弐、第三帝國(3)


 数刻が過ぎ、すっかり日は沈んだ。


 第三帝國であっても他国と同じくして日は昇り、沈む。朝と夜は等しく交互にやってくるのだ。昼を過ぎ、今はもう日没、月の昇るころである。

 が、明るい。


 月とは、太陽のように明るく照らせやしないものであることは確かである。今は夜であり、月が出ている時間。だがこの第三帝國は真昼よりもなお色濃い光でもって照らされていた。

 燃えているらしい。天を焦がす赤と黒が眩しい。


 外は喧しかった。


 だが、だきには屋敷、否、布団から一歩たりとも出てはいない。傍らでは腰を落とし、緩く湾曲した刃物を構えるきりんの姿がある。


「なんだ、部隊は潰されたのか」


 溜め息混じりの投げやりな言葉は、どうやら問いかけのようであった。

 これに答えるのは、屋敷の外、庭の巨木にとまる一本足のしょうようであった。

 女の悲鳴のような甲高い声を上げて鳴き、しょうようは主人へと外の様子を伝える。濡れた翼の重たい羽ばたきと、重ねられる鳴き声。


 女王は目だけで不愉快さを示した。す、と細められたそれ。それから眉をひそめ、可憐な唇から漏れるのは溜め息と低い声。


「使えぬものだなあ」


 しょうようは空気を切り裂くような声を上げ続ける。

 それに対してきりんはひどく心配そうである。きりんにしょうようの言葉は理解できなかったが、しかしそれでも現状は十二分に理解できていた。己の主であるだきにに、震える声を投げかける。


「ここも危険ではありませんか」

「残りも少ないのか」

「ここにいてはその御身が」

「……まったく、使えぬ。使えぬ」

「危ないです、どうか。どうか」


 きりんはだきにに言うが、だきにはしょうように言う。

 きりんに守られるような格好のだきにであるが、彼女こそ最悪にして災厄にしかならない魔女であった。禍々しいものを守って気遣っているきりんは、滑稽にも見えるだろう。


「貴女のその御身が心配です、どうか」


 いい加減きりんの言葉に鬱陶しくなったのか、魔女は羽虫を払うような仕草を見せる。


「おまえ」

「はい」

「おまえはわたしを誰だと思っているのか」

「誰、とは」

「わたしは誰だ、言ってみろ。うん?」

「……。帝國の唯一絶対の女王であらせられます」

「そうわたしは第三帝國に君臨する女王、だきにであるぞ」


 庭より向こうに見える黒煙、そして赤々と天を焦がすような炎をちらりと一瞥。

 そして目を伏せただきにはそっと立ち上がる。白い布団の上、立ち上がる。


「お待ちください!」

「やかましい」

「どうか、どうかお待ちくださいっ!」

「ああ、面倒な」


 聖少女と言われていたのに相応しく、立ち上がっただきにの圧倒的な雰囲気を醸し出す本体はしかし矮躯であった。


 この地が独立中立都市として聖都・神宿などと呼ばれていたあの時から、もう数十年が経とうしているが、さほど変化のないだきにの身体。小さな身体にこの性根とは、まったく歪である。無理やり押し込まれた歪みは、すっかり歪になって少女の身体を形成するようだ。

 欠伸をかみ殺したような退屈極まりないといった表情のだきには、ふわりと髪をかきあげた。畳の上にまで垂れる長い髪が邪魔らしい。艶やかな黒髪はうごめいていた。ずるりずるりと、だきにの動きを追っていた。


 すらりと立っただきにに、きりんの制止の声は続く。


「外は危ないです、危ないのです」


 当然だきには聞き入れることなどしない。する必要がない。

 だきににとって他人の声など雑音であり、むしろ不要なものでしかないのだ。だきににとって己の他は『己以外』しかない。


 それゆえにだきには第三帝國を築きあげ、魔女として君臨するのだ。


「お座りください、行ってはいけません」


 だきにはきりんの声を後ろに、長い髪を結い上げていく。

二つに分けて垂らした髪を、高い位置で団子のように丸める。それでもなお余る髪をくるりと団子に巻きつけ、散らし、猫の耳か何かのように頭の頂点に。それでもまだ引きずる髪をつまみ上げ、青と空色の装束を揺らして足を前へ出す。

 

 愛らしい姿であった。

 まさに絶対者、聖少女であった。


「お待ちください、どうぞ中へ、おれが行きますから!」

「埒が明かぬわ。食えないのならば焼き払うほうが早いだろう」


 少女の姿を借りた魔女は目の前を遮るきりんの腕をそっと下ろさせる。


「食うも焼くも、結果は同じこと」


 美しい色をした着物と髪をずって、布団から畳へ移動。

 そのまま縁側まで歩を進めただきには、一歩、屋敷を出る。白い素足を黒い土の上へ下ろした。石畳を踏み、立ち並ぶ青の門をくぐる。


「お待ちを!」


 燃え盛る外、赤々とした色に染まった空。

 それに反し、青く静静とした様子のだきにの姿。


 その差の鮮やかさといったらない。だきにの姿だけが浮き彫りにされて、まるでだきにの姿だけを切って貼り付けたような異質感。周りの空気に馴染むことなどなかったし、この先もそのようなことはないに違いない。


