チップをください
大和麻也
チップをください
近頃、毎日のように店に来る客がいる。
「会計を頼む」
老け顔なので年頃はよくわからないが、見た目より少し若いとすれば、引退までまだ十年はありそう。毎度しっかり高そうなスーツを着こなして、それなりの地位にあるのだろう。そういう身分だからなのか、ランチタイムはゆったりと長ったらしい。
彼は連日店を訪れる常連客ではあるが、店の料理やサービスはさほど気に入っていないらしい。いつもむっつりとしていて、眉根を寄せている。時々、きょろきょろと周囲を見回して、落ち着かない様子を見せることもある。気になる人がいるのか、親しい人の来店を期待しているのか、それとも追手でもいるのか。いずれにせよ、食事を楽しんでいるようにはとても見えない。
そのような客がいるとき、店員が抱く感情は二通りに分かれる。一方は、つまらなそうにされると、彼を楽しませたい店の人間として気分が落ち込むというもの。他方は、カネがナイフとフォークを持って座っていると思えば、どんなふうにされていたって構わないというもの。
彼の接客をしているときの私の心情は、ふたつのパターンのうちどちらにも当てはまらない。不機嫌そうな彼に私まで気を悪くするようなこともなければ、かといって彼をカネの生る木と割り切ることもできない。
その理由は、彼が店を去るときの態度にある。
「お釣りです」
会計を済ませると彼は決まって、釣銭をしっかりと握りしめてから、こう言う。
「ありがとう。きょうも美味かった」
と。
そして、そのまますたすたと店を歩いて出て行ってしまうのだ。その素っ気ない態度に、私はショックを受けるというより苛立ちを覚える。その苛立ちも、彼が気前のいい人間だったらどうとも思わなかっただろう。ところが、彼は決して、カネの生る木ではない。だって、彼は何度も来店しているにもかかわらず、一度たりともチップを置いて帰ったことがないのだ。
きょうも私は、彼の背中に礼を言う。口先だけの、心の籠らない礼。「ありがとうございました」とは、「また店にお金を落としてくださいね」という意味である。私の場合、そこにもうひとつ意味が加わる――「次は私にもお金をくださいね」
なにも、チップが欲しくてたまらないわけではない。
困窮知らずの楽な生活をしているといえば嘘になる。さすがに、客ひとりからチップがもらえないくらいで生活が傾いてしまうほどではない。お金が欲しいのではなくて、ちょっとやりがいがほしいのだ。お給金は別にして、意欲を持って仕事に取り組めるような動機が。チップはそういう意味で、とてもわかりやすい具体例だ。
彼は料理については褒めるような言葉を毎回残している。何度も来店しているのも、料理を気に入っているからだろう。しかしその評価を行動で示さないということは、店員の接客によほどの不満があるということだ。
さて、その店員とは誰か? 彼は店に通ううちに店員のシフトを記憶したのか、私が担当するテーブルにだけ座る。だから私は、ほぼ毎日偏屈おやじと顔を合わせている。彼の立場でいえば、私以外から接客を受けたことはほとんどない。
……私のモチベーションは、推して知るべし。
「きょうもいたね」
シフトを終えて裏に戻ると、着替え中のチーフに声をかけられた。彼女と私はシフトの終わりの時間が同じなので、帰り際に顔を合わせればいくつか言葉を交わすことが習慣になっている。年頃が近いので、ロッカールームでは敬語も気づかいも要らない、ただの友達だ。
「きっと、あしたもあさっても顔を合わせることになる」
私の嘆息に、チーフは声を低くする。
「ストーカーってことはないの?」
私は笑い飛ばした。
「そうだったらむしろ楽。御用にしてやればいいんだから。この前話したでしょ、あのおやじ『チップは差別的だ』って」
「ああ、そんな話もあったね」
偏屈おやじの接客をするようになって、三回目くらいのときだった。
そのころはまだはっきりとは顔を憶えていなかったので、チップをくれない客だと忘れ、会計のあと一銭も手渡してこない彼を前に一瞬、ぼうっと立って金銭を待ってしまった。そこに彼は、こう言った。
「私はチップを渡さないようにしているんだ。知っているか? チップの金額は、男女や肌の色で違いがある。私にそんな意識はないが、無意識というものもある。差別に加担しないためにも、誰にも渡さないことに決めている」
