第1話 見知らぬ地で出会った娘

 ツェイトの視界に映ったのは、いつもの自室ではなく山林の中だった。プロムナードと別れた時の場所も山林だったが、そことは雰囲気も風景も全く違った所だ。

 先程ツェイトがいた場所は、昆虫人の集落から少し外れた暗い森の中だったが、それに対して今いる場所は木漏れ日が差し込む明るい森の中だ。

 何でこんな所に? ツェイトは回りを見渡しながらログアウト前の事を思い返す。

 ログアウト前に転移系のアイテムを使用した覚えは無いし、何よりログアウトした筈なのにどういう訳か、まだログインした状態なのだ。

 その証拠に、今ツェイトの体はNFOで使っていた青いカブトムシ型ハイゼクターのままだ。

 だが、ツェイトは此処が何処なのか分からなかった。


 色々と気になる所はあったが、ツェイトは改めて再度ログアウトする事にした。

 明日の仕事の帰りにでも掲示板で調べれば、この奇妙な現象について何か書き込みがあるかもしれないので、そこで何か分かるだろう。

 そう軽い気持ちでゲームを終了しようとしたのだが、そこで異常が起きた。


――……ウィンドウが出てこない?


 本来NFOをプレイする際、ログアウトをするときは視界にログアウト用のウィンドウが表示されるのだが、それが出てこない。つまりログアウトが出来ない状態になっているのだ。

 不思議に思いながらも他のウィンドウを展開しようとしたが、どれもツェイトの視界に現れる事は無かった。

 他にも様々な機能を起動しようと試みたが、そのどれもが発動せず同じ結果となってしまう。


 只の故障にしては様子がおかしい。ツェイトは嫌な予感を感じてGMコールをかけようと試みたが、そのコールすら出来ない。


 何故だ、どうして起動しない? ツェイトの心に焦りが出始める。

 稼働初期から長い事プレイしてきたが、今までこのような事はツェイトも経験した事が無かったのだ。


――……元に戻れないのか?


 ログアウトが出来ないという事は、プレイヤーであるツェイトの意識は本体であるリアルの体に戻る事が出来ない。 このゲームにおいて己の仮想体であるツェイトの体のままだ。

 その事実を再認識した時、ツェイトはある事に気づき全身に悪寒が走った。


――なら現実世界にある俺の体は、今どうなっているんだ?


 NFOをプレイする際、プレイヤーの意識はニューロバイザーによってNFOの世界に投影され、現実世界にあるプレイヤーの体は睡眠状態になっている。

 仮にプレイヤーのリアルの体が危険な状態に陥っている場合はニューロバイザーがプレイヤーに警告、もしくは強制的にゲームが終了して意識が戻る様になっているのだが、今回はワケが違う。


 ニューロバイザーが正常に作動しているとは思えないこの状況で、意識が戻らない状態が続いていたらどうなるのだろう。妥当な所で昏睡状態か植物人間、最悪の場合は……


 考えれば考えるほど、思考がネガディヴなものになっているのがツェイト自身でも自覚できた。

 焦りが不安を生み、その不安は恐怖を呼び寄せ、徐々にその心を蝕んでいく。

 だが今すべき事は未知の事態に怯える事ではない、何をすべきかを考える事が必要なのだ。


 ツェイトはしばらくその場に立ち尽くしていたが、意を決して歩き出す。


――とりあえず、ここから離れよう。


 もしかしたら、他のプレイヤーたちも自分と同じような目に遭っているのかもしれない。

 この場に留まっていても何も始まらないと判断したツェイトは、行動する事を最善と考えてその場から離れる事にした。


――プロムナードは無事なのか?


 ツェイトは己の相方の事を思い出す。

 ツェイトの友人であるプロムナードは、引退宣言をして間も無くログアウトをしたが、その時間帯はツェイトがログアウトした時間と大して変わらない。

 それ故に、もしかしたらプロムナードも自分自身と同じような状況に陥っているのではないのだろうかという可能性が、ツェイトの頭を過ぎったのだ。


――無事に戻っていれば良いんだが……


 ツェイトは友人の無事を祈りつつ、森の中を進んでいった。





 ずしっずしっと重量感のある足音を森の中に響かせて、ツェイトの青い巨体が進んでいく。

 道中で体の具合を確認してみたが、通常のNFOの時と変わらない様だ。

 人間の大男の胴体よりも倍は太い腕。人間の体ならば軽く掴み上げる事が出来てしまうほどに大きな五本の指を備えた手。頑強な筋肉質の体の上から、重鎧の様な紺碧の外骨格を身に纏った体。

