箱舟の鳩と逃げ出す烏(後編)

 「顔を上げるな。絶対、上げるな。」

 俺は平然と笑ながらノアを見上げた。何でもない、お前が気にするほど大したことではないと思いながら。

 「この患者さんが体が不自由で休憩室まで案内してくださいと頼みました。」

 「放送を聞いてなかったですか。さっさと案内してあげて任務に勤めなさい。」

 うまくごまかしたようだ。

 「あ、失礼でなければ子供の名前をお聞きしてもよろしいですか?」

 「はい?」

 「いや、後ろにいる妊婦さんのことです。子供の誕生は記念すべきイベントですから、個人的にプレゼンもしてあげようかと思いました。」

 余計なお世話だ。

 とは言わない俺だった。確かに今の時代に子供は貴重な資源扱いをされている。バベルとしても子供は儲ける手段であり、将来的にも保険的な意味で戻ってくるお金だった。良からぬ企みを隠しているノアにも子供の存在はまじきに相手とする対象である。何故かと言うと、親である現バベルの院長に似ているからだ。

 ノアは極めて親の院長に執着しすぎている。病的でも言える執着心はいつか毒になって周りを傷つけるはずだ。

 「この子に名前なんか付けてもいいですかね。親の顔も知らない子に、名前を付けても後が辛くなるだけです。」

 この女はあれをまた真面目に相槌を打っている。鼻の上からは布で隠して、よくも会話を続こうとしている。大胆なのか無謀なのか。さっぱり分かり憎い人だ。

 「親を知らない子ですか……。」

 案外普通に反応するノアの姿に驚く人々がいた。俺を含めて隣の軍人から他の就業人まで。皆、普通に会話を続けるノアに意外な部分を生で見届けた。

 「実はこの子を産んでもいいか迷っています。うち独りで育つことも限界があります。政府から資金を貰って生活しても育つ人はうちですからね。寂しがりやのうちが親としてきちんと子育てをするか、自信もありません。」

 「その子、何か月ですか?腹の調子を見たら、もうすぐ世界に出る頃に見えますが。」

 「今月で産む予定です。体が小さくて出てもインキュベーターで当分過ごせなければならないとお医者さんが言いました。」

 「子供が生きたいと思うなら生かせてください。きっといつか自分を産んでくれた母に感謝をする日が寄って来ますよ。お金が問題ならいつでも、バベルから支援をします。寂しい時はその小さな赤ちゃんの手を力抜いて握ってください。生命力ある赤ちゃんがいるだけで、大きな力になります。」

 ノアが見知らない人を慰めている。何だあの慈愛じあいが富んだ顔は、と驚く暇もなく続けてノアがセリフを打った。

 「そこの子羊さん、最後まで彼女を見守ってください。彼女にはささやかな心づくしが必要です。」

 しかも頼まれた。バベルから最も大事に守ろうとしたワクチンを所有した人が逃げ等とするところを自ら助けてくれた。

 危なっかしい。どこまでが芝居で、どこまでが本気なか分からない人だ。

 「本当に、ありがとうございます。」

 ノアに慰めてもらい、今度は涙を呑んでともりながらお礼を言った。

 二人の間に目で追えない何かがあったことは確実に分かった。バベルの利益によって動く人にも人を支える余裕を直接見て、素直に驚いた。

 話がどうなれ、俺はこれ以上注目を集めては困ると思い、早速休憩室まで妊婦を引き連れて行った。中に入ると急に沈黙が流れた。

 休憩室に置いてあるソファーの橋と橋に腰を掛けて残り20分を中で待機することにした。

 「急に言うのもなんだけど、妊婦ってどんな感じですか?」

 最初に持ちかけた人は俺だった。

 「ん、そうだね。視力を失ってから初めて人の存在を確かめた感覚。って言っても難しいよね。ごめんね。うちも視力があった頃があったけど今はよく分からなくなったんだ。」

 「さっき、ノアに話したことは本当ですか?何と言うか、寂しいとか、産むことを迷っているとか。それと、親を知らないこととか……。」

 「当ててみる?半分冗談。半分は本当。何が事実で、何が嘘でしょ」

 「いや、いいですよ。それより今ため口じゃなかった⁉」

 気持ちは悪くないから気にしないけど、妙に馴れ馴れしい口をきく妊婦の態度で二度びっくりした。ちなみに名前すらまだ知らない関係の二人だ。

 「あら、ごめんね。思わず口が滑っちゃった。助けてもらった人に対してご紹介が遅くなってすみません。初めまして、うちは川霧かわぎり穂高ほたかと申します。何卒宜しくお願い致します。」