ご立派なことを考えなさる。
彼の中では、ケチな人間と気前のいい人間も平等ということだ。
差別反対。人類みな平等。博愛主義万歳。
「その発言が嘘でないなら、まあ、ストーカーをする人ではないね」
少なくともセクハラはありえないだろう。ただし別のハラスメントをしている。
いや、見方によっては、私はすでに彼からセクハラを受けていると考えられなくもないか。「お前は女という被差別的地位にある」と、遠回しに言われているのだから。
「本気だと思う、たぶん」
「からかっているのでもなく?」
「うん、たぶん本気」
私もそれなりにこの仕事で経験を積んでいるつもりだ。からかっているだけの客がどういう振る舞いをするかは充分わかっている。視線の動きや笑い方、手先の些細な動きなどに、いやらしさが表れる。あの頑固おやじには……そういうところが見えないのだ。
ただし、ふざけているのでもないのに差別がどうのと言っているなら、そのほうがよっぽど面倒かもしれない。エロおやじと違って、無視すればいいというものではないから。
「ああ、聞いているだけで面倒臭い」チーフもそれをわかっていて、顔を歪める。「クソ真面目ってやつね。どうせ、細かくてどうしようもないようなことばっかり気にするみみっちい奴だよ。東の人なんじゃない?」
「やめてよ、私はそんなんじゃないもん」引き笑いが堪えられない。話を逸らして、チーフにお願いをする。「ねえ、あしたからテーブルこっそり替わってくれない? 借りは何かしらで返すから」
私の頼みに、天を仰いで思案する。
「そうねぇ、面倒くさそうだけれど、まあ、私はいいよ」
「やった、助かる。ありがと」
バレないように上手くやらないとねぇ、とチーフは呆れながら微笑んだ。
クソおやじはその日もやってきた。
うちはさほど高いクラスの店でもないので、座席への案内は「お好きなところへどうぞ」というくらいだ。そのためクソおやじは、店の入り口をくぐってから着席するまで、ものの数秒である。ほとんどルーティンになっているらしい。自らの指定席にほかの客が座っていないことを確信して来店するのだ。混雑しているときは、相席をして座るか、私が担当する別のテーブルを選ぶ。
一部の常連客など、胡麻塩頭の中年男が私目当てにやってくることをなんとなくわかっていて、半ばわざと彼の席を空けておく。余計なお世話だ。彼がチップをケチっていることは知らないのだろう。
でも、きょうは違う。座ってしばらく周囲を伺いながらそわそわと私を待っていたところ、チーフに迎えられた彼は、ハトが豆鉄砲を食ったような顔を浮かべる。その様子を視界に収めることができた私の爽快感ときたら、店内のそこら中から聞こえる食器が擦れぶつかるリズムに乗せて、ステップを踏みたくなるほどだ。
チーフに料理を注文するときの細かな仕草が面白い。
炭酸水を舐めるように口にしながら目を躍らせるのが面白い。
私の姿を視界の端に認めて、苦々しく何かを得心した顔をするのが面白い。
少し距離を置けたことで、いつもだったら見えなかったものがよく見えているようだ。あの人は前にも見たことがある人かもしれない、とか、店の観葉植物の元気がないから閉店したら水をやらなければいけない、とか。
偏屈おやじにも、いままで気がつかなかった特徴があったことに気がつく。白髪はこめかみ付近に多い。つむじは頭のてっぺんよりやや後ろに左回り。いやらしい口髭を生やしているが、手入れは几帳面そのもの。その髭はひょっとすると、口周りにある髭剃りの傷跡を隠そうとしているのかもしれない。だとすれば、若いころはいまほど几帳面ではなかったということになる。きょう着ているグレーの背広はよほどのお気に入りなのか、修繕したと思しき箇所がいくつかあり、クリーニングをしても繕えない傷みも散見される。指を組んで人差し指を擦り合わせる癖があるようだ。
久々にとても良い気分で働くことができ、上機嫌で裏に戻ったときだった。
「勝手なことをしてくれたな?」
店長が仁王立ちをしていた。
「だから言ったでしょ。『バレないように』って」
始業前のロッカールーム、チーフは飄々と語る。