 そしてこの体の象徴とも言える、額から反りを作りながら真上へと伸びる巨大な一本角。その形状は、まるで巨大な片刃の剣の様だ。

 背筋を伸ばし、両の足で力強く大地を踏みしめるその姿は、カブトムシの巨人と言う言葉がぴったりだ。それはNFOで使っていたツェイトの体そのもの。

 極めつけは角の長さを省いただけでも身長3mを超えるその巨体。昆虫人から初めてこの体に変異した時は、まるで台の上からものを見ているような錯覚に囚われたものだった。


 念の為にツェイトは身体能力も確認してみるが、これも一応は問題なさそうだ。

 道中見つけた、大の大人が数人いても持ち上げられないような巨木も雑草を引っこ抜くが如く容易く根っ子ごと引き抜き、それを小枝を振るうように軽々と振り回し、手に持ったまま外見からは想像もできないほどの身軽さで木よりも高い高度までジャンプをする。


 体の方に異常は見られない。これならモンスターが出たとしても遅れはとらないだろう、多分。

 ツェイトは自身の状態を顧みてそう判断した。

 続いてステータスウィンドウを展開しようとするが、他のウィンドウと同様にこれも出現することはなかった。

 アイテムウィンドウも起動しないため、アイテムを出す事も所持金を出す事も出来ない。

 今のツェイトは文字通り裸一貫。金も無ければ物も無い、頼れる物は己の身一つという事になる。


――体が無事だっただけでもマシか。


 所持品が一切使えなくなってしまった事は少々厄介だったが、ツェイトは前向きに捉える事にした。道具も重要だが、ツェイトにとっては己の身体能力こそ最大の財産であると考えていた。


 体は資本と誰かは言った。体が無事ならば道具も再び手に入れる機会も見つかるだろう。もっとも、それは楽観的見地から見た根拠のないものではあるが。


――それにしても、ここはどこなんだ?


 抱えていた巨木を、適当な場所にそっと置きながらツェイトは周りを見回す。

 見覚えのない風景。そして森から香ってくる草木や土の匂い。自然が生み出す営みが、ツェイトの五感を刺激する。

 マップ表示が出来ないため見当がつかないのだが、まぁこれも山から下りればいずれ何かわかるだろう。


 そこで、不意に遠くから獣と思しき者の咆哮が聞こえた。


グオォォォ……ッ!


 何だ? と雄叫びの聴こえる方向へツェイトは視線を向ける。

 種族の恩恵か、ツェイトの目は遥か先まで見渡す事が可能で、簡単に目標を見つける事が出来た。

 その先にある木々は乱暴に薙ぎ倒され、その折れた木々の隙間から物音の原因たる存在がツェイトの視界に映った。


 それは熊に酷似した、5m大とツェイトよりも巨大な獣だ。

 赤茶色の毛皮を纏い、牙をむき出しにして怒り心頭と言った顔つきで疾走し、道行く木々をその巨体でなぎ倒していく。ツェイトはその獣に見覚えがあった


――ワイルドマックか。


 NFOでは初級と中級辺りのレベルのプレイヤー達にとって非常に厄介な障害として一部の森のフィールドに立ちはだかるモンスターだ。 観た事のないフィールドだが、どうやらモンスターまで変わってしまっているわけではないらしい。ツェイトは視線の先で暴れまわっているワイルドマックを見て安堵した。


 ワイルドマックは鼻が利き、縄張り周辺に足を踏み入れれば侵入者めがけて襲いかかってくるという設定がされており、ツェイトが先程巨木を引き抜いて振り回していたのが原因で荒れているのだ。

 木を振り回しているツェイトに気づいたワイルドマックは、自身の縄張りが脅かされているのだと思い、それで荒れているのだろう。相変わらず良く出来たものだと、ツェイトは驚く事無く他人事のようにワイルドマックの暴れっぷりを見ていた。

