○第一章
「大変よ大変! 大変なんだよお兄ちゃんっ!」
ゆるふわショートカットに玉のような汗を滴らせながら、俺の妹、尾崎 月子(おざき つきこ)が家の中に飛び込んできた。
「月子。夏休みの間に、一体何回言わせるつもりだ。家に入るときは、ちゃんと扉を閉めろ。暑くて敵わないよ」
「おお、そうだった!」
そう言って俺、尾崎 一郎(おざき いちろう)の妹は、素直に家の扉を閉める。部屋の外から聞こえていた蝉たちのけたたましい鳴き声がシャットアウトされ、おまけに冷房がしこたま吐き出した冷気が外に逃げ出すのも防いでくれた。家の中に、また静寂が戻る。
月子は今年で中学二年生になるが、小学生のような天真爛漫さ、あるいはちょっとお馬鹿なところがまだ抜けていないが、そういう所も俺には可愛らしく映る。
「それでね、お兄ちゃん! 大変なんだよお兄ちゃんっ!」
つかの間の静寂を切り裂いて、月子は周りに置いてある椅子の一つを持ってきて、俺の隣に座った。そして座っただけで、俺の顔をガン見。見れば月子の顔には、何があったか聞いてください! と書かれていた。
とりあえず、ここは月子の気の済むように動いてやるか。
「それで、一体何が大変なんだ? 月子」
「あのね、出たの! うちのライバル店がっ!」
「……ライバル店?」
月子の言うことがいまいちわからず、俺は今まで店番をしていた家の中を見渡した。
カウンター席に、四脚の机が三つ。壁にはメニューが貼られており、一番汚れている札には、こう書いてある。
『中華そば』
そう、俺の実家はラーメン屋なのだ。しかし、今は昼過ぎなので客もいない。
俺の家、中華そば『豊(ゆたか)』は父さんが脱サラして作った店だ。店を開いた時期も良かったのだと思う。ラーメンブームに乗っかって作った店は、鶏ガラ醤油ラーメンが売りで、オーソドックスでありながら、澄んだスープが一時絶賛されていた。
過去形で語ったということは今はそうではないということで、『豊』は全国的な有名店になれたわけではなく、ラーメン市場で可もなく不可もなくの位置にいる。
事実、今の『豊』は全盛期よりも収益は落ちており、常連客の要望で新たに追加した『餃子』『中華飯』『天津飯』の札の真新しさが、その迷走さを表していた。ちなみに今両親は、常連さんの佐藤さんと山岸さんにそれぞれ中華飯と天津飯を出前に行っている最中だ。
そんな『豊』に、ライバル店?
「ふーん、それは大変だ」
「ちょっとお兄ちゃん! 何その反応は! 堀田さんも高橋さんも、うちじゃなくて新しいお店に行くって言ってたよ? 町のラーメン屋はうちぐらいだったから今までなんとかなってたけど、このままじゃうち、『豊』が潰れちゃうよっ!」
なるほど。月子が慌てて帰ってきたのは、常連さんたちの客足がうちから遠のくかもしれない、という不安からだったのか。そして、月子の分析は非常に正しい。
「だが月子。この資本主義国家である日本で、ライバル店の存在を否定するのはおかしいだろ? 選ばれなかったものは市場から淘汰されていく。そういうものだ」
「もう、またそんな事言ってっ!」
膨れる月子も可愛らしいが、俺のスタンスを変えられるものではない。
確かに自分の家が潰れるかもしれない、というのは結構衝撃的だが、何を隠そう俺は家のタンス貯金の金額を知っている。なので当然、両親がそこそこのお金を溜め込んでいるのも知っていた。
最悪今『豊』が潰れたとしても、失業保険とその貯金で俺も月子も大学まで通えるだろう。何なら、俺が奨学金を借りるという手もある。何れにせよ、月子が大学に安心して通える分はあるはずだ。
先立つものがないなら慌てもするが、ひとまずはしのげる事がわかっているのなら、そこまで慌てる必要はない。
「お兄ちゃんが本気を出せば……。お兄ちゃんのラーメンは、世界一なのに……」
「月子……」
その昔、父さんは俺達に店を継いで欲しいと、古今東西ラーメンを食べ歩くという英才教育を行った。その結果、月子には父さんのラーメン愛だけが宿った。そして、俺は――
「月子。前から言っているだろ? 俺は何も、ラーメンが嫌いになったわけじゃないんだ」
「だったら、どうして?」
不思議そうに見上げる月子に、俺は断言した。
「いや、飲食店なんてブラック過ぎて、俺は絶対無理だ!」
そう、ラーメンを食べ歩いてわかったことがある。それは、ラーメンを作るのはものすごぉぉぉっっっく大変だ、ということだ。
俺も今年で高校二年生。大学の進路が就職にそのまま影響する事もあるだろう。なら俺は、なるべく楽に生活したいし、楽に生きたい! 最近スマホで遊んでいるゲームに興味が出てきて調べたのだが、上流工程に入れればそんなに給料も悪くなさそうだ。俺は好きなもののほうが続けられるタイプなので、ゲームに関係の有りそうな情報系の大学に進学したいと今は漠然と思っている。
「もう! どうしてお兄ちゃんはその腕をラーメンに捧げないの?」
「捧げる理由がないだろう」
「捧げちゃいなよ、お兄ちゃんの一生を!」
「急に話が重くなった! 絶対嫌だ。なんでそんな苦行を俺が受けねばならんのだ!」
縋り付いてきた妹を、怪我しないように引き離し、俺は厨房へと退避する。
「もう! お兄ちゃんの馬鹿! そんなんじゃ、ラーメンの神様に怒られちゃうんだからねっ!」
「なんだよラーメンの神様ってっ!」
月子は使っていた椅子を元の位置に戻すと、カウンター越しに俺を睨んだ。
「もういい! だったらあたしが、『豊』のためにラーメン作るっ!」
その宣言に、俺は自分の脊髄に液体窒素をぶち撒けられたかのような悪寒を感じた。
「……わかった、月子。落ち着いて話そう」
「何よ、あたし、もう決めたんだから――」
「今から俺がお前のおやつにラーメンを作る。だからお前は、ラーメンを作るな。決してっ!」
「え? 本当? わーい! お兄ちゃん大好きっ!」
俺は冷や汗を流しながら、ひとまず安堵の息を吐いた。
そう。月子は、父さんのラーメン愛『だけ』が宿ったのだ。そしてラーメンの腕は、いや、料理そのものが殺人的かつ猟奇的かつ異次元的なまでに下手なのだ。
月子を調理場に立たせなかっただけで、俺は今世界を救った。そう言ってもいいレベルなのだ、月子の料理は。
しかし厄介な事に、月子はラーメンが大好きなのである。事ある毎に月子がラーメンを作る! と言い出すため、俺が変わりに作らざるを得ない状況なのだ。
月子がラーメンを作る! という意味は、もはや俺が作るのとイコールの意味を持つ。
「はっやくー、でっきないかなー。お兄ちゃんの、ラーメンっ!」
ご機嫌そうに鼻歌を歌う月子を横目に、俺は手早く調理を進める。やがて出前から帰ってきた両親が月子の話を聞き、妹と同じように慌て始めたが、俺の心は全く動じなかった。
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