弐、第三帝國(2)


 第十二次極東大戦終結から数十年が経つ。


 大戦終結の後、第三帝國と名づけられた聖都は女王だきにを中心としてあっという間に軍事大国となった。大国とはいっても、国とは言いがたい。領土として支配下に置いた地は、すなわち焦土と同じであった。第三帝國はだきにによって支配された地を指していた。

 いつぞや、東の大陸において帝國とされていたあれとまったく同じであった。

 当時十あった第三帝國の部隊は欠番を持ちながらも、その力は圧倒的であるという。幾度となく聖地の奪還、あるいは聖少女の奪還を目的として近隣諸国が第三帝國へと兵を差し向けたが、どれも結果は同じであった。差し向けられた兵の消滅であった。

 女王の指先ともいえる十の部隊のうち、現存する部隊は僅か五。あとは部隊長をなくした雑兵が、恐怖によって女王に付き従っている状態だ。

 奴隷ともとれるような第三帝國の兵たちだが、それらの筆頭である第一部隊長は己の主である女王に、心の底から尽くしていた。数十年前の聖少女の面影を、いまだだきにに重ねていた。


 だきにの恐るべき所業を一番近いところで見ていたが、しかしそれでも彼はだきにが聖少女であると疑いやしなかった。


「おい、お前、本当に女王に心があるとでも思っているのか」

「ばかな奴だな、どうしてそんなことを聞くんだ。己の胸に手を当ててみろ、おれの胸に手を当ててみろ、同じ心というものが女王の胸にもあるに決まっているだろう」

「あれが俺たちと同じ? 笑えないな」


 朽ちてしまった聖都から神宿の名を移した帝都、女王の住まう平屋の広大な屋敷から離れたところである。第七部隊長であったつつがは、きりんを小突いていた。

 きりんの腕には赤い果実。どうやらそれを女王へ持っていくというらしい。それをたまたま見かけたつつがは鼻で笑ったのだ。

 

 女王は人でない、人でないものは人の食い物を口にしようと何も思わないのだ、と。


 それから会話は幾度かやりとりされ、女王の胸の奥には心があるとかないとかいう話へ。だきにに対して心の底からの嫌悪を示すようなつつがの様子であったが、彼は恐怖によって女王だきにに従っているに過ぎない。


「女王は甘いものがお好きなのだ」

「俺たちの心臓は甘いのか?」

「心臓など食うものか」

「ふん」

「あの可憐な唇が食むのは甘い果実だぞ」

「聞いたこともないのか、お前は」

「おれは女王の言葉を聞き漏らさない」

「違う、他のやつらの話だ。だきには殺した兵の心臓を食うらしいぞ」

「それこそお前は聞いたことがないのか」

「俺は女王の言葉など、恐ろしくてまともにはとても聞いていられないな」

「恐ろしい? 女王の声は救いだ」

「それは恐らく空耳だろうよ」

「まさかそんなことがあるものか」

「お前の耳にはなんでも都合のいいようにする虫が住んでいるんじゃないのか」


 きりんは口を噤む。

 端整な顔つきであったが、周りに比べるときりんはずいぶん幼く見えた。つつがに頭を掻き回されていても、それに違和感などないのだ。


「まあお前もいずれ気づくさ、その心の奥で感じるものが恐怖であったと」

「……恐怖であるものか」


 小さく呟くきりん。

 彼の心底に、だきにへの恐怖などない。


「すべてはおれたちのため。あの小さなお体で、第三帝國を支えるには仕方のないことなのだ」

「なんとでも言うがいいさ、心の臓を取られてから後悔しても遅いがな」


 つつがの語尾に被せるように響くサイレンの音。

 うー。うー。と響き渡る。

 

 二人の会話は終わった。

 きりんはいち早く反応し、頭に乗せられたままだったつつがの手を払った。伸びた髪を手で撫で付けるようにして直すと、一つだけの赤い果実をしっかり抱え、つつがなど最早眼中にもないとばかりに一目散に駆け出した。