 ワイルドマックの進行方向はツェイトのいる場所。そこへまっしぐらに突っ込んできている。相手は、自身の縄張りを荒らしていると思しき侵入者を既に察知しているのだろう。


 ツェイトを獲物と見定めたワイルドマックは唸り声を上げながら木々をなぎ倒し、ツェイトに向かってまっしぐらに突っ込んで来る。


 それに対してツェイトは静かに構えを取る。

 ツェイトにとって、ワイルドマックは大した敵では無い。NFOをプレイしていた頃は、適当にあしらえる有象無象の一体にすぎなかった。それ故の余裕だ。

 なのでにツェイトに焦りは無い。いつも通りに叩いてしまえば良いだけの事だと思っていたからだ。


 落ち着いて構えるツェイトに接近してきたワイルドマックは、目と鼻の先まで近付き、鋭い爪と牙で襲いかからんと飛びかかってきた。

 しかしツェイトはそれよりも一手早く、腰を低く屈んでワイルドマックの懐へと踏み込み、その顎に向かって大きな拳を振り上げる。


 振り上げられたツェイトの拳はワイルドマックの顎にものの見事直撃。これがNFOならば、倒れたモンスターはそのまま光の粒子になって消えるものなのだが、結果は違った。


 ツェイトの拳は、脆い発泡スチロールを叩き割るが如く容易にワイルドマックの顎を貫き、頭部ごと粉砕し、その内部に詰まった血肉と共に、頭蓋の破片と思しき白い硬質物を飛び散らせた。ツェイトは一瞬何が起こったのか分からなかった。


 頭部をかち割られたワイルドマックはツェイトへと飛びかかろうとした態勢のままだった為、ツェイトに抱きつく様に圧し掛かって来た。

ツェイトは倒れこんで来たワイルドマックを慌てて振り払い、呆然とそれ見下ろした。


 当初はビクビクと痙攣を続けていたそれだったが、時間が経つとそれも動かなくなり、生命の灯が完全に尽きた事を告げた。


 NFOは現実世界に限りなく似た感覚で遊ぶ事が出来るが、その中において現実と違う所も色々とある。

 その内の一つが、流血等のグロテスクな表現が出ない事だ。


 プレイヤーは攻撃を受ければ多少の衝撃が来るだけで、痛みはおろか傷すら出来ず、ライフポイントが無くなれば光の粒子となってセーブした場所へと転送される。


 NFOは多くの年齢層をユーザーに想定したゲームだ。その対象の中にはそういった表現を受け付けない者だって出てくるだろう。


 制作会社のコメントをそのまま言うのならば、多くの者達がプレイ出来る様にするための仕様らしい。


 しかし、今ツェイトの手によってワイルドマックは、光の粒子では無く死体になった。本来のNFOならば有り得ない事なのだ。


 粉砕面から覗かせる赤い肉と白い骨。そして未だに流れ続けている夥しい量の赤い血液。

 そして未だ手に残る、肉を潰し骨を砕いた不快な感触とワイルドマックの返り血。徐々に広がる生臭い鉄の臭い。

 その光景は酷く生々しく、そして現実的だった。


――何だこれは。どういう事だ?


 自分のいる場所はゲームの世界の筈、だがそれならば目の前のこの死体はなんだ?

 今までツェイトは、自分はNFOというゲームの電脳世界に閉じ込められているものだと思っていた。

 しかし、この生々しさはNFOではあり得ないものだ。いくらなんでもリアルすぎる。リアルを追及して作られたNFOだが、その世界においてこのリアルさは受け入れられざるリアルさだ。

 確かにNFOはリアルさも売りの一つではある。しかし此処まで生々しいリアルさは無かったのだ。


――ゲームの世界じゃ、ないのか……?


 自分で呟いておきながら、その言葉の内容が理解し難かった。

 仕事の疲れで夢でも見ているのか? 出来ればそうであって欲しい。そうツェイトは願っても、それは背け様のない現実としてツェイトの前に付きつけられている。


 認めたくない。認めてしまいたくない。認めてしまう事が恐ろしい。

 だが、ツェイトはもう認めるしかない。

 今の自分が、本当に実在する世界に来てしまっているのだと。


 それを身を以て知った途端、ツェイトは恐ろしくなってその場から駆けだした。自分が殺したワイルドマックの死体から眼を背けるように、自分が殺したと言う事実を否定したいかの様に。


――俺は、俺は一体、何をやっているんだ。


 息が切れる事もなく、疲れる事もなく、ツェイトはひらすら森の中を走る。枝が体にぶつかろうが、木の根が足に引っかかろうが気にしない。ぶつかる者は全て壊し、引き千切っていく。その時ばかりは、ツェイトは少しだけ自身の身体能力が恨めしく思えた。





 暫くの混乱の後、ツェイトは少しずつ冷静さを取り戻し、現在はトボトボとつたない足取りで森の中を歩いている。

 森の中を進むツェイトの足取りは重かった。先ほどのワイルドマックの件もあるが、自分自身の置かれている今の状態について、それがツェイトの歩みを鈍らせていた。


 今のツェイトは一個の生物として確かに存在している。体が不思議と違和感もなく動かせるのは10年と言う経験がそうさせているのか、それとも……

 分からない事が多すぎて、とてもではないが良い気分とはいえない。


 そんな鬱屈とした気分に苛まれているツェイトの耳に、水の流れる音が聞こえた。チョロチョロと流れるものではない。大量の水が流れる音だ。


――川か?


