箱舟の鳩と逃げ出す烏(中編)

 血液検査の結果によって子供の親は二つの選択を選べる。

 子供のためにワクチンを購入する方法と、ただ時間が流れるまで待つ方法。前者は金があるから可能な話で、後者は結果を知っても手をテーブルの上に置いてため息をつくだけになる。

 たとえ金でワクチンを手に入れても問題は残る。論外と思われるワクチンの値段を払い続けなくて裏の世界まで手を伸ばしたケースもあり、買ったばかりのワクチンを持って帰る途中で行列から離れた集団に奪われるケースもあった。そして、現実の残酷さに負けた親は子供をみちづれにした一家心中いっかしんじゅうまでするほど追い詰められたケースもあった。

 理由は分からない。ただの気まぐれと言いにくい現象で、学者たちは母性を超えた犠牲と呼び、新しい病気だと判明した。原因と思われるウイルスに対する大きな恐怖が作り直した家族関係が第二の被害を出していると、添えて話した学者もいた。

 とある学者は、「現世代を子供を産まない『ダイノキ世代』だ」、と命名した。ダイノキ世代は【ダブル・インカム、ノー・キーズ】の訳した新語しんごで、歴史的にはアメリカや東アジアの韓国でも流行った現象である。

 つまりは子供が原因でもう子供を産まないことで、家族の形が変わってゆく現実に置いた。子供が減ったら一番困る人は誰だと思うか。それは他でもないバベルだと、断言できる。

 何故ならば、今までは子供のために金を注いでくれた親からワクチンで金を没収できなくなったからだ。もしもの話でバベルが最近の若い世代が欲しがる商品を出せなかったら、家族崩壊のところかバベルが崩壊するはずだ。

 「バベルは皆様に明るい将来を保証するため、毎日頑張って研究に勤めております。」

 広場ではバベルが広報用で作った映像が待ち人の耳を貫いていた。

 殆どの時間を街の上で過ごしたせいで、人々は死んだ顔で映像を眺めた。無意識的に何かに引っかかる癖は学習能力以前のことだ。

 ランチタイムが終わって、再び行列が前へ進んだ。誰も最初はどうやって列を並んだかを知らない。ただただ前に人が並んでいるから自分も並ぶと言い訳する人が過半数だと思う。

 幸いにして、ここは普段人が通らない広場だから時間が変わっても周りに迷惑をかけない環境だ。この町に住んだ住民がウイルスで森に食われた以来、バベルが土地を買って今になった。

 「ねー、今日は絶対マーケットに連れて行って。この間LINE貰った子と会う約束したんだから。」

 俺は適当に話を聞き流して唇を突き出し、小太郎に違う事を言った。

 「緊急事態で作戦を変更する。これはアジールの安全がかかった問題だ。」

 「いきなり変更しても大丈夫かな、兄貴。依頼人から納得してくれないと大変だぞ?ここはまず仕事が優先するべきだと思う。」

 仕事を大事にする気持ちは理解できる。でも、今はそんな場合ではないと判断した。もしもの話で巣がなくなったら7日も耐えれないだと思う。

 「まだ確実な情報は知らないだろ。小太郎こたろう夏目ナツメを連れて先に帰ってくれ。俺はここに残って情報を調べた後に行く。」

 俺は小太郎に古い百円硬貨こうかを渡して祭壇に向かって駆けた。ここで戸惑っても時間は流れる。

 「待ち合わせ場所は荒野のマーケットで。兄貴をおいて帰ったら爺に怒られる!」

 「ふざけるな。さっさと帰れ。」

 言葉はタイミングによると思い込んで続けて人々の間を通り過ぎた。

 まだ小太郎は気づいていないけど、群衆はとうに大きな津波となって祭壇の下までうねった。

 「バベルから提供するサービスはすべて無料であり、皆様の子供は安全にバベルがお預かりいたします。最低限で未だに血液検査で結果が分からない子供が優先的に選ばれます。他にも――」

