あじさい

葵 一

あじさい

 雨の降り続く6月初旬。姉のおさがりの傘を差して歩くいつもと違う学校の帰り道。胸元ぐらいまでしかない背の低い塀から、あじさいたちが顔を出していた。枝と葉を大きく広げ、その球体のように固まった花もたくさん開いている。自分の拳よりも手のひらよりも大きく育った立派なあじさいの花。

 花に興味なんてないのに、立ち止まって間近で眺めていた。

 傘に当たる鋭い水滴の音に比べ、あじさいの葉に当たる滴の音は柔らかく聞こえ、妙に心地よく感じる。雨粒で小刻みに揺れる葉と、奥でじっとして動かない葉。滑り落ちる水滴。花の間に溜まった水に葉から滑り落ちてきた滴が混ざると一気に流れだし、連鎖するように途中ある葉の滴も振り落としていった。

「あじさい、好き?」

 急に声を掛けられ驚いて顔を上げると、あじさいの花のように青白い顔のお姉さんが庭から淡いピンク色の傘を差してこちらを見ていた。

「え、いや……」

「ずっと眺めているから、好きなのかと思った」

 短く刈られた庭の芝生の上をゆっくりとした歩幅で近寄ってくる。

「かわいい傘ね」

 男が差すには珍しい柄であることは確かだったが、特に恥ずかしいとも思わない。傘はただの雨を凌ぐための道具でしかない。

「ねーちゃんのおさがり。俺の傘は前に盗られたから」

「そう、いけない人がいるのね」

 自分から特に何を話していいかも分からなかったので帰ろうとすると、

「このあじさい、私が小さい時に植えたの」

 あじさいの花の縁をか細い人差し指で撫で、葉に残った水滴を突いて払った。あじさいを見るお姉さんの目はとても優しく、暖かな笑みを浮かべている。

 あとの会話もお姉さんからポツリポツリと短い質問のやりとりが続いたが、きりのいいところでその日は帰った。

 それからたまに帰り道を変えてあじさいを見に行った。毎回ではないがお姉さんも出てきて話しかけてくるものの、自分は最初と同じように受け身の会話しかしなかった。

 それを繰り返していたあるとき、

「これ、よかったら持って帰って」

 そう言って鋏で花のついた枝と、ついていない短い枝の二つを切って自分に手渡してくる。花のついているほうは理解できたが、短い枝はさっぱり意味が分からない。自分の訝しげな顔を見てお姉さんは微笑んだ。

「こっちのは植えてあげたら育つの。よかったら育ててみて。面倒なら捨ててしまってもいいよ」

 ともかく、持ち帰って花は母に渡し、枝は土を盛った鉢植えに差し込んでみた。栽培とかはやったことがなかったので、次の日に園芸委員会の人たちに聞きに行き、肥料とかを分けてもらえた。

 その後も花が咲いている間は立ち寄ったが、いつからかお姉さんの姿を見ることはなくなり、あじさいの季節も過ぎたので帰りにその道を通ることも無くなった。学校も卒業し、あれからずっとあの大きなあじさいもお姉さんも見ていない。

 今はもう鉢植えにお姉さんから貰ったあじさいは無い。狭い庭でピンクと青の花を咲かせ、あのあじさいに負けまいとするほど育とうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あじさい 葵 一 @aoihajime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