土の壁

大和麻也

土の壁

 私の次の赴任先を聞いた同僚や友人たちは、皆私を憐みの目で見つめた。

 都から遠く離れた田舎への転属。そこで任務に服する仲間は、直属の上司ただひとり。親しい者たちはこれを左遷と見做し、私の生活や将来を案じたのだろう。私とて出世の道を閉ざされたのではないかと危機感を抱いてはいる。しかし、新天地での任務そのものは、誇り高く尊い仕事であると私は感じ、期待に胸を膨らませていた。

 この地には、我々の祖先が五千年前に築き上げた巨大な城壁がある。当時栄華を極めた文明の遺跡であり、我が国の歴史と文化、そして権威を如実に物語る貴重な証拠である。その存在を示す古文書は多数発見されていたが、長らく所在が確認されていなかった。遂に六年前、或る学者の説に従って進められた発掘調査によって発見された。

 私の新たな任務とは、この城壁の周辺の警備である。現在城壁は国立公園となって保護されながら発掘調査が進められている。私はこの城壁が風雨に晒されて崩れてはいないか、また、その価値を損なう行為をはたらく不届きな輩が現れないか、見回りをして監視するのだ。

 長旅の末到着した新たな職場――監視員の詰所――は、殆ど掘っ立て小屋といっていいような、粗末で小さな建物だった。誇り高き歴史と文化を守る者が集うにはあまりにも頼りなく、私は友人たちの心配する顔を思い出した。

 私は気高い任に就くのだと自分を奮い立たせ、不安を拭い去った。

「おお、お前が新しいのか。ま、ひとつよろしく」

 事務所の扉を開くと、私は再び心が折れそうになった。

 狭い部屋に机はふたつ。僅か二名の部署であることを眼前にした衝撃もさることながら、これからともに仕事をすることになる上司に、私は失望した。

 奥の席に座る我が上司は、ぶくぶくと太った醜い男で、だらしなく椅子の背凭れに寄り掛かり、足を机の上に投げ出しながら、菓子を貪って制服の襟を汚していた。糊が利いて少しの汗の滲まない制服からして、暫く外を見回っていないことは明らかだ。そんな男が私の到着を喜び、薄気味悪い引き笑いで迎えた。

 国に奉仕する人間でありながら不真面目な者はこれまでにも目にしてきたし、同じ目的のため共に働いたこともある。しかし、この上司ほど品性を欠く人物は経験にない。まして、気高き国家の遺産を守る者がこの有様だ。

「まあ、新人。気楽にしてくれや」

 私は却って居住まいを正した。

「早速ですが、こちらでの業務をご教示願いたく」

「ああ、硬い、硬い。力を抜け、俺の最初の命令は『気楽にしてくれ』だ」

 お前は勤務中に気楽すぎる。

 腹が立つのを堪えながら、はあ、と息を吐いて見せた。

「そうそう、それでいい」醜男は喉に詰まりかけた菓子を茶で流し込んで、手に付いた油はズボンで拭った。そして、さも美しい詩でも詠っているかのように、己に酔った得意げな顔で続ける。「ここの仕事はな、本当に楽なもんさ。憶えることなんて、ありゃしない。肩肘張って俺にお伺いを立てるだけ、バカってもんだ。頑張ったって仕方がないぞ、どうせ給料は同じ。働けば働くほど損をする。俺たちゃせっかくいい身分にいるんだ、お国に生かしてもらえばいい」

 私は早々にこの男を見限ると結論した。

 公僕の鑑といえばそうなのかもしれないが、歴史と文化を侮辱するとは、国の民として、人間として風上に置けないふざけた奴だ。このような者の下に立つなど、いや、同僚として同列に見られるなど、到底我慢ならない。

「そうおっかない顔するなって」男は私の表情から怒りを読み取っておきながら、寧ろそれを面白がるように続けた。「そんなにやる気があるなら、昼の業務を譲ってやるよ。一応交代制なんでな、きょうはお前を迎えるために出勤したが、俺は本来夜の見回りをしているものでね」

