第4節

「ばいばい……。冬兄ちゃん」

 俺は布団をはね除けて飛び起きた。雪も降るような寒さだというのに、びっしょりと汗を掻いている。

 夢だということが信じられないような気がした。何処か俺の知らない所へ、雪那ちゃんが行ってしまう夢を見たのだ。胸騒ぎみたいに、動悸が止まらない。部屋の中はまだ暗い。時計に目をやると、六時を過ぎたあたりである。

「シャワーでも浴びるか……」

 汗を多量に吸い込んだ服が気持ち悪く、早くさぱっりしたかった。それは体だけになく、気分転換も兼ねている。

 しかし、シャワーを浴びても体だけで、ちっとも心の方はさっぱりとはしない。部屋へ戻って着替えると、六時半だった。夜明けまで、まだ三十分あまりある。静かな部屋の中に留まっていることが出来ず、俺は着慣れたコートを羽織って家を飛び出した。

 雪は止んでいる。ふと、玄関先に目が向かう。一昨日、雪那ちゃんの作った雪だるまは、積もった雪で六割方埋もれていた。その雪だるまを助け出すと、門柱の上、平らで広い所の雪を落とし、そこへ避難させてやる。

「こっちの方がいくらかマシだろう」

 雪だるまに言ったのか、それともただの独り言か。情けないことに自分でも分からない。

 当てもなく俺は暗い雪の道を歩きだした。この積雪と寒さじゃ、犬の散歩をしている人にも出会わない。気が付くと、俺は中学校の校門前に来ていた。ここは俺が二番目の恋に破れた場所。少年であった日を過ごした学校。多くの友を作った時間。昨日の事も含めて、いろいろと思い出深い場所の一つだ。

 俺はこの際なので、他の思い出の場所を回ってみる事にした。

 次に足を運んだのは公園。ここは俺がファーストキスをした公園だ。あれは確か、十六の秋だったと思う。それ以外にも、子供の頃、この公園でよく遊んで怪我をしていた。

 誰も踏み荒らしていない雪の絨毯に足跡を残し、感傷に浸りながら公園の中を通って次の場所に向かう。

 公園を過ぎ、高校の時の通学路を通って神社の階段の前に訪れた。連なる三十一段の階段。ここを抜けたら明らかに高校に近くなるのに、必ず遅刻するという魔の階段だ。俺は誰もが解けなかったこの謎を解明する事に成功した。

 その真相は、急いでる時はペース配分を誤るので、階段で根こそぎ体力を奪われるから。しかも神社を越えれば、森の急勾配を全力疾走することになる。そこを抜けた頃には足はガクガク、息は上がりっぱなし、挙げ句の果てには足を吊る始末。そんな状態じゃ、どう足掻いても遅刻するのは目に見えている。

 過去の強敵を臆することなく、楽なペースで昇り始めた。俺に合わせるように西の空が雲を突き抜け、明るさを増してくる。急激な冷え込みに階段を昇りきった俺は、ぶるっ、と身震いした。

 この神社に俺は二度合格を祈願しに来た。一度目は高校受験。二度目は大学の再受験だ。あんまり特別な神様がいるという話は聞いた事がない。が、お世話になったのは事実だろう。

 一応は挨拶でもしておこうと社に近付いた時、社へ入るための階段に誰か座っているのに気付いた。ライトグレーの長髪に、雪のように白い肌を持つ少女。

「雪那ちゃん……?」

 間違いない。膝を抱えてうずくまっているその少女は、隣に住んでいる雪那ちゃんである。

「こんな時間なのに、一体どうしたんだい?」

 すぐに駆け寄り、彼女の顔に自分の顔を近づけて聞いた。

「何でもないよ……」

 視線を下に向けたまま、顔も上げずに雪那ちゃんは答える。物静かなタイプとは言え、いつもほどに覇気が言葉にない。

「そんなはずはないよ。じゃなきゃ、こんな冷え込む時間に神社にいたりしないだろう?」

「うん……」

「さぁ、風邪ひいちゃうから、早く家に帰ろ?」

「もう……帰れないの……」

 どこか寂しそうに言葉を紡ぐ。

「何か、あったの?」

「ううん……何にも……。でも……帰れな……」

 喋っている途中で雪那ちゃんの体は突然横へ傾いた。俺は咄嗟に彼女の体を支える。その支えた体は恐ろしいほどに冷たい。

「雪那ちゃん……雪那ちゃん?」

 呼びかけて支えている体を揺すったが、全く反応を示さない。完全に意識を失っている。

 冷え切った雪那ちゃんの体に追い打ちをかけるように、また雪が舞い始めた。少女に自分のコートを着せ、俺は背負った。冷え切った少女の体温が背中に広がる。灰色と白で埋め尽くされた街を見渡し、階段をゆっくり下りだした。


