「君は原付を持っていただろう」

 そんな彼女の一言で、僕は今、原付に乗っている。

 時刻は深夜。天候は雨。そして、僕の後ろに座るは彼女。

 雨脚は強まりつつあり、雨粒が肌に叩きつけられて痛い。そんな状況でも、彼女はどんな自然現象にも影響されず、初めて出会った姿のままだった。

 僕の原付は排気量が50ccなので、本来二人乗りはできない。だが、彼女は僕以外の誰にも見えず、また彼女には重さというものが存在しない。なので、実質一人乗りのようなものだった。

 というわけで、二人乗りをしていて警察官にどうこう言われることはない。

 だが、もう一つの問題は違う。

 僕は原付のアクセルを全開にして、時速60キロで走っていた。静謐な夜に、原付の走行音が響く。

「飛ばせ! 飛ばせ!」

 後ろに座る彼女が、僕を煽るようにそう叫ぶ。彼女の声は、原付の走行音に紛れてなお、鮮明に届いていた。

 目の前の信号が赤になる。僕はブレーキに手を伸ばそうと――。

「それじゃあ駄目だ! 君の望みは何だ⁉」

 彼女が僕の手に触れる。瞬間、僕の手の所有権は、僕ではなく彼女に移る。彼女はそのままアクセルを開き、赤いランプが点灯する道の先へと、迷わず突っ込んでいく。

「お、おいおい!」

 さすがに信号無視はまずいだろう、と速度超過をしている僕が思うのもおかしいが、とにかく彼女を制止する。

「どうしたんだい?」

「いや、信号!」

「何、この程度っ!」

 交差点に突入する。田舎とだけあって、前後左右、どこからも車がやって来る気配はないので安心した。そうこうしているうちに、交差点を通り抜ける。

「大丈夫だ」

「何がだよ」

「君の物語は、まだこんなところで終わりを迎えない」

 僕の希死念慮は、そう言って口の端をつり上げ笑う。まるで獲物の命を噛み切ろうとする獣のように、彼女は愉快そうな顔をする。

「……だから、さっきのは大丈夫だと?」

「そうそう。スリリングで楽しかっただろう?」

「スリリング、ってのは認めるけど……」

 楽しかったかどうか、と言われれば疑問符が残る。

「……やはり、君は色々と考えすぎるな」

 彼女はそう言って、僕の首筋から胸元にかけて腕を回す。

「この世は、快と不快で二分していいんだ。さっきのは、スリリングで……愉快だっただろう?」

「……そうかもしれないけど、でも」

「でも?」

「……交通法規は、守るべきだ」

 そう僕が返すと、彼女は「あはは」とおかしそうに笑った。

「今この瞬間も、交通法規を無視しているのに?」

 彼女の言葉に、『それはそれ、これはこれ』と返そうと思うが、しかし僕は自身の理屈の矛盾に気づく。

「そうだね、守るべきものは守るべきだ。これは守ってあれは守らない、なんて中途半端はよくない。……ありとあらゆることに、言えることだけど」

 彼女は続ける。

「でもまあ、今はいいじゃないか。君は終わりに向かって突っ走っている。どう終わるか、その終わりまでにどのような道筋をつけるのか、それだけを今は考えればいいのさ」

 彼女はそう言って、僕の頬に口づけする。柔らかい感触を伴った温もりが、僕の顔に広がったと思いきや、それらは雨粒の冷気と痛みによってかき消えた。

「どうだい? 嬉しかった?」

「……複雑な気持ちだ」

「複雑?」

「……貴女は僕の中から生まれた存在だ。ならば、今のキスは自給自足と言っても……」

「それは一理ある。でも、そんな理屈はどうでもいいんだよ。少年、もう一度言う」

 降りしきる雨の中、彼女の声が静かに、明瞭に響く。

「この世界なんて、畢竟、快不快の二元論なのさ」


                  ○


 僕と彼女は、この町にある山を目指していた。

 この町は元々戦国大名の城があったらしい。僕らが目指す山は、その城があったとされる山だ。この町の住人からは、城山と呼ばれている。僕もそう呼んでいる。

 古い古い昔には、城山付近に城下町があったのだろうが、今となってはそんな面影は皆無だ。町の中心は城山からずっと離れたところに移ってしまい、城山は町の西の郊外にぽつりと寂しく佇んでいる。