 交代制なのは真実だろうが、こいつが夜に見回りをしているというのは嘘だろう。

「左様ですか、では、私は昼の見回りを」こいつの下でも、まともに仕事ができるならそれでいい。「ところで、ひとつ伺っても? 業務のことではなく」

 口角を上げた。

「この菓子のことか?」

 とことんまで腹の立つ野郎だ。

 冗談を言うのは訊いてもよいという意味だと解釈して、勝手に続けた。

「私の前任者について。私の前任者は、何故この職を離れたのですか?」

 すると男はきょとんとして、それから大きく口を開けて笑った。

「決まっているだろう、嫌になったのさ」



 太った男を置き去りにして詰所を出た。

 周辺の地理くらいは尋ねておけばよかった。奴が教えてくれることはないだろうが、地図は手に入っただろう。それでも一応、国立公園の地図は前の職場にいるうちに目を通しておいたし、城壁さえ見つければ、それを伝って見回ればいい。警棒を抜くときなど、そうはないだろう。

 季節は春だ。野原には故郷の母が採って夕食に並べていた山菜が見られ、思いがけず懐かしい心地になる。人の住む気配には乏しいが、この地に住む同胞たちともすぐに打ち解けられるだろう――ただひとり上官を除けば。

 詰所を出て何分か歩いた。以前見た地図の記憶が定かなら、そろそろ国立公園の敷地には入ったはずだ。いくらも離れていない先に、小高い丘が見える。間違いない、あれが城壁だ。

「おや、これは?」

 足元で何かを蹴った。

 見ると、柵として使われていたと思しき丸太だ。根元が朽ちて倒れてしまったらしい。

 同じように倒れた丸太が何本も並んでいた。いずれも朽ちて半分に割れていたり、辛うじて地面に刺さってはいるものの大きく傾いていたり、既に柵としては用いるべくもない姿だ。切れた鎖も散らかっている。

 それらは城壁と並行に続いている。

 国立公園を仕切る柵だったのであろう。

 無残な姿だ。これを築いた人々を思うと、嘆息が漏れる。

 生憎我が国も苦しく、貧しい時期が続いている。かつて柵を作ることはできたが、壊れたときに修理する余裕はなくなってしまったということだ。それにしても、僅か五年やそこらでここまで荒れてしまうとは。あの太った男のような者が管理を任されているからに違いない。上の役場に補修の申請が通るかは判らないが、私からこの柵の現状は伝えておこう。

 柵を過ぎて城壁に近づく。二重に築かれており、その狭間には空堀が掘られている。かつては高さ十丈を超え、幅も四丈はあった。二丈の深堀と併せて、外力を退ける鉄壁を誇った。城壁の内側には一万畝の都市があったというから、全盛の姿を見てみたかったものだ。さぞ美しく荘厳な景観だったのであろう。

 現在では高さ三丈足らずになり、しかも途切れ途切れになってしまっている。相次ぐ戦乱と風雨によって土塁の壁は削られ、崩され、堀も大半は埋め立てられてしまったのだ。法面には短い芝が生え、遠目には自然の丘にも近い。都から遠く離れたこの地では、それが学問的、歴史的に価値あるものと解らなかったのも仕方がない。

 間近に近づき、壁に手を触れてみる。たとえ当時の姿を失っていても、指先から感じる歴史は本物だ。

 取り敢えず周囲を警邏する。修復や破損の状況について詳しいことは事務所で調べなくてはならないから、まずは下見を兼ねてだ。地図はないが、警棒ならある。

 右手に曲がると何町も壁が続いているようだったが、左手に曲がれば角がすぐにある。土地勘を得るためには真っ直ぐな景色を見続けるよりは、土塁の向こう側を見ておくべきか。左手を進み、城壁の際を折れた。

 すると驚いたことに、景色が一変した。それまで青々としていた芝が消え、土の黄土色が剥き出しになっている。なだらかだったはずの法面も荒れ放題になり、凹凸に加え、殆ど穴の開いているようなところもある。ふとしたそよ風に吹かれるだけで土埃が舞い、ぼろぼろと表面を石が転がっていく。