 ツェイトは歩みを速めて音の元へと進む。木々を掻い潜り、苔の生えた岩を危なげなく歩いて行くと、程なくして予想通り川が見えた。

 川幅は広く、表面上では穏やかに見えるその川の流れは、時折川上から流れて来る木の葉が結構なスピードで通り過ぎていく事から見た目に反して中々早い事が伺える。


 体が疲れている訳ではないが、腕や体に付いたワイルドマックの返り血を落とす事も兼ねてツェイトは一息つく事にした。

 早速ツェイトは川の中に入ると、思ったよりも深さがあるらしく、進めば進む程ツェイトの体は川の中に沈んでいく。

 川の流れは速いが、体が重い所為かその歩みは安定しており、体は根が生えた様にビクともしない。

 それを良い事に、ツェイトは川の中に体を浸かって体に付いた返り血を手でこすって落としながら、今後の方針について考える。


 まず一つ目は元の世界に帰る方法を見つける事だ。

 リアルでのツェイトは何処にでもいる平凡な両親のもとで、少なくない愛情を注がれて育てられた日本人男性の社会人だ。今まで両親とは多少の衝突はあったものの、両親を心配させるのは良い気がしなかった。

 それに社会人になったら、ささやかながらも親孝行の一つくらいはしてやりたいとも思うし、仕事に追われる日々を過ごしてはいるが、何だかんだで今の生活を気に入っているのも事実。


 NFOをプレイしている時はリアルの煩わしさが忘れられて気が晴れると思っていたが、こうして離れてみると実感する元の世界の有難味と恋しさ。ツェイトは望郷の念を抱き始めていた。


 そしてもう一つは、プロムナードと合流する事。

 尤も、これはあくまでプロムナードが此処に来ていた場合に限る話なのだが。

 ツェイトはこんな時にチャット機能が使えたらと思うと歯がゆさを感じ、せめて確認だけでも取れればいいのだが、とぼんやりと川の流れに視線を向けていると、上流から何かが流れてきた。


――流木……じゃないな。


 よく見てみるとそれは人、いや、正確には違う。 上流から流れて来たのは虫の亜人、昆虫人だ。

 ぐったりと力無く川の流れに身を任せて流れているので、ツェイトは慌てて昆虫人の元へ駆け寄った。


――女の子?


 流れて来た昆虫人の体を掴んで手繰り寄せたツェイトは目を瞬かせた。

 短めのヘアスタイルの為、一瞬少年に見えたが、水で体に張り付いた服が描くラインは、未熟ではあるが女性特有の丸みを帯びたそれだった。

 ツェイトは両の手で少女の体を川から救い上げる。 まるで綿毛を摘み上げる様な軽さに一瞬驚くが、自身の怪力が原因なんだろうと納得したツェイトは少女を横抱き――通称お姫様抱っこの態勢で川岸へと連れて行った。


 比較的平らな岩の上まで運んでそっと寝かせ、ツェイトは手を少女の口に優しくかざす。


――生きている。


 外骨格で覆われているにも関わらず、少女の微小な呼吸をツェイトの手は感じた。

 そして次にどうするべきかと悩む。

 溺れた者に濡れた服を着せたままにしておくと体温が徐々に下がり、弱らせる事になるとは何かで聞いた事があるのだが相手は少女、裸に剥くのは忍びない。

 心苦しいが、少女に対して今出来るのは寝かせてやる事位しかツェイトには出来なかった。


 少女の体や衣服には所々に切り傷らしきものがあり、左腿に何かが刺さったと思しき跡が見えて少し気になるが、どうやら致命傷に至るものは無いらしい。

 その証拠に呼吸は安定しており、少女の胸は規則的に上下している。この程度ならば昆虫人の自己治癒力ですぐに元に戻るだろう。

 NFOの設定通りならば、昆虫人の生命力は亜人の中では比較的高い部類に入り、毒などにも抵抗力があるのでかすり傷程度ならばそう心配するものではない。


 ほっと短く息をはいてツェイトは安堵するが、最初に見つけた時から少女に対して違和感を感じていた。


 少女の外見は人間に換算した年齢でおよそ10代後半。背丈は160㎝後半と言った所だろうか。

 薄い緑色の肌を持ち、ボーイッシュなヘアスタイルの黒髪を携えたその頭部の額からは、二本の触覚が上へと伸びている。

 身に付けているものは、上下半袖の巫女服にも見える和風の服装、ヘアスタイルも相まって少年の様だ。


 其処までならば普通の昆虫人となんら変わらないのだが、此処からが違った。

 顎やこめかみ、手足は肘先、膝下が黒い外骨格で覆われているのだ。一見するとガントレットやブーツに見えなくもないが、関節部分を覗いてみるとその黒い硬質物が肌と一体化しているのが分かる。


