弐、第三帝国(4)

 

 しょうようによってすっかり癒された帝國内。

 しかし領土のほぼすべてが焼け落ちて、まったく平らであるのには変わりない。連なっていた青の門も、決して賑わいはしていなかったものの立派な並びの家々も、美しい花を付ける垣根も、何もかもが焼けてしまった。


 帝國領の中で形を保っているのは、だきにの寝床の屋敷だけであった。しかしその屋敷も、門は吹き飛び、庭を飾る木々も朽ちている。寝床だけが無事である。


 がらんとした屋敷にて瞑目するだきにと、傍に腰を下ろして控えるきりん。

 普段と同じ様であったが、南方の攻撃から、既に数週と経っている。


 残っていた食料をきりんがかき集め、元々食事などほとんどしないだきにと二人きりであったから、特に不便などはなかった。雨風凌ぐ屋敷は、一応は無事であったし、攻撃される前と後では景色と人数が圧倒的に変わっただけである。


 退屈な日常である。

 だきには、飽きていた。


「……みな、いなくなりました」


 だきにの傍らで、雲ひとつない空へ視線をやったきりんが呟く。


「おれしか残っていない今、貴女を守りきることは難しいと思うのです」


 溜め息混じり、しかし焦燥を滲ませたきりん。

 続く言葉は懇願だった。


「逃げませんか」

「……」

「遠くへ、逃げませんか」

「……」

「おれでよければ、そのお手を引かせていただきたく思います」


 きりんの懇願に、だきには投げやりな言葉を返す。


「おまえはまだ聖少女を重ねているのか」

「だって女王は聖少女ですから」

「つつがを食らった女だが」

「あれはつつがを食って、永遠としたのでしょう? 貴女の中で永遠となるのでしょう。それこそ聖少女たる救いであると、おれは思いました」

「おもしろいことを言う」


 おもしろい、そう言った言葉とは反対に、だきにの表情からは何も読み取れない。楽しげでもなく不機嫌そうですらない、ただそこにあるだけであった。

 きりんはそんな主人が心配らしい。


「女王」

「なんだ」

「もはやこの帝國を捨て、外へ身を隠すしか生きる術はありません」

「そこまでして生きるべきか」

「はい。どうか、どうか」

「……じきにこの極東大陸の北方、そして西方がこちらへ来るだろう。特にな、おまえがいたという、西の大きな大陸はこれを機とどうやら準備をしているそうだ」

「そんな! だったら、一層のこと! おれたちは、いいえ少なくとも貴女は、逃げなくてはなりません。ここを捨てて逃げなくてはなりません」

「逃げたところで、わたしがすべきことは変わらぬ。で、あるとしたら、わたしはここで待ち受けるのみ」

「しかし」

「そんなに己の身が心配であれば逃げればよいだろうに。今わたしは幸いにも動くのも億劫である、ゆえにおまえはここから逃げることが可能である」

「ですからこの手を取っていただきたいのです」

「一人でゆけばよいだろう。かうを呼ぶ前に、ああ、おまえの腹も割ってやろうか、食ってやろうか」

「本望です」


 貴女の中で永遠となるのならば、と。


 間髪入れずに放たれたきりんの言葉に、だきには相変わらず何も映さない瞳を向ける。そうか、と美しい姫のような唇は音を紡いだ。無意識に近い呟きとでもいうのだろうか。


「おまえがもっと早く、そう、わたしが壺の内側にいるのだと気付くより先に、わたしの元にあったならば、だきには『こどく』の虫とならずに済んだかもしれないね」

「なにを仰いますか、孤独などであるものですか。おれが傍にいるのです」

「世界とは常にこどくであるものだ。世界とは、つまり、そう。こどくでしかない」

「きりんの名に恥じぬよう、おれは貴女に寄り添いましょう。聖少女に救われたこの命、捧げるほか、どうしろといいますか」

「まったく、馬鹿と話すのは疲れる」


 だきには口を噤む。


 そうだ、そうだ、と自分のさきほどの言葉を反芻していた。

 だきには考える。からっぽのはずのだきには考える。からっぽであるというのに、どこで考えるというのだろうか。だが、だきには確かに考えていた。


 きりんの存在がもっと早くにあったならば、この壺の中でも退屈せずに済んだかもしれない。この壺の中、そこで十分であったかもしれない、面白い見世物を前に満足できたかもしれない。