 この荒れよう、単なる風化ではないことは明らかだった。

 嫌な予感は的中した。窪みからひょっこりと、老婆が姿を見せたのだ。

「おい、お前! 何をしている!」

 腰の曲がった老婆は、殆ど襤褸切れのような服を身に纏い、血豆で肌の荒れる手には粗末な鍬を握っていた。全身を泥土で汚した姿は、醜い田舎の百姓そのものだった。

 百姓は、はあ、と困ったような声を上げる。

「これは、これは。その制服、お役人様で御座いますか」

「そうだ。もう一度訊こう。何をしていたのか?」

「何を、と訊かれましてもねぇ」

 老婆は頬を掻いた。

「あの通りで御座います」

 そう言って指さした先には、鋤と箕、そして籠が置かれている。

「お役人様は若い、どうやら初めてここに来られたようですね。よく見れば、このあたりでは見ない顔で。新しい人ですかね? そういえば、お役人様がひとり、お辞めになったと噂では聞いておりました。

 私はですね、こうして、土を採っておったのです。畑をいくらか続けていると、土地が痩せてしまいます。この丘から土を採って、灰や糞などと一緒に混ぜてやれば、また畑をできるようになるのです」

 言葉を聞く限り、訛りがないわけではないが、聞き苦しいほどではない。教育はあるようだ。

 しかし、問題はそこではない。

「畑に土が要るのか。それは分かった。だが、これが何か解っているのか?」

 老婆が鍬で崩して作った穴を指し示す。

 すると、老婆は首を傾いだ。

「ただの丘と思っておりました。ええ、ずっと前に別のお役人様から、ここは何やら大切なところだから崩してはならぬと伺いましたが……私らにはむつかしいことは解りませんで」

 つまらない弁明に、私は危うく老婆を殴るところだった。

「何が難しいものか。これは先祖代々の歴史と誇りを象徴する城壁である。貴様のような百姓ごときが傷をつけて許されるものではない。とっとと帰れ!」

 腕を反対側に振って、今度は集落の方向に向けた。ところが、老婆はそれを視線で追うこともせず、ただ私を見つめている。不満があるというより、不安がある様子だ。

「はあ、しかしもうすぐ仲間も――」

「そんなこと知るか、仲間も追い返せ! 歴史を侮辱しているのだぞ!」

 老婆は慌てて道具一式を背負うと、一目散に逃げ帰った。

 田舎とは恐ろしい、これほど貴重な遺産を破壊して、畑ごときに利用しようとするとは。しかも、そのような悪行を白昼堂々とやってのける。教育は受けていても、所詮、自分たちの生活を基準とした狭い視野しか持ち合わせていないということだ。



 一帯の見回りを終えて詰所に戻ると、上司は姿を消していた。夕刻まで姿を見せることはなかろう。奴の場合、目に入らないほうが私にとって幸いではあるが。

 壁に貼られた国立公園の地図を見る。城壁のうち北側と東側は破損が激しいことが地図からも見てとれる。殆ど壁も堀も、飛び飛びにしか現存していない。一方で南側と西側は立派なものだ。そのため、城壁を鳥瞰する地図で見ると、壁は鉤型になって残されている。

 保存状態の良い西側の壁のすぐ近くには、集落があった。畑が広がっているようでもある。先刻の老婆は、この集落の人間に違いない。

 他の方位にもぽつぽつと集落がある。推測するに、おそらく北側や東側の城壁が大きく削られているのは、戦乱のうちに破壊されてしまった以上に、近隣の百姓の手で崩されてしまったためなのだろう。価値が知られる前に、ただの丘と間違われて失われてしまったのだ。西側の壁も、もはや風前の灯なのかもしれない。

 となれば、私がやるべきことはひとつ。西側の壁だけでも死守するのだ。身を挺して代々の名誉と足跡を守るというのは、現在を生きる者の使命であり、まして私はそれを職責としている。

 翌日の計画を練り、初日の疲れを少しでも癒すため早めに休むことにした。



 前日とまったく同じ時間に同じ場所に赴くと、やはり壁を突き崩す人影があった。

「お前ら、何をしている!」

 前日の老婆の姿はなかったが、代わりに十人足らずほどの男たちが顔を泥で汚しながら汗を流していた。白髪や禿げ頭の者が目立つが、働き盛りの年頃の若い男も二、三人混じっている。

