太陽に目隠し
新芽夏夜
太陽に目隠し
一
大学の夏休みは長い。大学によって差はあるものの、概ね一ヶ月半~二ヶ月ほどあるところがほとんどだ。小学校や中学・高校が高い設備投資をして各教室に冷房機器を取り付けてまで授業時間確保のために夏休みを削っている一方で、大学は冷暖房完備の教室を持ちながら長い夏休みを短くしようとする気配は微塵も感じられない。何故か。誰も望まないからだ。学生は暑い中講義を受けたくない。教員も暑い中講義をしたくない。一応、集中講義という形で丸一日ぶっ通しの講義が行われてはいるのだが(それも大抵、卒業に必要だったり資格取得に必要な科目だったりするので出席率は高いのだが)、キャンパス内を歩く学生も教員もこのうだるような暑さに辟易としており、不平不満があちこちから聞こえてくる。
「人生最後のモラトリアム」とも呼ばれる日本の大学において更にこんな長い休みを与えていいものなのだろうかと思わなくもないのだが、その声がどこからも聞こえてこないのは、誰もそれを問題とは思っていないからなのだろう。
この「大学の夏休みは長い」という印象が定着しているせいで、そこで働く人間も休みが長いと思われがちだ。昨日までの盆休みを利用して実家に帰省していたのだが、親兄弟、親戚、同級生、近所の知り合いに至るまで、会う人会う人に「休みが長くてうらやましい」と言われた。あまりに同じ事ばかり言われるので、十回を過ぎたところでいちいち訂正するのを諦めた。
確かに大学の夏休みは長い。基本的に講義も無ければ宿題も無い。しかし学生にとって夏休みは短い。もっと休みたいという意味ではない。大学の夏休みとはただ遊ぶための時間ではないのだ。休み期間中でもキャンパスから学生の姿が完全に消えることはない。当然講義は無いので授業期間に比べたらまばらではあるが、学生課の窓口も学生が来ない日はない。登校する目的は様々だ。先に挙げた集中講義の他に、自身の研究のため、クラブ・サークル活動のため、就活の相談のため、エトセトラ。夏休みだろうと職員の仕事が無くなることはない。
大学から学生の姿が無くなるのは入構禁止日――盆と年末年始、そして入試の日だけだ。そして盆明けの今日、学生たちがまたキャンパスに帰ってくる。
長い休みが嬉しいのは学生でも社会人でも変わらないものだが、休み明けの出勤が辛いのもまた学生でも社会人でも変わらない。真夏の早朝から元気なのは太陽とラジオ体操帰りの子供たち、そして蝉だけだ。課内では自分が最も若手だから――という訳ではないが、大抵一番に出勤することが多い。上司は有休を使って夏季休暇を延長しているので出勤してくるのは明後日の予定だ。今頃は太平洋上のどこかの島で家族サービスに勤しんでいることだろう。羨望半分、憐憫半分。休暇を自分のために使えるのは独り身の特権だ。
日陰の少ない駐車場を足早に横切り、事務室のある校舎を目指す。急げば暑いがのんびりしていても暑い。この季節は暑さとの駆け引きの連続だ。その最たるものが団扇だろう。強く煽げば煽ぐほどより涼しさを得られるが、その代わり団扇を持つ腕に負担がかかり熱が発生する。ああ早く冷房の効いた部屋に入りたい、と言いたいところだが、残念ながらそう容易くはいかない。休暇前に事務室のブラインドを全て閉めておいてはいたが、窓が東向きについているのでもう室内は十二分に熱されていることだろう。冬場はいいが今の季節では悩みの種だ。冷房が効くまで蒸し風呂のような部屋で耐えなければならない。一番に出勤するが故の悩みだ。
ところで個人的な偏見かもしれないが、大学生は朝に弱い。うちの大学では一限目の講義が八時五十分から始まるのだが、必修でもない限り出席者は少ない。遅刻もざらだ。学生課の窓口はそれより早い八時四十五分から開けてはいるが、学生が来始めるのは早くて九時半頃だ。それならせめて九時からの受付にしたらもう少しゆっくり出勤できていいのではないかと思うのだが、その十五分の間に来る例外的な学生の存在がそれを許してはくれないのだ。
そして例外というものはいつ、どこにでもいるもので。それは講義も無い、おまけに休み明けの今朝でも例に漏れずいた。
「本日の窓口業務は終了しました」と書かれた札がかけられた自動ドアの前に立つ一人の人影。ブラウスにタイトスカート、この暑い中タイツを履いている。首筋が出るように髪を結い上げており涼しげではあるが、それでも額には汗の玉が浮かんでいた。見覚えのある学生だった。
「おはようございます、
「おはよう。部室の鍵だよね? 今開けるからちょっと待っててね……」
一回生ながら礼儀正しい挨拶。学生自治会役員の八乙女
彼と知り合ったのは入学式の日だった。今と同じレディーススーツを着て式に出席しようとしていたが、名簿上の性別が男だったために受付で係員に止められて揉めていたところだった。その時は半ば強引に誘導係の学生に彼を連れて行かせてその場をとりなしたが、その場を他の新入生にも目撃され、翌日のオリエンテーションが終わる頃には彼の噂は広く知れ渡ることとなっていた。
それからしばらく彼はパンツスタイルのユニセックスな服装で過ごしていた。
入学初日から悪目立ちし、更に好奇の目で見られることになってしまったため心配していたが、学生自治会に加入してからは堂々とスカート姿でキャンパスを歩く姿も見られるようになった。
教職員用ドアから部屋に入り、自動ドアの電源のスイッチを入れる。するとワンテンポ遅れて自動ドアが開いた。
カウンターの反対側の壁にはキーボックスがかけられており、その中には学生団体の部室の鍵が保管されている。学生が部室を使用するためにはまず最初に学生センターまで来なければならない。必然的に、学生センターが開くまでは今の八乙女のように待ちぼうける羽目になってしまうのだ。
鍵を手に入れた八乙女が出て行くのを見送ってから、自分のデスクにあるPCの電源を入れた。
給湯室の電気ポットに水を入れ、お湯が沸くまでの間に事務室に掃除機をかける。コーヒーを淹れてデスクに戻り、メールソフトを立ち上げて休みの間に届いていたメールに目を通す。
休みボケを早く解消する自分なりのコツは毎朝のルーティーンをこなすことだ。脳と身体を仕事モードに切り替えるスイッチは電源を入れるようにワンタッチで切り替わるものではない。ゆっくり慣らすようにして意識を変えていく。
うち他の職員も次々に出勤してくるとたちまち「いつもの風景」になった。中には真っ黒に日焼けしている人や、お土産であろう大きな紙袋をいくつも抱えている人など、休み明け特有の空気も混じっている。時候の挨拶に当然のごとく付随する「休みはどうしてた?」という話題が苦手だった。他人の休日の過ごし方に興味はないし逆に自分の休日の様子をわざわざ教える義理も無いと感じてしまう。だから適当に話を合わせてその場をやり過ごすのだが、ふと世の中にはこういった話題に合わせるためだけに休日を過ごしている人もいるのだろうなと思った。「インスタ映え」などと称してSNSに投稿するためだけに物を買ったり飲食店に行ったり旅に出る人もいるというくらいなのだから。
昼休み目前、残していた書類仕事が丁度片付いた頃合いだった自動ドアの開く音で反射的に席を立ち、カウンターに向かった。新人の頃から繰り返し教えられてきたのが、なるべく窓口に来た学生を待たせるな、だった。そのため人の気配を察知したらすぐ窓口に立つことを心がけ、カウンターに立つまでのわずかな間に誰が来たかを確認する癖がついた。入ってきたのは二人だった。一人は、今朝も来ていた八乙女直。そしてもう一人は、学生自治会会長の
「七梨さん。至急ご相談したい事があります」
二
大学によって多少名称は異なるかもしれないが、中学・高校でいうところの生徒会のように、大学にも学生の自治組織が存在する。自治組織、というと連想されるのはかつて大学紛争があった時代のように大学当局と対立する過激な学生組織、というイメージかもしれないが(実際そういう所も残っているらしいが)、うちの場合は学生の意見を吸い上げて大学当局と交渉したり学生行事の統括をすることを主な活動としている。