 雪那ちゃんなりの理由があるのだろう。家に帰れないという言葉を思いだし、彼女の家ではなく、俺の家へと連れ込んだ。

「ただいま」

 家に電気は点いていた。七時は過ぎているから、母親が起きていてもおかしくない。

「寒いのに朝早くからどこに行ってたの?」

 パジャマ姿の母が台所から姿を見せる。

「散歩」

「へぇ。あら、その女の子は誰?」

「え……?」

 母はまるで雪那ちゃんのことを、知らない子のように聞いてきた。

「あ……うん、ちょっとした知り合い」

「そう。珍しいわね。女の子を家に連れてくるなんて」

 母の横を通っても、全く雪那ちゃんだと気付く様子もない。頭の裏側で、嫌な感じが渦巻きだす。

 少女を俺の部屋へ連れて来た。汗を吸ったベッドのシーツを取り替え、コートを脱がせてベッドに横たわらせる。

「冬兄ちゃん……」

「大丈夫。俺の部屋だよ」

 目を覚ました雪那ちゃんに布団を掛けてやりながら、優しく告げる。

「ありがとう……」

 いくらか安心したのか、彼女に仄かな笑顔が浮かんだ。

 熱を計ろうと雪那ちゃんの額に手を当てると、驚くほど冷たかった。しかし、雪那ちゃん自身に体調の変化は伺えない。顔色も普段通りだ。

「力……使い過ぎちゃった」

 天井を見上げた雪那ちゃんは、唐突にそんなことを呟いた。床に座布団を敷き、彼女の傍らに座る。

「さっき言ってた、家に帰れないっていうのはどういうこと?」

「冬兄ちゃん、私の事を思い出せる?」

 少しだけ顔を傾け、俺を見つめながら静かにそう言った。

 質問をしたのに、少女に逆に質問をされ返された。

「もちろんだよ。それと、何か関係あるの?」

「じゃあ、小学四年生の時の運動会で、私が何に出たかを覚えてる?」

「えっと……あれ、思い出せない」

「だったら、中学二年の夏休みに遊んだ事は?」

「それなら……え……思い出せない」

 アンテナの繋がってないテレビみたいに、雪那ちゃんの事を思いだそうとするとノイズが掛かってはっきり思い出すことが出来ない。

 心を不安がよぎる。きっと、雪那ちゃんが言おうとしている事に深く関係しているのだ。

「思い出せないでしょ。当然だよ。だって、その記憶は私が作ったんだもん」

 ゆっくりこちら側に体も傾け、寂しそうに呟く。言い知れない僅かな沈黙。なんと言っていいかさえ思いつかず、ただ、言葉の紡げない唇をもどかしく動かすばかり。

「黙っていたかったけど、全部言うね」

「いや、黙っていたかったのなら、言う必要なんてないよ」

 笑ってみせた。どちらも、だ。お互いがぎこちない、誤魔化すような笑顔をした。

 聞きたくなかった。もし聞けば、本当に雪那ちゃんがいなくなってしまうと感じたのだ。

 しかし、雪那ちゃんは俺の言葉に首を振る。

「言わなきゃいけないの。それから、私の話を聞いても……ずっと、ずっと冬兄ちゃんでいてくれる?」

 大切なものを失ってしまうかもしれない俺は辛い。だが、事実を話さなければならない少女は、それ以上に辛いはずだ。不安そうな雪那ちゃん。雨の日に置き去りにされた捨て犬のような目をした彼女を前にして、とても逃げたくなる気持ちにはなれない。

「もちろん。俺はいつだって、雪那ちゃんのお兄ちゃんだよ」

 俺に出来ることは、笑顔で優しく答えてあげることだけである。

「ありがとう……。じゃあ、話すよ?」

 頷き、床からベッドに腰掛けた。雪那ちゃんは心の整理をつけるように息を吸い込んだ。

「私……実は人じゃなくて雪の精なの。正しく言ったら、雪だるまの精になるけど」

「雪だるまの精……?」

 いきなり突拍子もない言葉が、雪那ちゃんの口から放たれた。しかし、彼女に不安を与えないよう、俺は努めて冷静にそれを受け止める。

「私は、冬兄ちゃんが五年前に作った雪だるま。冬兄ちゃんは私を作ってれた後、名前をつけてくれたの、覚えてる?」

 確かに高校受験辺りで大雪が降って、試験を受けに行く前に雪だるまを作った気もする。そういえば、あの時の名前は――

「せつな……。切なく儚い雪と、微かな瞬きの刹那を合わせた名前。そう冬兄ちゃんは言ってた」

「うん……。間違いなく言ったよ」

 覚えている。舞い散る雪に触れれば、一瞬で溶けてしまう雪から俺は【雪那】という名前を思い浮かべたんだ。

「私は名前を貰ったことが嬉しくて――ううん、それだけじゃない。一度きりのはずなのに、冬兄ちゃんは『また今度な』っていう言葉もかけてくれた。それがとっても嬉しくて私は、雪の精として生きるのに必要な力を、人の姿を手に入れるのに費やしたの。五年の月日が流れて、冬兄ちゃんが新しく雪だるまを作った時、ようやくこの世界に生まれることが出来た。けど、会った瞬間にお礼を言うだけじゃなくて、同じ時間を過ごしてみたい、って突然思っちゃったんだ」

