舗装されていない荒れた斜面を、スマートフォンのライト頼りにひたすら登る。周囲は真っ暗で、弱々しい人工の光だけが前方を照らしている。

 先ほどの転倒せいで全身が痛い。普段の運動不足が祟ってやけに息があがる。

 何度か転び、口の中に泥が入る。掌を切り、血が流れる。舐めれば、泥と血が混じった味が広がった。

 雨は未だに降っていて、止む気配はない。その一粒々々が僕の熱を奪っていき、体が震える。

 苦しく、辛い。そんな思いが僕の頭を占める。どうしてこんなことをしているのか、という疑問が頭によぎる。しかし、足を止めるわけにはいかない。

 それはなぜかと言うと、僕の望みを叶えるためだ。彼女は、こうすれば僕の望みは叶うと言った。ならば、僕はそれに従うばかりである。

 それに、もはや引き返すことは出来ない。下を見れば、底の抜けたような闇がある。あの闇に飛び込んでもいいのだが、それで僕が終わるという確証はない。中途半端な結果に終わるのは、最悪だ。

 そんな僕の後ろを、彼女は涼しい顔をしながらついて来ていた。見ると、どうやら彼女はふわふわ浮いているらしい。一方の僕は重力のくびきに縛られて、えっちらおっちら登っている。あまりにも不公平ではなかろうか。

 とはいえ、そのような文句を彼女に言う余裕もない。僕はただ、この終わりを、そしてその先にある終わりを目指して進むのだ。

 やがて、雨脚が次第に弱まってくる。周囲を包んでいた黒も、その濃度を薄めていく。

 夜が明けつつあり、雨が止みつつあった。しかし、依然として山頂は見えない。

 進む。進み続ける。

 次第に斜面の勾配が緩やかになってくる。

 そして、それが平坦になったところで、山頂に到着したのだ、と悟った。

 周囲はいつの間にか明るくなっていた。スマートフォンで時刻を確認すると、どうやら夜が明けているみたいだ。

 だが、朝日は見えない。というのも、周囲一面を白いのようなものが覆っているのだ。

「……これは?」

「ああ、これは雲だね」

 彼女はどこでそんな知識を得たのか、僕の疑問にすらすらと答える。

「ははあ、雲」

 僕はそんな間抜けた返しをしつつ、視界を遮る雲に目をやる。雲は、どれほどの厚みかわからない。案外薄いかもしれないし、あるいはこの山をすっぽりと覆うほどかもしれない。

 ただ一つわかることといえば、僕はこの雲に干渉できないということだ。掴むことも出来なければ、かき分けることもできない。自分の意思で動かせないという点で、僕の前に立ちはだかる孤独という現実にも似ていた。

 雲の限りはわからない。しかし、山頂には限りがある。終わりがある。

 僕は一度呼吸を整え、小さく笑った。

「ここが僕の終着点、ってわけですね」

「…………ああ、そうだね」

「そうですか、じゃあ、ここで」

 僕は、一歩大きく踏み出す。足の裏で地面を踏む。もう一歩。同様の感触。

 進んでいけば、その果てにあるのは虚空。僕の胸中にある空洞と同じく、何もない場所だ。

 それを踏み抜けば、僕は落ちるだろう。そして、終わる。彼女は、そのような終わりを僕に用意したのだろうな、と思った。

 三歩、四歩、五歩……、と進んでいく。そうするうちに、僕の近くには木々の姿が見えなくなり、代わりに土と砂利、そして短い草ばかりになってくる。そろそろ終わりが近いのだな、と思った。

「少年、行くのかい?」

「ええ、そういう願いですから」

 彼女の言葉に僕がそう返すと、彼女は小さく笑った。その笑みには、諦観や寂寥がない交ぜになって、内包されているような気がした。

「そうか、じゃあ……」

 と彼女は右手を天高く掲げる。

「一つ、いい物を見せてあげよう」

 彼女は不適に笑い、指を高く鳴らす。

 すると、一陣の風が吹いた。風は強く、強く吹いて、砂を巻き上げて吹き去る。ともすれば、僕もそのまま飛ばされてしまいそうになるほどの風だ。思わず目を閉じて、腕で顔を隠してしまう。

 少しして、風が止む。僕は恐る恐る目を開いた。

「――これは」

 僕は自身の視界に驚愕する。

 目の前には、強烈な赤橙色の光を放つ朝焼けがあった。

 その光は、僕の周囲にあるものを容赦なく染めていく。

 山の草木を染め、土を染め、僕自身を染める。山を覆っていた雲をも染めて、橙色のカーテンに変えてしまう。雲の切れ間から垣間見えた町は、その光をプリズムのように反射していた。