「かう」


 ころころと微笑んで己の僕を呼ぶ少女は、しかしだきにである。

 まるで親しい友を呼ぶように呼びつけるが、しかしだきにである。


「おらぬか、首をもぐぞ」


 彼女を恐れ、従うしかない禍々しい巨大な火の鳥は、四肢を裂かれたかのように鋭い鳴き声をあげて、だきにの頭上を旋回する。火の粉に染まる空よりもなお赤赤と、あるいは深い黒色をしたかうは、羽ばたきごとに炎を降らせてだきにに答えた。


「よしよし」


 火の粉を払うこともしないで、幼子をあやす口調で言うだきに。

 その隣で、同じく火の粉を払うこともしないきりんが必死な声を上げる。彼の場合、払うことをしないのではなく、払っているような余裕がないだけだろう。


「外は危ないです」

「まだ言うか」

「当然ではありませんか!」

「きりんは馬鹿だが、底抜けの馬鹿か」

「馬鹿でよいです、おれは馬鹿でよいのです、ですから」

「ここはわたしの寝床である、寝床を荒らされては腹立たしいだろう?」


 語尾を僅かに上げて小首を傾げるだきに、その腕が、静かに伸ばされる。

 そこへそっととまる巨大な鳥。美しい黒と赤に染まる瞳をだきにに向けたかうが、主の命令を瞬時に理解。ゆけ、と言われる前に飛び立っていく。

 赤い姿を炎の中へ躍らせるかうの翼、そしてかうが生み出す火の粉を目で追っていたきりんは、はっとしたようにだきにの前へ回った。


 灼熱の風に爽やかな青色の着物を揺らし、涼しい顔をしているだきには不愉快そうである。きりんへ冷たい視線をやるも、彼がそのようなことを意に介すはずもない。


「お戻りください」


 きりんの声ははっきりしている。


「まったく、面倒なやつだなあ。おまえはわたしに、あの頃の聖少女というものをいまだに重ねているのか」

「重ねるも何も、貴女はあのときの聖少女です。落ちた青の燃え上がる中で、おれにきりんと名を与えて救ってくださった聖少女こそ、そしてこの底抜けに愚かなきりんをお傍に置いてくださる聖少女こそ、この栄えある第三帝國の女王でありましょう」


 きりんはだきにを聖少女であるという。

 それは過去においては事実であったが、しかしだきには聖少女ではない。聖少女はだきにであるが、だきには聖少女ではないのである。


 だがきりんは信じているらしい。


 だきには全てを慈しむ聖少女であると、そして聖少女の祈りとはだきにの祈りであると、そう信じているらしい。この世界、どこを探してもこのような愚か者はいないかもしれない。愚直とはよく言ったもので、まさにその字が示すままであるといえる。


 きりんは愚かであった。

 きりんは愚かで、真っ直ぐだった。


「……ふ」


 頭を下げただきには、溜め息のような音を漏らす。


「あ、はは、あはははは」


 それは哄笑となって、空にごうごうと響く火炎の音と断末魔の悲鳴と、そしてかうの鳴き声に混ざった。雑音に混ざっても明らかに分かるその高い笑声、だきには空色の袖で口元を覆ってようやく収める。

 長い睫毛を伏せただきにはなにが面白いのか、余韻に浸るようにひくひくと喉を震わせる。


「あ、あの」

「いや、おまえはほんに愚かよ。愚かで馬鹿で、間抜けで阿呆だなあ」


 くすくすと笑うだきには、ぽかんとするきりんを置いて、炎に向き合う。しょうよう、とだきにが短く呼び寄せると、さあっと小粒の雫が二人の周囲を叩いた。

 雨粒を吐き出すしょうようを頭上にしただきには、揺らめく炎の中へなんの躊躇もなくその身を投じるのであった。猛火の中でも変わらず涼やかな様子であるだきには、たった一人で炎を巻き上げ、そして大地を癒していく。


