4
何度か崖から飛び出しそうになりながらも、僕らは山の中腹にある駐車場に到着した。駐車場から少し歩いたところにロープウェーがあるのだが、当然ながらこの時間は稼働していない。
僕は原付の速度を緩めようと、手の力を抜く。それと同時に気が抜けた。
が、現実は僕がそうすることを許さない。ぬるり、と嫌な浮遊感が僕を包み込んだと思ったら、僕の足裏に伝わっていたフットレストの感触が喪失する。
あ、と思った瞬間には、天地が逆になっていた。僕は夜暗に包まれた空をぼんやりと眺め、彼女はそんな僕を見下ろしながら微笑んでいる。
転倒したんだな、と他人事のように思った。
どかり、という音が耳の裏から聞こえた。その直後に背中から全身にかけて激痛が奔る。背中から落ちたのだな、と分析する間も無く、僕は濡れた地面の上を滑るように転がり、砂利が僕の肌に爪を立てる。
痛みと衝撃に肺腑の空気を全て持って行かれ、呼吸がままならない。薄れる意識の中、僕の視界を占めるのは、鮮明に映る彼女の笑顔だった。どうしてこの状況で笑っているのだろうか、と疑問なのか八つ当たりなのかよくわからない気持ちが生まれてくる。
「痛いかい?」
彼女の言葉に対し、僕は目の端に涙を浮かべつつ、小さく首肯して返す。まだ言葉を発する余裕はない。そんな僕とは反対に、彼女は軽やかな口調で言葉を紡ぐ。
「そうか、それは大変だ。でも、君の終わりはここではない。そんな痛みでは、君は終わらない。未だ、全く足りない。君が目指すべき場所は、ここよりもずっと先」
彼女はそう言って、ただ一点を指さす。
暗闇の中、ロープウェーのワイヤーが伸びて闇に飲まれ、見えなくなる場所。その場所よりも、ずっと先。
未だ、欠片として見えない場所。
彼女は、頂点を目指せと僕に言っていた。
嘘だろう、と思う。今は雨が降っていて、それに夜である。あの頂点までは、先ほどのような道は整備されていない。ロープウェーか、登山か。登山と言っても、登山道が整備されているかどうかも怪しかった。
「……さすがに、それは」
僕は彼女に抗おうとする。彼女は僕を終わらせると言ったが、ここまでする必要性はあるのだろうか。
「……拒否してもいいけれど、そうすれば君はずっとあの日々を過ごすことになるぞ」
「……それって……」
「ああ、私の言葉に従わない限り、私は君の望みを叶えることはない。そして」
彼女が僕にぐいと顔を近づけてくる。微かに華の香りが漂う。彼女の双眸が見開かれ、僕をいっぱいに映す。
「君は君自身で終わりを選ぶことが出来ない。君はあのままだらだらと、苦しみながら日々を生きることになる」
「…………それは」
さすが、僕の内側から生まれたものだと思う。僕が嫌に思うこと、僕が不満に思っていること。それら全てを見抜いていた。
僕の毎日は、孤独との戦いだった。いや、戦いというのは誇張表現だろう。そもそも戦いなんて成立しないぐらい、孤独と虚無によって、僕は一方的に蹂躙されていたのだ。
僕はこの日々が嫌だった。嫌だと思いながら生きなければならない、この世界が嫌だった。
けれど、僕は遺伝子に呪いの如く刻まれた生存本能によって、そうすることを選べない。
だから、僕は彼女の言葉に従い、ここまでついて来たのだ。この行為をここで終わらせることは、今までの道程が全くの無為になる。
「嫌だ」
「ああそうだろう。だから、君は私の言葉に従うしかない。あの山を登るしかない。時に少年。……君はどうして私を望んだ? 何故、その心に私を生み出した?」
唐突な彼女の問いに、思わず口ごもる。少し考えて、僕は言葉を紡ぐ。
「……きっと、孤独による空白」
考えたが、まとまった思考にはつながらない。だから僕は、思いついたことを一つ一つ、噛みしめるよう口にする。
「その中に、あなたが。…………僕はたぶん、孤独が辛かったんだと思う。……自分では、あまり自覚していなかったけど。そして、もう一つ。……僕は、希望が持てなかった」
僕の言葉を、彼女は静かに聞く。
「僕の身近な大人は、僕の父親だ。父親はほとんど家庭を顧みないような男で、たぶんどこかで女でも作ってるんだと思う。……そこだけ切り出すと、好き勝手楽しそうに生きているようにも思えるけど」
「けど?」
彼女の言葉は、疑問というより話の先を促すかのようだ。
「記憶の中にある父親は、なにやらいつも疲れているように思えたんだ。……そしてこれは、気のせいではないと思う。……たぶん、大人として生きることは大変なことなんだ」
そこまで言ったところで、話を区切って呼吸を整える。
「だから、周りの大人は僕ら学生を見て、羨ましいと言う。なるほど、それは確かにそうだと思う。学校の授業は寝ることができるし、夕方には解放される。日々の自由時間は多く、加えて長期休暇がある。それに」
それに。これはとても重要なことだ。
「友達がいる。その一点が大きいのだと思う。大人たちは、かつて自分たちが学生だった頃の楽しい記憶を思い出しつつ、僕らに『羨ましい』と言うんだろう」
しかし、僕はこの世界のイレギュラーだ。
「……僕は今まで生きてきて、楽しいと思ったことがない。縋るべき過去がない。そして」
何よりも、僕を縛り付け苦しめること。それは。
「僕は未来への希望がない。やりたいこともない。学生は楽で、大人は辛いと聞かされている。でも、僕は今のままで充分に辛い。にも関わらず、大人になるともっと辛いという。はっきり言って、どれほど辛いのか想像できない。僕は、未来への見通しが効かないんだ」
丁度、この山を包み隠す宵闇のような、光を全て消してしまうような黒。それが、僕から見た未来だった。僕の向かう先には漆黒の壁が存在していて、それにぶつかれば僕が消滅してしまうのではないか、とすら思えるのだ。
「……なるほど、ね。よくわかった。君が、私を望んだ理由。だからこそ君は」
彼女は、もう一度、見えない山頂を指さす。
「あそこを目指さなければならないんだ」
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