アイドルコール

世界三大〇〇

アイドルコール

「お客様、お客様の中に……」


 片岡冴子は元アイドルなのだが、卒業後20年前からCAをしている。この日はJANAの国際線、羽田発ホノルル行き4649便で勤務していた。フライトコンディションは良好で、この便の復路をもって定年となる機長に、40年間無事故の称号を贈る前祝いをしているようだった。そんな矢先に急病人が出た。


「あぁ、うぅ……」


 急病人は時々泡を吹きながら、呻き声を上げていた。


「お客様の中に、お医者様はいらっしゃいませんか」


 冴子は必死だった。機長のラストフライトには同行出来ないシフトになっている。冴子にとってはこのフライトが機長と一緒に仕事が出来る最後の機会なのだ。だから、死亡事故はもちろん、事件でさえも起こしたくはなかった。この急病人発生という厄介ごとに怯むことなく、自然に医師を探しまわり始めていた。


 他のCAよりも一際大きな声を上げているのは、彼女がかつてステージに立っていたからだけではなく、機長の偉業達成に貢献したいという思いからである。


「お客様の中に、お医者様はいらっしゃいませんか」


 もう1つ、冴子の声が大きく響いた原因がある。JANAが採用している登録医師制度である。予め登録した医師の座席がCAに分かる仕組みになっている。この制度により、小説や映画でおなじみのドクターコールをあげずとも、医師とコンタクトを取れるようになった。この便にも登録医師が1人いた。


 ところが、その医師こそが急病人という、最悪の事態だった。


「お客様、お客様の中に……」

「……ませんか。お医者様は……」


 ベテランの冴子を除く7名のCAにとっては、このドクターコールが初めての経験だった。どんなに訓練を受けていても、初めての実践というのは、恥ずかしさもあり難しいものである。


(パーサーに相談しないと……)


 冴子は乗客に医師がいる可能性を諦め、羽田に引き返すことを進言するつもりだった。それは、冴子の立場でも苦しい決断だった。




「あぁ、おぅ……あぁ、どぅ……」


 急病人は、ビジネスクラスの一番前で、泡を吹きながら呻いていた。パーサーはずっとそばにいたのだが、呼吸の補助をするくらいで、何も出来ないでいた。


「パーサー、今引き返せば間に合います。直ぐに機長に相談しましょう」

「しかし、君も知ってるだろう。機長には、偉業の達成がかかってるんだぞ」

「それはそうですが……」

「たしかに、死亡事件だけは……」


 3人集まれば文殊の知恵というが、この2人の相談は、互いの決心を鈍らせてしまった。偉業が偉業と呼ばれるのは、その達成の前に多くの関係者の心理を揺さぶるからだろう。冴子はパーサーに判断を委ねながらも、後で自分の進言が決め手となって強引にことを進められたなどと言われるのは真っ平だった。


「あぃ、どぅ……」


 ふと急病人の呻き声が、冴子の耳を劈いた。泡に邪魔をされ不鮮明な発声ではあったが、この時の冴子には、ハッキリと聞き取れた。


「アイ、ドル? アイドル! そうか、分かったわ! パーサー、この乗客は、アイドルを欲しています」

「何を言い出すんだい、こんな時に!」


 パーサーは冴子を見た。冴子が元アイドルだということを知っていて、冴子のアイドル贔屓の発言に、困惑もあり、怒りも混ざった。だが、冴子の表情は、真剣そのもの。


 そこでパーサーは、その進言を信じてみることにした。問題が起これば、冴子に責任を押し付ければいい。そんな計算もしていた。


「よし、アイドルコールだ」


 こうして、JANA4649便は、前代未聞のアイドルコールに包まれた。




「お客様、お客様の中に、アイドルはいませんか!」


 冴子は必死に声を張り上げた。そして、エコノミークラスの乗客の中にアイドルを見つけることに成功した。


「CAさん、私、アイドルですが」


 そう名乗り出たのは、アイドルグループ『のきした46』のセンター、愛夢緒だった。『のきした46』は、世界で2番目に人気のアイドルグループである。だが、一般にはそれほど知名度は高くない。仕事での移動にもエコノミークラスを利用している程である。