「店長もプライド高いからねぇ。別に担当テーブル交換したくらいで営業に支障がないことくらいわかっているんだろうけれど、命令違反って言って目くじら立てるんだもの。意味はなくても、言うとおりにしない奴には大声出したがる」
別に悪い人とは思わないけどね、とエプロンの紐を背で縛りながら付け足す。
「ごめん。今回は完全に、一方的に私が悪い」
「あんなの怒られたうちには入らないよ。説教する中身は空っぽだし」
チーフが小さいことを気にしない人で良かった。こういう友達を持てたことは幸せだ。
エプロンを着て表に出る。気分は乗らない。憂鬱の原因は過去と未来にひとつずつ。店長の怒声が耳についていることがひとつ、きょうからまた偏屈おやじの接客をしなければならないことがひとつ。前を考えても後を考えても楽しいことがないときは、ただ目の前のやるべき仕事をぼうっと片付けていくことになる。
我慢の時間が始まる。
「ああ、そうだ」チーフが再び口を開いた。「あのおやじ、私にはチップをくれたわよ」
「え、いま何て言った?」私は友人が冗談を言っているものと思った。「きのうは給料日だったの?」
すると、チーフはふっと口元で笑ってみせて、それ以上の言葉はなく、開店とともに最初の客の対応へと去っていった。
彼女がそのように笑うときというのは、たいていの場合、大した意味はない。「面倒臭いことになった」「あんたも苦労しているよね」――ちょっとした皮肉な気持ちを含んだ愚痴のようなもの。そうとわかっているのに、どうしてか、心の表面には苛立ちが浮き上がってくる。
最悪の気分だ。
無心で仕事をしたくても、胸の奥にイライラが引っかかる。
自分でも接客が乱暴になりがちなのを気にしながら、それでも努めて笑顔を作るのに慣れてきたときに限って、あの偏屈おやじが来店する。きょうほど彼に来てほしくない日はなかった。
きのうのことがあったせいか、彼は店に入ってから少しばかり立ち止まる。さっさと座ってよ、担当はいつも通りに戻ったんだから。
やがて彼も気がついて定位置に座す。焦らされていた私は、彼に一息つく時間を与えず、メニューを届けた。
「お飲み物は何を頼まれますか?」
どうせ炭酸水を頼むことはわかっている。面倒だから一緒に料理の注文も済ませてもらえると嬉しい。
「…………」
「……何か?」
偏屈おやじはなぜか沈黙している。メニューも開かず、私の眉間のあたりを焦点の定まらない目で見つめている。
「いいや、嫌に丁寧だから面食らっただけさ」
「はあ」
「むっつりとして『何を?』としか言わないところだ」
「…………」
確かにこの中年男の相手には辟易しているから、普段なら適当にしか声をかけない。どれだけ丁寧に尋ねても、注文は炭酸水と決まり切っている。ところが、今回に限って苛立ちもあって仕事を手短に済ませたいあまり、かえって不自然に声をかけてしまったようだ。
そういえば――私はこの男にだけ特別な対応を見せていたということか。皮肉を言われて気がつくなんて。
「気を悪くしたなら済まないね、からかってみただけだ」
嫌味たらしい口元の笑み。つられて私も笑顔で現在の心持ちを表現する。
「ええ、そうですか。それで、注文は?」
「いつもと変わらないよ。毎度世話になるね」
「…………」
「どうした? どの料理かちゃんと言ったほうがいいか?」
「いいえ、ちょっと面食らってしまって。お礼を言っていただけるなんて」
彼は目を見開いた。ただ驚いているのか、それとも私の返事に腹が立ったのか、そのジェスチャーだけではわからない。おそらく両方だろう。大声を出してくれなければいいけど。私が悪いとはいえ、また店長に怒られるのはごめんだ。
クソ真面目は何と言って怒りだすかな、とおなかに力を入れていると、思いがけない返答があった。
「どうやら気分が荒んでいるようだ。何かあったか?」
「…………」
ありましたとも。主にあんたのことで。
「あっても言えません。個人的なことなので」
「……そうか」
すでに注文を受けていたのだから、皮肉なんか返さないでさっさと戻ればよかった。
チーフの表情は、仕事が終わった喜びに晴れ晴れとしていた。
「何よ、きのうより荒んでいるんじゃない?」
同じような言葉は、交代の引き継ぎのときにも言われた。「疲れているんじゃない?」と。悪気がないことはわかっている。偏屈おやじの相手をしたことのない店員だったから。