 いわゆる子供センター企画で民心を取り戻そうとするバベルの前にはノアがいた。

 人類が生存するために乗った箱舟に希望を持ってきた白い鳩、ノア。あの人は時間が経っても、相変わらずニンジン臭い思考で脳裏を動かしている。

 強いて言うと今日の企画は気まずい。

 子供センターはダイノキ派の問い合わせとして出した戦略に見える。今までは血液検査の負担を全部個人の親に抱かせたと言うなら、今日からはバベルが自律的に運営で子供を預かって毎日様子を見てくれると言う話だ。ここで大事な条件は子供にあった。

 前代未聞ぜんだいみもん、迷子や孤児も当たる戦略で地上天国ユートピアに入れるチャンスが増えたつもりだ。

 だから、まずい。バベルは今回のことでウイルスの根元を極めようとすれば、ウイルスに近い存在は一番効率が高い実験体じっけんたい、いや、バベルの光栄に使うための生け贄だ。

 「水野みずのさん、この件は単独で行います。」

 「了解。依頼はまだキャンセルされていないから続行を許可する。依頼の内容をもう一度確認する。いいよね?」

 「性別、男の子。10歳。身長、136.4センチ。右手に大きな傷跡が有り。髪色は茶色。メガネ有り。現在位置、C2F3。」

 「確認した。内部に侵入して通信が不可能になったら20分以内に依頼人を捜さないといけない。出来ないと判断すると合流点で会う。分かった?」

 「分かりました。」

 水野からの通信が終わって一先ず周りを注意した。広場は騒ぐ人並みは自らコントロールを失って雰囲気に身も任せているみたいだった。あれほど、親と言うより大人にメリットがある提案を持ち出しては理性が飛ばされとおかしくない。

 よって、今回は子供になって侵入する。

 「ねね、おじさん。ニコのママ見なかった?僕怖いよ。」

 適当にうまく騙せるような大人を探したら、群衆から一人だけ抜けて今起きるみじめな有様を見届ける人を発見した。

 年頃は三十路を寸分超えて子供はいないニートのイメージがある。話はかけてみる者の興味のない話になりそうだ。

 「ん?もしかして親を忘れたの?」

 「うん、どこにも見当たらないんだ。ママと一緒に歩いたのに。」

 今までの経験通りで大人にうまく頼れる年は――平均値で――8歳ころの子供だった。多く見えても信じてくれないし、少なく見えても大体面倒くさがりと思われ、無視された。

 せめて話が通じてすぐ泣かない歳なら、百歩譲って、手を伸ばしてくれる。大人は色々手間がかかる者だ。

 「ママはどんな服を着ていたか思えている?」

 「ピンクだよ。ママは、ピンクが好きなんだ。髪も長くてサングラスもしている。」

 「曇りなのにサングラスを?嘘でしょ。」

 「ニコは嘘なんかつかない!よく探してくれよ。きっといる。」

 「ちょっと待ってね。そうらしき者は見当たらないが――」

 そろそろ頼りが足りない男だと失望している時に、一人の女性が遠くからこちに向かって歩いてきた。背が低くて顔までは見えないが、カツカツと鳴るヒールを聴いて、実はピンクが大嫌いな水野であることが分かった。機嫌が悪そうな顔をしているに違いない。

 ごめんなさい、水野さん。と一人で呟いた。

 「あら、ニコちゃん。どこにいたの?急にいなくなって心配したよ。」

 芝居が下手すぎですよ。雑誌の太文字を読む感じでしたよ、今。

 と今更事実を問い合わせしても仕方がない部分だ。

 「ママ!」

 「ああ、良かった。意外と早めにママと出会えたね。」

 ここで水野が俺をピックアップして、一緒に来た相手が下手に手を出すことを事前に防ぐ役割と同時に次の段階に進む。

 「本当にありがとうございます。いい大人と出会えて本当に良かったです。わたくし吉川よしかわ茉奈まなと言います。良かったらお名前をお聞きしても宜しいでしょうか?」

 「あっ、はい。里村さとむら龍之介りゅのすけです。気安い方で、サトと呼んでください。」

 「それでは、サトさんとお呼びしますね。」

 普段でも芝居が下手でも水野は、顔が可愛い方だから計画に狂いが生じることはなかった。単純な男でも、頭がいい男でも可愛い水野の前ではすっかり参った。そこまでして女が好きなら一層キャバクラでも行けば済むことを。男は浅はかな判断力で『なんぱ』に希望をかける。

