9 『ホティンの戦い』(2)

 イェーナの話を聞き終えたシエル軍首脳たちは、一言も喋らなかった。

 異様な沈黙がしばらくその場を支配した。そうしてイェーナがおずおずと口を開く。

 「え、えーと、公爵たちは何処どこに行ったんですか?」

 「分からない」

 シエルは無表情でそう答えた。えー、とイェーナは小さくつぶやいた。

 本当に分からないのだ。あの呪文で飛ばされた者が戻ってきたという話は聞かないのだから。


 第七階位の魔術『暗黒球ブラックボール』。その範囲内に入った『対象者』は何処かへと飛ばされる。行き先は分からない。

 シエルはここでそれを使うのか、というのが正直な感想だった。第七階位の魔術の『冷却時間』は賢者リリンでさえ約五年。つまりゲームでは一度しか使えない大技である。通常は魔王との一騎打ちの直前に使用するのが定石セオリーであった。


 賢者リリンの厄介さは、ゲーム毎に習得している魔術が違うことだ。それはランダムに決められているらしかった。第七階位の魔術だって、習得しているときと習得していないときがあるのだ。だからメレドス公爵には具体的な助言を与え辛かった。

 その中で『暗黒球』というのは、自分たちにしてみれば最悪の部類のものだった。何せ魔術障壁で威力が減衰しないのだから。


 どちらにせよダンディ親父ことメレドス公爵とジャリカ兄、その精兵四万名はいずこかへと消え去った。

 飛ばされた先が千度もある灼熱地獄なのか、または絶対零度の極寒の世界なのか、あるいは何も存在しない真空の只中ただなかなのか、それとも一万トンもの圧力がかかる深海の真中なのか、それは飛ばされた者にしか分からないことである。


 シエルはため息をついた。出来ればリセットしたい気分だった。シエルはとさりと椅子に座った。何か、投げやりな座り方であった。

 長机に両肘をついて両手で顔を覆う。もう、取り返しはつかない。これは、ゲームではないのだから。

 突然シエルは吐き気がして、吐瀉物としゃぶつを長机の上にぶちまけた。目からは涙があふれ、また耳鳴りが頭の中を満たした。周りの者が何かを喋っているが、まったく聞こえない。視界がぼやけてきて、平衡感覚がなくなった。自分の身体が傾いだ気がしたが、そのまま真っ暗になった。そうしてシエルは意識を手放した。


 「まだ目を覚まされないのですか」

 タタロナは首を横に振った。シェロンヌは、はあとため息をついて部屋を出て行った。毎日見舞ってはいるが、シエルは二日前に意識を失ったっきり、目を覚まそうとしなかった。

 アスティ侯の軍勢も進軍の準備が出来てはいたが、シエルが人事不省じんじふせいに陥ってしまったので、部隊は半待機状態にして、自分は毎日シエルの見舞いに来ていた。

 側には常にイェーナがいて、一日中じっとシエルの事を見つめていた。はたからはまるで主人のことを思いやる忠犬のように見えた。


 その日の夕方にシエルはようやく目を開いた。

 ひとは辛い事や悲しい事があると眠って情報を一旦遮断し、その間に気持ちの整理や受け入れの準備をするらしい。シエルはまさにそれで、起きた時は比較的さっぱりとした表情をしていた。

 「姫様、大丈夫ですか」イェーナが心配そうに聞いてきた。

 「うん、もう大丈夫。迷惑をかけた」

 とシエルは謝り、ここに首脳メンバーを集めてくれるようにイェーナに言った。

 四半刻後、シエル軍の面々、イェーナ、タタロナ、グラフ、アガリー、シェロンヌと、アスティ侯父子が揃った。


 「皆の者、心配をかけて申し訳なかった。寝台からで済まないが、速やかに自由四王国連合の他三国を制圧するように。そしてその三国の統治は一時アスティ侯に任せたいと思う」

 アスティ侯父子は揃って頭を下げた。シエルは続けて人事面に関して言及した。

 「全軍の総指揮はシェロンヌが行い、皆はそれに従うように。青鬼族オーク第一部隊はアガリーが、第二部隊はグラフが、第三部隊はタタロナとイェーナが指揮し、タタロナはシェロンヌの補佐をするように。では早速取り掛かって欲しい」


 全員が頭を下げて了承し、部屋を出て行った。イェーナ以外は。シエルはイェーナを見て、

 「どうしたイェーナ。命令は出した筈だぞ」と言ったがイェーナは、

 「ボクは姫様の側を離れたくありません」と言い切った。

 完全にシエルに抗命したのだった。

 シエルはそれに対してイェーナを怒鳴りつけるべきか、それとも教え諭すべきか迷ったが、結局近くに寄れと指示して近づいたイェーナの頭を抱きかかえると、

 「イェーナは自分のやりたいようにすればいいさ」

 と優しくささやいた。イェーナは「いいの?」と聞いてきたが、シエルは「いいよ、われが許す」と言っていつものように指で髪をいてやった。


 しばらくの空白の後にイェーナが、

 「でも姫様はボクが戦いに行くことを望んでいるんでしょ?」

 と尋ねてきたので、

 「そりゃあイェーナが戦ってくれれば死ぬひとが減るからね」

 とわざと気楽にシエルは答えた。

 イェーナはちょっと考えたが、「分かりました。行ってきます」と言ってシエル

 から離れ、走って部屋を出て行った。


 本音を言えばシエルはイェーナに側にいて欲しかったのだ。この世界に来て初めて経験するちかしいひとの死。転生してからこの世界でいちから築いたそれが消え去るのは、シエルの胸中に虚しい風を吹きつかせるのだった。