学生自治会の活動は多岐に渡るが、その中心は総会である。全学生は入学時に自治会費を納めており、名目上学生自治会の会員は全学生ということになる。そのため、自治会の活動計画や予算策定・規約の改正などを行うためには総会での議決が必要と規定されている。また議案が多く時間的に総会だけでは収まらない場合や議決を急ぐ必要がある場合に限り、今日のように臨時総会を開くことも可能である。とはいっても近年は臨時総会も定例化しており、事実上年に二回総会が行われている状態なのだが。また総会とはいうものの学生全員が集まることは現実的に不可能であるため、実際に出席しているのは体育会や文化会に属するクラブに所属する学生くらいであり、総会の形骸化がかねてより指摘されている。しかし学生団体の役員の任期など大概一年しかない。その間にこれまで長年積み重ねてきたものを大きく改革するなんてことは困難であり、受け継いだものを次の代に引き継ぐだけで精一杯である。
それはさておき。
現在。
学生自治会部室である。
窓口を訪れた鐘築と八乙女に連れて来られて今ここに至る訳だが、至急の相談、と聞いた時から抱いていた嫌な予感は的中していた。
トラブル発生である。
「ええと、もう一度順を追って説明してくれないかな? その、資料が部室から消えてなくなったという経緯について」
「はい。ご存知の通り自治会では今日の臨時総会のために夏休み前から資料の作成を進めてきました。各議案ごとに担当者を決め、役員で議事の整理と資料の確認をした後、配付用として一〇〇〇部印刷をしました。総会の出席者は五〇〇にも満たないですが、なるべく全学生に総会の内容と自治会の活動を知ってもらうための配布用として、毎回これだけ用意しています。お盆休みの間は大学への入構が禁止されるので、その前に全ての印刷を終えて部室内で保管していました。そして今日、ちょうど今から会場準備と合わせて出席者用の資料を席に配付していく予定だったんです。ところが今朝、八乙女が部室に来たら用意していたはずの資料のうち、ある一つの議案の資料が全て無くなっていたのに気付きました。当然部室内は隈なく探しましたし、他の資料に紛れ込んでいないかも確認しました。万が一の可能性も考えて部室外も探しましたが、何も見つけることは出来ませんでした。それで、以前から部室棟で盗難が相次いでいたこともありましたので、相談にうかがった次第です」
鐘築の説明は概ね部室に来るまでの間に聞かされた内容と変わらなかった。とりあえず現場を確認して状況を整理する必要があると思い部室に来たが、ひどい散らかり様だった。床には段ボール箱や資料用に用意して余ったのであろうコピー用紙の束、机の上も紙や文房具などで溢れている。泥棒が入って部屋を荒らされたと言ってもいいくらいの有様だったが、「お恥ずかしい話ですが総会の前はいつもこんな感じで……ただ今回は無くなった資料を探していたので特に物が散乱してしまっています」とのことで、八乙女が朝に来た時はここまでではなく、他の資料は休み前と同じ場所に置いてあったそうだ。もし無くなったものがもっと小さなものだったら部屋のどこかに紛れているだろうと想像つくのだが、一〇〇〇部である。広くない部屋を人海戦術で探して一枚も出てこないというのはやはり考えにくい。ちなみに他の無事だった資料は準備の都合のため、既に臨時総会の会場である大講義室に運び出されている。
「いくつか確認させてほしい事があるのだけれど、まず他の資料に紛れ込んではいなかったという話だったけれど、それは確かなんだね?」
「はい。部室から運び出す前にも何度も確認しましたし。今は大講義室で配り始めていますがやはり無いと聞いています」
「では最初からその資料は無かったという可能性は? 他にも色々資料があるようだし、何かの勘違いで用意できていなかった――と」
「それはあり得ません。さっきも説明した通り資料は一度役員会で不備などないか確認してから印刷していましたし、印刷できた後もミスプリントが無いか目を通すようにしていましたので。特に今回無くなった資料の担当は八乙女だったのですが、役員会の後も何度か直して最後に印刷が終わったので、よく覚えています」
「そうか……紛失でないとなると他に考えられるのは誰かが持ち出したということになるけれど……」
そこまで言うと、重い空気が流れた。紛失でなければ盗難。当然の理屈ではあるがその可能性が最も低いということは口に出さなくてもこの場にいる全員が共通理解していた。
部室の鍵は学生センターで貸出している。通常は返却も学生センターになるのだが、事務室が閉まっていた場合は守衛所に代わりに返却することになっている。そして翌朝、守衛所から学生センターに鍵が戻ってくるという仕組みだ。また休日は貸出も守衛所で行っている。ただし昨日までの夏季休業期間は入構禁止となっていたため、当然部室の使用も禁じられていた。南向きの窓にも鍵がかけられており、鍵無しで入ることはできない。
誰も入れない部室。
無くなるはずのない状況。
消えた資料。
いわばこれは密室盗難事件だ――とまではさすがに状況に酔いすぎだが、それでも、不可解な状況であることには違いなかった。
「方法はともかく盗難はやはり考えにくいかな。何より動機が分からない。もし仮に自治会への嫌がらせが目的だとしてももっと手軽でもっと効果的な手段がいくらでもあるはずだし」
「いえ、います。心当たりが……一人。しかも、この密室状況でも盗み出すことが可能な人が」
それまでずっと黙っていた八乙女が唐突に口を開いた。ずっと言おうか言うまいかタイミングを見計らっていたかのように。
「心当たりって、一体……?」
すぅと息を吸って、意を決したように八乙女が告げた名前は、数秒の沈黙をもたらした。うろたえながらも次に口を開いたのは鐘築だった。
「そん、な……ある訳無いじゃないか、そんなこと。そもそも動機がない」
「いいえ、あります。あの資料だけ無くなっているのがその証拠です。それに吸血鬼であるあの人なら、人間離れしたことでも出来るんじゃないですか」
「しかし、そんな事をしたところで何も変わらないのは当人もよく知っていることだろうに。何を今更」
「分かりませんよ、あの人が何を考えているのかなんて。もしかしたら脅しなのかも。『私はどこでも侵入できるぞ』という」
「吸血鬼」――あまりに突拍子のないワードに、しかしつっこみを入れるものはここにはいなかった。なぜならその空想上の生き物であるはずのそれが、実在していることを知っていたから。正確には「吸血鬼」と称される人間を。
人外病――正式にはグレーゴル病というそれは、その名が示す通り人間以外のモノに体が変質する奇病である。「人間以外のモノ」の範囲は広く、実在する動物や植物だけでなく、無機物、果ては空想上の生物にまで及ぶ。血縁者で同じ型の人外病を発症する確率が高いことから、原因は遺伝子の異常によるものとされているが、詳細は未だ解明されていない。近年は病の進行を遅らせたり人外化による諸症状を緩和する薬の開発が進められ、日常生活を送ることが可能となった人外病患者も増え、世間の認知度も高まりつつある。八乙女の言う「吸血鬼」もうちの大学に在籍している三年生の女子学生を指している。しかし認知度が高まることは同時に偏見や誤解も生み、新たな問題となっている。
「本で読みました。吸血鬼は霧などに自由に変身することが出来ると。さすがにそれはいくら何でも非現実的だとは思いますが、限りなく吸血鬼に近い状態だというあの人なら、それに近いことは出来るんじゃないでしょうか。誰にも見つからないように何らかの方法で部室に侵入し、資料を盗み出し、鍵をかけたまま部屋から出ていく。密室盗難を――」
人外病にはステージというⅠ~Ⅳの病状の進行度を示す指標がある。発症者はまずステージⅠに分類される。そこから体の人外度の割合が大きくなるに従ってⅡ、Ⅲと上がり、ステージⅣは八割以上が人外に変質した状態を示す。魚類型ならエラ呼吸が可能となり植物型なら光合成を行える、まさに人外だ。故に遺伝子異常だけでは説明がつかないこの病は、人々の価値観を揺るがした。現実と非現実の境の消失。
実際は見かけだけなのに、その見た目だけで中身を誤解してしまう。その苦しみは、君も身をもって知っているはずだろう? 八乙女直。
「彼女は本物の吸血鬼じゃない。病気で体の性質が吸血鬼っぽくなった、ただの人間だよ。それにいくら吸血鬼に近い体になったと言っても霧に変身できたりなんてしない」
「確かにそうかもしれません。ですが動機の面から考えてもあの人が最も怪しいのに変わりはないんです。今回無くなった資料は、部活関係の議事のものでした。部員のいなくなった部活の廃部が二件、不祥事を起こした団体の降格が一件、そして、部室没収が一件――あの人、