 理性的ではなく、ただの本能に充実した動きに過ぎないと思うと、急に吐き気がした。

 いかない、今は仕事中だ。と責め立てて仕事に戻ろうとした。

 「気持ち悪そうだね。大丈夫?」

 仕事中に隙を見せられては同業者である水野に面目がない。よりによって子供の姿に成り代わった状態では油断してはならなかった。

 「ううん、目眩めまいに襲われただけよ。もう大丈夫。」

 「そっか、ならいいけど。」

 水野はもう一度俺の額に手をかざして熱を計った。

 せっかく捕まえたバカには感謝の言葉とまた出会える約束をして、個人情報をごっそり盗んだ。これから俺は『ニコ』の名前をした子供ではなく、『直人なおと』の名前をした大人だ。見た目も手を繋いだ時に覚え済みだった。

 「浄化の申請をしたくて来ました。」

 最初から一人で来た大人が目的だった。

 行列に並んで子供の血液検査を受けようとする親と、個人的に浄化治療を申請するために来た人がいる。数も最近はダイキはが増えたから半々となった。

 バベル的に浄化治療を行なって何の利益があるかをよく知らないけれども、毎年増えるダイノキ派に合わせ、大人センターを運営したおかげでバベルの出入りが可能となった。

 元々、今日バベルが子供センターの企画を発表しなかったら何の疑いも挟まない方法だが、先のことはいつも思い通りにはならない。

 「はい、分かりました。名前と個人番号プライベートナンバーズカードを出してください。」

 昔と違って今は18歳を超えた人にはバベルから個人番号カード、もしくはPNカードを配ってくれる。指紋や証明写真も必要で、申請までが少し面倒くさい。一度登録したらバベルからの医療サービスと販売のためにかかる身分証明書を提出しなくてもいい利益があって、仕事がないニートでもPNカードは必ず申請する模様だ。

 バベルの人がPNカードを手持ちのスマートウォッチにスキャンをした。

 「繁々しげしげ直人なおと様でございますね。簡単にいくつかの質問をしてから案内しますので一緒に来てもらえますか?」

 バベルは他の施設よりも出入りに警備が厳しい。むしろ、東京でナンバーワンである議会事務局よりも警備が三倍厳しいと言われている。治療の目的でも中に入る前に事前調査で入る人の具合を把握する。

 この時は水野が後ろから送ってくれる情報を耳の奥にある通信機で聞き、質問に答えた。

 「最後に今日公開された子供センターに関してのご説明を頂きます。」

 「いや、別にいいです。時間の無駄です。」

 具体的な説明は後で聞いても十分分かる。ここで立ったままお聞きするよりはましだ。

 「さようですか。それでは中にご案内しますので、こちらにどうぞ。」

 バベルの施設に入る前にまず、およそ5メートルの入口を通って体のスキャンをする。スキャンが終わってからはバベルの関係者が案内に従い、中で成和治療室まで行く。ちなみに、ビルの中は通信機が使えない。一〇年ほどの前に怒った事故で内部的に構造を変わったと言われた。

 内部インテリアまで白く染めたビルは、エスカレーターやエレベーターの代わりに無数の階段と真ん中に橋を架けてあった。

 高さは他のビルに比べて低い方の5階だ。

 「通信……なら、素早く……を……だ。い……よう……た。……。」

 バベルの内部に入ってすぐ通信機が壊れた。新作だったのに。俺は耳障りの通信機を掘り出して掌で壊した。あまり愉快な音ではなかった。

 「B病棟びょうとうまでご案内させてもらいます。途中からは休めないため、休憩室でしばらく休ませても――」

 「失礼。」

 休憩室の案内を済ませた直前に関係者の喉を拳で叩いた。息苦しくて喉を手でいじる人に蹴りを入れて最後のとどめを刺す。口元から血が壁に飛び散り、バベルの関係者は気を失って床に倒れた。一旦、気を失ったことを隠した俺は着ていた服を全部脱いでバベルの白い服に着替えた。