 二体の巨鳥を腕として、女王はさながら夜叉である。

 鬼である。否、この世のものでは表せない、無間地獄を体現しているようなものである。いいや、あるいは、もはや聖少女であったのかもしれない。

 そのようなだきにの後ろ姿を、きりんが追うのは当然であり、そしてその背中に聖少女を見るのもまた当然であった。


「おお」


 感嘆とも落胆とも取れないだきにの声は、猛火に呑まれる。

 ひどい臭いである。


 かうの火にまかれた城下にあたる街は、混沌としていた。一帯には南方の兵たちの亡骸が転がり、すでに腐り始めているものもある。炭となり巻き上げられていく四肢か頭か、それを浴びる帝國の兵たちももはや死に近い。腕が転がり首が転がり、自発的に動くものはほとんどない。うめき声が火炎に混ざるくらいである。


 相討ちともいえようか。


 第三帝國部隊にとっては安らかであったかもしれない。だきにの恐怖から離れた地で、その身を炎によってなくしたのだから。だきにに生きながら食われるなどという噂を信じていた兵にとっては、むしろ死こそが安らぎであったかもしれない。

 なんにせよ、両者が瀕死であるという事実だけが、燃えることなく存在できた。


「おお。みな死んでいる」


 しょうようが泣き叫ぶ女の声で鳴く。

 悲しんでいるのかもしれない。長い睫毛に彩られる瞳は、濡れていた。


 かうが鋭い断末魔を真似て鳴く。

 悲しんでいるのかもしれない。羽ばたく翼はどこまでも重たそうであった。


「これは、ひどい……」


 追いついたきりんが、警戒するように手にした刃を構えつつ呟く。


「壊滅ではありませんか」


 えずくのを堪えたように、搾り出したきりんの言葉。第一部隊の部隊長とはいえ、その心は他の兵と同じである。いいや、それよりももっと優しく穏やかなものである。己の同胞の悲惨な有様に、胃液を飲み込むのも当然かもしれない。


 だきにはそれを聞いているのか聞いていないのか、燃え盛る周囲を見つめる。

 ここは既に炎の国であった。

 青色に支配されていた聖地からは、程遠い。青色の支配者は確かにここにいるのだが、だきには周りから浮いているようであった。

 いつものことである。


 炎は燃え続ける。


「じょ、う、お」


 苦悶の呻きに混じる音が、だきにの耳に届く。野太い声は焼けてしまって掠れている。きりんにも聞こえたのだろう、彼がはっと息を呑んだ。

 それは間違いない、つつがのものだ。

 だきにの足が死者を避けて進められる。

 白い足は、焦土をまるで蛆のように進んでいく。


 美しくも、異様である。


「残っておったのか」

「あ、あ」


 焦げた地に転がったつつがの姿。

 きりんは唇を噛み締め、だきにの背後で俯いた。

 

 つつがの片腕は千切れて変な方へ投げ出されていた。残された腕に指は足りない。両足はぴくりとも動かない。白く濁った両目からは涙が流れ、煤けた頬に白い筋をつけていた。

 屈強な戦士の姿など、そこにはなかった。

 無力な男がそこに転がっているだけだった。


 その様がひどく滑稽で芋虫のようだとだきには笑う。

 笑い、その足をつつがの腹へ差し入れて仰向けに転がした。


「どうした。相討ちであれば許されると思ったか」


 きりんがだきにに声をかける様子はない。背後でじっとしている。


「助けて欲しいか。助けて欲しいか?」

「あ、……」


 焼けたつつがの喉は、まともな音を紡ぐことはなかった。濁音ばかりの音が吐き出され、言葉などとは到底呼べないものであった。だがしかし、涙ながらの懇願であることは明白であった。つつがにとって女王は恐怖の対象であったが、同時に、主である。己が使える駒であると思っていたつつがは、再びの機会を望んでいた。

 それにだきには静かに微笑む。

 

 美しい少女の顔で微笑む。

 

 完璧な少女であった、聖少女であった。

 紛れもない、だきには聖少女であるのだ。


「わたしが誰か、分かっているか」


 つつがの濁った瞳は、絶望。


「わたしは」


 小さく一息。


「だきにであるぞ」


 だきにの切り揃えられた爪は、きりんの刃物にも勝る凶器である。

 そしてだきにの唇が食むのは、赤い果実である。


 だきにとは、食らうものなのだ。

 心臓を、食らうものなのだ。


「はて。皿の上はまだまだ片付かぬが、いつになれば蓋は開くのか」


 可憐な唇は、滴る赤と共に言葉を吐き出す。珍しいことにその言葉は心底からの疑問であり、見てくれの幼さをそのままにしたかのような響きを含んでいた。


「こどくとは面倒なものよ」

「……あなたは」


 だきにの背後で沈黙を守っていたきりんは、ここに来てようやくその沈黙を破る。

 ぽつんと零された言葉。だきにの言葉に返しているのか、あるいは独り言であるのか。それはきりん本人にしか分からないだろう。


「孤独になど、なりません」


 この第三帝國、残るは第一部隊長の愚か者と絶対の魔女たる女王のみ。

 女王は唯一残った従者の独り言に、鼻を鳴らすだけだった。



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