わかっていることと、感情的にどう受け取るかは別問題だ。
「ごめん、きょうは何を聞いても全部皮肉にしか聞こえないと思う」
「もしかしてあんた、あたしが開店前に言ったことを気にしていたの?」
その通りだ。
ただし、そのときの苛立ちとは少し違った気分でいる。あの男の態度の違いや、チーフの澄ました態度は、もはや気にならない。いまは、気持ちが悪い思いでいる。
チーフと私とでは、接客の態度に大きな差はないはずだ。ほかの店員と比べても同じ、こなすべきサービスをできる平準的な店員である。それなのに、私にはチップを渡さず、私以外にはチップを渡す。つまり、奴は私の前でだけ偏屈おやじなのだ。担当を交替したところでなんの意味もない。奴はほかの店員の前ではごく普通の来客を演じ、そのうちにまた私を追いかけてくることになる。
チップを渡したくない理由は私にある。いろいろとクソ真面目な御託を並べていたけれど、奴は最初からそんなことを考えていたのではない。ただ、私に嫌がらせをしようというだけなのだ。
でも、そのストーカーじみた態度が気色悪いのではない。それだけならば、適当に接客していればいいのだ。ちょっとチップをもらえないくらいなら、やる気はなくなっても死ぬわけではない。あの男のほうも、私にイタズラをしたところで面白みがないとわかれば去っていくはず。
本当に気に入らなかったのは、あの問いかけ――私を心配するような言葉をかけてきたこと。鳥肌が立った。気持ち悪くて仕方がなかった。
「別に私を狙って嫌がらせしていることくらい、わかっていたし、それならそれでもいい。チーフはもらえるだろうなって、交替するときからそんな気がしていたもの」
そうだろうね、とため息交じりの相槌。着替えの手を止めて腕を組み、壁に寄り掛かる。
本当は面倒くさいとしか思っていないのだろうけれど、話を聞こうという恰好だけは見せてくれる。彼女はそういう人間だ。
「どうして『何かあったのか?』なんて訊けるのかな?」不快感が度を越えて、もはや面白可笑しく思えてきた。嘲笑が漏れる。「自分が好かれているとでも思っているの? 少なくとも、嫌われているってわかっていないから訊けるんだよね。訊いたら私が素直に話しはじめると思い込んでいる。私を楽にしてやれると思い込んでいる。ああいう奴って心底嫌い」
私はそういう奴に育てられてきた。
自分で働いて食えるようになるまで、我慢してきた。
もう充分我慢してきた。人生の大半をそうやって過ごしてきたのだから。たとえ店の客、ほんの一日一時間くらいのあいだでも、これ以上私が耐える必要なんてあるのだろうか。そうだとしたら、不条理だ。
私は祖父母が嫌いだった。ほとんど孤児のような状態にあった私を育ててくれたことには感謝しているが、自分たちが私をそのような状態にしたとはひとつも思っていない、ふざけたふたりだった。
父さんは少々神経の弱い人だった。そんな彼はこれといった恋愛をしてこなかったが、初めてできた恋人と結ばれようとしていた。しかし彼女は子どものできない身体だった。父さんはそれでも彼女以外のパートナーはありえないと思っていたらしく、養子を迎えることにした。それが私だ。
出自については幼いうちから知らされていたから、それほど違和感を覚えずに暮らしてきた。大きくなってから聞いた話だが、匿名で譲り受けた子だから、どのみち血縁的な両親には会うことはできない契約だったらしい。
それなりに幸福な暮らしを送っていた。
しかし不運だったのは、当時の不況の煽りを受けて、両親が職を失ってしまったことだ。
仕方なく、父さんの両親――祖父母――を頼ることにした。それまで一定の距離を保っていたのは、祖父母のあまりにも古臭い性質のためだった。祖父母は、かねてより父さんと母さんの関係――結婚せず、実の子も持たないカップル――を良く思っていなかった。子どもをつくる能力のない母さんを忌み嫌い、数々の嫌がらせの末ついには追い出してしまった。私を育てるためには祖父母の支援が不可欠だった父さんと母さんは、泣く泣く別れることになった。
そのころ私はごく幼かったから、私は母さんに関する記憶がひとつもない。