 このような者たちが与える遺跡への損害は、昨日の老婆とは比にならないだろう。一刻も早くその手を止めさせるため、私は備えていた警笛を鳴らし、警棒を振り上げ連中に迫った。

 しかし、悪事をはたらく者たちに、その自覚はなかった。私の挙動を目にしたところで、恐れる素振りを見せないばかりか、驚いて目を丸くしている。警棒で殴ることは思い留まり、鍬を奪って放り投げ、身を壁から剥がして突き飛ばした。

 乱暴に投げ飛ばされても、男たちは何も解せないという間抜け顔である。

「貴様ら、ここに来るのは初めてか」

 そうではないだろうと解ってはいたが、この場所の意味を知らないという可能性に賭けた。私とて、同胞の民を進んで殴りたいとは思っていない。

 予想通り、私の期待は無意味だった。男たちの中でも特に若い者が首を横に振った。

「いいえ、いつもここで土を採っております。畑をするのに要るのです」

「たかが畑のために壊してよいものだと思っているのか」

 男どもの表情が変わった。明らかに動揺している。

「失礼ながら、お役人様は見ない顔、新しい人かと存じます。そのような方にはそうお分かりいただけないかもしれませぬが、私どもの生活はどれだけの麦と野菜が育てられるかにかかっております。ええ、お役人様からここを崩してはならぬと仰せつかったことは御座いますが、生活のため、何卒多めに見てはいただけぬかと……」

 もごもごと口ごもる。私が新任の者と知って焦っているのだ。おそらく、あの太った上司は見回りをしておらず、百姓どもの狼藉を黙認している。「嫌になった」という前任者も、最後はろくに仕事をできなかったのだろう。そのため、新たにやってきた私から指導を受ける羽目になるとは、想像もしていなかったのだ。

 だからぬけぬけと、情に訴えようとし、見逃してくれなどと言ってくれる。

「そんなことは訊いていない。私の問いに答えろ。崩してもよいと思っているのか?」

 田舎者どもは俯き、押し黙る。

 歴史の重みを解せないとはいえ、この土塁が保護されて然るべきものと知らないわけではない。昨日の老婆もそうだったが、役人の話を聞いたことはあるらしい。そして、その事実は私も知るところだ。私の問いに対して、胸を張って開き直れる者がいるものか。

 だが、黙らせておくだけでは前任者と同じだろう。甲斐なく終わってしまう。警棒を抜いて答えを急かすと、禿げ頭の男が震えた声を上げた。

「私どもは、去年も一昨年も、ずっと前からここの土を……」

 話にならない。

 ここの蒙昧無知な連中と、通じ合うことはできない。

 痛みを知らせる外にないだろう、見せしめが必要だ。

 若い男の襟を掴んでこちらに引き寄せ、警棒で顔を殴った。男が倒れると、周囲の者たちの表情が凍り付いた。口の中を切ったのか、殴られた男の口の端から血が流れる。それを見た者には、男に駆け寄る者もあれば、私に目を剥いた者もあった。しかし、私が再度警棒を振り上げれば、皆背を向けて逃げ出した。

 薄情な仲間たちに見放され、ひとり血を吐き出した男の背中に言い放つ。

「村の人間によく知らせておけ。いままでの役人の中には、貴様らの歴史に対する侮辱を見逃す人間もいたようだが、私は違う。……私は許さない」

 最後のひとりも逃げ出した。

 鍬も籠も残されたまま。私は土の入った籠をひとつひとつ蹴飛ばして、土を溢し、底に穴を開けた。鍬や箕も壊してやろうかと思ったが、途端に恥ずかしくなり、それ以上の乱暴は控えた。

 壁の凹凸を眺めていると再び怒りが湧き上がってくるだろうから、その後は壁ではなく、壊れた柵を眺めて歩いた。


 翌日。

 壁を崩そうとする者はいなかった。

 昨日のことで懲りたのだろう。


 その翌日。

 土を採る男がいた。みすぼらしい風貌からして、村の報せに預かることのできない、身分の低い者なのだろう。少し問答をすれば、教育のない者と判ったので、身体に教えてやることにした。奴が来ることは二度とないはずだ。