 サイレンは、女王による部隊召集の合図である。


 残されたつつがはといえば、しゃんと背筋を伸ばし、その表情を凍らせるのである。女王に今の会話を聞かれれば、きっと女王は己を許しておかないだろう。女王は一つの部隊の、完璧に統制を取った攻撃であっても、一息吐いただけで壊滅へと追い込むような人なのだ。戦場であろうと、国内であろうとも、敵であろうと味方であろうと、その事実に変わりなどあるわけがない。

 つつがは凍りついた表情のまま、きりんに遅れを取るまいと駆け出すのであった。

 つつがの駆け抜ける、がらんとした国の中。

 美しい国だが、静寂はその美しさを恐怖の象徴であることを際立たせるばかりだった。

 

 第三帝國に住まうものは、もうほとんどが戦禍を被ったといえる。家と共に土に返ったか、あるいは敵兵か女王の手にかかったか。

 第三帝國は、女王の国であった。


 民の居ない国など、ここくらいである。

 まるで、そう。女王による世界征服の足掛けであるようだと、つつがをはじめとした兵たちは思う。この人気のない帝國領で、心落ち着くことなど一度としてなかった。幸か不幸か、武器を持つ腕があったから生き延びた、それだけなのだ。延命にしかならない。

 ここにいたことを嘆くことも、生きることを嘆くことも許されないから、兵士たちは延命と安楽のために女王の手足となるほかなかった。


 石畳を抜け、清らかな小川を渡る。

 灯篭の並ぶ道を進み、二本の柱に二本の横木という青塗りの門がいくつも連なる道へ。きりんはつつがを振り返ることもなく進んでいった。その歩みに迷いなどない。

 彼だけだった、嘆くことなどなく、延命や安楽を求めずに女王の下にいるのは。

 連なる門の先には広大な敷地の屋敷がある。女王の城である。堀も塀もない、ただ大きいだけの屋敷である。女王の城には堀も塀もいらないのだ、女王の存在がそれであった。


 しんと静まり返る敷地。

 そこへきりんの朗々とした声が上がる。


「女王、女王。ただいま参ります」


 一間だけの屋敷である。

 その一間の中央に敷いた白い布団の上、一人の女が寝そべっていた。

 青と白、それに紺色で織られた清楚な衣装に身を包み、寝そべっていた。


 漆黒の長い髪を床にだらりと伸ばし、しかしその艶やかさといったらない。すっと一文字に揃えた前髪の下、その瞳はまるで猫のように細められている。白い面の、その作り物めいた無機質さが湛える微笑は悪女であるが、童女のそれを同時に感じさせる矛盾さをはらんでいた。


 だきにである。

 絶対者である。


「おう、きりん」

「はい」

「早い早い」

「はい。女王の命とあらば、おれは何に代えても一番に、貴女の元へと馳せ参じましょう」

「そうかそうか、まったく立派な姿だ」


 女王がずるりと身を起こす。布団の上を這う髪はだきに自身よりもずっと長いためか、まるで意思を持つ蛇か何かのようにゆらめくのであった。

 それをきりんは梳いてやりたいと愛おしく思うだろうし、他の兵は燃やしてやりたいと憎憎しく思うだろう。


「きりんは馬鹿だが、賢しいぞ」


 だきにの微笑は少女のようなあどけなさを伴う。

 だがしかし、それはだきにの微笑なのだ。それ以外の何ものでもない。だきにというのは、恐怖そのもので、それででしかない。

 だきにの微笑みにそれ以上のもの、恐怖以外のものを見出すことができるきりんは、微笑を返す。逆に、着々と集まりつつある部隊長たちは体を縮こまらせるのであった。


 そうしてきりんを含めて五人が部屋の隅に座すると、だきには軽く手を打った。

ぱん、と乾いた音が響く。

 鬱屈そうな、全てに厭いているかのような瞳は長い睫毛に彩られるが、これを伏せてだきにはひどく悲しげな仕草だ。獲物を前にした蛇のような仕草にも見えた。


「愚かよ。哀れなものどもがまたこちらへ向かっていると、しょうようが嘆いている。ほんに哀れな、愚かな」


 残念そうに緩く首を振るも、その唇は弧を描く。

 紅を差したかのように、白い面に際立つ形の良い唇は、笑みの形を取るのだ。


 だきににとって、他方が攻め入ってくることは、出向く手間が省けることと同じであるからして、喜ぶべきことでしかない。虫は灯りに惹かれ、自ら焔の花に飛び込んでその身を焼くというが、まさにその通りであった。