三
結果的に臨時総会は支障なく開かれることとなった。無くなった資料も元となるデータが残っていたため、使える印刷機をフル稼働させることによりどうにか間に合わせる目処が立った。学生用の型落ちの輪転機だけでは難しかったかもしれないが、事務室で使用している高性能複合機も並行して使ったため、大幅に時間短縮できたという事情もある。八乙女風に言うなら「犯人の目論見が外れた」と言ったところだろうか。
結局、資料紛失の謎は「よくわからない」ということでとりあえずその場は収めることになった。八乙女が主張した神楽犯人説は、一応動機らしい動機はあるものの手段に対して合理性がない、また方法が不明との理由で却下された。八乙女本人も自分の説に多少の無理があることは分かっていたようで「まあ、そうですよね」とあっさり引いていた。犯人探しよりも今は資料を復活させる方が優先すべきだという鐘築の一言が決定的だった。
そう、無くなったものを取り戻せるなら問題にはならない。
犯人が誰かなんて。
その疑いをかけられた当事者以外にとっては。
自治会の対応に追われ、遅い昼食を取っていた午後一時半。窓口に一人の学生が駆け込んできた。白衣を着た女子学生――
「あの! 七梨さん、いますか……?」
お湯を入れたばかりのカップ麺をデスクに置いてカウンターに出ると、汗だくの芹川がまさに必死の形相で息を切らしていた。薬学部四年生の彼女は確かこの時期は卒業研究で研究室に籠もりきりだと神楽から聞いていたのだが。
「紅子が部室泥棒を繰り返していたって、どういうことですか……!? 自治会の部室に忍び込んで今日の総会の資料を盗んだとか、あの子がそんなことするはず無いじゃないですか!」
「ちょっと落ち着いて、どこから聞いたのその話……?」
「はあっ、はあっ……す、すみません、慌てて走ってきたもので……直接聞いたのは研究室の子からですけど、どうも今ツイッターとかで紅子が盗みを繰り返しているって噂が流れているみたいで……」
検索してみると芹川の言う通りだった。「泥棒吸血鬼現る!?」「吸血鬼の前にはセキュリティも無意味ってか、怖」「盗んだって言ってもしょうもないものでしょ? どこでも侵入できるならもっとましなもの盗めよww」「吸血鬼ならどこでも侵入できる……更衣室……閃いた!」「通報した」「本当に通報した方がいいんじゃない? 夜中に血走った目でキャンパス徘徊しているの見たことあるって人結構いるよ?」「やっぱり? 怖いと思ってたんだよねー、私も。だっていつか襲われるかもしれないでしょ?」「薬学部の女子で襲われた人がいるって聞いたことあるよ」「血を吸われると奴隷にされるって」「洒落にならないじゃんそれ。その気になればどこにでも入れるんでしょ?」「吸血鬼が自由に出歩いている大学、ホラーじゃん」……
途中から流し読みしていたので半分も覚えていない、が。これは……
「今朝の件が拡散している……?」
どこが発端かなんて調べたところでもはやあまり意味をなさない。今朝のことを知っている人間は限られている。神楽犯人説を口に出して唱えたのは八乙女だったが、同じことを考えた人間が他にいたとしても不思議ではない。人の口に戸は立てられないとは言うが、SNSの浸透は人の声が届く範囲を実質世界規模に拡大したため今や噂話が友人同士だけの小さなコミュニティに収まらず、全世界に発信されてしまっている。今は主に学生や大学関係者の間で広がっているだけのようだが、じきに人外病患者への風評被害にまで発展するだろう。既に神楽の実名が晒されている。写真までは出ていないようだが、それも「吸血鬼は写真に写らない」という創作設定の裏付けのように捉えられているようだ。
「紅子のことは学内では割と知られていたから、口さがない人がたまに書き込むことはあったけれど、昼前くらいから突然こんなデタラメが増え出していて、私、訳が分からなくて……今朝学生自治会であった盗難騒ぎが発端だと聞いたので、七梨さんなら何か知っているんじゃないかと思って」
芹川細流と神楽紅子の恋人関係について、自分は神楽から直接聞いたが、芹川はそのことを知らないらしい。「そもそも言いふらすことでもないし、女同士だからって言うのも一応あるけど、一番の理由は私と付き合っているって知られたら細流まで変な目で見られるかもしれないじゃない? 本人はそんなこと気にしないって言ってくれるけどさ、やっぱり彼女としては不要な気苦労を背負わせたくないんだよね」
狼狽している芹川を落ち着かせるために、ひとまず隣の学生相談室に移った。そこで自治会であったことについてかいつまんで説明をした。そこで確かに神楽に対して疑いが一時かけられたが、最終的に却下されたことも(それを主張したのが八乙女であることは伏せておいた)。
「噂を肯定する訳ではないけれど、状況に不可解な点があるのは確かなんだ。一見すると人の手では不可能だと思えることも。だからといって吸血鬼なら可能だということにはならないし、まして神楽がその犯人だなんてこじつけもいいところだけれど」
「夜間活動サークルの部室没収のことは私も聞いていました。紅子もこのことには納得していて、私が代わりに今日の臨時総会に出席することになっていたんです。だから、彼女がそれを妨害するためにこんなことをするなんてあり得ないんです! 信じてください!」
「もちろん、彼女が盗んだなんて思っていない。真相は分からないけれど、資料も今印刷し直していて総会には何とか間に合いそうだし、事態は丸く収まろうとしていたんだ。だがこうなってしまっては、総会が予定通り進んだところで騒動が収まるにはしばらく時間がかかるだろう」
人の噂も七十五日。今はSNS上で広まりつつあるが、いずれ飽きられて人の口に上ることもなくなるだろう。だが、今回の件で更に深まりつつある人外病患者への誤解、偏見は深くなったままだ。無くなることはない。人外病患者はその名の通り人外だと、人間ではない化け物なのだと差別意識がますます強くなるだろう。障害者差別解消法が定義する「障害者」の中には人外病患者も含まれるが、法律だけでは人の心までは変えられない。記憶にまだ新しい障害者だけを狙った大量殺人事件は、差別意識がもたらす凶暴性を知らしめた。年を取れば取るほど心に染み着いた偏見・差別を根こそぎ洗い流すことは難しい。だからこそこれからの未来を生きる子供・若者にはそれを植え付けないようにするのが大事だというのに、今回の件はその逆の結果をもたらそうとしている。人は正しい真実を信じるのではなく、自分が正しいと思うことを真実だと信じる。悲しいかな今回の密室消失事件は、「吸血鬼」による犯行が「真実」だと信じられているようである。それを覆すことが出来るとすれば、それこそ本当の「真相」を明かすことだけだが……
「私が証明します。紅子の無実を」
芹川の目には決意が宿っていた。若い炎。無謀で、勇敢。
「口で言うのは簡単だけれど、実際問題どうするつもりなんだい? 今説明した通り、起こったことは資料が無くなったというだけで単純だが、状況が不可解なんだ。紛失か盗難かもわからない。紛失だとすれば何故大量の紙が丸ごと無くなり、一枚も見つからないのか分からない。状況的には部室の中にあるはずなのに。盗難だとすれば密室の部室に鍵もなくどうやって出入りすることが出来たのか。どう資料を持ち出したのか。何よりそんな事をした動機は何なのか。現場の部室は無くなった資料を探すためにかなり荒れてしまっているから、調べるどころじゃないしね」
「無くなった資料を探します。それが見つかれば、謎は明らかになるはずです」
「今までも随分探したんだよ? 部室の中はもちろん、学内のゴミ箱全部。もしシュレッダーされたとしてもそのゴミが大量に出るはずだから、清掃員さんにそのようなものがなかったか確認して」
「誰かが盗んだのだとしたら、証拠が残らないよう学外に持ち出すんじゃないでしょうか」
「その可能性も考えた。休暇中は入構禁止だったから、もし誰かが学内に入ろうとしたらまず警備員が止めようとする。確認したが、学内に入ろうとした人間や実際に入っていた人間は何人かいたみたいだが、大量の紙束を持っていた人も、またそれを入れられる鞄などを持っていた人間はいなかったそうだ。巡回中にも怪しい人影は見ていなかったらしい。よって学外に持ち出された可能性は極めて低い」
「じゃあやっぱり学内のどこかに隠したんじゃ……! 燃やしたとか土に埋めたとかどこか別の場所に隠したとか」