 基本的に黒いエラスティックな上着と下着を着してあるから、歳が変わっても問題なく動けた。それにしても、水野が持ってきた服はどう見ても地味で腐ったにおいがする。

 着替えを済ませた後、休憩室から出て依頼人がいるC病棟に足を運んだ。

 「ご覧になってください。現病院長とそのご家族であります。バベルの設立に時代な影響を与えた竜神りゅがみ家兄弟はウイルスから命を繋げる道しるべになってくださいました。現在はその意志をノア様が引き受けて人類の未来を背負っております。」

 一階のデスクトップでは観光のために訪ねた観光客が集まっていた。ほぼ来日した外国の人が多く、世界一と号するバベルの本社に来ているようだった。俺には関係ない話だ。

 それよりは迷路になっている道を一刻も早く覚える必要があった。来るたびに病室と患者の位置が変わるから、ゲートは無事に通っても次が問題になる。特別にここは森を思い出せる構造だ。

 大袈裟ではなく本当に『森』と果物の樹が生えている。

 「『近くに鳩ノ巣箱すばこがあります。バベルの者は人類の希望メッセージをご確認してください。』」

 上着のポケットからアラームが鳴った。中には鳩の形でコンパクトなパワードスピーカーが入っていた。

 バベルは各層エリアに植物園を作って、人が森の中を通りぬく気分を味わってくれる。真ん中の橋も今の時代ではよく見れない樹を使って作ったある。

 近くで鳩の巣があるとしても可笑しくない話ってことだ。

 樹の下をよく探してみると鉄の巣箱が置いてあった。中には鳩の羽だけで鳩はどこにも見当たらなかった。

 「ポッポー。ポッポー」

 右肩の上に一匹の鳩が馴れ馴れしく鳴き声をたてて留まった。伝書鳩でんしょばとだった。鳩の足には小さい紙で書いてある伝書が結ばれていた。

 巻かれた紙を開いて書いてある文字を読んだら、意味不明の内容で首が傾いた。

 『夜明之前・羊飼・庭之鍵・隠』。

 今日の任務は何故か暗号化されていた。言葉が文章になっていなくて普段と違い、分かり憎い。順番に並べると『時間帯・対象・物・目的』だが。最後の単語で何かを隠せることが任務だと思われる以外には解析ができなかった。

 他の人に聞いてみてもいいが、めでたい日に暗号化された任務を聞いたら、疑われるいわれになる。ここは要領よく人の動向を見抜いて行動することにした。

 子供が保護されている病棟はCの地上三階。とりあえず一番最近の情報でCの三階だからまた変わった可能性もある。

 俺は壁にある案内図をサラッと見て橋を渡せた。

 「バベル保安部からのお伝えです。とある病室から火事が発生。よって現時点でバベルはデフコン:レベル3にする。繰り返してお伝えします。とある病室から火事が発生。よって現時点でバベルはデフコン:レベル3にする。警報解除までは後30分。伝書鳩に位置情報を伝えます。以上、バベル保安部からのお伝えでした。」

 光が差す天井から声が響いて聴こえた。俺は腕時計で時間を確認して素早くC病棟に向かう端まで移動した。

 バベルは中心分に近寄ると小さくなる丸い塔の形で、天井までは行く道が分からない構造だ。マスコミでは外側は毎回移っていて、内部の写真は著作権の一枚も残さない方針だから資料を探すこと自体が時間の無駄だった。結局内部から逃げ出した人の情報を聞いて動き、一度入ってからは自部飲ん実力でやるしかない作業になる。