父さんはショックのあまりアルコールに逃避した。残された私を育てる気力もなく、形式的には親子関係でも、私は祖父母に育てられることになった。最初のうちは母さんと時々会う機会を持っていたというが、酒の量が増えるごとにその回数は減っていき、やがて会わなくなった。父さんは心労と深酒が祟って、私が十歳のころに肝臓を患って死んだ。
そのころには私も、両親に何が起こったのかを理解できるようになっていた。大半は、酔った父さんが私に絡んできたときに知った。酔っ払いだったけれど、彼の話は信じている。ただひとりの父さんだから。
誰のせいで母さんが去り、父さんが死んでしまったのか、私にとっては明白だった。でも、祖父母は私と異なる見解を持っていた。私の前では隠していたつもりなのだろうけれど、ふたりきりのときには、母さんを追い出して良かったとか、酒に溺れた父さんも自業自得だとか話していたのを知っている。
祖父母は私を不憫な娘と思って猫可愛がりするようになった。鬱陶しいほどにお節介をかけるようになった。かなり甘やかされた。私はとても恵まれていたのかもしれないけれど、嫌なものは嫌だった。部屋に引きこもるか、出かけるかして一日を過ごすようになった。何度も食べたものを吐き出した。何度か家出もしてみた。
だから私はさっさと働けるようになって、ひとりで暮らしていくことを決めた。嫌いな人間に愛されるくらいなら、一度人間関係をリセットしたほうがすっきりする。逃げ出して賢明だったことは間違いない。
しかし、祖父母のような人間がどこにでもいて、私の前に現れる可能性もあることを、家を出た当時の私は想定していなかった。
もちろん、祖父母に比べればあのクソおやじのほうがずっとマシなのは確かだ。それなのに、その最低限の信用は、ただひとことで崩れていった。
はあ、とチーフの嘆息が聞こえて、顔を上げた。
「また替わってほしい?」
「意味ないよ」
「だろうね」
おどけて肩を竦める。
「じゃあ、あんたが割り切って相手するしかないじゃない」
「…………」
正論を言われて逆上するほど、私も子どもではない。
「でもあんた、この前言っていたじゃない」チーフは再び着替えを始めていた。私の相手をしてくれる時間も終わりらしい。「おっさんは勘違いストーカー野郎なんかじゃなくて、ただ本気でクソ真面目なんだって。そこは信用していたんでしょう?」
私が返事をできないでいると、花柄のワンピースに袖を通したチーフは、さっと踵を返して私の脇を通り過ぎる。
「勘違い野郎に気を遣われたら、あたしだって鳥肌立っちゃう」ドアノブに手をかけたところで振り返り、白い歯を見せながら冗談めかしたように言う。「露骨な奴は確かにキモいけど、あのクソ真面目ってそんなだったっけ?」
パパの夢を見た。
夢に出てくるパパは、まだ酒に溺れていなくて、私に対してとても優しく、紳士的に接してくれる。その顔は、嬉しそうに笑っている表情までは何となくわかるけれど、全体像としては朧げにしか浮かんでこない。若いころの顔だから。不器用だったのは昔からだったようで、顎に貼った絆創膏が印象的だったから、そこだけは克明な映像で思い出される。幼い私は、そんな彼を「パパ、パパ」と呼んで追いかける。
この日見たのは近所の公園に遊びに行ったときの様子だった。記憶が曖昧なせいか、夢を見るたびに出かける先が異なっている。ある日は遊園地だったり、ある日はレストランだったり。夢の中でどこへ出かけるのも楽しいけれど、身近な場所に行って会えたことはとても嬉しかった。
ベッドから体を起こしたとき、もう一度眠ってしまいたいとさえ思った。
カレンダーに目を向ける。
ああ、そうだった。
きょうが命日だったのか。
良いときに良い夢をみたものだ。
打って変わって随分と元気じゃない、と開口一番チーフにからかわれた。
ひとえに今朝の夢のおかげだが、彼女は私の父の命日までは知らない。確かに、自分でも可笑しくなってしまう。きのうのきょうで、かなり気分が良くなっている。クソおやじが店に現れても、穏やかな気持ちのままでいられたくらいだから。傍からは、私の情緒が不安定にも見えてしまうかも。
胡麻塩頭が食事を終えたらしいことに気づき、彼のところへ向かう。彼はいつもコーヒーを注文してくれる。料理と炭酸水とコーヒーと、彼も客としては悪くない。カネの生る木としては上等だ。