 「こ、こちらこそ。青山あおやま直人なおとと申します。」

 完全に川霧の意図に巻き込まれた。と思った瞬間向こうから思いもしなかった質問が入って来た。

 「青山さんは親はどんな存在と思います?」

 「……変な質問するな。気まずいだろうが。てか、敬語にするかため口にするかはっきりしろよ。俺まで紛らわしくなるだろ。」

 「やはり、まだ思春期の少女っぽい。身体は大人でも魂はまだ子供ですね。」

 「目も見えない人がよくも俺の年を当てようとするね。生意気だよ。歳幾つだ、お前。」

 誕生日も分からない。色んな人の顔も盗める俺が年を数える方法は、毎年近寄ってくる1月1日に決めておいた。だから、誰よりも年は負けないと無敵である。

 「今、頭の中でいやらしいことでも思ったでしょ。」

 「何も⁉ただ俺が年上だと思った。」

 「怪しい、怪しい。怪しいですよ。思春期の子供さん。」

 会話が長く続くほど、お互い緊張感が溶けて慣れて来た。ここから一歩出たら忘れる関係でも、どうせならたくさん話をしたいと思うようになった。

 「この子の父親はとっても人々に尊敬される大方でね、目が見えた頃はどこに立っても輝く人だったの。」

 「好きに話題を変えるな。ついていけない。」

 とてもお喋りな人だ。話が最後にたどり着くまで何時間もかかりそうだ。

 「輝く人にはいつも人がついていて、いいお嫁さんもいた。羨ましい人だったよ?子供もあの人に似てて可愛くて……ウイルスがなかったら今のところ、幸せに過ごしていたかも知らない。」

 「……お前、妻持ちの男性に惚れたか?」

 部屋の空気が急に重くなった。目が茨に飲み込まれた川霧でも、悲しい瞳で天井を除く気がする。

 「残念。今のは嘘でした。本当は出来損ない旦那さんの子です。一人で勝手に死んじゃったけど。」

 「負けた。負けました、川霧さん。今後、敬語でお呼びしますので勘弁してください。」

 「では、お言葉に甘えて。」

 二人は顔を合わせて笑った。外は警報が出されて緊急事態でありながら、その原因が休憩室で休んでいると言うのに平然と話を交わしているなんて、贅沢だ。

 「そうだ。お互い他人には言えなかった秘密を交換しよ。」

 「だ・か・ら。話を勝手に進め、……ないでください。」

 「ふふ、青山くんって案外素直でいい子だね。」

 「うるさい。あまり調子に乗るな。気持ち悪い。」

 川霧は俺のセリフで微笑んだ。全然楽しいことはない空間で笑い声が響いた。

 「うちら、いずれにしてもここを出てお別れする関係でしょ?なら、一生抱えて行く本音をここで話したら少しは楽になるんじゃないか、と思ってみた。いいんじゃない?うちから言うね。まずは――」

 「待って待って。まずってなんだ。一つで終わらせる気ゼロだろ。俺は言わないから、絶対言わないからな。」

 「うちだけでもいいよ。うちはいっぱい話して、いっぱい楽になりたい。」

 「急にキャラ変わってねェ?」

 「ああ、言いたいですから、勝手に言います!絶対言います。」

 「よーし、認めた。勝手に言い始めることを、ようやく自分の口で認めたな?それに、また勝手に敬語で変えて話して?この人なんですか。もうそろそろ怖くなりますけど⁉話が全く纏まらない人ですけど⁉」

  賑やかな雰囲気でいつの間にかお互い言葉のやり取りをしている場面が展開した。一言も負けなくて攻め立てる川霧と防御に精一杯な俺。よく分からない組み合わせで話は秘密に流れた。

 「一つ、うちは愛する妻持ちの先生とセック――」

 「――ストップ。」

 一つ目から禁止令キープ・アウトだ。基準が曖昧である大人の掟はとても理解不能な領域だ。聞いても愉快ところか理由がつかないことだらけである。

 「なんでだよ!」

 「お前はどこの星から尋ねた宇宙人かよ。人の話を何だと思う。冗談でもやばい話はよせ。聞きずらい。」

 「聞いてくれないの?」

 どこかでねじりよれたかせ糸が切れる音が聴こえた。俺だった。頭の中に切ない川霧の声が入ってはさみのように何かを切った。あの時の、あの川霧は、何とも言えないほど悲しい目をして俺を横目で見詰めた。

 これは反則だろ、と思った。そして後悔を、したかも知らない。

 「失礼します。」

 外側からガラスの扉を軽く叩いた。30分を過ぎて警報が解除したことを知らせるために職員が来た。

 再び日常に戻った俺たちはまた元通りの関係になってお別れの言葉を交わした。

 「楽しかったよ。お仕事頑張ってね。」

 またね、と言いたかった俺は速めに立ち去る川霧の後ろ姿をただ眺めた。ここから出て偶然でも逢ったとしても、立場は変わっているだろと、思った。

 「見つけた。どこに消えたと思えば、休憩室で隠れていたの?」

 「水野さん。」

 「ん?何?え、まだ仕事中だよ?本名言っちゃダメでしょ。」

 「俺、用事が出来たから先に帰るわ。今日の分は水野さんに任せる。ごめんな」

 「え、え?待って、誤って終わることじゃないよ。VIPの依頼だから君がいないと仕事にならないよ。待って!」

 だから俺は川霧の後ろをつけた。

 理由は分からなかった。ありのままで川霧のことが気になっただけだった。

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