第3節

 気が重かった。

 何とも言えない脱力感と日々の肉体的・精神的疲労がそうさせているのは、考えるまでもなく分かる答えだ。この疲労は並ではなく、今朝クラスメートにまで「何か悩み事でもあるのか?」と言わせるほどである。

 こういうのを鬱病というのだろうかと、久野は肩と息を落とした。

「はぁ……あれ?」

 生徒会室には誰もいなかった。いつもいるはずの、鬱病を作り出している本人さえもいない。

 性格から突然現れて驚かすというのは、些か考えられない。

「生徒会長……」

 人の気配のない部屋。信じたくない空間に彼は居たたまれなくなり、宇都宮を呼んでみた。呼んだが、何も変わらずどうにもならなかった。返事をする者の居ない部屋の中は、ずっと静かなままだ。

 見回すと、机の上に湯呑みに敷かれた一枚の紙がある。

 見たくない。見たら絶対に叫びたくなる。久野はそう思った。しかし、この場に宇都宮が居なければ、小島に小言を言われるのに変わりはないわけだ。なら、見た方がいいだろうと思い直し、紙に近づく。

 湯呑みは間違いなく(他に湯呑みはないが)、宇都宮が愛用しているものだ。それをそっとどけ、紙を手に取った。紙には彼の字で短く、


【 気が変わったから帰る            宇都宮 】


「……………………。そんなことで帰んないでぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!!」

 一瞬、我を忘れて呆然としたかと思うと、久野は叫びながら紙を握り潰し頭を抱えて机に突っ伏した。

「ど、どうしたの? なんだか、すごい叫び声みたいなのが聞こえてきたけど?」

 唖然とした表情の小島が生徒会室に入ってきた。それに彼はびくっ、とすくみ上がり咄嗟に握っていた紙をポケットの中に押し込んで身体を起こした。

「あの……ちょっと、発声練習を……」

「そ、そう。でも、あんまり大きな声を出さないでよ」

 自分のことがあるからだろうか? それとも宇都宮に向かって出している、自分の声の大きさに気付いていないだけだろうか? と、彼は思った。

「ところで、生徒会長は?」

 中を見渡し、不機嫌な声で小島が聞く。ポケットの中の右手に自然に力が入り、汗ばむのが分かる。

「あ……さっきまでは居たんですけど……」

「帰ったの?」

 更に彼女の声に不機嫌さが籠もる。

「い、いえ、お茶っ葉がないとか言って……買いに行きました」

 それを聞くと小島が吐息を洩らした。

「なんなのよぉ、もう。まさかそのまま帰るなんてことは……」

「だ、大丈夫です! ここに鞄もありますから」

 と、足下に転がっていた自分の鞄を急いで持ち上げ、彼女に見せる。

「まぁ、それならいいんだけど」

 久野の言葉を疑っているわけではないが、小島はあまり安心した様子を見せずに椅子に座った。

 意味もなく宇都宮を庇ったことを久野は後悔した。すぐにばれる嘘だと分かっている。だが、何故かそうせずにはいられなかった。おそらく、自分のためではない。自分のためならば嘘はつかない。

「明日は居てくださいよ」

 パソコンの起動音にかき消されるような声で呟く。

 そのまま資料の整理などをしながら、ほとんど不必要な会話もなく三十分ほどが過ぎた。「随分、遅いわね」

 不意に小島がそう言った。久野の背筋に冷たいものが走り、額に汗が浮かび上がる。

 遅いというのは当然、帰ってくるはずのない宇都宮のことに違いない。久野の作業のことで小島が文句を言ったことはこの三ヶ月でほとんどなかった。

「そ、そうですね。寄り道でもしてるんじゃないですか?」

 彼女と目を合わせたくないので、画面を見ながら適当な言い訳で答えた。指は震えてまともにキーボードが打てていない。

「ふぅ。それもそうね」

 意外なことに小島はあっさりと納得してくれた。取り敢えず、久野がほっと胸を撫で下ろした瞬間、

「あっ!?」

 大声を上げて小島が椅子から勢いよく立ち上がった。久野も嘘がバレたと思い、ビクゥッ、と肩をすくめ硬直する。

 顔の表面を止まることなくダラダラと嫌な汗が流れ落ちる。

「久野君」

 実に息苦しい。

 何秒も経っているわけでもないのに水の中に一分いるくらいの息苦しさを、久野は瞬間に体験している。

 呼ばれたのに、返事ができない。声を出そうにもあまりに息苦しいあまり、喉に詰まって出てこようとしない。覚悟を決めて久野は本当の事を話すことにした。

「あ、あの……」

「ごめん、私、今日大事な用があるの忘れてた。急いで帰らないといけないから、後のことお願いね」

「は、はぁ……」

 久野の返事を待たずして、彼女は鞄を持って生徒会室を飛び出していった。小島が出ていったあと、彼は大きな安堵のため息をついた。

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