12.グニャリと歪む

 雪実ゆきみがそれに気が付いたのは、学校を出て十五分ほど歩いた……すでに自宅まであと数分という場所まで来たときだった。

 コンビニエンスストアに寄るため、財布を取り出そうとファスナーの引き手プラーを摘んだときにようやく、違和感に気付いてハッと鞄を見直す。


 自分のものより明らかに年季が入っているし、淵汚れも目立つ。

 なにより、プラーに吊り下げてあった雪実のネームプレートも見当たらない。

 鞄を回転させて反対側を見ると、黒い油性マジックで〝SYUN NAKAMURA〟と書かれていた。


 一瞬、軽い眩暈めまいを覚えるも、すぐに状況を把握して踵を返す。


(中村くんが落としたとき、私の鞄と入れ替わっちゃったんだ!)


 学校指定のスクールバッグなのでデザインは一緒だ。しかし、冷静になってみれば、重さも、脇に当たる感覚も微妙に違う。

 普段であれば、肩に掛ければすぐに違和感を感じたはずだ。

 ここに来るまでそれに気が付かなかったのは、例のメモ帳の事を指摘され、自分で思っていた以上に動揺していたということだろう。


 学校まで五分ほどで駆け戻り、息を整える間もなく中等部の生徒用玄関へ。

 靴を脱ぐと、一旦しゃがむのもものどかしいといった様子で、上履きの踵を踏んだままスノコから玄関廊下へ駆け上がる。


 五限の授業が終わってすでに三十分以上が経っている。

 アリーナから聞こえてくる、バスケ部やバレー部員たちの甲高い掛け声が人気ひとけのないウレタンの廊下に響く。

 小走りで階段を駆け上る雪実の後を、パタパタと乾いた足音だけが追いかけてきた。汗ばんだ顔から、眼鏡が何度もずり落ちそうになる。


(中村くん……もう……帰っちゃったかな……)


 中村しゅんの自宅は別方向だが、林美和子は途中まで雪実と同方向だ。

 二人が一緒に帰る姿を雪実も何度か見かけていたし、放課後はいつも、俊が美和子を自宅まで送っているのだろうと思われた。

 雪実が学校に戻るまでの間、俊も、美和子の姿も見なかった。となれば――


(まだ、二人とも学校にいる可能性が高い!)


 そう自分に言い聞かせながら二階を過ぎ、さらに三階へ続く階段を駆け上る雪実。


 中学生の雪実にとって、自作小説の題材にできそうな実体験などたかが知れている。自宅、塾、学校――行動範囲は限定的だ。

 しかし、考え方を変えれば現役中学生だからこそ書ける内容もきっとあるはず。

 そう考えて、キャラ作りのために教室の隅から人間観察をすることが、雪実の密かな日課となっていた。


 ある生徒の外見、性格はもちろん、口調、交友関係、部活や家庭環境、そして雪実が抱いている印象まで、知り得る情報はすべて専用のメモ帳に記していた。

 執筆用の資料なので、多少の脚色や追加設定が入ることもある。


 もちろん、万が一に備えて実名は書いていない。しかし……。

 中には本名を多少もじっただけで済ませていたり、情報が特有過ぎて、見る人が見れば誰のことを書いているのか分かってしまいそうな内容もあった。


 書きこむのは大抵昼休み。

 給食のあと、屋上のベンチで、知り合いをモチーフにしたキャラ作りや小説のプロットを考えるのが雪実の密かな楽しみだった。

 こんなメモが見られたら大変なことになるな……と、漠然とした懸念を抱きながらも、存在感の薄さを過信して油断していた自分を省みる雪実。


(メモなんてスマホにでも付けて、まとめるのは家に戻ってからでもよかったのに)


 あんな爆弾を毎日持ち歩いていた自分の迂闊さを悔やみながら、ようやく、三階にある三年三組の教室の前に辿り着く。

 直後、閉じられた引き戸の向こうから聞こえてくる生徒の笑い声。

 この声は――


(中村くん!? よかった……まだ残ってったんだ……)


 雪実の、乱れた呼吸の中に安堵の吐息が混じる。

 何人か、他のクラスメイトと集まって談笑をしている気配はうかがえるが、とくに険悪な雰囲気というのは感じられない。


(この様子ならまだ、鞄が間違っていることにも気付いていないかも……)


 一刻も早く自分の鞄を取り戻したい一心で、ボサボサに乱れた髪を直すことも忘れて教室のドアを開けた。


 すぐに、教室の一角で集まっている五~六人の生徒の一団に目が留まる。

 彼らの中心、一番前の窓側の席に林美和子が腰かけ、隣の席に座っている中村俊の手元を覗き込むように身を乗り出している。


 教室のドアを開けた直後、俊と美和子、そして、その周りに集まっていた数人の生徒の視線が、一斉に雪実へと集まった。


 小説などでたまに、〝目の前がグニャリと歪む〟というような表現を目にすることがある。ショックな出来事に遭遇したときの、大袈裟な心情描写だ。

 しかし、そのときまさに、雪実自身がそれを体験することで、決して大袈裟な表現などではなかったのだと悟る。


 こちらを向いた俊が手元で開いていたのは、紛れもなく、雪実のくだんのメモ帳だった。


               ◇


「うふぁ――……ん」


 再び花音かのんが、意味不明な声を漏らす。


「な、なによさっきから?」

「ついに伏線が、回収されますた……」

「だから、伏線じゃないってば」

「あたし、なんていうか……こういう〝泥沼系〟っていうの? ズルズル裏目って酷い目に合いそうな感じのする話、苦手なのよぉ~」


 両耳を塞ぐように、手で頭の横を押さえながら首を左右に振る花音。


「たぶん矢野森やのもりさんは、一見無神経そうに見えて、実は優しい性格・・・・・・・なんだよねぇ」


 そんなたまきさんの言葉に、花音が待ってましたと言わんばかりに拍手かしわでを打って、私を指差す。


「今の聞いた、咲々芽ささめ!? 環さん、大事なこと言った!」

他人ひとを指差すな」

「あまねくんも……聞いてた!?」


 興味なさそうに、一瞬だけ花音に目を向けたあと、すぐに書棚に視線を戻すあまねくん。

 調整は終わったのか、すでにノートパソコンは閉じて小脇に抱えている。


「ったく、みんなしょうがないないなぁ。環さん、もう一回説明してもらえます?」

「ん? ああ……えっと、矢野森さんは無神経に見えるな、って……」

「い……いや、すいません、そっちじゃなくて……」

「そのメモって、そこまでマズいことが書かれてたの?」


 脱線しそうな花音を無視して、手嶋さんに質問する。

 小さく頷いた手嶋さんが、書棚の裏に回り、机の引き出しを開けた。

 中から取り出したのは、A5サイズ程の黒い表紙ノート。


「これがその……メモ帳です」

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