普段は料理を食べ終えると、たいてい、私が訊きに来るのをふんぞり返って待っている。私が尋ねると、彼は「もちろん、頼むよ」と横柄に言って、コーヒーを待つ。鞄から取り出した地域新聞を読んで過ごし、飲み物が届けられると、いやらしく口の端をぴくりと動かす。カップが空き、新聞を畳んだら会計の合図だ。
ところが、少し様子が違った。相変わらず料理は綺麗に完食しているが、顔を伏せてじっと口を結んでいる。テーブルの上で手を組んで、指を動かし弄んでいる。待ちくたびれているというふうでもなく、不機嫌というよりは無気力といったふうに静かに座っていて、ひと回り小さく縮こまって見える。
横柄にしてくれていたほうがこっちもやりやすかった。唇を舐めてから問いかける。
「コーヒー、いかがですか?」
彼はゆっくりと顔を上げると、ううん、と唸った。
「いや、きょうはいい。支払いを頼むよ」
なんだ、残念。
チップをもらえない、つまらない金額の計算が始まる。
「左様ですか。ではお代は――」
「きょうは、これから教会へ行くんだ」
唐突に世間話? このおやじ、やはり私と親しくなったつもりになっているのか。
「はあ……? お仕事はお休みにされたんですね」
「ああ。実は……親しかった人が亡くなった日でね」
父さんと同じ命日か。思いがけない偶然だ。
会計の金額を告げると、ふう、と息をついて、彼は財布から札を取り出した。コーヒーのぶんがいつもより少ないから、札は一枚少ない。釣り銭もやや少なくなるようだ。注意しながら釣り銭を用意する。
「ああ、いい。持っていきなさい」
「へ? ……あ、ありがとうございます」
「料理、きょうも美味かった」
うそ。
チップ、もらっちゃった。
その路線の電車に乗るのは久々だった。
きょうは早番で、あすは非番。仕事が終わったその足で、私が育った田舎町へと向かった。悔しいけれど、あのクソおやじに感化されて、地元の教会で眠る父さんの墓に行こうと思ったのだ。初めてもらったチップは電車賃に充てられた。
そういえば最後に父さんの墓に行ったのはいつだっただろうか。少なくとも、自分の意志で足を運んだことはない。祖父母は酒に逃げた息子を出来損ないと思っていて、一年もしないうちに墓参りをやめた。墓参りのときは毎回祖父母から猫なで声で励まされたから、父さんのことは好きでも、墓参りをする気が失せてしまったのだろう。
車窓からの風景は、十分過ぎるごとにさらに鄙びていく。育ちの町は何の取り柄もない田舎だった。寂しいところだ。こんなところは離れて正解だった。しかし、よく言えば自然豊かなその町に、懐かしいという感情を覚えるとは思わなかった。
駅からバスに乗るお金をケチって、教会までは歩いて行った。ここの牧師は説教臭くてあまり子どもに好かれていなかった。私はどちらかと言いえば、教会にいる時間が好きだった。日曜日に教会にいるあいだは、祖父母も静かにしていたから。
牧師には挨拶せず、勝手に墓地に向かうことにした。教会で過ごす時間は好きだったけれど、教会や牧師にはさほどの思い入れはない。それに、久しぶりに会う彼から、説教臭く昔話をされても面白くない。
墓地に人の気配はない。平日の昼間だ、そんなものだろう。墓標の間を歩いていく。父さんの墓標は、あの大木を曲がった先だ。
そこを折れると、初めて人影を見つけた。
「あなたは……」
「やはり、キミも来る気になったか」
どうしてか、そこにはあのクソおやじが立っていた。
「黙っていて申し訳なかった。キミの父親は私にとってもまたとない存在だったんだ」
私の記憶に残る父さんは、酒瓶を抱えていることはあっても、友と肩を組んでいたことはない。外に出かけて酒を飲むときには共に語らう仲間がいたのかもしれないが、家にまで連れてくることはなかったし、独りでいることのほうが多かった。
「ええと、その……」
「気楽に話してくれて構わない。ここは店の外で、店員と客の関係もない」
「そういうことなら、遠慮なく」
ふう、と息をついて気分を落ち着かせてから、問いたいことを思いつくままに並べていく。
「父さんとはどういう関係? 職場の友達?」
「そんなところだね」
「私のことも知っていたの?」
「キミがまだ小さなころから。養子だということも」
「母さんがいなくなって、父さんが死んでからの私も?」
「少しだけ。店で会ったのは、最初は偶然だった」