 ところで、今の警報は何だ。

 侵入者が出現しても鳴らなかった警報が、たかが火事でデフコン:レベル2になるには多少やりすぎた対処だった。最も火事が起こった病室の情報がない以上下手に動いても疑われやすくなる。

 俺は状況を把握するために伝書鳩の巣箱をもう一度確認した。中にはいつの間にか鳩が入っていた。

 『C2F4。C2F5 。C2F2 。』

 火事が発生した場所は病棟Cの2階から5階までだ。他はともかく依頼人がいる三階だけ火事が発生していないと書いてある。俺は万が一の要素に戸惑いながら、依頼と現在の状況を頭の中で纏めた。

 何か変だと直感的に感じた。これは単純な火事ではないかも知らない。いや、単純な火事ならここまで警報もしないし、保安部が直接動くはずもないだろ。

 即時に水野を捜して任務中止を要望しなければならないありさまだ。もしもの話で、保安部と突き当たる場合には戦闘力ゼロに近い今を捨てて、野獣のような本能に任せるしかあるまい。

 とにかく一階に戻って水野を捜す。

 「痛っ。」

 後ろから誰かが背中に軽くぶつけた。廊下の真ん中で考え込んだからだった。俺は慌てて自らやらかしたミスに誤った。

 「すみません。怪我はしていませんか?」

 「いいえ、大丈夫です。」

 結構冷たい声で言い返す女性は目がウイルスのせいでほぼ見えなくなっていた。普通なら壁に頼って歩く方が常識だ。

 この人がどんな理由で忙しいかは無視して、今は偶然出会ったチャンスをうまく活かせる方法を考えることにした。

 「私が悪かったです。よかったら病室までご案内します。」

 「……病室じゃありません。家に帰る途中でした。」

 急に声が優しくなった気がした。

 外に出ると言った人だと思うには着ている服装が怪しかった。布で顔を隠して足元には違う種類の靴を履いて、手も妙に震えた。

 「大丈夫、ですよね?顔色が悪いですよ?」

 「ええ、大丈夫です。それより。」

 「はい。なんでしょうか?」

 俺は速く本論を言い出したくて焦っていた。当然だった。保安部の人に遭遇する前にここから離れる必要があったからだ。

 「私を外まで連れだしてくれればあなたの正体に関しては見抜いてあげます。」

 一瞬の間、耳を疑った。

 「保安部が出回っている以上。姿を隠してバベルに入ったことがばれたら困るですよね、色々。」

 「冗談はよせてくださいよ。私はバベルの関係者です。今だって伝書をチェックしてC病棟に向かう途中でしたから。」

 「甘いですね、あなたは。ここの管理人たちは全員『僕』を使います。ちなみに、C病棟にはいかない方がいいですよ。保安部の犬たちが見守っていますからね。」

 そこまで言われるとようやく相手が目に留まった。

 物静かな声をして目が見えない代わりに他の感覚が鋭く、人の感情にもよく反応する人に見える。そして、この人は若い女性で、独り身ではなかった。

 「見た通りもう一人がいてね。猫の手も借りたいほどだったよ。どう?悪くない話でしょ?うちもあなたも外に出た方が身の安全にもいいよ。」

 「それで俺を脅かせるとでも思った?怪しい方は妊婦の方だろ。どうしてバベルの施設を利用しないんだよ。と言うか、同期の問題はスルーして見た目でも十分怪しく見えていますけど?出ようとしたら俺が先にばれるところだ。」

