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そろそろ雨が降りそうだな、と夜空にかかる灰色の雲を見る。梅雨特有の湿度が、体に纏わり付くかのようで憂鬱だ。
今し方コンビニで買った夕食をリュックに入れて、僕は原付のエンジンをかけた。おもちゃのような安っぽい振動が、ハンドルから手に伝わってくる。
シートに座り、原付を転がす。ぽつぽつと、雨が降りつつある。五分ほど走り、僕が住むマンションに到着した。
自室に入り、勉強机で食事をする。PCで動画サイトを適当に流す。それを見つつ、買ってきたパスタをすする。味気ない夕食だ。
部屋の中はただ静かで、まるで世界から僕一人が隔離されたかのような錯覚がする。もっとも、それは錯覚ではないのかもしれないが。
食事を終え、コンビニの袋にゴミを入れる。動画を一時停止して、深く、深くため息をついた。
特に何があったわけではない。ただ、ため息がつきたかった。
倦怠感とか、徒労感とか、寂寥感とか、そんな気持ちがないまぜになって、僕に無駄な吐息を漏らさせる。
そのとき、机上に置いたライターが目に留まる。それを手に取り、ただ目的もなく点火する。
火が、目の前で揺れていた。ライターを点ける手には、じわりと熱が伝わってくる。
橙色のそれを、何の気なしに見つめる。燃料の無駄遣い、と言われても反論はできない。
この火の精霊が現れて、その燃え盛る両腕で僕を抱きしめてくれないだろうか。そんな願望を抱く。
その一方で、現れるわけないだろう、という冷静な声が頭に響く。その通りだ、と僕は思った。
火を消し、ライターをぼんやりと眺める。ライターの着火部付近には金属の部分があり、僕はそこを自らの内肘に押し当てた。
じゅっ、という短い音。ほぼ同時に、鋭い痛み。少しして、痛みに追随するように皮膚と肉が分離する感覚。僕という存在を構成する物と物が剥がれ、その感覚に自らの存在を再認する。
少ししてライターを離すと、そこには水ぶくれが出来ていた。火傷である。
「あはは」
何をやっているのかと、自嘲する。小さくため息をつき、ぼんやりと天井を眺める。
「…………喉、乾いたな」
夕食に食べたパスタは塩気が強かった。なので、口の中はその余韻でいっぱいだ。僕はそれを流し去りたいと思い、立ち上がる。コーラでも買いに行こうと思った。
家を出る。雨が降っていたので、傘を持っていく。
エレベーターに乗ると、その中で蛾が一匹死んでいた。僕はその亡骸を見つつ、ぼんやりと、かつての僕について考える。
かつての僕の目には、この虫はどのように映っていただろうか。
おかしな話だが、かつての僕は、他の誰もが見えないものを見ることが出来た。
いや、ものというよりも、人だろうか。この世を構成するありとあらゆるものが、人の姿を取って僕の前に現れていたのだ。それらは精霊と言ってもいいだろうし、もっと平たく言ってしまえば、事物の擬人化と言ってもいいだろう。
それは本当に、幼い頃の話だ。
僕はそれらを見ることが出来た。触ることも出来たし、話すことも出来た。
だから、幼い僕はそれがこの世界の普通なのだと思った。人間と、人間ではない人たち。ここは、それらが共存する世界なのだと、思っていた。
あの日までは。
僕は、自身が見えているものは、みんなにも見えていると思っていた。学校で僕がその話をすると、みんなは見えないと言う。そして、見せてと言ってきた。
僕はみんなを“その人”の前に連れて行き、紹介した。この時の『その人』とは、たしか小学校の花壇に植えてある向日葵だっただろうか。
僕の目には向日葵と、そしてその上にちょこりと座っている女の子が映っていた。
そしてみんなの目には、枯れかけた向日葵だけが映っていた。
僕は『見えるでしょ?』と言い、みんなは首を横に振って『見えない』と言う。そんなわけはないだろうと僕は思い、『見えるってば』とムキになる。みんなは怪訝な目を僕に向け、首を横に振って『見えない』と言うばかりだった。
見える見えないの問答が続き、とある瞬間、誰かが『嘘つき』と言った。
その声が、みんなに伝播する。一人の声が、二人に。二人の声が、四人に。
やがて、嘘つきの大合唱が始まった。そのときの僕は、きっと強いショックを受けたと思う。なぜなら、自分が見えているものを『見える』と言ったら、自分が見ている世界と、自分自身を否定されたのだから。