 またその翌日。

 壁は無事だった。


 さらにその翌日。

 村の男どもが再び現れた。壁から引き剥がして投げ飛ばし、警棒で痛めつけた。抵抗してくる者もいたが、全て捻じ伏せ、警察を呼んで連行させた。今度は籠だけでなく鍬や鋤も壊してやった。説教をしてやっても意味はない、奴らは畑のためなら国の栄光などどうでもいいと思っている。聞き分けのない奴にモノを教えるには、身体に、記憶に刻み込むしかない。


 さらにまた翌日。

 遂に道具がなくなったのだろう、男たちは惨めにも、手で土を削り、箕に入れて大事そうにそれを運ぶ。子供が泥遊びをするようなその姿が可笑しくて仕方なく、滑稽だと指差して笑ってやった。ひとしきり笑って満足したのちは、箕を蹴り飛ばした。せっかく集めた成果を台無しにされて呆けている者たちを、気が済むまで殴った。無論、しつこく食い下がる者たちは警察に突き出した。

 日に日に、壁がその威厳を取り戻しているように見える。丘と思って見る者が減ってきたということだろう。



 その日は、この場所のこの時期にしては珍しく、小雨が降っていた。一週間ほど、ぽつりぽつりと天から水の降る日が続いている。

 暫く、村の人間は土塁に近寄っていない。当然だろう、歴史を軽視することがどれだけの罪であるか、痛みを以て知ったのだから。それに、籠や鍬のいくらかは壊れてしまった。まともに畑をやりたいのなら、数の減った農具を壁の土を採るために使っている場合ではないだろう。働ける男たちの数も減っているはずだ。痛みで体を起こせない者もあろうし、何人かは牢に入れられている。

 清々しい気分だった。

 村人への懸念は幾分薄れた。いまはこの雨を憂いている。法面の芝がまた育ってしまう。柵の柱も腐ってしまう。雨が続けば、壁の威光がさらに損なわれてしまう。補修について上に問い合わせているが、未だ返答はない。

 すると、倒れた柵を超える、笠を被った何者かを見つけた。私は警棒に手をかけ、間隔を詰めた。

「おや、あなたは……」

 向こうが先に私に気がついた。私を知ったような口ぶりに、はっと思い出す。あのときの――初めての警邏をしたときに壁を削っていた――あの老婆だ。

 見ると、小さな籠の他は何も持っていない。土を運ぶというふうではないと見える。

「どうした? 手で土を掻いて、その籠で持って帰るのではないのか?」

「いいえ、そんなつもりは御座いません」

「私が見ているからか。賢明だ――畑よりも、自分のほうが大切だろう」

「お言葉ですが、私どもにしてみれば、畑も命も、同じくらい大切なものです」

 老婆は土塁に歩み寄り、斜面に手を置いた。

「芝を刈って持って帰ろうと思っておりました」

「なんと、それは感心な。一体どういう風の吹き回しだ?」

「芝は肥やしになります」

 畑のことばかりだ、と舌打ちが漏れた。

 この城の由緒にようやく気がついたと思って、せっかく褒めてやったというのに。

「お役人様、訊いてもよろしいですか?」

「何だ」

「この丘は、本当に壁なのですか?」

 殴ってやろうかと思ったが、老婆はまだ壁に害を与えていない。愚かな問いとはいえ、流石に、これだけで叩くというのは筋が違う。問いに答えてやることにした。

 否、本当は、初めて出会った老婆ということに免じて、このひとりだけでも教えてやろうという気になったのかもしれない。

「そうだ。かつて十丈を超える高さを誇った城壁だ」

「何時築かれたのです?」

「五千年の昔だ」

「築いたひとをご存知ですか?」

「無論。この国の――」

「ああ、失礼ながら」

 無礼にも、老婆は私の言葉を遮った。そして、問い直す。

「その人の名前や誉など、頭の良いお役人様はたくさんご存知のことでしょう。しかし、私のような田舎の百姓には、村の仲間と、せめて学校の先生様の顔と名前さえ判れば充分なので御座います。ですから、お役人様のお話を伺っても、昔の人だなぁ、としか思えないのです」

