

 話が先に進まなそうなので、俺は自分の丼ぶりをジョージアの前に置き、反対にジョージアの丼ぶりを自分の方へと引き寄せた。

(くっ! ま、マスターがいる前で……。ワタシ、見られて、こんなに汁、溢れてるぅ)

 ラーメンだからな。

(あぁ、一郎! せめて見ていて……。私が食べられるところを。ほらぁ、私、こんなに熱くなってるぅ)

 ラーメンだからな!

(す、凄いです! リブがワタクシ以外に見られてあんなに……。ワタクシも、今からこんなになってるケイさんを食べてしまうなんてぇ。食べてるところを、リブにみられるなんてぇぇ。はぁ、興奮しますぅ)

 興奮するって言ったぞ今!

 俺にはレベルの高すぎる会話に業を煮やして、俺は自分の箸を取り出した。吐息が荒くなり、どんどん喘ぎ始めるリブを無視して、俺はラーメンを食べることに集中する。

 ジョージアの作ったラーメンは、叉焼の代わりにスペアリブを載せた牛骨ラーメンだ。

(あはぁ、よ、よせ、やめろ一郎! そんな乱暴に突いちゃらめぇ、らめなのぉぉぉ!)

 まずは、スープからかな。

(あぁッ! じゅ、じゅごぃぃぃ! そんなにジュルジュルじゅわにゃいでぇぇぇ! おじる飲まれゃうのぉおおぉぉ!)

(うん。さっぱりとした口当たりでありながら、鮮やかなコクがしっかりと口の中に残る、良いスープだ)

(あああぁぁぁあああ! ほ、褒めりゃれちゃぁったぁ、わだでぃのおじどぅ、褒めりゃれぢゃっだよぉぉぉおおお!)

 次は、スペアリブかな。

(あへぇあへぇぁぁぁあああっ! あぁッ! か、かんじゃりゃめにゃにょぉぉぉ! りゃめにゃにょにぃ、しゅごぃッ! まじゅだぁ以外にゃのにぃ、あいでぃはぁ、いぢろぉにゃにょにぃぃ、わだでぃうれぢぃぐにゃっちゃぁっだぁぁぁあああッ! あッ! あッ! きゃみゃれりゅにょ、しゅごぃぃぃいいいいッ!)

(スペアリブのスパイシーなバーベキューソースが、不思議とこの極太麺と絡み合って、極上のハーモニーを奏でる。うん、美味い)

(あひゃぁぁぁあああっ! 言われだ、言われぢゃっだよぉぉぉおおお! おいじぃでぃ、言われぢゃっだぁぁぁあああっ! うれぢぐなっぢゃうぅ! まぢゅだゃぁの前でぃ、らめ、らめにゃのぉおおぉぉにぃぃぃ、うれぢぐなっぢゃううぅぅぅううううのほぉぉぉおおおあああぁぁぁあああ!)

 ねぇ、ラーメンの擬人化にこれ本当に必要なの?

 呆れながらスペアリブを箸で更に半分に割っていると、ジョージア達の方にも動きがあった。

(凄い、凄いわ! ワタクシ以外でリブがあんなになってっ!)

(一郎、ヤダ、やっぱりヤダよ、私以外を食べるなんて。私を、私だけを食べてぇ!)

(け、ケイさん! ワタクシも、ワタクシ達も、早くあのようにっ!)

(あひゃぁぁぁあああっ! らめぇぇぇえええっ! 一郎、やっぱりみにゃいでぇぇぇっ! ごんにゃににゃっちゃぅ、わだでぃをみにゃい、あッ! そこは、あッ! しょこわぁ、そんにゃに入りゃにゃいにょほぉぉぉおおおっ!)

 どんなラーメンの食べ方してるんだ、ジョージアは。俺は取り分けたスペアリブ以外片付けに入っていると、ジョージアの鼻息が荒くなり、どんどん瞳孔も開いてきた。

(いい! いいわ、ケイさん! とっても美味しいです! さぁ、次はこうやって食べてあげるわっ!)

(あひぃぃぃいいい! おいじぃでぃ言われぢゃっだよぉぉぉおおおほぉぉぉおおお! うれぢ、うれぢぐなっ、あッ! うれぢぐなっぢゃ、あッ! なっだっ! らめにゃの、うれぢぐなっぢゃっだよほぉぉぉいぢろぉぉぉおおおぁ!)

(まじゅだぁ、らめぇぇぇえええっ! そっでだぁぬゃくてぇ、わだでぃを見でぇぇぇまじゅだぁあッ! わだ、わだでぃを、見、見でほじぃにょにぃぃぃ! いぢろぉしゅごぃにょほぉぉぉおおおっ!)

(りゃにゃりゃにゃいぢろぉ! わだでぃ以外のりゃぁめんでゃべぢゃらめなのぉぉぉッ!)

 こいつら煩すぎるだろ!

 やがてリブとケイの姿は薄くなっていき、ジョージアが最後の汁を飲み干した瞬間、ケイの姿はかき消えた。

「あなたのラーメン、美味しかったわ、一郎!」

「それはどーも」

 そう言って俺は帰るために、丼ぶりを回収しようと手を伸ばした。だがそこで、ジョージアたちが異変に気づく。

(ま、まぁしゅだぁ……)

(あ、あれ? リブ? どうして? ワタクシのラーメン丼ぶりは空なのに!)

 至高の一杯は、食べ終わるとそれが擬人化していたものは消えてなくなる。完食されたケイの姿も、ここにはない。

 では、丼ぶりは空なのにリブの存在が消えない理由は一体なんなのか?