「貴方、本当にアイドルなんですか?」


 機長の偉業のため必死な冴子は、目の前にいる名乗り出てくれたアイドルに対し、失礼極まりない発言をした。


「CAさん、喧嘩売ってます? ま、慣れてますけど」

「申し訳ございません。人命がかかっているもので、つい本音が……」


 冴子の会心の一撃に夢緒のHPは243のダメージを食らった。タフなアイドルも瀕死の状態にまで追い込まれていた。夢緒は、手負いなのを隠して「で、どうすればいいのかしら」と、ぶっきら棒に言った。


「では、まずはこちらへ」


 冴子はビジネスクラスの客室にエコノミークラスにいた夢緒を連れて行った。


 夢緒には驚きだった。エコノミークラスとビジネスクラスでは、座席のグレードから内装、設備に至るまで、これ程も差があるものだろうか。そう思うと、急病人といわれる乗客に嫉妬しないはずはなかった。くたばってしまえ、そう思いながらも、そんな素振りは微塵も出さなかった。物珍しさの方が上回り、好奇の眼差しで周囲を見渡していた。空席もあるようなので、もしこのミッションが成功したら、移動させてくれるかもしれないと勝手に期待していた。


 そんな時に目に飛び込んで来たのは、1人の少女だった。

(あれ? あの子って、由依ちゃん? まさかね……)

 夢緒がそんなことを考えているとは知らずに、冴子が急病人を指し示した。


「こちらのお客様が、その急病人です」


 夢緒は、今度は驚きを隠せずに「あっちゃんさん……」と口に出し、続けた。


「私、この人は、駄目です!」


 夢緒はこの土壇場で、辞退を申し出た。冴子はすかさず確認。


「そんな、一体どうして?」

「だって、この人、私のファンなんです!」


 夢緒は申し訳なさそうにそう言った。冴子は閉口してしまう。事態に気付いたパーサーが、夢緒に駆け寄って来て言った。


「だったら尚のこと、この人の命がかかってるんですよ!」


「駄目よ……」と、力無く言ったのは、冴子だった。


「アイドルは、特定のファンを特別扱いするのはご法度なのよ」

「おばさん、分かってるじゃない。命を救うだなんて特別扱いは出来ない!」

「何を言っているんだ、君達は!」


 パーサーは、愕然としながらも肩を落とす以外にすることがない。




 その時、ビジネスクラスの1つ前、横にたったの5席だけ用意されているファーストクラスから声がかかった。


「あれ? 夢緒姉さんじゃないですか」


 声の主は、北條由依。世界的に大人気のアイドルグループ、『under the roof』のメンバーである。夢緒が所属する『のきした46』は、『under the roof』の公式ライバルである。ライバル故に、『のきした』は『やね』のライブには出禁になっているが、事務所は同じである。だから、2人は顔見知りなのだが、『のきした』のメンバーは『やね』に対して大きな劣等感を抱いている。国内なら長距離バスがやっとの『のきした』に対し、『やね』の移動はプライベートジェットやチャーター便がほとんどである。定期便に乗り合わせることなど、滅多にない。まさに出会い頭となった。




 事態を理解した由依は「なるほど。だったら、私がやってみるわ!」と、快く夢緒の役割を引き受け、急病人に話しかけた。


「こんにちは!」


 由依の一声に、これまで散々呻き声を上げていた急病人は、一瞬で快復した。


「こんにちは! 私には分かる。自分がどんなに危険な状態にあったのかがね」


 そして、由依の身体に触れようと手を伸ばしながら続けた。


「君は、天使か。私を迎えに来たのかい?」


 由依はその手を上手に避けて言った。


「天使は奈江ちゃんよ。私は、天蓋。天蓋の由依といいます」


 『天蓋は、空よりも高く』は来月発売の由依のソロデビュー曲。今日はそのPVの撮影のために移動しているところだった。由依は『天蓋は、空よりも高く』のサビをハミングした。その歌声は、周囲に大きな癒しを与えた。急病人はみるみる全快し、冴子にやられていた夢緒でさえHPが全回復した。


 こうして、急病人騒動は収束し、機長はその偉業に向けて、王手をかけた。

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