 通常昆虫人の外骨格のある場所は肘や肩等の一部にのみ限られる。

 だがこの少女はその常識に当てはまらない。それに、体中至る所に備わった武具の様な外骨格はまるで――


――ハイゼクター……いや、ハイゼクタ―に近づいた昆虫人みたいだ。


 事の詳細は分からないが、取りあえずツェイトは近くの岩に腰かけて少女が目を覚ますまで待つ事にした。

 自身の外見がアレなので、最初は警戒されるかもしれないが、そこは話して分かってもらうしかない。

 せっかく出会った現地人、しかもツェイトと同じ昆虫種族だ。会話をするにしたって他の種族よりかは多少理解されやすいだろう。

 このチャンスを逃すまいと、いかにして目が覚めた後の少女に話しかけるべきかと思い悩んでいると、ガチャガチャと金属同士がぶつかり、擦れ合う音が聞こえてきた。それも複数、徐々にこちらへと近づいて来ている。


 方角は川の上流、少女が流れて来た方向からだ。


 彼女の仲間が探しに来たのか? そんな期待を込めてツェイトは上流を見た。


 やってきたのは深緑の衣装を身に纏い、その上から軽鎧を装備してフルフェイスのマスクを被った者たちだった。その外見は、特殊部隊という言葉が一番しっくりくる。NFOでは見た事のない服装だ。


――この娘の迎え……なのか?


 しかしやってきた集団の姿を見れば見るほど、どうも面倒な事になりそうな感じがしてならない。

 皆腰や背には剣、槍、弓など様々な武器を持っている事からどこかの兵士なのかもしれない。

 兵士と思しき者達は、ツェイトの姿を確認した途端動きを止め、携帯していた武器に手をかける。ツェイトが妙な動きをしようものなら、何時でも抜けるようにしているのだろう。

 いくらなんでも、いきなり訳も分からずこんな真似をされるのは良い気がしなかったツェイトは、兵士達に待ってくれと声をかけた。


 ツェイトが喋ると兵士たちがビクッと僅かに動いた。 それは何処か驚いたような反応にも見えるがツェイトは気にせず話し続ける。貴方達は誰だ? この少女の知り合いか、と。


 ツェイトは事を穏便に済ませられるよう努めて丁寧に話しかける。これがもし何かの誤解で警戒されているものなら、話して解決できるに越したことはない。

 しかし兵士達から返事はかえって来ない。


 考えてみれば、兵士が自分達の目的を早々口にするようなマネはしないだろう。ゲームや漫画では、この場合は平気で相手がつい話してくれる場面が見られるが、実際はそうはいかないようだ。

 良く教育されていると言えば聞こえはいいが、ツェイトにとってはやり辛いものだった。


 ツェイトが再度話しかけようとしたその時、ツェイトの首筋にガキンッと堅いモノがぶつかり足元に落ちた。


 視線を移すと、それは矢だった。飛んできたであろう方角に目を向けると、いつの間にいたのだろうか兵士がツェイトに向かって弓を構えていた。

 外骨格のおかげで傷一つ付いてはいなかったが、もし刺さっていたらこの場合どうなっていたのか?

 NFOの場合だったならばHPが減るだけで終わるが、現実と同じようにモンスターも死んでいくこの世界では、当たり所が悪くて死ぬ事ももしかしたらあり得るのかもしれない。


 相手は此方の意思などお構いなしで、端から話す気などないらしい。

 兵士達は携帯していた武器を抜き、何時でも攻撃できるように構えてきた。


 どうして? そんな栓無き言葉がツェイトの頭をよぎるが、混乱している暇は無い。


――どうする。戦うのか? だけど……


 チラッと、今だ眠り続けている少女を一瞥する。兵士達の態度を見る限りは、この少女も彼らの手に渡れば酷い目に遭わされてしまうかもしれない。なので兵士達を敵、と仮定したのだが……


 駄目だ、この娘を巻き込むわけにはいかない。

 これが一人だったならば戦っていたかもしれない。しかし、今は気絶した無防備な少女がいる。彼女を庇いながら戦える自信が、今のツェイトには無い。

 仮にこのまま戦ったとしても、その最中に少女が兵士の手に渡ってしまったらどうしようもない。


 ならば見捨てるか? 出会って間もない、話すらしていない少女だ。そんな小娘を助ける必要が今、何処にあるというのだ?