 雪那ちゃんは辛そうに布団から上半身を起こし、窓を少し開けた。朝の冷たい空気が、暖かい部屋に流れ込んでくる。長い髪が、ふわり、ふわりと風に靡き揺れ膨らむ。

「だから、冬兄ちゃんや周りの人の記憶を、力を使って嘘の記憶を作ったの」

「なら、なんでその記憶が曖昧になっているんだい?」

「力を保つことができなくなったからだよ……」

 俯き加減だけど、俺を見ながら寂しそうに洩らす。

 雪那ちゃんは雪だるまの精であり、俺に礼を言いたくて人として生きる力を五年かけて溜めた。その力の維持ができない。それはつまり……。

「まさか……」

「うん。もう、あんまり時間がないの……。本当なら、あと三日は長く一緒に居られたんだよ。だけど昨日、力を使い過ぎちゃったから……。勝手に溜めてた力が抜けだしているの」

 外の雪が舞っては止み、舞っては止みを繰り返している。その雪を力のない笑顔で、少女はまた眺めた。

「この雪はね……私の力が抜け出ている証拠……。この雪が止んだら、私もお終い。人に似たモノでもなくなって、雪だるまの精にも戻ることもなく終わっちゃうんだ……」

「そんな……。なんとか……力を回復させる方法はないのか?」

 雪那ちゃんは俺の問いかけに窓から視線を外し、瞼を落としてかぶりを振った。

「雪だるまの精でなくなった時点で、後は使うだけなんだ。だから、もうどうしようもないの」

 彼女自身に諦めしかないせいか、さっぱりとした印象を受ける口調。しかし、俺はどこかそれで納得できない。

「雪那ちゃんはそれでいいのかい? もっと生きたいっていう意志はないのか?」

「うん。いっぱい楽しんだもん。もう充分だよ。それに……これ以上ここに……居たら――」

 無理矢理に笑顔を作ろうとする顔から、ボロボロと涙が零れ落ちていく。

「――別れが……辛くなっちゃう、もん……」

 俺はなんと酷なことを彼女に要求したのだろう。雪那ちゃんは別れの悲しさを必死に堪えていたのに、自分勝手に無神経な事を言ってしまった。こんな状況になれば、誰だってもっと生きたいと思うはず。この少女だって、もっと長く生きられることを望んでいるに違いないのに……。

「ごめん……」

「ううん。謝るのは私のほうだよ……。だって嘘の記憶で冬兄ちゃんを騙してたんだから」

 ゴシゴシと手の甲で涙を拭って、雪那ちゃんは尚も無理な笑顔を続ける。

「私がいなくなったら、嘘の記憶も消えちゃうから、私のことみんな忘れちゃうよ。だから……冬兄ちゃんが悲しいのは一瞬だけだと思う」

「忘れるわけないよ」

 無造作に置かれてある彼女の手を、俺はギュッと握る。雪のように白く冷たく、暖かみを全く感じないその手。雪那ちゃんは手を握られた事に驚いたのか、一度手に視線を動かしてから俺を見つめた。

「確かに長い時間の記憶は偽りかもしれない。でも、雪那ちゃんが人として存在していたことは、偽りでも何でもない。俺と遊んだことも、今こうしていることも嘘じゃない。だから、俺は雪那ちゃんを忘れる事はないよ」

 手を離し、今度は少女の体を抱きしめた。服の上からでも分かるほど、小さな彼女の体も手と同様に冷たい。頭を肩に埋めさせ、右手で彼女の細やかな髪を何度も何度も撫で下ろしていく。

「冬兄ちゃん……」

 雪那ちゃんも俺の体に腕を回してくる。

 外を見やると、雪は止みかけていた。俺は更に力一杯、雪那ちゃんを抱きしめる。

「……もう……お別れみたい……」

 呟き、彼女は俺の体から腕を放した。離したくない気持ちを抑え、俺も腕の力を緩める。俺の腕から抜け出した少女は、窓を開け放って立ち上がった。

「名前をくれてありがとう……。五年間……ずっと言いたかった言葉だよ……。それから――」


 窓の縁に腰掛け、悲しさや名残惜しさを振り切った表情に笑顔を浮かべると、

「思い出をありがとう……冬貴くん」

 そう言い残して雪那ちゃんの姿は徐々に薄れていった。

 雪は止んだ。間もなく、灰色の雲の隙間から太陽が差し込んでくる。外に一粒の雪が舞っていた。俺は慌てて窓から身を乗り出し、その雪を受け止める。しかし、受け止められなかった。

 掌に落ちた雪は、跡形もなく一瞬で溶けてしまい、全てが終わったことを告げた……。

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