 ありもしない『こころ』というものが重たいようだと、だきには思う。胸のあたり、つつがに、あるいは他の兵や敵どもにあったような『こころ』とはこういうものだろうか。


 だがしかし、聖少女だきには、傍から見れば絶対悪でしかない。

 戦地に炎を巻き上げて闊歩し、哄笑し、すべての心臓を食らわんとする夜叉を、他になんと表現すべきか。


「退屈は退屈であるように、こどくはこどくだ」


 そんな夜叉が吐き捨てる、全てに決別を告げるような様は、しかし夜叉ではなかったし、女王でもなかった。魔女でも鬼でも、まして聖少女でもなかった。たったひとつ、その身だけで佇む矮躯でしかなかった。


「飽いているわたしは、はよう外へ出たいのだ」


 だきにの言葉に、きりんはひどく嬉しそうにする。

 彼は聖少女に救われ、その聖少女を救えると歓喜する。


「そうであれば、おれの手を取って」

「ああ。もう。分かった、分かった」


 だきにの首が振られる。

 彼女は己の心に従うのみであった。否、心など存在し得ないのだから、彼女は何に従うというのだろうか。何にも従わないのだろうか。重く感じられた『こころ』というものはどこへ仕舞い込んだのか、だきにには分からない、見当もつかない。


「そこまで言うのであれば、わたしはおまえの腕を取ろう」


 皿の上に残る、最後の一つとなるために。

 きりんの手を取っただきに。その瞬間、一瞬だけ、彼女は矮躯をしたただの少女に見えたようだった。それはもちろん幻想でしかないだろうが、きっときりんの存在がそうさせるのかもしれなかった。


「無から有を生み出すのがしん教の教えだが、瑞なるものに縋るのがきりん派……つまるところ、おまえはきりんではなかったということか」


 その唇が食むのは、そう、やはり赤い心臓であるのだ。


「きりんであれば、わたしはおまえに縋ることが出来たのかも知れなかった。だが、きりん、おまえはきっと有そのものか」


 可憐な唇になお赤い色の紅、白い頬に鮮やかな頬紅を差しただきには、青と白の衣装を汚さずに上品に食むものだから、その妖艶さといったらなかった。

 あらゆるものに飽き飽きしたとばかりに投げやりな声音が、その唇から吐き出される。


「わたしは有から無を生み出すのであるからして、そもそも聖少女ではないのだ」


 飽いただきには、唯一差し出された外へと導く腕を食いちぎる。

 無から有を生み出すはずの麒麟を、食いちぎる。

 その胸を引き裂き、甘くもない赤い果実を齧る。

 味などしない、美味とも感じないし吐き気も催さない。

 ただそれはだきにがだきにであるための行為でしかなかった。


「おれは」


 だきににありもしない『こころ』を与えるきりんは、聖少女の面影をだきにに重ねたまま、ゆっくりとその身を横たえる。あるいは、聖少女ですらなくただの少女の面影を、重ねていたのかもしれない。


「おれは」


 掠れた声音がだきにの鼓膜を震わす。だが、それまでであった。

 だきにに『こころ』を与えていたきりんは、二度と目覚めることはない。


「……。きりんや、きりん」

「……」

「きりん、聞こえているか」

「……」

「きりん」

「……」

「きりん。死んだのか」

「……」

「おまえも外へは、出られないのだな」



 愚か者は、だきにであった。



■     ■



 極東大陸、第三帝國。

 神宿る聖地は焦土。


 だきにの寝床であったそこは、滅亡したという。悲痛な女の叫び声と、心掻き乱される断末魔を最後に、青と赤の羽根が舞い散る中で滅亡したという。

 すべての部隊は壊滅、第一部隊長さえも敗れたという。あらゆるものが焼かれ、灰と散り、存在を許されなかったという。ただ、第一部隊長の骸というのは、どうにも半分ほど朽ちた程度であったという。伏した骸の浸かった血溜り、その血痕は伸びていたらしい。

 当然、血溜りなどはすぐに焦土へ吸われてしまうだろう。死した直後に何者かによって揺り動かされたか、引きずられたかとみえる。


 だが帝國は無人であった。最後まで残っていたのは暴君しかいない、これは無人に等しいといえるだろう。暴君は虫を踏みつける虫でしかないのだ、他人などというものは暴君の中に存在し得ないのだ。


 どちらにせよ、過ぎたことである。

 目にしたものはいない、噂程度である。


 朽ちた青の門も、すっかり崩れていた。

 土に還りかけたそこに、聖地であったという神宿、その面影はない。


 そしてまた、だきにの姿も、なかった。



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