「学内で何か燃やされたら警備員がすぐに飛んでくるし、何らかの形跡が残る。穴なんて掘ってもすぐ見つかる。建物はほとんど鍵がかかっていて警備システムも入っているから、そう簡単には入れない。全く不可能だとは言えないが、しらみ潰しに探すしかない」
「可能性が少しでもあるのなら、私は諦めません! 絶対に見つけ出します!」
そう宣言すると芹川は出て行ってしまった。あの身軽さはうらやましい。身軽さはしがらみの少なさだ。年を取るほど鎖は増え重りは増し、体は動かなくなっていく。
「ああー」
デスクに戻るとカップ麺はすっかり伸びきっていた。
四
午後は気温もどんどん上がり、クーラーの利いた事務室から一歩外に出るだけですぐに汗ばむほどだった。一度総会の様子を教室の外から覗いてみたが、特に支障なく進んでいるようだった。無くなった資料もとりあえず印刷は間に合った。自治会は何事もなかったように議事を進めているが、総会の始まる前、教室に向かう学生の間では既に資料紛失のことが噂されていた。神楽紅子の盗難説も。SNS上では夏休み前に頻発していた部室荒らしの犯人も神楽ではないかと話が飛躍していた。夜間活動サークルの廃部を訴える者まで現れた。
夜間活動サークルは現在神楽紅子しか在籍していない。夜間部がある本学では社会人を中心に夕方から大学に通っている学生もいる。神楽も夜間部学生だ。そんな夜間部学生を中心に設立されたのが夜間活動サークル、通称「夜クル」だ。昼間様々な事情で大学に来られない学生が少しでもキャンパスライフを楽しめるように、大学の知り合いを作りにくい夜間部学生のコミュニティの場として夜クルは一時期夜間部学生の七~八割が在籍するほどの規模を誇っていた。そのため部室が割り当てられ、部員は各々都合のいい時間に部室に来ては情報交換や勉強会などを開き、親睦を深めていた。しかし現在は夜間の施設使用の制限が強まり、講義を終えた夜間部学生が活動できる時間はほとんどなくなった。また定員の削減、フレックスタイム制の導入により昼間にも通う夜間部学生が増えたこと、SNS上の情報交換等、夜クルの果たしてきた役割はそのほとんどが不要になったか他の手段に取って代わられ、加入数は減少の一途を辿り現在の三年生一名となるまでに至った。その間、昼間活動するクラブの加入率は高まり、部室が手狭になったり新たに部室を必要とする団体が増えてきた。そういった団体にとっては昼間無人でほとんど活動もしていない夜クルが部室を所有していることに対して不満が高まるのも当然の帰結だと言えた。それ故の今回の夜クル部室没収であり、廃部論にまで発展したという訳だ。
「居場所、っていうのかな。私も大学の中にいて良いんだって言ってもらえている気がしたんだよね」
「昼間外に出られず、夜は講義を受けるだけでゼミに所属することもない。大学生活ってこんなものだったのかなって思えて」
学び直しのための老人やスキルアップのための社会人とは違い、昼間通えないが故の夜間部学生である神楽にとっては、昼間部の学生と同じようにサークルやバイトに追われ、友人との語らいに時間を忘れるキャンパスライフこそずっと心に描いていたものだったろう。高校までは一般の生徒と同じように昼間通っていたらしい。高校三年の終わりに病状が悪化し、昼間出歩くことが出来なくなったそうだ。
吸血鬼型人外病の主な症状は、日光アレルギーと吸血欲。十字架やニンニク、聖水が弱点だということも、身体能力が人並み外れていて感覚が鋭敏で変身が出来るという性質も、全て創作、作り話だ。だが遺伝子異常の影響で人外病患者が人並み外れた能力を有する事例も報告されていることから、あながちそれら吸血鬼の持つイメージにはモデルがいるのかもしれない。しかし確かに言えることは、悪人という型にはまった人間がいないように、病気でもまた人間を型にはめることは出来ないということだ。「吸血鬼」というイメージでは神楽紅子という人間を理解することは出来ない。差別や偏見とはすなわちイメージに対してであり、それを人間に重ねることで対象が人間になる。矯すべきはイメージであり、そのためには正しい知識を欠かすことが出来ない。それを教えてくれたのは神楽紅子であり、体現しているのが芹川細流だ。
その芹川がまた事務室に姿を現したのは午後三時を過ぎた頃だった。見るからに気を落としているのが分かった。
「何か分かったかい?」
見つかったかい? とは聞かなかった。聞くまでもなかった。
「七梨さんの言った通りでした。学内にはどこにもない。紙の切れ端も何も。休みの間に自治会に出入りした人間も誰もいない。警備員さんにも話を聞きましたけれど、夜の巡回でも怪しい人は誰もいなかったそうです。カーテンが開いたままで外から中の様子が見えたから、特に気を付けて見ていたけれど誰かが入ろうとした跡も、中の物が動いた気配もなかったそうです。昨夜の巡回でも異常はなかったって」
手詰まり感を滲ませる芹川。白衣は既に脱いでいた。しかし彼女の話を聞いてふと何かが引っかかった。はっきりとしない違和感。奥歯に物が挟まったような、取れそうで取れないもどかしさ。今の話のどこかにおかしな点があっただろうか。そもそも彼女が調べてきて分かったことは既に確認してきたことばかりで……いや、そういえば。
「警備員さんは、巡回の時に部室の中まで見ていたって言っていたのかい?」
「え? ええ、カーテンが開いていたから、不用心だと思って、とおっしゃっていました」
防犯対策としてどれほど効果があるかは分からないが、長期休暇等でしばらく部室が不在になる時は、カーテンを閉めて外から中の様子が分からないようにするよう指導している。女子の多い部活は普段から覗き対策で分厚いカーテンを閉め切っていることが多いのだが、男子が多かったり来客が多い団体では時々カーテンを閉め忘れて帰ることも多い。自治会の部室の窓は南向きで、日当たりがよい。おそらく昼間は直射日光が注ぎ込んで蒸し風呂状態となっていたことだろう。そういえば窓際に置かれていた紙の一部は日に焼けていた。休み中ずっと日に晒されていたのだから当然だが。
警備員に話を聞きに行った時は鍵の貸出と巡回時のことしか聞いていなかったので、部室の中まで確認していたことまでは話になかった。無くなった資料はちょうど段ボール一箱分で、机の上に置いてあったという話だった。中の様子まで注意して確認していたという警備員の話が本当なら、それが無くなっていたらすぐに気付くだろう。巡回が終わるのが深夜〇時頃。昨夜まで異常がなかったということは、無くなったのはそれ以降、つまり八乙女が部室を開けるまでの約九時間の間ということになる。八乙女が部室を開けてから十分後には他の役員も来たという話だから、八乙女が持ち出すことは時間的に不可能だった。
一体いつ、誰が、どうやって。そしてなぜ。
「私、総会に出てきます。夜クル代表代理として、議事の結果を聞いてきてほしいと紅子にも頼まれているので」
「そうか。そうだ、一つお願いがあるんだけれど、総会の資料を一部僕の分ももらってきてくれないかな? 学生の自治活動ということで大学側はなるべく干渉しないようにしているのだけれど、どんな事を話しているのか個人的に気になってね。前に自治会にお願いしたらやんわり断られてしまって」
「分かりました。余っているはずなので、たぶん大丈夫だと思います」
「ありがとう。じゃあ」
とぼとぼと芹川は講義室に向かっていった。資料を印刷し直すための時間を稼ぐために議事の順番を最後にしたという話だったので、今から行っても間に合うだろう。部室没収だけでも憂鬱だろうに、盗難の疑いをかけられては、気落ちするのも無理はない。彼女には気の毒だが。
はてさて。自分もデスクに戻りながら考える。鐘築等と話していた時より更に詳しい状況が分かった、が、より不可解さが深まっただけだった。ここまでくると吸血鬼の仕業というより神隠しという方が近い気がする。コピー用紙の神隠し……神様もヤキが回ったのだろうか。
PCのスリープモードを解除するとメールが一通届いていた。差出人は「神楽紅子」。用件は簡単だった。「経緯を教えて」芹川が聞いたことも含めて箇条書きにして返信してやる。十数分後に届いたのは「日が沈んだら行く」という素っ気ない一文だった――とすぐ直後にもう一通。
「本当に紙が無くなっていたの?」
五