 生まれて初めて、僕は自身が育った町のことを、あれだけ嫌いだったこの世界のことを、綺麗だなと思う。

 その光は、ありとあらゆるものを染めていく。それは見えるものだけでなく、見えないものも含まれるだろう。

 朝焼けが僕の網膜を灼く最中、僕は心中にあった虚ろな空洞の存在をすっかり忘れてしまう。そして、その中にぽつりと、寂しくあったものすらも。

 僕が長年抱いていたものがそうなってしまうまでに、人の手の及ばざるところにあるその“美術品”は見事だった。

「どうだい、今の気持ちは?」

 彼女が問う。

「……悪くは無いです。ただ」

「ただ?」

「……僕を、騙しましたね?」

 こんなものを目にしてしまった今、に及ぼうとは到底思わない。この朝焼けを汚すのは、あまりにも無礼だ。

 僕の言葉を聞いた彼女は、目を丸くしたあと俯く。見ると、肩が小刻みに震えており、小さく笑い声が聞こえてくる。

「……バレたか」

「バレた、て」

「ああ、私は君を騙した。最初から、君の物語を終わらせるつもりなんて無かったんだ」

 彼女は悪戯っぽく笑う。それは、初めて見た笑みだった。

「…………どうして嘘を?」

「ああ、私は君から生まれたからね。……嘘つきなんだ」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、僕は苦笑してしまう。まるで、僕が責められているようではないか。

「……嘘つき、か。……違いない」

 今、僕の心境は実に複雑だった。僕が抱いていた空虚や孤独は癒えておらず、目の前の圧倒的な光の前に存在を忘れているだけで、それらはそのまま僕の中にある。しかし、その一方で、僕の心の中には彼女の言う“快”に近い気持ちも生まれつつある。

 そう、実に愉快だった。燦然と輝く、人の手が触れ得ない大いなる美。根源なる美を見て、僕の魂は打ち震えている。

 これは、生まれて初めての感覚だった。

「……騙していたのは、目的だけではないですね。たぶん、最初から」

 僕はなんとなく、彼女の正体を察しつつあった。彼女は僕をここに導いた。僕を騙し、苦痛に耐えさせた果てに、この景色を見させた。

 そんな存在が、希死念慮の化身なわけがない。

「……あなたは、誰ですか?」

「……だいたいは、察しが付いているのだろう?」

「ええ。でも、これで外しちゃうと格好が付かないので」

「あはは、それは確かに」

 彼女はふわりと笑う。陽光が彼女を照らし、黒髪が光を散らせた。

「私は君の内側にあるもの。君を構成するもの一つ一つに刻まれたもの」

 静かな、澄んだ声。それが、柔らかい風と共に僕の耳を撫でる。

「君の遺伝子に刻まれた生存本能。それに因んだ、君の心の奥底にある、強い感情。私は――、それが人の形を取ったものだ」

「つまり」

「……ああ、つまりは“君が生きたいと望む気持ちそのもの”だ」

「……………………なるほど」

 そんなものが、僕の中にあったのかと、少々驚く。しかし、僕の中を満たしている心地よさは、きっと空虚なんかと無縁のものだ。

「今まで結構な間、私は軽んじられていたからね。君を騙せて少々溜飲が降りたよ」

 彼女はそう言って笑い、軽やかな足取りで僕の前に出てくる。彼女は朝焼けを背景に、手を後ろに組んで僕を覗き込む。彼女の髪が揺れ、黄色の濃度を高めつつある赤橙色を反射し、光の粒にして散らしていく。

「……それは、申し訳ない」

「全くだ。全くもって申し訳ないと思って欲しい。だから」

 彼女は僕に近寄り、人差し指を立てる。そしてその指で、僕の鼻先を優しく突いた。

「だから、君はそのお詫びとして……、このクソッタレな世界を生きていくのさ。生きて、生きて、生きた果てに、君の物語は終わるのさ」

 彼女は、そう言って破顔一笑する。

 それは素敵な、実に素敵な表情で、この世界で僕だけが見ることを許された、完璧な美であった。

「……それは、大変だなあ」

 彼女をこの目に焼き付けつつ、僕はそう返す。意識せず、微笑みが浮かんでいた。

「ああ、実に大変だ。……だから、君が苦しくなったら、そのときは再び私を願えばいい」

 朝焼けに照らされる彼女、その身が、さらさらと崩れつつあった。彼女は端から細かい粒となり、風に吹かれて朝焼けの中に消えつつある。

 待ってくれ、と言いたくなった。

「待てないさ。待つ必要もない。今の私の役目は、終わったからね」

 彼女は漆黒の瞳で僕を見据える。そこには、黄金色の光を浴びている僕の姿。

 彼女の惑わぬ視線が、僕に生きろと伝えているようで。

 僕はその視線を真っ直ぐ見つめ返す。僕の視線をしっかりと受け取った彼女は、満足そうにもう一度笑い、そして。

 光の中に消えていった。

 そして僕は一人になる。しかし、孤独というわけではなかった。

 なぜならば、彼女は僕の内面より生まれたのだ。だから、彼女は僕の中にいる。

 彼女の息づかいを確かめるように、僕は自身の胸に、血を流している右の掌をあてる。

 僕の鼓動と、息づかい。それらが、傷口の神経を通して、僕に生きていることを伝えている。

 眼前には朝焼け。容赦なく浴びせかけられる黎明の光。

 この世界をあまねく照らすが如く鮮烈な光。それで自身の網膜を灼きつつ。

 僕は、赤子の産声のように、ただ叫びをあげるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

希死念慮さん むむむ @Ankou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