 そんな城山であるが、この町で唯一の名所だ。とはいえ、町の人は年に一度行くかどうか、といった程度であるが。

 名所になるだけあって、城山はそれなりの高さを誇っている。しかし、富士山とか日本アルプスとかと比較すれば、赤子のようなものだ。

 本当に大昔のことだが、僕は母親と城山に登ったことがある。記憶は薄れきってしまい、詳細は覚えていない。そのときは古びたちっぽけなロープウェーで登った覚えがあるのだが、こんな時間にロープウェーは稼働していないだろう。……そもそも、まだ現役なのだろうか。

 彼女は僕に『城山を目指せ』と言った。そこに何があるのか、僕は知らない。だが、彼女は僕の物語を終わらせると言った。……つまりは、そういうことだろう。

 雨の中、僕は愛用の原付を飛ばしに飛ばして、その城山を目指している。

 僕という物語を終わらせるために。

 僕らが住む町は本当に田舎で、こんな時間にもなると車なんてほとんど見ない。町の中心部を離れてくると、田畑ばかりになってくる。そうなると、いよいよ街灯もまばらになってしまい、僕らの周囲にはほんの小さな弱々しい明かりと、それらを飲み込もうとする大いなる闇が広がっていた。

 そんな闇を切り裂くように、僕らは走る。

 やがて、城山の麓付近にやってくる。僕は原付を停止させ、どうするのだろうか、と彼女を見た。

「少年、このまま山を登れ」

「…………正気ですか?」

 城山は闇に包まれている。こんな山に街灯なんてものは存在しない。

「ああ正気だ。時間はない。急げっ!」

 彼女が僕をせき立てる。僕はその声に従い、アクセルを開いた。

「ど、どこに⁉」

「山を登れ! そこに道があるだろう!」

 彼女の指の先には、原付のヘッドライトに照らされた白いガードレール。なるほど、確かにその内側には道があって然るべきだ。

 僕は山を登り始める。『駐車場→』と書かれた看板が、一瞬だが見えた。

 斜面は一応舗装されているものの、アスファルトはガタガタになっている。かつてはこの山を観光名所にしようと思ったのだろうな、と往年の地方自治体の苦労に思いを馳せた。

「駄目だ、遅い」

 彼女はそう不機嫌に呟き、またも僕の手の所有権を奪う。彼女はアクセルを開き、最高速度で斜面を登り始めた。

「ちょちょちょ」

 僕は彼女を制止しようとするが、車輪が跳ねる振動で言葉にならない。彼女の顔が僕の横にあったので、見ると愉快そうに笑っていた。

 思ったのだが、彼女は僕が危機に陥ると、実に楽しそうに笑う。それは彼女が真性のサディストだからか、それとも彼女が希死念慮そのものだからか、どちらだろうか。

「さすがに、これは、60キロはっ」

 そんなことを言っているうちに、カーブに差し掛かる。急カーブと言っても差し支えないそれを、この速度で走り抜けることが出来るだろうか。いや出来ないだろう。この道は、60キロで走る車両のことを考えて作られていない。

 僕は慌てて体を傾け、曲がろうと努力する。だが、案の定、足りない。このまま行けば僕と原付は崖から飛んでいくだろう。

 彼女は言った。僕という物語を終わらせる、と。もしかしたら、彼女はこういう終わらせ方を目指していたのかもしれない。

「いいや、それは違うな」

 彼女の声が静かに響く。僕が驚いて目を見開くと、彼女は僕の左手に触れ、思い切り引っ張った。

「まだだ。ここは君の終わりではない。君の終わりは、こんなところであるべきではない」

 静かな、そして硬い芯を感じさせる言葉。それが僕の耳を撫で、その感触を噛みしめる間もなく、僕は突如として変化した重力のベクトルに目を白黒させる。

 視界が、傾いている。いや、僕の体が車体ごと傾いているのだと悟った。車輪が地面に描く弧、それが急激に激しくなり、僕は右足をガードレールの端に擦らせながら、カーブを走り抜けた。

「……あそこで、終わらせたかったのかと」

「ふふ、そんなことはないだろう。……あんなのは、序の口さ」

 彼女はそう言って、上方を指さす。そこには、凪いだ海のように静かな闇が広がっている。その闇を見て、僕は悟る。

 この道はつづら折りになっている。つまり、今のようなカーブがまだ複数回はあるのだ。

「な、楽しいだろう?」

 彼女は楽しげにそう言って、アクセルを開き、まだ見えぬカーブに突入する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る