お盆も過ぎると日が段々短くなってきているのを実感する。暑さは相変わらずだが、赤く染まる空と時計を見比べると、夏の終わりを予期させる。
臨時学生総会は既に終了していた。出席していた学生は散り散りに解散し、片付けに動き回っていた自治会役員も一段落したのか緩い空気が流れている。何でもこの後は打ち上げがあるとかで、荷物を早々にまとめて今か今かと出発の時間を待ちわびている子もいるくらいだ。早く解放されたがるのも無理はない。今年の臨時総会は例年より時期が大きくずれ込んだせいで、準備期間が試験期間と重なってしまい、役員にはかなりの負担となっていた。
部室では幹部によるミーティングが行われていた。そのため下級生は大講義室で待機していた。彼もまたそこで一人手持ちぶさたに椅子に座っていた。声をかけるとすぐに返事をし――、隣に立つもう一人の姿にその表情が一瞬こわばった。そこに浮かんでいたのが嫌悪感ではなく、むしろ気まずさだったことが、推測を確信に変えた。
「今朝の事で少し、確認したいことがあるんだ」
そう言い、他にいた役員の子に断って彼と連れだって講義室を出て、向かったのは学生用印刷室。自治会だけでなく学生団体のために型落ちの印刷機をおいている小部屋だ。紙は持ち込み。トナーは大学が購入しているが、印刷枚数に応じて一定額を年度末にまとめて集金している。
正方形の小さな部屋に印刷機三台と人間が三人入ると狭苦しいことこの上ない。窓を全開にしても籠もった熱気はそう簡単には消えてなくなりそうもなかった。早いこと話を終わらせようか。そう言うと彼は怪訝な顔をした。
「話――とは今朝の資料消失の件ですか? それなら僕の知っていることは全てお話ししましたよ? もしかして、真相が分かったんですか? それなら僕より会長にお話しされた方がいいと思いますが――まさか、本当にそこの吸血鬼さんが犯人だったとか、そういうことだったりするんですか?」
彼――八乙女直の視線は隣に立つ神楽紅子に向けられた。二人には面識があった。夜間活動サークル部室没収の件で、部長(唯一の部員なので自動的にそうなる)の神楽に意向確認のため面談を行い、その場に彼も同席していたそうだ。
「真相、だなんて大げさだなー。推理小説か何かと勘違いしていない? 現実でそんな推理が必要な出来事なんてそう起こるはずが無いじゃない」
神楽が軽い口調で苦笑する。容疑者、もしくは冤罪被害者とあえて言うが、少しでも疑いをかけられていて現在進行形で悪印象が拡散しているという自覚など微塵も感じられない。彼女にとって重要なのは我が身ではない。守りたいものは他にある。だから彼女はここにいる。真相を知り、心配を払拭するために。
「まあ、これだけ不可解な現象が起こった理由を明らかにしようとするのだから、真相と言っても語弊はないと思うよ。ただ彼女の言うようにこれは推理小説のように謎を暴こうというものじゃない。だから犯人探しをしようという訳じゃない。実際に何が起こったのかをはっきりさせ、彼女にかけられた誤解を解こうというだけだ。今彼女についてのデマがSNSを中心に拡散していることは、君も聞いているかな? 今朝の出来事がそのきっかけとなってしまっているから、それをどうにかしたいんだ」
「それなら、どうして僕を呼んだんですか? 神楽さんがネットで炎上している件は知っています。僕も最初同じように考えていましたから。でもそれを収めたいなら、それこそ会長とか幹部の人と話をした方がいいんじゃないですか? 全学生とはいかなくても、各団体に注意喚起を促すことは出来ると思いますし」
彼の言うことはもっともだろう。ネット炎上を一昼夜で収めることは難しい。だが現実で真実を広めるには、彼のような一年生より各団体に影響力のある会長や幹部に協力してもらう方が効果を期待できるはずだ。なのに何故わざわざ彼一人を、それも会長や幹部がいない頃合いを見計らって呼び出したのか、その理由。
「さっきも言った通りだよ。今朝のことで確認したいことがあるんだ。君に」
「何ですか? 最初に部室に来た時の事はもうお話ししましたけど」
「確認したいのは、資料が無くなる前――いや、資料だった白紙の紙束を君が見つけた時のことだよ」
息を飲んだ音は一つ。八乙女のものだった。神楽には事前に伝えていた。資料消失の真相を。
「……仰っている意味がよく分かりません。資料だった白紙の紙束? それは印刷前のコピー用紙のことですか?」
「正確にはインクが消えて白紙に戻った紙、といったところかな。君も驚いたんじゃない? 確かに印刷したはずの資料が真っ白になってしまっていたら」
「だから、七梨さんの仰っている意味がよく分からないんですが。インクが消えて白紙に戻った? 誰かが印刷した資料を白紙と入れ替えたって言うのなら分かりますが、まさか修正液で全部白く塗りつぶしたとでも言うんですか? ばかばかしい。そんなのすぐに気付くに決まっているじゃないですか!」
「言葉通りの意味だよ。インクが消えた――いや、見えなくなったと言った方が正確かな。君も持っていないかい? 消えるボールペンって」
胸ポケットからボールペンを取り出す。一見何の変哲もない黒ボールペンだが、持ち手の先がラバーになっている。ゴミ箱に入っていたコピー用紙にそのボールペンで適当にぐりぐりと螺旋を書き、ラバーでこすると、こすった部分が消えた。
「このインクが消える仕組みは知っているかな? このボールペンのインクは高温になると色が消える性質を持っている。ラバーでこすった時の摩擦熱で色を消しているという訳だ。つまり一定以上の高温の環境に置けば、手を加えなくてもインクの色は消える」
ペンの側面には注意事項の一つに「高温下に置かないでください」と書かれているのもそういった理由からだ。
そしてここまで聞けば、八乙女も何が言いたいか気付いたようだ。
「つまり、七梨さんは資料を印刷したインクもこのボールペンと同じように高温で色が消える性質のものだったから、休みの間に部室内が高温状態になって、白紙に戻ったと言いたい訳ですね。それが資料消失の真相だと」
「誰かが持ち出したとは考えにくい、となればずっと部室の中にあったと考えるべきだ。だが部室の中にもなかった――いや、見つけられなかった。「見つからない」は「無い」とは言えない。ずっとそこにあったんだ。ただ、それとは分からない形に変わっていたから気付かれなかっただけで」
だがこれだけでは「消失」の説明としては不十分だ。ここまでの話だけでは資料が白紙に戻っただけで白紙の紙束はそのまま残っているはずだ。だが実際には紙自体が無くなっていた。第一発見者の八乙女がそのことに気付かないはずがない。それでも何も言わないのは、もう分かったからだろう。どうして自分一人が呼び出されたのか。
「印刷したはずの資料が全て白紙になっていた。君はそれに気付いた。さて、それから君はどう行動したのか。君に確認したいのは、このことなんだ」
「……意地悪な聞き方をするんですね。わざわざ聞かなくてもここまで分かればその後は誰でも気付きますよ」
「君は資料だった白紙を部室の隅に移動させた。使用前のコピー用紙だと思われるように。それだけで資料消失現場の完成だ。そして今はもう部室にも無い。資料を印刷し直すのに、その紙も使ったんだろう?」
「まるで見ていたかのように言うんですね」
「見たからね。高温で消色するインクは、逆に低温になるとまた発色する。研究室の冷凍庫に総会の資料をしばらく入れておいたら、消えた資料が出てきたんだ……今日印刷し直した資料からね」
ちなみにその冷凍庫を借りた研究室で消色トナーは開発されていた。ボトルに詰められた試作トナーは通常使用しているトナーと見分けがつきにくいため、その研究室に所属している自治会役員が取り違えて印刷室の輪転機に入れてしまい、八乙女がそれで実際に印刷してしまった、というのが真相だろう。案の定、部室没収の資料は作成が遅れたため印刷が最後になってしまい、印刷する前にトナーを交換していたそうだ。
明らかになれば実に単純な。あっけないネタばらし。ミステリー崩れの、少し不思議なだけの話。
「でも分からないな。君が白紙になった資料を隠そうとせず見たままをそのまま伝えていれば、こんな騒ぎにならずにすんだんじゃない?」
神楽が口を挟んだ。まあ、当然の疑問か。結局は消色トナーで資料を印刷してしまい、高温の環境下に放置してしまったために色が消えてしまったというだけのただの事故。紙がそのまま置いてあれば、すぐに気付けたはずだ。それを隠すようなまねをしたのは。