しかし、結果として僕は嘘つきだった。僕だけが見えるものは、みんなには見えないのだ。向日葵の上に座っている人が僕には見えると言っても、それを証明する手段がない。写真を撮っても、そこに映るのはしなびた向日葵ばかりだ。
僕の両目以外、僕が見たものを観測する手段は無かった。なので、僕が浴びせかけられた『嘘つき』の合唱は、きっと正しい。僕一人が、あの集団の中で、そしてこの世界の中で、イレギュラーだった。
僕は共同体から孤立した。嘘つきのレッテルを貼られ、うずくまるように日々を生きた。
新しく友人を作ろうにも、僕の脳裏に響く『嘘つき』の声が怖くて踏み出せない。そうしているうちに、僕は友人を作る能力を失った。それは、今も同じだ。
最初に『嘘つき』と言われたとき、僕が間違っているのではなくて、みんなが間違っているのだと思った。しかし学年が進むにつれ、自分のことを客観的に見られる能力がついて、僕の中には一つの疑問が浮かんでくる。
幼い僕が抱いた疑問。それは、僕だけがおかしいのではないか、というものだった。
その疑問を、その苦しみを、聞いてくれる人は学校にいなかった。家に帰ると母親が聞いてくれたが、母親がこの世を去ると、いよいよ誰も聞いてくれなくなった。父は家庭に興味がなく、ほとんど家に帰ってこなかった。それは、今も同様であるが。
僕の目には様々な精霊が、擬人化したものたちが映る。しかし、見えているそれを伝える他人は、僕の周りに誰一人いない。
僕はいつしか自らを“おかしい”と断定し、自身の目にのみ映るものを敢えて無視するようになった。そうしているうちに、それらは見えなくなったので、やはり僕がおかしかったのだろう。
僕は家の中でも外でも孤独で、加えて、僕の目に映る世界も寂しいものになってしまった。
そんな孤独の果てに、気が付くとこの胸には虚ろな空洞が出来て、そこから感情が次々と抜け落ちていく。
感情が抜け落ちた果てに、その空洞にはとあるものが居座った、それは小さく、そして重い。鈍色の光を放っており、時折僕に語りかける。
『早く死ねば、楽になれるぞ』と。
僕にその理屈を否定する術はなかった。なぜならば、僕にとって生きることとは、苦しくて辛くて、そしてどうしようもなく孤独だからだ。
あるいは、僕にはその理屈を否定する気が無いのかもしれない。
もう一度言う。僕は嘘つきだ。今この瞬間も、僕は嘘をついている。
その嘘は、一つ。
僕は自分に嘘をついて生きている。自身の衝動を直視せず、目を逸らして生きている。
僕は死にたかった。強い、強い希死念慮が胸の奥にあり、僕はそれを敢えて無視しているのだ。
どうして生きているのだろうか、という疑問が頭から離れない。
死ねば楽になれる、という理屈も頭から離れない。
それらは、脳に強く刻まれ、深くこびりついていた。
僕は雨の夜を一人歩きながら、そんなことを考える。
そのときである。眼前の景色がぐにゃりと歪んだかと思えば、次の瞬間には一人の女性が僕の前に現れていた。
その女性は、漆黒の長髪を持っており、黒のパンツスーツを着ていた。この雨の中で傘を差しておらず、しかし欠片も濡れていない。
その姿を見て、僕はまさか、と思った。そんな僕の動揺を知ってか知らずか、彼女は優雅に微笑み、ゆっくりと口を開く。
「この姿では、“はじめまして”かな?」
彼女は静かに、僕に近寄ってくる。警戒して後ずさる僕を無視して、彼女は続ける。
「自己紹介をしなければならないね。……私は、君の希死念慮だ」
「……き、希死念慮?」
予想していなかった言葉に、僕は思わず聞き返してしまう。彼女はその微笑みを欠片も崩さず、目を細めて首肯する。
「ああ、君の胸の奥底にずっと存在していた希死念慮、その精霊あるいは擬人化かな? そう、そんなやつだよ」
「……それが、どうして」
まさか、と思う。
「君の望みを叶えよう」
彼女のその言葉は、甘美さを伴った不思議な響きだ。
「……望み?」
彼女はまっすぐ僕を見据える。僕の頭に先ほど浮かんだ“まさか”が、その影を濃くする。
「ああ、ずっと前から君が望んでいること」
そう言って、彼女は妖艶に微笑む。
「私が、君という物語を終わらせてあげよう」
静かに降り続ける雨の中。数年越しに現れた、僕にしか見えない存在。
夜暗を想起させるような姿の彼女は、そう言って、優雅に小首を傾げた。
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