(まゃじゅだぁ、こ、こいつぅ、わ、わだでぃのいでぃぶをくでぃにふくんでぃましゅぅぅぅ!)

(な、なんですって!)

 そう。食べれば消えてしまうなら、食べ切らなければリブの姿は消えたりしない。

 そして、食べられている最中のリブと、ラーメンと対話しながらではないとラーメンが作れないジョージアは、果たして会話が出来るのだろうか?

 俺の作戦は、俺がジョージアの至高の一杯を食べることで、既に完成されていたのだ。

 遅まきながら俺の作戦に気づいたジョージアが、立ち上がる。

「ひ、卑怯よ、一郎!」

「何が卑怯なものか。客に出した品を、客がいつ食べ終わろうとも、それは客の勝手だろ? それともお前のラーメン店では、何分までにラーメンを食べ終わらないといけない、というようなルールでもあるのか?」

「それとこれとは――」

(でゃ、でゃいぢょうぶでじゅ、まぢゅだゃぁ)

 構わず帰ろうとした俺を塞ぐジョージアに対して、リブが懸命に声を紡いでいく。

(わだでぃのりゃぁめんは、アーミーでぃごみぃ。わだでぃとまぢゅだゃぁとのきじゅにゃにゃら、こんにゃ卑怯にゃにゃつ、ぜっだいにうでぃやびゅっでやりまひゅう!)

(リブ……)

「お前のラーメンはこう言っているが、その作り主は自分のラーメンを信じれないのか?」

 その言葉に、ジョージアは勢いよく顔を上げた。その目にはリブを心の底から信頼し切っている、強い意志を感じた。

「ええ、上等だわ! ワタクシたちの絆が、こんな卑怯な策に屈したりするものですか! 見てなさい、本番当日には、吠え面かかせてやるんだからっ!」

「そうか、楽しみにしているぞ」

 そう言って俺は、ジョージアの家を後にした。

 

 かくして結果は、ご存知の通り。

(あへぇあへぇぁぁぁあああっ! りゃっぴゃりかでぃにゃきゃっでゃにょほぉぉぉおおおっ!)

(ああ、リブ!)

(れぇりょれぇりょしにゃいでぇっ! みょうてゃびきっでぃぐだぢゃぃいでぃりょうぢゃみゃぁぁぁあああっ!)

(そんな姿になって、ワタクシ、毎晩はかどってしまいますっ!)

(本当に鬼畜ね、一郎)

(いや、それはジョージアも大概だろう)

 こうして、俺とジョージアの勝負は俺の不戦勝に終わった。何はともあれ、これで月子の料理が世界に出回るという最低最悪の事態は防げたわけだ。

 良かった良かったと撤収作業をしていると、幽鬼の様な顔をしたジョージアが話しかけてきた。

「……では、約束通りワタクシの店は、一郎に譲ります。そして、ワタクシも国に帰って位置から出直しますわ」

「へ? なんで?」

「なんで、って、そういう勝負だったではありませんか」

 ああ、そういえばそんな事もあったな。

「いや、あれは月子が勝手に言っていただけだろ? そんなのは無効だ無効」

 俺が勝負に臨んだのは、ジョージアが勝った場合、月子がアメリカについていく覚悟をしていたからだ。月子の料理が世に出回らなければ、俺はそれでいい。そもそも血判状だって、あれに法律的な意味合いが何かしら発生するものでもないだろう。

「ですが、ワタクシは――」

「あーもう、煩いな」

 尚も引き下がろうとするジョージアを、笑み混じりに迎え撃つ。

「ジョージアが居なくなったんじゃ、お前の美味いラーメンが食えなくなるだろ?」

「わ、ワタクシのラーメンが、ですか?」

「何だ、家で言った言葉が嘘だと思ってたのか? あれはまごうことなき本心だよ。毎日でも食べたいぐらい美味かったのに、国に帰られたら食べられなくなっちゃうじゃないか」

「ま、毎日食べたい、ですかっ!」

 両手に頬を当て、顔を赤らめるジョージアを見ながら、俺は残りのスペアリブを嚥下した。リブが消える瞬間、何か意味ありげに俺の方を見ていた気もするが、気のせいだろう。

「ほら、お前も撤収作業があるだろ? 早く行きな」

「は、はい! わかりましたっ!」

 どこか惚けたようなジョージアを残し、俺は自分の作業に取り掛かる。すると、月子が俺に向かって体当たりを仕掛けてきた。

「……何やってるんだ? 月子」

「あたし、毎日お兄ちゃんのラーメンが食べたい」

「いつも食ってるじゃねぇか」

「あ、そうか、そうだよね!」

「それより月子、お前こういう事はもう二度と、って月子! まだ話終わってないぞ!」

 言いたいことだけ言って去っていく月子の背中に、果たして俺の言葉が届いたかどうか。

 溜め息を付きながら、誰もいないテントの中で、俺は言葉を紡いでいく。

(で、お前は俺に何が言いたいんだ?)

(別に、なんでもないわ)

 さっきから頬を膨らませたまま俺の周りをぐるぐる回っていたくせに、よく言う。

(……私じゃ、駄目なの?)

(何が?)

(毎日、食べるの……)

 全く、さっきから一体なんなんだ。

(あのアヘ顔ダブルピースを毎日見せたいっていうんなら、毎日作って食べてやるよ)

(そ、それなら食べなくていいっ!)

 本当に、何がなんだか。

 蝉の音が、最近少しなりを潜めた気がする。滴り落ちる汗を拭い、俺は太陽を仰ぎ見た。

 もうすぐ終わるな。夏休み。

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