 自分はともかく、オルフィナはどうなのだろうとシエルは急に心配になった。何しろ尊敬する父親と、愛する婚約者が一度にいなくなってしまったのだ。自分ですら三日ほど寝込んでしまったのである。


 シエルはオルフィナ宛に手紙でも出そうかと思ったが、何と書けば良いのか思い浮かばなかった。心中お察し――何を察したと。頑張って――何を頑張れと。われはいつも貴女の側に――いられない。

 シエルはどう取り繕っても空々しさをぬぐうことが出来ない文面に、手紙を書くことを諦めた。

 それにまだ報告は届いていないが、メレドス公爵とその軍がいなくなれば、王国に対するかんぬきは外されたも同然で、王国貴族たちがこぞって帝国の領土に襲い掛かるのは必然であると見た。そして現在、メレドス公爵領の主都ベネターレは、無傷の王国貴族軍十万に包囲されているに違いなかった。


 その後、シエルは割り当てられたアイロス城の一室で、メレドス公爵家の人々と過ごしたベネターレでの出来事を思い起こしていた。

 そして窓の外の黄昏の景色を見て、一抹の寂しさを覚えるのだった。


 二週間後、三王国攻略に送り出した部隊がアイロス城下へ戻ってきた。

 「え、もう?」

 その報を聞いた時にシエルは、何か不手際が起ったのではないか、と不安に思った。早すぎるのだ、戻ってくるのが。シエルの計算ではたっぷりと一か月はかかる予定だったのだ。

 城門まで出迎えたシエルに、帰ってきた皆はにこやかな笑顔で答えた。シエルの見るところ、ほとんど損害は受けていないようで、アスティ侯の軍勢だけが出て行った時は五千名だったのが、今は二千名に減っている。どうやら三王国の三首都に千名ずつ兵を残してきたらしい。ということは、攻略作戦は上手くいったということであった。


 「実に、イェーナ殿の働きが素晴らしかったのです」

 と、アイロス城の会議室でアスティ侯は絶賛した。当のイェーナは「いやそれ程でも……」と照れている。最初はあんなにアスティ侯にぷんぷんしてたのに。

 攻略の詳細を聞くとこういうことらしい。

 シエル軍は、城下に兵を並べて降伏を勧告する。そのときイェーナが城壁に沿って凄まじい速さで飛び、そこにいる敵兵たちの頭を叩いて通り過ぎる。それを二、三回繰り返すと城の守将と兵士たちは戦意を喪失してしまうのだ。

 それを見ていた青鬼族オークたちは、相手に対してああ可哀想にと思ったらしい。自分たちもそれをやられて自信を無くしたのだ。そんなわけで攻略作戦は大した戦闘もなく終わってしまったのだった。


 シエルはアスティ侯にあらためて、この帝国と王国の戦争には中立でいて欲しいとお願いをした。その申し出はアスティ侯も望んでいたことだったので、彼も快く了承した。リフトレーア王国にはその旨を書いた書状を送るという。

 「旧」三王国の統治はとりあえずアスティ侯が行い、戦争が終わったらあらためてその処遇を協議することにした。三王国の方も長年共にやってきたアスティ侯に治められた方が、受け入れやすいと思われたからだ。


 シエルは、王国軍が「旧」四王国連合に侵攻しない限り、自分たちもこの地に軍勢を送らないとアスティ侯に約束した。そしてリフトレーア王国軍がそれを破った場合、アスティ侯は帝国側について戦うことに同意したのだった。

 実際は戦争終結までリフトレーア王国軍もこの地に侵攻することはなく、アスティ侯は中立を維持することになる。


 歴史学者の中には、このときシエルはアスティ侯と同盟を結び、「旧」四王国連合の領地を出撃基地として、首都パラスナを含むリフトレーア王国中心部に直接進軍すべきであったと声を上げる者もいた。

 だがシエルはこの戦争を通じて最末期を除けば、その指揮する兵力は二万を超えることはついぞなかったのである。シエルレーネ姫が五万も兵を持っていたならば話は別であるが、二万にやっと届く兵数では大した影響もなかったであろうというのが大方の見方であった。


 三日ほどアイロス城下へ駐留して兵たちの疲れを取ってから、シエルらは大アマカシ河を再び渡ってパンラウム高原地方の領地へと戻ってきた。オーク部隊は駐屯地に戻り残留していた部隊と合流して訓練を再開した。

 シエルは自由四王国連合の”紛争”に介入した経緯と顛末を書き記し、中央に送った。

 そして当然イェーナのろうねぎらう為に、タスターデで丸一日彼女と一緒に遊び回ったのである。

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