 「あなたが来た服を渡せばいいの、名前を知らないカメレオン様。」

 「カメレオン様って誰だ、おい。俺はカメレオンなんかじゃないよ。」

 「あら、そう?てっきり姿を化けるアビリティーを使ってここまで入ったと思ったのに、外れだったんだ。残念。」

 怖い女だ。

 俺は心の底から本気でそう思ってしまった。予想外から来る恐怖と言う感情が初めて生まれた。

 「お前、バベルで何をされた。ひょっとしてお前もアビリティー使いなのか?答えろ。さもなければ――」

 激しく相手を壁に追い詰めた俺は時と場合を考えられなかった。

 「落ち着いてください。ここで大声出したら、うちもあなたも困ったことになります。接近戦には少々自身がありますけどね。」

 と言った女性の手元には医療用の注射器インジェクタが持たされていた。表面には英語で何か書いてあった。

 一旦ここは距離を置いて周りを察することにした。

 「今でも間に合わないです。手伝ってくれるとこれを差し入れで渡します。」

 「それがワクチンである証拠は?」

 「あります。」

 自信ある声で返事をする妊婦。溢れ出す確信がゆかに漏れている。しかし、どうすることもできない俺に最後の通告を話した。

 「保安部が動き出した理由がこれだと言ったらご納得いただけますかね。」

 話が長くなった。C病棟につながる橋から保安部の人が武器を装備したまま駆けてきた。ここまでなる前に決着をつけるべきだったが、しくじった。

 「走れる?」

 「子供が死なない程度までは、走れます。」

 腹の中にいる赤ん坊のためにも走る方法は見合わせた。

 俺は平然とした顔で妊婦の横に立った。動きが鈍い妊婦を手伝う姿は不自然には見えない。ならば、このまま階段を降りてバベルを出る。

 「横目ですばやく下を見てください。」

 女性が話した通りに下を見下したら検問所にまで軍人が一人の女性を審問していた。なおまた、その人が水野であることも知った。

 「だから、私はここに検査を受けに来たって言ったでしょ?速く出かけさせて。さもないと警察を呼ぶから。」

 「できません。警報解除まで誰も出てはいけない命令がありました。しきりにねだりますと不可抗力で逮捕します。」

 「何て言いました?逮捕?この私の体に手を出すと言いましたか?はっ、呆れました。もう限界です。ノア様をお呼びください。あの方と直接話しますわ。」

 水野が暴れてくれたおかげで動きやすくなった俺たちは、階段から降りてゲートから寸分離れた柱の後ろで身を隠して状況を見守った。

 「何の騒ぎで私を呼びましたか?」

 水野の要求を受け取った軍人がついにノアを呼び出した。微笑む面の後ろに不機嫌な気持ちを隠しているノアを想像するとぞくぞくする。水野もあの程度でやめないと本当に捕まる可能性があった。

 バカでもない水野だから、ここは懸命に猿芝居でうまく騙せると信じた。

 「ノア様ですか?」

 「はい、さようですが。何の用で私を――」

 「あなたの部下が私の体に手を触れようとしたよ!どうおぎなってくれるつもりですか?」

 更に大袈裟にはしゃぎ始めた水野だった。普通にあれはないかと思っても、ノアの面に変化がし始めたから仕方なく見届けることにした。

 と言う前に芝居がへたくそ過ぎる。

 「……補い、ですか。」

 「そう。人を三十分間ここに閉じ込めておいて、逮捕やら何やらを仕掛ける君たちに弁償させて貰いたいわ。早く、どうかして頂戴。」

 顔が熱くなるお芝居だ。

 ノアは水野の話を聞いてまっすぐ連絡を取った軍人の前に立った。すると持っていた銃を奪い、軍人の額を狙い澄ました。

 「これで勘弁してください。」

 を言い残してノアが引き金を引いて、軍人はへなへなと床に転がった。丸い頭が地面とぶつかって赤い血が満開し、血の香りをただよわした。

 「この件はもう終わりです。さ、手短に現在の状況をブリーフィングしてください。お父上様の耳元に届く前に始末しなければならないです。」

 ノアは消えた場所にはパニックに落ちた人の悲鳴とぼんやりと死体を眺める水野が残されていた。どうか無駄に罪悪感に陥らないでくれと心から祈った。

 「お二人ともここで何をされていますか?病棟はあの階段を昇ればあります。」

 上層に上がるノアが俺たちが隠れている柱へ目を背いた。そして、下にいた俺との目が合った。

 「そこで何をしていますか?」

 彼がいよいよ気づいてしまった。

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