 もしかしたらこの少女は、何か罪を犯して兵士に追われているのかもしれない。

 そんな者を庇ってみろ、共犯と見なされて犯罪者の仲間入りだ。


 そんな言葉がツェイトの耳元で囁かれたような気がした。だが……


――……駄目だ。見捨て、られない。


 ツェイトの良心がその選択を拒んだ。

 見捨てるつもりならば、あの時助けなければ良かったのだ。しかし時すでに遅く、ツェイトは助けた少女に対して少なからずとも情が湧いていた。


 これがリアルの世界だったならば、もしかしたらツェイトの行動は変わっていたかもしれない。救いの手を求める者に対して、多くの大衆に紛れて哀れみの眼差しを差し向けるだけで終わっていたかもしれない。

 しかし今ツェイトのいる場所は、およそ日本の常識や法律の通用しそうな場所とは思えない。それでいて自身の体は人間では無いときている。

 そんな状況ならば、いっそのこと自分の感情に素直に従って行動したって良い。予想外の事態が重なった事で、ツェイトは理性よりも感情を優先させるという結論に至った。


――助けよう。


 これは、ヒーロー気取りの愚か者による自己満足なのだろうか。いささか情動的だが、自分の目的を忘れているわけではない。その過程で少女を助けただけだと考えてしまえば良いだけだ。そう、問題はない筈だ。そう己に言い聞かせて、ツェイトは不安に駆られた心を奮わせる。


――それにここでこの娘を見捨てたら、プロムナードに合わせる顔が無い。


 もしかしたら、それが一番の理由だったのかもしれない。






「総員、行動開始」


 感情のこもらぬ声でリーダーと思しき兵士が号令を下す。

 それに反応して、兵士達がツェイトに向かって駆けだす。各々の武器を持ち、目標の敵――ツェイトの体に突き立てようと。


 兵士たちが動いてからツェイトの行動は早かった。

 急いで少女を抱き上げ、川下の方へと体を向ける。そして腰を低くして構え、脚部に力を込めた。


 今ここでやる事は戦う事ではない、逃げる事だ。ならば……

 ツェイトは渾身の踏み込みで大地を蹴り、駆けだした。

 いや、それは飛んで行ったという表現のほうが近いだろうか。


 ツェイトが蹴った地面は大爆発を起こした様に地盤ごとはじけ飛び、周辺に岩の塊を飛ばしていく。飛び散った岩つぶては速度も相まって凶悪な弾丸となって兵士達に襲いかかった。


 さながら投石の散弾版とでもいう様な勢いで岩のつぶてが兵士たちへ飛散して行き、多くの兵士たちはその岩に直撃し、くぐもった呻き声を上げながら吹き飛ばされて散々な目に遭っていた。


 そんな事態を引き起こした当の本人であるツェイトは、少女を抱きかかえながら蹴った勢いでロケットのように跳んでいき、兵士達のいる場所からさっさと離脱していた。




――ここまでくれば、大丈夫か?


 ツェイト達が今いる場所は、兵士たちと対峙した川から大分離れた森の中。

 辺りを見回し、兵士がいないか注意深く確認する。

 兵士達から逃げだ出したツェイトは、身体能力にモノを言わせて山を駆け抜けた。

 道中でうっかり腕の中にいる少女を落っことしそうになってヒヤリとさせられたが、それ以外は兵士たちの追手が来る事もなく、特に問題はなかった。

 逃げる際、行き掛けの駄賃に一発お見舞いしたのが功を奏したようだ。


 追手がいない事を確認してまずはホッと一安心。

 空を見上げて太陽の位置を確認する。この世界に来たときは真上に位置していたが、今森の木々の隙間から見える太陽は大分傾いてきている。半日も経っていないというのに、ツェイトには長い時間が過ぎたように感じられた。