 努めて穏やかな態度を保った。愚かなのは仕方のないことだ。これが田舎者の狭苦しい考え方なのであって、それを責めても仕方がないことは、いままで散々思い知ってきたではないか。啓蒙もまた、役人の職務である。

「こうした先人たちのはたらきがあって、現代の私たちがある。ちっぽけな私たちにも確かな命があるのは、先人たちの功績のお陰に違いない。未来にも繋がっていくだろう。歴史に感謝せねばならない」

「はあ……ご立派に考えなさる」

 まもなく堪忍袋の緒が切れる。そろそろ、この老婆にも身を以て教えてやろうか。

「私もお陰様で長く生きておりますが、一日一日のことで精一杯で御座います。過去のことに思いを巡らす暇など、御座いませんでした。お役人様は凄いお方です」

 老婆は雨に濡れて凍えたのか、身を縮めた。

「今日のことしか判らない私にしてみれば、ここは生まれたときから丘でした。ずっとただの丘だったのです。お役人様の言うような……レキシ? というものなど、御座いませんでした。ところが、何時からか学者様やお役人様がやってくるようになって『これは壁だ』と仰います。昔からそうだったと仰います。でも、私にしてみれば、昔からここは丘なのです。私は馬鹿なものですから、ここを丘と知るずっと前のことなど、考えても、考えても、むつかしくて解りませぬ」

 老婆は「体が冷えて参りましたので、失礼いたします」と踵を返す。

 その重い足取りは柵を乗り越えることができず、がたり、と丸太を揺らした。



 時が経ち、私は悟った。

 村の百姓どもが土塁を崩しに来なくなったのは、私が連中を追い払うことに成功したからではなかった。連中が畑の肥やしを集めるための時期が終わっただけに過ぎなかったのだ。あるいは、畑をやるために充分な土をすっかり採り終えてしまっていたか。

 芝の背が高くなり、遠く地平線には小麦の黄金色が覗いて見える。

 私はその美しい輝きが悔しかった。

 不格好に穴の開いた壁と、柱の朽ちた柵に沿って歩く。壁に近づく者がいないので、警棒を持っている必要もない。壁や柵の異常はいくらでも見つかるし、何度も報告しているのだが、修繕の見込みは立っていない。身に纏った制服も、下したてのころのように糊が利いていなくて、ぐっとみすぼらしくなった。

 久しぶりに見つけた人影は、村の子供だった。警邏をしていると老人ばかりを目にするから、集落には私より若い者がいないものと思っていたが、どうやらいないわけではなかったらしい。

 幼い者たちは、衣服や顔を土で汚しながら、土塁を登って遊んでいた。

 小さい体躯では、三丈の壁はまさに険しい山のように見えるようで、誰が一番に登り切るか競争しているようだ。斜面の上で大股になって歩みを進め、土が崩れても足を踏ん張り、ときに百姓たちが鍬を突き立てた窪みに手をかけながら、汗を流しつつ逞しく健気に上を目指す。全員が登り切ると、勝者は胸を張り、敗者は肩を落とす。頂上での休息は僅かなもので、すぐに次の勝負だと息巻いて、今度は坂を駆け降りる。躓いて転げ落ちる者もあったが、坂を駆け降りる足が勝手に動くのが愉快なものだから、息を切らすほどに大きな声で笑っている。擦り傷から血が流れていようとも一向に構わない。

「あんちゃん、何してんだ」

 子供のひとりに見つかった。まだ五つにも満たないようで、鼻水を垂らしている。傍には姉と思しき少女がいて、弟が役人に対し遠慮のない素振りを見せたことを恥じ、肘で突いて咎めている。

 私も子供に対して拳を振り上げるほど器の小さい人間ではない。

 この辺りは堀もほぼ当時のまま残されている。歴史が遊び場にされることは許し難いことだが、子供にそこまでは伝えらない。畏怖を以て接することができるよう、危険を伝えおくに留めよう。子供が転げ落ちようものなら、それもまた歴史に対して汚点を残すことになる。