知らない誰かに自分を知られているというのは、あまり気分の良いことではない。それを踏まえて、彼は最初に詫びたのだろう。謝ったのだから、そのことはよい。それよりも訊きたいことを訊かなければ。
「私を知っていて、あなたは結局――私に好かれようとしていたの? それとも、嫌われようとしていたの?」
彼は首を傾いだ。
「どういう意味の質問かな?」
「親友の娘にチップを渡すのは、気が引けたの?」
そういうことか、と彼は大きく頷いた。
「ああ、それも済まなかった。やはり、怒っていたか。いや、それがキミの言う通りで、気が引けて渡せなかったんだ」
「男女差別が云々っていうのは?」
彼はふっと鼻で笑った。皮肉を言われたことに気がついたらしい。
「言われてみれば、そう言ったことがあったね。多少そういう考えではいるが、まあ、適当な言い訳だな。本当のところ、亡き親友の娘が、親友の愛した肉親が、どんな大人になったのか知りたくて、年甲斐もなく気を引こうとしてしまった」
大人げのない気の引き方をしてくれたものだ。チップをケチって憶えてもらおうなんて、好きな子にちょっかいをかける少年のようなことを。どうせなら、好かれようとしてほしかった。異常なほど多額のチップを渡してくるとか。
「そんなことをしたって仕方がないのに。どうせ、私はあなたのことを知らなかったんだから」
「まったく、返す言葉もない」
表情がほころんで、私は彼の照れ笑いを初めて見た。険しい表情で顔の筋肉が凝り固まってしまったものと思っていたが、案外、茶目っ気のある表情を浮かべてみれば若々しく見えないこともない。
少し愉快で、くすぐったくて、体中から力が抜けていった。風船のガスが抜けるみたいに。たぶん、彼も似たような感覚でいるはずだ。
それから、彼は私が知りたがっていると思ったのか、父さんとのことを感傷的に語りだした。
「長い間、楽しくやっていたよ。バカなことばかりだったが、色々なことを共にした。養子を取ると聞いたときには驚いたなぁ。でも、私は賛成した。喜ばしく思った。そうでなければ、子どもを持つことができなかったからね。しかし、時期が悪かった。不景気で仕事を失ってからは、心身とも辛かったんだろうな。酒に溺れてしまっても、疎遠にせずまめに連絡を取っておくべきだった。あのとき私が彼をフォローできれば、違った運命があったのかもしれないと、いまでも思うことがある。私も同じく楽な状況にはなかったが……言い訳にはならないか。まさか、先立たれるとは思ってもみなかった」
その声は感傷的ではあったが、唇を震えさせるでも、涙を流すでもない。淡々と語る。ただ事実を伝えようとしているかのように。彼にとって父さんの死が大きな衝撃であったには違いなくても、どこか私に近いところもあるのかもしれない。悲しもうにも、それを表現する仕方に、悲壮感が伴わない。
ふっと笑って彼は呆れたような眼差しを墓標に向けた。
「死んだのは運が悪かった。運命のいたずらだ。だが、立派だったよ。自分に嘘をつかなかった」
今度は私を振り返った。
「客として見ていた私が思うに、キミも父親から良いところを授かることができたのだな」
「…………」
彼に前を譲ってもらい、しゃがみ込む。父さんの名前を何度か繰り返し読んで、少し墓標を撫でる。思い付きでここまで来たから、特に湧き上がってくる言葉はない。センチメンタルな想いもない。偏屈な彼に不意に会って、感情をどこかに投げ捨ててしまったのかも。でも、ここに来たいと思った自分に応えられて良かった。
長居をする場所ではないか。
「もう帰ることにする」私は立ち上がり、踵を返す。「別に、それほど強い想いがあってここに来たわけではないし、居すぎるともっと嫌な連中とも会う羽目になる」
「そうか」彼の表情には、また別の種類の寂しさの色が差し込んでいた。「私はもう少しここにいよう。みっともないと思うかもしれないが……正直なところキミと違って、私は彼との別れに、未だに、完全には心の整理がついていない」
いいんじゃないかしら、素直な気持ちで。
さっと手を振って去ろうかと思ったけれど、気が変わって立ち止まる。もうひとつ訊いておかなければならないと感じたから。私は彼と違って父さんへの気持ちに整理がついている。けれども、はっきりさせておかないと気が済まないことだったら、まだ残されていた。