「会長に――鳴彦先輩に、失望されたくなかったから」
八乙女がぽつりと漏らした。
「どうして資料が真っ白になっているのか分からなかった。他の資料はそのままなのに。本当は印刷していないのに印刷したと嘘をついたんじゃないかと言われるかもしれないと思うと、頭が真っ白になってしまって。どうにか自分のミスだと気付かれないように誤魔化せないかと考えて、誰かが資料を盗んだことにすれば、自分のミスだとは思われないんじゃないかと思って、目に付かない所に隠したんです。よく考えればわざわざ総会の資料を盗もうと考える人なんているわけ無い。でもすぐに他の人が来るし、どうしたらいいか分からなくて……」
「私に疑いを向けようとしたのも、苦し紛れのこじつけってわけね」
一つ嘘をつけばそれがばれないように重ねて嘘をつく羽目になる。やがて嘘はどんどん大きくなり、いずれ誤魔化しきれなくなる。
「はい、すみません……あの時は辻褄を合わせることばかり必死になっていて。でもまさかそれがネットで炎上するほど広まるとは思わなくて」
「出所はたぶん別でしょうけどね。あんな思いつき、誰でもすぐ思いつくでしょ」
「先輩が元データを持ってきてくれていなかったら、本当にどうしようかと……」
「でもミスがばれるのを怖がる気持ちは分かるけど、ここまで必死に誤魔化そうとしなくてもさっさと観念して正直に話していれば、こんなに苦しまなくてすんだんじゃない? 結局資料も復活できた訳だし。鳴彦に失望されたくなかったからって、もうすぐ自治会も引退でしょ? そんな気にする必要ないのに」
「そんなこと無いです! 鳴彦先輩は、僕を救ってくれた人なんです! こんな格好をしている僕を庇ってくれた優しい人で、尊敬しているんです。ずっと先輩に認められたくて頑張ってきたから、だから……」
「ふぅん。あいつが、ね。少しは考えを改めたってことかしら」
神楽が小さく呟いた。神楽と鐘築、二人の因縁についてはかいつまんでしか聞いていない。かつて自分を迫害した人間の変化を、彼女は今どんな気持ちで聞いているのだろうか。
「認められたいというならなおさら、こそこそ隠すようなことはしない方がいい。誰でも最初から全部うまく出来る訳がないし、予想外の事で思わぬ失敗をすることだってある。そういう時に素直に自分の非を認めて、どう挽回するかを考えるのが大切なんだよ。一度誤魔化そうとすると嘘を重ねることになって、結果的にそっちの方が周りの信頼を裏切ることになってしまう」
「はい……あの、神楽先輩。今回は自分のせいでご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした……」
頭を下げる八乙女。神楽は頬を掻いていた。
「私は気にしてないよ。何か言われるのはもう慣れっこだし、そもそも日陰者だしね。ただ、私の連れはこういうのすごく気にする性質で、自分のことのように考えてしまうからさ。今回も私以上に必死にあちこち駆け回ったりして、心配かけちゃったから。ま、後で私から説明しておくから、君は気にしなくていいよ」
「本当にすみませんでした……」
「それじゃ、これで本当に今回は一件落着と言うことで」
六
八乙女は何度も頭を下げてから出て行った。他の役員は既に打ち上げ会場へ向かってしまったようで、遅れて合流するらしい。
「なんだか、あれを思い出しちゃったよ。あの、なんて言うの? 水飲み鳥?」
「はは、それはちょっとかわいそうだよ。あんなに反省していたんだから」
「しっかし、鳴彦があそこまで慕われているとはねー……ねえ、どう思った?」
「どうって?」
「本当にただの尊敬だと思う? だいぶ入れ込んでいるんじゃない?」
「そういう話好きだね、みんな。まあ、本人は自覚していないようだし、あったとしてもこれからじゃないかな?」
「そうかもねー……あのさ、今日はありがとうね」
「ん?」
「真相を突き止めてくれて。私は何を言われても気にしないけど、細流に辛い思いをさせてしまったから。本当のことが分かれば少しは気を晴らしてあげられる。なんか助けられっぱなしだね、七梨さんには。入学した時からずっと」
神楽と初めて会ったのは入職後まもなくの春も終わりのことだった。新入生に人外病の子がいることは既に噂になっていた。
その日は残業だった。やってもやっても仕事が終わらない。まだ就職したての新人だ、自分の処理が遅いということももちろんあったが、それだけが原因ではなく、毎年年度初めはこれが普通なのだという。上司の気遣いで終電前には帰らせてもらっていたが、さすがに帰ってから夕食を食べている時間はない。そのためここしばらくは残業前に学食で夕食を取るようにしていた。
うちの学食は夜間部学生もいることから、夜七時まで営業している。そのため学生だけでなく、自分のような残業で遅くまで残る教職員からも重宝されており、昼ほどではないにしてもそこそこの混み具合だった。だがその日は普段と違う騒がしさがあった。人だかりが出来ており、騒々しさはそこから広がっていた。
「誰か倒れているの?」
「いや吸血鬼がいるんだってさ」
そんな声がどこかから漏れ聞こえてきた。本当に人が倒れていてはいけないと思い人混みをかき分けて近づくと、一人の女子学生が机に突っ伏していた。周囲には遠巻きにそれを眺めているだけで声をかけようともしない野次馬。近くにいた学生から話を聞き出すと、かれこれ三十分近く動かないらしい。寝ている、という訳でもなさそうだ。西日が逆光になり顔色がうかがえない。肩を叩いて声をかけると弱々しい反応があった。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
「ちょっと、日に当たりすぎて……」
曰く、夕方の必修講義に出席するために大学に出てきたが、まだ日が暮れる前で、しかも教室では窓際の席しか空いておらず、ずっと日光に晒されていたのだという。それで気分が悪くなり、なんとか教室から出てきたものの休養室まで辿り着くことが出来ず、ここで休んでいたということらしい。それなら周りの誰かに助けを求めれば良かったのではないかと思ったが、「迂闊に吸血鬼に近づかないよう警戒されていた」らしい。
すぐに野次馬の学生数人に担架を持ってこさせ、休養室まで運び込んだ。一時間後にはすっかり体調も回復していた。
その女子学生が神楽だった。
それから彼女は度々自分を訪ねては大学生活のことについて相談をするようになった。自分も可能な限り対応したり他部署や専門家につないで対応策を協議してもらうよう働きかけた。やがて個別対応チームが発足し、彼女を取り巻く環境は徐々に改善していった。自分はそのチームには加わっていなかったが、それでも彼女はまず最初に自分に話しかけてきた。「七梨さんが、大学の人の中では一番ちゃんと話を聞いてくれるからね」人外病というだけで好奇の目に晒される。個別対応チームが出来たといっても直接彼女と接するのは一般の事務職員が一番多い。専門家は他にも案件を抱えており、アドバイザー的役割にとどまらざるを得ない。彼女が気負わず話をすることが出来、他の学生と変わらないニュートラルな接し方をしたのは、恋人を除けば自分だけだった、そうだ。
彼女は「彼氏」ではなく「恋人」としか言わなかった。だからその恋人が女性なのだと打ち明けられても、特に違和感はなかった。
「それはおめでとう」
「いや、高校からの付き合いだからもう四年くらいになるし」
「そうなんだ。でもやっぱり何か言うなら『おめでとう』かな」
「ありがとう? ……なんか結婚するみたい」
「それはさすがに気が早いんじゃないかな」
「まあ、お互いまだ学生だしね。でもやっぱり考えちゃうよね。これから先のこと。それに、私の場合いつまで生きていられるか分からないからさ」
人外病は進行する。しかし人外病の根治療法はまだ発見されていない。人外病は型によってその症状も進行速度も大きく異なるため、研究はなかなか進まない。病気の進行に研究が追いついていないのが現実だ。そして人外病患者が「死ぬ」時、それは「人間でなくなる」ことを意味する。
神楽は高校卒業間際に、ステージⅣと診断された。