「ふざけていると、危ないぞ」

 姉弟は深く頭を下げた。そして、こちらをちらちらと窺いながら離れていき、仲間たちの輪に戻る。そうしてまた、壁を駆け上がっていく。何が楽しいのか解らないが、何度も何度も繰り返し、何度やってもからからと笑う。

 何故そんなにも笑えるのだろうか。

 理由が知りたくなって、私も駆け上がった。

 私が怒ったと思ったのか、子供たちは慌てて逃げるように駆け上る。登ってみると気がつくのは、この斜面を登り切るには相当な労力を要するということだった。砂が崩れるのに足を取られ、制服を汚す。一度転ぶと再度立ち上がるのも容易ではない。仕舞いには這って上るような格好になる。無垢な者たちは、坂に腐心する私を見、私が怒って追い立てているのではないと悟ったらしい。可笑しくなって笑いはじめた。

 最後の一歩を踏み出したときには、息が苦しかった。

「適わないな……まったく。これが何か、知っているか?」

 声を絞って問うも、子供たちは答えない。ただ黙って、私が背を向ける集落のほうを指さす。

 振り返ると、黄金の海が広がっていた。

 それはまさしく、乾いた大地に広がる大海原と形容して然るべきものだった。風によって光が波となって押し寄せては去っていく。揺れて流れる呼吸のような鼓動と、穂や葉が擦れて生まれる細波のような声が重なる。陽光が遠く眩い一線を浮かび上がらせ、水平線を作り出す。この広がりはそれを飛び越えて、何処までも広がっているのだろうか。己までもが無限のうちに溶け込んでしまいそうで、漠然とした不安が胸の奥を突き上げる。同時に、ほっとする安らぎがある。

 広がりに抱かれる己はごく小さい。しかし私はこの広がりと一体である。自分の立っている場所でさえも定かではない。私は丘の上にいる。私は水平線の向こう側にいる。バラバラで、散り散りで、粉々だ。

 目を閉じて、深く息を吐く。

 再び目を開けたとき、眩しい大海は既に消え去っていた。我を失うあの刹那は、二度と訪れないだろう。強烈な記憶であるにも拘わらず、遠く離れていく。それでも僅かばかり胸に残った確かな感触は、私をして嘆息させるに充分だった。

 朽ちて倒れた柵こそこの地で最も美しいと、私は信じてしまっていたのだ。



 夜、詰所に足を運んだ。

 私が警邏の責務を負わない時刻、詰所では醜い男がひとり、耳障りな鼾をかいて眠っていた。見回りなどしていないだろうとは思っていたが、明かりも灯さず、施錠もせず、悪びれもせず眠っていようとは。せめて詰所で眠っているだけ真面目というものか。

 前任者たちが嫌になったというのも頷ける。こんな男を上司に、田舎者たちの相手をしなければならないのだ。誇りある職責を投げ出す心境を、いまなら理解することができる。ただ、私は前任者のように逃げ出すことはできない。この地に嫌気が差して逃げ出すなら、それは至極合理的な判断である。ところが私の場合は私に問題がある。私自身で解決しなければ、いくら逃げても同じことなのだ。私は私に嫌気が差した。

 制服を身に纏い、懐中電灯だけを手にして、丘に沿って歩いた。念のためにと手に取った懐中電灯であったが、結局さして役には立たなかった。殆ど必要を感じなかった。子供たちの笑い声が響いていたあの斜面までは、特に難しい道のりでもない。

 闇の中坂を登り切る。

 今度は、広大な海原を振り返ることはしない。

 私は歴史を侮辱した。朽ちた柵こそが美しいだと? 私は眼前の感傷に惑わされた。愚かにも心を奪われた。陶酔に身を委ねたら、さぞ楽しかろう。開き直れたら、どれだけ嬉しかろう。だがそのためには、あまりにも邪魔な自分自身がいる。私は許さない。

 この際だ、とことんまで侮辱しようではないか。

 丘の高さは三丈。堀も二丈ある。

 合わせて五丈、仕損じることはあるまい。

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土の壁 大和麻也 @maya-yamato

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