「しょうようが言うに、南方よりの大群というそうだ。恐ろしや、いまだそのような兵力がこの大陸に残っていようとは」


 だきにの口上は続く。

 誰一人声を上げないし、身じろぎすることはない。

 だきにには絶対服従であった。


「嘆かわしいことに度重なる戦によって、この帝國、ついに部隊は五つと、はぐれどもがばらばらいる程度。しかし舐められたものよ。この帝國とはなんであるか、阿呆どもにはまだ分からぬようだ」


 芝居がかっただきにの言葉。戦士を鼓舞するものでは、とてもない。


「恐るるに足らぬ。行け、行け、片付けるのだ」


 さっと手を払う仕草。

 とたん、四人の屈強な部隊長は弾かれたように部屋を出て行った。さながら蜘蛛の子を散らすかのようであった。

 現在第三帝國に存在する部隊、その長はどれもが歳を重ね、幾重もの戦地をくぐり抜けて生き残ってきた男たちである。第一部隊長のきりんを除いて、その姿は恐ろしい鬼と同じである。身の丈はだきにの二倍はあるといえよう。

 古傷の刻まれた鬼は、しかしだきにを恐れていた。

 本能がだきにを恐れていた。

 それほどまでに、この国の女王は強烈であり強大であった。


 一人残ったきりんを、だきには胡乱げに見やる。


「なんだ、何をしているか」

「ですが貴女を一人になど」

「行けと言ったろう。わたしは行けと言ったはずだろう」

「しかし我ら部隊は五つ、南方といえば銃器の発達が目覚しいと耳にしております。万が一突破され、この屋敷へと兵が参りましたら、貴女の御身が」

「わたしの身を案ずるならば、己の身をもって、外を守ればよいだろうに」

「皆出払ってしまいました。おれの部隊の人間は、もちろん他の部隊と共に南方との一線を守りましょう。おれは、貴女の御身をお守りいたします」

「いらぬわ。邪魔だ」

「その身を、銃器で貫かれるなど! その白い肌を焼くなど、そのようなことあってはなりません!」

「……」

「あの日の悲劇を繰り返してはなりません、あの無事はまさに奇跡。その肌を焼き、髪を焦がすなど、そのようなことは一度きりで十分です!」


 面倒になったか、だきには軽く手を振る。勝手にしろということらしい。

 だきにの様子にきりんはひどく柔らかに微笑み、どこへ隠し持っていたか赤い果実をそっと差し出した。仄かな甘い香に、だきには目を細める。

 機嫌を損ねたのか、それとも興味を引かれたのかは分からない。


「では、貴女にこれを」

「赤の果実か」

「ええ。甘くて美味しいですよ」

「わたしが食むのは、おまえらの心臓であるというのに」


 だきにの可憐な唇、そこから覗く真紅の舌は、差し出されたきりんの手の中にある赤い果実をちらりと舐めていく。


「心臓を食らうことは、つまり規則への則りといえよう。ゆえにわたしはだきにであるのだ。だきにであるために心臓を食らうのだ」

「……おれには分かりませんけれど、ただ、この果実はきっとお気に召しますよ」

「赤いこれと、心臓とは似てもにつかぬ」


 会話は噛み合わない。

 何もかもが、噛み合わない。


 聖少女と名高かった彼女、その頃よりだきにの心には何もなかった。ぽっかりと口を開けて待ち受けるのは無限の闇、いや、闇さえもないのかもしれない。

 だが、きりんは見えもしない光を見出していた。


 きりんは愚かであろうか。

 それとも、きりんは賢いのであろうか。


 だきにはそれを気にしない。賢愚など、関係ないのだ。きりんがなんであれ、だきににしてみれば己以外は所詮己以外という括りでしかない。

 ゆえに、噛み合わないのである。


「いやしかし、世界とはほんに、こどくといえるわ」


 だきには毒々しい微笑みを浮かべ、きりんの手から直接、赤い果実を一口齧った。

 みずみずしい果実は毒の唇を濡らす。


「まったく、こどくでしかないといえる」



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