「大学受験の時に日光に当たりすぎて意識を失ってしまってね。一時生死をさまよったことがあって。その時にステージⅣに進んでいることが分かった。吸血衝動は輸血パックを処方してもらうことで抑えられているけど、日光への耐性がかなり弱くなっちゃって。ちょっと当たるだけで気分が悪くなったり意識を失ってしまう。ここまでくると自分の『死期』をどうしても意識してしまってさ。だからかな、気が急いてしまうというか、生き急いでしまう。彼女との未来も、実現するかどうかは分からない」
自分はただ「そうか」としか答えられなかった。「死」を意識して日々を生きているという彼女の目には、しかし死への恐怖は微塵も映っていなかった。
彼女と話をしていると時々職員と学生という距離感を忘れてしまった。おそらく彼女も自分をただの事務職員ではなく、七梨という一人の人間として接しているようだった。だからこそ、恋人の事も、病気の事も、話してくれたのかもしれない。故に自分も、彼女を学生の中の一人ではなく、神楽紅子という人間として話をするようにしている。
「自分こそだいぶ入れ込んでいるじゃないか、彼女に」
「まあね。目の前で死にかけるという一生もののトラウマを植え付けてしまっているから、私は。せめてこれ以上は私のことで心を痛めてほしくない」
「どうだろう。そんなに心配するほど、彼女も弱い人間ではないと思うけどな。そのトラウマも全部背負って、自分の足で立って生きていける強さがあると思う」
「そりゃ、私の彼女ですから?」
「はいはい。そんなによく出来た彼女なら、ちゃんと大事にしなさいよ」
「もちろん。たとえ、死んでもね」
七
遅れて入ったチェーンの居酒屋。自治会役員だけでなく、今日の臨時総会のために色々と協力してくれた各団体の代表者など、実に多様な面子が打ち上げ会場には揃っていた。もう乾杯は済んだようで、一番広い座敷席を独占している一行は大いににぎわっており、後から入った僕のことには気が付いていなかった。むしろその方がありがたい。注目されるのは苦手だ。無遠慮に突き刺さる視線は凶器。体中、傷だらけだ。私服でフリルの多い重ね着を好む理由の一つでもある。服は現代社会の鎧だ。身を守るため、世間から隠れるための。
なるべく気付かれないように、空気を混ぜ返さないように、隅の空いている席に滑り込むようにして腰を下ろした。案内してくれた店員さんからおしぼりを受け取り、ウーロン茶を注文する。一口飲んで、ようやく一息つくことが出来た。鳴彦先輩は奥のテーブルで他の幹部や他団体の部長たちに囲まれていた。他の自治会役員は別のテーブルを囲んでいた。後で顔を見せておかないといらない気を使わせてしまうかもしれないが、今はどんな顔をして会えばいいか分からない。
たくさんの人に迷惑をかけた。保身に走り、ミスを隠蔽し、騒ぎを起こし、人に罪をかぶせ、全て明るみになってもなお、ちゃんと謝ることすらできずにいる。最低だ。失望されたくない一心で取った行動なのに、今となっては自分で自分に幻滅した。こんな卑怯で卑小な人間だったのか、自分は。何が「
一時間ほどすると打ち上げの空気は盛り上がりの一途を辿っていった。最初は席順やテーブルの組み合わせを決めていたようだけれど、もはや無礼講でみんな好きに移動して会話に花を咲かせていた。同じ団体で集まっているテーブル、男女向かい合わせに座ってさながら合コンの様相を呈しているテーブル、空いた料理の皿やグラスが山のように積み重ねられているテーブル(他のテーブルの物もここに集められているようだった)、様々あり混沌としていた。大学に入学してまだ半年足らず。飲み会に参加したことも一、二度しかないけれど、酒の席がこれほどカオスで刹那的で退廃的だとは知らなかった。鳴彦先輩はその坩堝の中心にいた。僕は喧噪から外れ一人、運ばれてきた料理をひたすら口に運び、ソフトドリンクで流し込む作業に徹した。僕以外に未成年はいない。誰もが銘々思い思いのアルコールを摂取していた。入学直後から未成年飲酒については何度も繰り返し注意喚起され、自治会としても各団体には折に触れて注意を促してきたので、これまで特段飲みたいとは思わなかった。何故人はあんなにお酒を飲みたがるのだろうか、理解できなかった。けれど今なら少し分かる気がする。思うにアルコールは麻酔なのだ。感覚とか理性とかストレスを鈍らせる薬。感じなくなることを快感だと思い込む。抑圧されたものを解放する。酒は百薬の長なんて嘘っぱちだ。煙草と同じ、命を縮ませる毒。分かっていて、それでも飲まずにはいられない。蝕まれなければ生きていけない。この苦しみから一時だけでも解放されるのなら。
予定を三十分ほど過ぎて、打ち上げはお開きとなった。だが半数以上の人はこのまま二次会へ行くらしい。それ以外も何人か少数のグループに分かれ、夜の繁華街へ消えていった。みんなみんな酔っていた。判断力の低下している今なら多少様子が変でも気付かれないだろうと自治会の先輩方に挨拶して帰ることにした。
「先輩方、今日はお疲れさまでした。すみませんが僕はお先に失礼しますね」
「何、八乙女もう帰るのかー? お前も二次会行こうぜー?」
しまった、面倒な流れになった。
「いやあの、僕門限があるので……」
「門限って、まだ九時だろ? 大丈夫だって、終電までには解散するからさ」
「あの、本当に僕……」
酔っぱらった先輩に腕を掴まれそうになった時、不意に後ろから肩を引かれた。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは鳴彦先輩だった。
「こら、自治会幹部が後輩を無理矢理引っ張っていこうとするんじゃない。それに八乙女はまだ未成年なんだから……。八乙女も確か帰りは上り線だったな? 俺も同じ方向だから途中まで送ろう」
「えーっ、鐘築会長も帰っちゃうんですか?」
「すまんな。明日も朝から用事があるんだ。それに今日も朝早くて疲れたから、今日はもう休ませてくれ」
それじゃああまり羽目を外しすぎないようにな、と言い残すと鳴彦先輩は僕の肩を引いたまま颯爽と歩き出した。必然的に僕も引っ張られて歩くことになった。
鳴彦先輩と帰りの電車が一緒になるのはこれが初めてではなかった。僕の方が大学に二駅近いのだが、自治会の仕事で遅くまで残るとほぼ必ず一緒の電車に帰ることになった。それを密かに期待して、用事が無くても部室に顔を出すこともあった。
アルコールのせいか鳴彦先輩の頬がいつもより赤かった。言葉遣いも普段より崩れていて、酔っているのは明らかだった。だが足取りはふらついておらず、駅ナカのコンビニでミネララルウォーターを買う時も手元はしっかりしていたので、心配するほどではなさそうだった。
「いつも飲む時は必ずチェイサーに水を頼むんだけど、今日は次々に注がれるからだいぶ酔ってしまったよ」と口元をほころばせたその表情は、大きな仕事を終えた解放感に満ちていた。その重責に更に厄介事を上乗せしてしまった謝罪も込めて「お疲れさまでした」と言った。
帰宅時間と重なってしまったせいか、電車はかなり混雑していた。吊革も空いていなかったため、ドア横の手すりに掴まっていた。鳴彦先輩は僕より十センチ以上背が高く、僕の頭越しにドアに手をついてバランスを取っていたので、自然と僕の体を背中から包むような体勢になっていた。
「すまん、後ろから押されていて動けそうにないんだ。悪いがしばらくこらえてくれ」
鳴彦先輩の熱い吐息が耳をくすぐった。アルコールが含まれているせいか、自分の体も熱くなってきたような気がした。背中に汗が滲んでシャツがべったり張り付いて、鳴彦先輩の体と直接触れ合っているかのような錯覚に陥る。電車が揺れる度腰に固いものが当たるのは、おそらく先輩の付けているベルトのバックルだろう。だがそれを意識した途端、カッと頭に血が上った。顔が熱い。火傷しそうだ。背中がどんどん敏感になっていく。鳴彦先輩を感じてしまう。考えてしまう。
三駅目で乗り換えのために多くの乗客が降りるまで熱さは続いた。混雑が緩和されたお陰で冷房がようやく効き始めて、車内温度も下がったようだった。鳴彦先輩と一緒に満員電車に乗るなんてこれまでも何度かあったのに、こんな感覚になるのは初めてだった。熱帯夜のせいだろうか。まだ顔が少し熱い。
更に十分ほど電車に揺られて僕の最寄り駅に到着した。別れの挨拶をしてホームに降り立つと、鳴彦先輩も付いてきて電車から降りていた。直後に閉まるドア。滑り出す車両。
「あれ、先輩の家ってまだ先じゃ……」
「まあ、そうなんだけどな……酔い醒ましに少し風に当たっていきたいと思って。途中まででいいからよければ付き合ってくれないか? ああ、でも門限があるんだったか」