 ツェイトは適当な地面に腰掛け、本日何度目か分からない深い溜息をついた。


――何で、こんな事になったんだろうか。


 気がつけばゲームの世界とは明らかに違う、現実とは違うがリアルな世界。

 自分自身もゲームのプレイヤーではなく、実在する世界で、一個の生命体として生きている。

 呼吸もするし、五感もしっかりとある。ここに来るまで、ツェイトというアバターが本当に生きているという事を思い知らされた。


 木の根を枕代わりにして寝かせている少女の側に座り、その寝顔を見た。

 少女はあれから変わらず静かに寝息を立てながら眠り続けている。

 あれだけ動き回ったのに、それでも目を覚まさない。流石に此処まで眠り続けられると、どこか具合が悪いのかと心配になってしまうが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 渦中の少女がようやく目を覚ましたのだ。





「う、うぅ……んあ?」


 上半身を起こし、今だ完全には眼が醒めていない寝ぼけ眼のまま、だらしなく口を半開きにした状態でボーっと辺りを見回している少女は、整った顔立ちをしているせいかコミカルな印象を与えた。


 ふと、ツェイトと視線が合った。


「んー…………ぇッ! うわぁ!?」




 徐々に思考が覚醒するとギョッとした顔する。そしてその次の瞬間、少女は悲鳴を上げて飛び起きた。

 目覚めた時、いきなり見ず知らずの者が近くにいたら多少なりとも驚くものだが、この場合はツェイトの姿に問題があったのかもしれない。

 傍から見れば大魔神のようなおっかない姿のツェイトだ。目覚めて最初にそんなものを見るのは、慣れない者には少々インパクトが強かった様だ。


 距離を取って警戒している少女に、ツェイトは座ったままの状態で大丈夫だ、と両手を上げて敵意が無い事をアピールする。


「……な、何だ……お前は?」


 少女は先ほどの寝ぼけ顔から一変して、凛と引き締まった顔付でツェイトに対して身構えながら問いかけて来た。

 緊張しているのか、少女の声は上ずっていた。


 鋭く睨みつけて来る白目のない、黒一色の黒曜石の様な眼。まだ乾いていない服と同じく、若干湿り気を残した黒く艶のある黒髪。

 額の二本の長い触角は、ピクピクと忙しなく動いている。


 問われたツェイトはどう答えるべきかと考えあぐねる。

 NFOのプレイヤーで、ゲームの世界に閉じ込められましただなどと馬鹿正直に説明して、少女が理解するとは思えない。

 そこでツェイトはNFOの設定に沿って自分の事を説明したのだが……


「ハイゼクタ―? そんな種族、聞いた事ないぞ」


 少女は警戒しながらもツェイトの話を聞いてくれたが、ハイゼクタ―を知らないと答えた。


 これは何となくだがツェイトは予想していた。ハイゼクタ―を知らないのも無理はないかもしれない。

 ハイゼクタ―という種族は、かなり特殊な条件下で昆虫人から変異するのだが、ハイゼクタ―のNPCは一切存在せず、プレイヤーしか変異する事が出来ない。いわば希少種族と言っても良い。

 NFO中でもハイゼクタ―を知る昆虫人は、ハイゼクターへの変異イベントでのみ登場する昆虫人一人しかいないのだから、それを現実にして考えてみれば少女が知らないのは仕方が無いのだろう。

 故にツェイトは知らないのならとりあえずそれは置いといてくれ、とだけ答えてこれまで起きた事を掻い摘んで話した。


 川で少女を拾った事。そしてそこで兵士達に出くわし、少女を連れて逃げた事……


 少女は疑わしげにツェイトの話を聞いていたが、話の中に思う所があったのか、徐々に驚いたり怒ったりと忙しなく表情をコロコロと変え、幾度か問答を繰り返した後、頭を下げて謝りだした。


「ご、ごめん! 命の恩人に対してあんな態度を取って……」


 いきなり態度が変わった事にツェイトは目を白黒させつつも、気にしなくていいと言ったが少女は中々納得してくれないようだ。そもそも見知らぬ者がいたら大なり小なり警戒するのは仕方のない事だ。


 それに、いくら昆虫人を基にしているからと言ってもハイゼクタ―であるツェイトの姿はモンスターに近い。故にモンスターの様に襲いかかって来るんじゃないのかと誤解されやすいのは想定内である。


「そう言うのなら……」


 少女は渋々とではあるが、ようやくツェイトの言い分を受け入れた。


「でも、本当にありがとう。あのままだったら、あの兵士たちに殺されていただろうから」


 奴らの事を知っているのか? ツェイトの問いに少女は首を横に振った。


「わからない。山で狩りをしていたら突然襲って来たんだ。その時矢で射られて……」


 少女は射られた外骨格の無い場所、ツェイトが刺し傷と思っていた太股の場所をさすりながら答えた。


――そこで川に落ちて流された、と。


 此処でようやく少女と兵士達の関係と、川で流されていた理由が判明した。

 ちなみに射られた矢はその場で引っこ抜いたそうだ。大した根性だ、と心の中で少女の根性に驚く。


 少女の答えからも分かる様に、少女も襲われる覚えが無いらしい。

 ならば何故あの連中は少女を襲ったのだろうか?