「最後に。あなたは、私のお母さん――になるはずだった人のことは知っているの?」
彼は静かに頷いた。しかし、すぐに首を横に振った。
「気の毒だが、その女性に会うことは叶わない」
その答えは、薄々予感していたものだった。
「釣り銭です、お受け取りください」
私からお金を受け取ろうとした若い男は、その手を遮った。
「ああ、持っていっていいから」
「……ありがとうございます」
ここのところ金髪の彼の接客をする機会が多くなってきた気がする。近くの大学の学生のようで、以前から月に一回くらい彼を見かけることがあったけれど、来店の頻度はどんどん増えているようだ。週に一度くらいは彼の相手をするようになって、近頃は、南の人らしき彼の言葉の癖まで気になるようになってしまった。何より目がよく合う。
嫌な予感がする。
「あのさ、キミ確か木曜日は非番だよね」
ほらきた。
「ええ、確かに」
「お茶でもしない? いいところを知っているんだ」
「お断りします」
「固いこと言わずに」
「なるほど、どうりでたくさんいただいているわけで」
彼は短く「う」と唸ると、気まずそうに席を立った。
おとといきやがれ、勘違い野郎め。女性店員にチップを多く渡して口説こうなんて、男尊女卑も甚だしい。
手が空くと、すぐにチーフが冷やかしに歩み寄ってきた。
「結構イカしたルックスだったと思うけど?」
彼女はすぐ人のことを面白がる。でもそこが彼女の楽しいところだ。
「バカね、私はああいう奴が嫌いなの。嫌われているのにも気づかず、好かれようとする奴。あまつさえ、きっと好かれるだろうと思っている奴」
「同感ね。ていうか、私はあんたの断り方を面白がっているのだけれど。何あれ、すごく笑える。お腹にじわじわくる」
「はっきり言ってやったほうがお互いのためでしょ」
そうじゃなくて、とチーフは手を振った。
「あんなの、誰かさんみたいじゃない。
「そう? むしろ逆だと思うけれど」
私はクソ真面目なんかじゃない。
まあ、少し前に比べて、己に忠実になったかもしれないけれど。
「ねえ、次にあれが来たら交替してよ。あれの相手はもうごめんだよ」
「ええ、本気?」
「大丈夫、今度はうまくやれるから。あのスケベ、チップが弾むわよ」
そのとき、彼が新聞を畳んだのが目に入った。お会計に向かわなければならない。
彼の座る座席はこの店一番の特等席だ。そこに座れば、優秀な店員が優れたサービスを提供してくれる。誰もが羨む最高の座席なのだけれど、残念なことに、それを知っている客はただひとり彼しかいない。
新聞を手提げ鞄に仕舞った彼は、私に三枚の札を手渡した。
「見ていたよ、さっきの彼との会話」
「あら、恥ずかしいところを。さすがにひどすぎましたか?」
「いいや、あれでいいんじゃないか?」
くくく、と堪えきれないように喉の奥で笑う。私もつられて、くすり。
「きょうは機嫌が良いのだな」
「ええ、今朝、パパの夢を見たので」
彼は少し目を見開いた。
「そうか。どんな夢だった?」
「旅行に出かけるときの夢でしたね。電車に乗っていました」
彼も若いころの父さんを思い出しているのか、懐かしそうに頷いた。
「楽しそうな夢だ。昔の思い出か」
「ええ。私、母さんには会えなくても、パパになら夢でいつだって会えるの」
釣り銭を用意して手渡そうとすると、持っていきなさいと止められた。礼を言って、ありがたく懐を温めさせてもらう。彼もようやく、この店のサービスに満足するようになったらしい。ひょっとすると、自分が厳しく育てたおかげだと、心の底でこっそり自慢に思っているかも。
美味かった、といつものように言って立ち上がる。
出口に向かう彼の背に、改めて来店の礼を言う。そのとき、私は彼がぽつりと呟くのを聞き逃さなかった。いまの短い会話の後で、きっとそう言いたくなるだろうと予想していたから。彼は私がまだその事実に気がついていないと思い込んでいて、しかも教えてやりたいと思っているくせに、気が引けて素直に伝えられないあまのじゃくだ。
「キミの言う父さんとパパは、別人だよ」
チップをください 大和麻也 @maya-yamato
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