「い、いえ! 門限は……大丈夫です。えっと、お、お供します」
お付き合いします、と言いかけて慌てて言い換えた。何故だろう。理由は深く考えないでおいた。意識したらもう後には引けなくなりそうで……
駅から少し歩くと川が流れていて、涼しい風が汗ばむ暑さを和らげてくれていた。河原には自分たち以外にもジョギングする人や犬の散歩をする人などがいて、夜でも人気は絶えなかった。
「あー、風が気持ちいいな」
「そうですね。真夏の夜は今の時間、ここが絶好の散歩コースなんですよ」
「確かに、人通りも多いようだし今の季節はちょうどいいだろうな」
他愛ない会話を交わしながら並んで歩く。隣を流れる川のようにゆるやかな時間。
でも、と頭の片隅に残る疑問。鳴彦先輩は一体どういうつもりで僕を誘ったのだろうか。何か話をしたいことがあるのだろうか。それは、今日の事と無関係ではないはずだ。疑問は不安に変わり、むくむくと広がっていく。七梨さんや神楽先輩がどこまでの人に真相を明かしたのかは分からない。二人と直接話をして、すぐに出てきてしまったから。神楽先輩の言っていた「連れ」には伝わっているだろう。気になってSNSを確かめてみたが、まだ吸血鬼犯人説がまことしやかにささやかれているようだった。二人はデマがこれ以上拡散するのを防ぎたかったのではないのだろうか。もしくは、まだ広まっていないだけなのか。いずれにせよきっと明日には出所不明の「真相」が語られていることだろう。だがそれは、どこまでの「真相」だろう。資料が消色インクで印刷されていて、それが高温の環境下に置かれたことにより白紙に戻ったという現象までだろうか。だから、密室の部屋から持ち出されたように見えたのは錯覚だったのだと。だが誰かは必ず気付くはずだ。色が消えただけでは「消失」にはならない。その紙自体を隠した人間が必ずいるはずで、それこそが今回の事件の「犯人」である、と。七梨さんは一度も「犯人」という表現はしなかった。今回の件はただの事故であり、それを僕が誤魔化そうとした結果、奇妙な状況が生まれてしまっただけだと。だが事情を知らない人間には関係のないことだ。すぐに「真犯人」探しが始まるだろう。正義感という旗の下、繰り広げられるのは私刑だ。SNSという舞台の上、引きずり出されるのをこれから怯えて暮らさなければならない。ぞっとした、なんて言う資格は僕には無い。既に僕の行動のせいで神楽先輩が同じ目に遭っているのだから。寒気がしたのは川風に当たりすぎたせいだけではない。
「――そろそろ戻ろうか」
途中で黙り込んでしまった僕を気遣うように鳴彦先輩が言った。疲れたと思われたのだろうか。けれど今の僕にはありがたかった。早く眠りにつきたい。何もかも忘れて、夢の中に。
「しかし今日は朝から本当にご苦労だったな。初めての総会であんなトラブルに見舞われてしまって、俺が至らないばかりに心配をかけてしまってすまなかった」
違うんです。否定の言葉は、しかし声にならず喉の奥で掠れて消えた。先輩が謝る必要なんてどこにもないんです。悪いのは全部僕なんです。自分の失敗を誤魔化そうとして結局、大勢の人に迷惑をかけてしまって、挙句の果てには神楽先輩を悪意に晒すことになってしまって。
「僕が悪いんです。僕が……」
それだけをなんとか絞り出す。あまりに苦しげに言ったからだろうか、鳴彦先輩が足を止めた。
「何かあったのか?」
「………………」
鳴彦先輩の問いに、僕は答えることができなかった。未だに自分のしたことを告白できずにいた。
「言いにくいのなら、無理に言う必要は無い。ただこれだけは忘れないでほしい。俺はいつでも、お前の味方だから」
「――っ!」
自分の中の張りつめていた何かが切れた。気付くと僕は嗚咽を漏らしていた。情けない、恥ずかしい、こんな、子供みたいな。
「そんなに自分を責めなくてもいいんだよ、直。お前だけのせいじゃない。気付けなかった俺も悪い。巡り合わせが良くなかったんだよ」
大丈夫大丈夫、と繰り返しながら僕が落ち着きを取り戻すまで、河原に腰を下ろして背中をさすり続けてくれた。
「落ち着いたか? 急に泣き出すから驚いたよ」
「すみません、お見苦しいところを……」
「いいんだよ、気にしなくて。それだけお前の責任感が強いってことなんだから」
頭をポンポンと軽く叩かれて、先輩の手が離れた。今日はいつもより触られることが多かった。これもお酒のせいだろうか。だが鳴彦先輩からはもう酔っている気配は感じなかった。
「……なあ、直。これは質問ではなくただの独り言だと思って聞き流してほしいんだが――今日の資料が無くなった件、お前は真相を知っているんだよな。それも、あまり俺には言いにくい内容を」
鳴彦先輩の視線は川面に映る月に向けられていた。その言葉は質問の形をしていたが、その裏には確信めいたものがあった。先輩は気付いているのだろう。「何が」あったかは分からずとも、僕が「何か」したことは。それでも追究しようとしないのは、きっと僕を気遣ってくれているからだ。自責の念に堪えられず、だが真相を打ち明けようとしない弱い僕をこれ以上責めないように。
愕然とした。僕は欺こうとしているのだ。このどこまでも優しい人を――!
「――っ! あ、の、先輩! 実は、僕……本当は!」
「自分が犯した失敗や罪を、取り消すためには何をするべきだと思う?」
僕の言葉を遮って突然鳴彦先輩が問いかけた。だが僕が何か言う前にまた言葉を続ける。その目は依然として水面に向けられたままだった。
「過去は変えられない。一度してしまったことを取り消すことはできない。当たり前のことだ。いつだって自分が何かできるのは『今』だけで、『これから』どうすべきか考えることしか出来ない」
どうしたのだろう。鳴彦先輩は急に、一体何の話を始めたのだろう?
戸惑いで相槌を打つことすら出来ずにいたが、先輩は構わず語り続ける――独りごちる。
「俺は以前、神楽に酷い言葉をかけたことがある。嫉妬と劣等感に支配され、偏見と差別に満ちた侮辱を。決して許されない、最低な行為だった」
その事に気付くきっかけを作ってくれたのは、まだ中学校に入る前の従妹だったんだけどな、とそこで初めて先輩の横顔に表情が現れた。自嘲。告白は続く。
「いくら後悔しても反省しても取り返しはつかない。傷付けた事実は変えられない。どうしたら償えるのか。なんて考えることすら彼女からすればおこがましい事だと思うだろう」
贖罪は加害者の自己満足に過ぎず。
被害者の救済は妥協でしかない。
「だから俺は自分を変えることにした。偏見と差別意識を持たないように、先入観だけで物事を捉えず、正しい知識を身に付けることを心がけるようにしたんだ。これがただの自己満足でしかないことも。罪を償うことにつながる訳ではないということも分かっているけれど。謝罪以外で自分に出来ることは、二度と同じ過ちを繰り返さない事だと思ったから」
だから入学式の時、先輩は僕を庇ってくれたのか。
過去の罪を償うために。目指す自分に近付くために。
僕のためではなく。自分のために。
ショックはない、と言えば嘘になるだろう。云わば僕は利用された形になるのだから。先輩の「自己満足」に。
けれど僕はそれが偽りだったとは思わない。庇ってくれたこと、今までかけてもらった言葉、たとえそれらが罪滅ぼしと体面のためにもたらされたものだったとしても、それらに救われたことは、紛れもない事実だから。
「少し肌寒くなってきたな。もう帰ろうか」と鳴彦先輩が腰を上げた。その目は遠く川の対岸に向けられていた。
立ち上がる前に手近にあった小石を投げた。幾重にも生まれた波紋が水面に浮かぶ月をぐにゃりと崩して消し去った。
過去の行為は変えられない。自分に出来ることは「今」何をするか、「これから」どうするかを考えることだけ。
ならば今、決意しよう。誤魔化すことはもうしない。何事も。まずは鳴彦先輩に、今日自分がしてしまったことを正直に話そう。そして明日、自治会の皆にも素直に謝ろう。それから自治会の仕事を頑張って、失態を挽回するんだ。
ウジウジするのはもうおしまいだ。正直で真っ直ぐ、それが僕の目指す自分の姿だから。
波紋が収まると月がまた姿を現した。立ち上がり、川に背を向けて、先に歩き出していた先輩の後を追いかけた。
太陽に目隠し 新芽夏夜 @summernight139
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