 人攫いか? それとも見た目だけで実は只の賊の集団だったのか? しかし、それにしては動きが統一されていたようにも見えたが……ツェイトの思考は止まらない。


「どうしたんだ?」


 少女が不思議そうに問いかけてきて、ツェイトは思考の海から戻ってくる。そうだ、兵士たちの事も気になるがそれは後回しだ。


 ツェイトは話題を切り替えて、少女にこれからどうするか尋ねた。

 何時までもこの場にいるわけにもいかないだろう。もしかしたらあの兵士たちが追ってきている可能性だってあるのだ。移動した方が良いという事は確かだろう。


「私は自分の住んでいる村に戻ろうと思う。そういう貴方はどうするんだ?」


 少女の問いに、ツェイトは大きな街があればそこに行きたいと答えた。


 もしも、自分以外にもプレイヤーがこの世界に来ているのだとしたら、町や集落にいる可能性があると踏んだのだ。

 もっとも、そこがツェイトを受け入れてくれるかは不明だが。


「なら、私が住んでる村に来るか? その先に都もあるし、ちょうど良いと思うんだが」


 少女の提案はツェイトにとっても有難いものだった。しかし、大丈夫なのか? とツェイトは少女に尋ねる。

 何分、自身の外見に問題があるので、それが原因で問題が起きるのは避けたかった。


「そこは大丈夫だろう。初めて見るけど、貴方みたいなガタイの奴なら都まで行けば結構いる。それに貴方は、その……ちゃんと話が出来るみたいだし、悪い奴って感じがしないし、何より私の恩人だ」


 極力言葉を選びながら話しているのであろう少女に、ツェイトは苦笑した。今までの会話や態度を振り返ってみるに、この少女の心根は悪いものではない。あの時助けたのは間違いではなかった。


 それに良い事も聞けた。 どうやら自分のようなナリでも普通に町に入れるらしい。NFOの頃はモンスターに部類されていたおかげで、その特性として一定の町に入る事が出来なかったが、ここではそんな事に悩む必要はなさそうだ。 なのでツェイトはお言葉に甘えて、少女に道中の案内を頼むことにした。


「分かった! じゃあ善は急げだ、早速行こうか」


 グッと体を伸ばして元気良く返事を返してくれた少女。その体はもう良くなったらしく、体中にあった生傷もほとんど見えなくなっていた。

 流石は昆虫人と言うべきか、とツェイトは感心する。魔族や天族、不死系には劣るが、他の亜人種族中では優れた部類に入る回復力だ。この世界でもそれは健在の様だ。


 しかし、ここが何処なのか分かってるのか? とツェイトは疑問に思う。

 今いる場所は、少女が流されていた川から大分離れた場所だ。少女が狩りをしていたという場所から大分離れているんじゃないのだろうか。

 その点についてツェイトは聞いてみると、少女は事も無げに答えた。


「そりゃ分かってるさ。ここら辺の山一帯は、私が昔から狩りで通ってた場所だからな。私の庭も同然だ」


 得意げに話す少女にツェイトは成程、と納得した。

 それなら心強い、とりあえず道に迷って途方に暮れる心配は無くなった。




「自己紹介がまだだったな。私の名前はセイラムだ」


 互いにさぁ行こうか、と歩きだそうとしたその時、少女が名乗ってきた。

 いきなり名乗られた事に対して首を傾げるツェイトに、少女ことセイラムは眉を顰めた。


「これから一緒に行動するんだから、名前くらいは知るべきだろ?」


 もしかして、名前は無いのか? と少し心配そうに尋ねて来たがツェイトはそんな事は無いと否定する。

 ツェイトは余裕が無かったとはいえ、礼を失していた己を恥じ、名乗るのが遅れて悪かったとツェイトはセイラムに改めて名乗った。



「ツェイトだ、宜しく」


「ああ、宜しくな」



 奇しくも出会った二人の昆虫種族。


 一人は一介のNFOプレイヤーだったハイゼクターの男。

 もう一人は、見知らぬ武装集団に追われていた昆虫人の少女。


 これから彼らの身に起こる出来事が、後に世界に大きな影響を及ぼす事になるのを、まだ誰も知らない。

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