8 『ホティンの戦い』(1)
メレドス公爵は帝国随一の戦略家である。少なくともシエルはそう思っていた。
そのメレドス公爵が、半分の兵力の勇者に負けた⁉
ありえなかった。常識的に考えれば。これはつまり勇者が常識的ではなかったことを示している。シエルはイェーナの話を聞くことにした。詳しく、微細なことも漏らさずに。
メレドス公爵は大アマカシ橋の西端を封鎖しなかった。それで勇者軍は何の障害もなく大アマカシ橋を渡り切り、西岸の地に立ったのである。
メレドス公爵が陣取ったのは、大アマカシ河から北西に十里離れたホティンの町郊外の麦畑の中であった。それが由来でこの戦いは後世『ホティンの戦い』と呼ばれることになる。
シエルは水際で迎撃するのではなく、あえて自領の中に勇者を引き込んでから叩くという、メレドス公爵の自信家ぶりに感嘆した。
ゼカ歴五〇〇年四月十五日。快晴。
メレドス公爵軍四万と勇者軍二万は、数日間の睨み合いを経てホティンの野で対峙した。
メレドス公爵軍(歩兵三万二千、騎兵三千)とジャリカ皇太子軍(近衛三千、近衛騎兵二千)の連合軍四万に対して勇者軍は自分の手勢の二万(歩兵)のみであった。ではアルペルン郊外に駐屯していた王国貴族軍十万は何処にいて、何をしていたのか? 答えはホティンの野の五里後方に集結していたのである。
二週間前にアルペルン城で行われた作戦会議で、勇者は帝国領への即時侵攻を主張した。アルペルンを取り返してから数えると、もう半年近くもここで足止めを食っていて、彼は王国貴族たちの腰の重さにいらいらとしていたのだ。
それに対して貴族たちは、わざとのらりくらりとした態度で勇者に接し、そうしてアルペルン城では、連日連夜晩餐会やら舞踏会やらが開かれた。これをじっと見ていた勇者は王女になだめられていたが遂に切れ、自分たちだけで進軍すると言い放ったのである。
これに王国貴族たちはほくそ笑んだ。勇者が自分たちの思惑にまんまと乗ってくれたからである。彼らはさらに勇者の神経を逆撫でするかのように、単独で行くのは危ないですから、我々の準備が整うまでお待ちなさいと、わざと親切さを装って助言した。勇者はいつまで経ってもあんたらは準備が出来ないじゃないかと激怒し、自分の配下だけで飛び出したのだ。
王国貴族たちはこれで勇者が死んだとしても我々に責はないと頷き合い、軍を動かしてメレドス公爵と勇者の戦いを見物することにしたのだ。そして出来れば両者共倒れになることが望ましいですな、と貴族たちは語り合ったのだった。
聖女アンジェリカは王女ミリアネスとともにアルペルン城にいた。王女は勇者とともに前線に出たがったが、ベリュグ公爵ら大貴族たちから反対されたのである。危険すぎるという
聖女アンジェリカは貴族たちの思惑が分かっていたから何かと理由をつけてここに残ったのである。彼女は野に自分の
勇者軍は勇者を中心に丸く固まり、そのまま突撃してメレドス公爵の本陣を一挙に撃破するつもりであった。
「進めっ!」勇者が聖剣リュミラーデを掲げて大きく叫んだ。メレンコス、セルセラ、リリンは勇者を囲むように位置していた。
そうして勇者軍はその強固な意志を示すかのように、まとまって前進を始めた。それを本陣から見ていたメレドス公爵は、傍らに立っているジャリカ皇太子に向かってにこやかに言った。
「勇者殿は極めて真っすぐな性格ですな。虚実がまるでない。私に向かって一直線に進んで来る」
メレドス公爵は、そう皇太子に教え諭す様に言った。実際に公爵はこの将来皇帝となり、自分の娘の夫となる予定の男に、戦闘というものを教えるつもりであった。
ジャリカ皇太子は今回が初陣である。彼は今回五千の兵を率いて参陣してきたが、近衛隊長のサンディアンからしてみれば皇太子はいまだ護衛対象なのだった。
公爵と皇太子のふたりは馬に乗って、並んで立っていた。グスタフなどの騎士隊はベネターレに残してきた。一応ベネターレ城の城代はアスカルにしておいたので、その補佐である。実際はいざというときには、グスタフが城内の兵を指揮するだろう。
ジャリカはこの地に来る前にベネターレの公爵邸で、妻となる予定のオルフィナと数日間愛を育んだ。その際に異母妹であるシエルがここに来たときに、とんでもないことをしていった事を面白おかしく聞かせてくれたのだ。
確かに帝室の皇女たる者が、冒険者ギルドなどといういかがわしい場所に足を踏み入れたことを父上に知られたら、どのようなことになるかジャリカは身震いがするのだった。それでもオルフィナを始めとして公爵夫人、長男のアスカルそして侍女の女の子にまで好かれているらしいシエルを思って、ジャリカは頬が緩むのだった。
メレドス公爵は自軍を出来る限り小さく見せようとした。そのため両翼を大きく広げる様な布陣はせず、縦に厚く層を作るように陣を組み立てた。
勇者軍と自軍の第一線が接触したとき、
遥か上空から見ていたイェーナの目には、卵を割らないように優しく包みこむ手のひらに見えたであろう。
メレドス公爵は自軍の歩兵部隊の後方に、隠す様に控えさせた騎馬隊を出すまでもないと思った。まさか自軍と勇者軍の間に、これ程までの戦力差が出来るとは予測していなかったのだ。
勇者は自軍の側方に敵が回り込んでも気にせずに、ぐいぐいと突っ込んでくる。勇者のいる空間では、血煙が派手に上がっていた。
それを見ても公爵は何とも思わなかった。これは予行演習だと思ったのだ。勇者軍の後ろに控えている王国貴族軍十万が、公爵が考えていた戦術の実践の相手となる。皇太子の近衛騎兵を合わせて五千の騎兵で、王国貴族軍の両翼を粉砕し、後方に回り込ませる。そして自分の歩兵隊と連結して敵の軍を丸ごと包囲してしまうのだ。餌は自分と皇太子である。敵が真っすぐに突っ込んでくるように、自分たちの前面にはわざと薄い線しか配置しない。そうして奴らの目が自分たちに向いている間に罠に
公爵はまた隣りにいる皇太子に向かって笑顔で言った。
「あと一刻ほどで包囲が完成し、この戦闘の勝敗が明らかになるでしょう」
ジャリカはやや緊張した面もちで頷いた。彼は考えていた。自分もいずれ大軍を率いる身になるのだろうかと。必然、なるであろう。
シエルは既に初陣を勝利で飾ったらしいが、そのときの気分がどうだったか、ぜひ聞いてみたいものだとジャリカは思った。
半刻経った。
勇者たちは、その顔がはっきりとわかる程に近づいていた。メレドス公爵が見る限り、勇者たちの表情は憤怒であった。返り血にまみれ、汗と埃にまみれて武器を振り回している。一体誰に対して怒っているのか。
メレドス公爵は、後方で高みの見物をしている王国貴族に対して、勇者たちは怒っているのだと看破した。
(勇者殿、レメン侯爵を殺したのは失敗でしたな)
と公爵は勇者を憐れんだ。
目を血走らせ、聖剣を叩きつけ必死の形相で自分に向かってくる異国の少年。それを守る盾戦士の大柄な身体には幾筋もの傷がつき、何やら大声で叫んでいる。
そして賢者は、目を瞑って何やら口元を動かしていたが、そのときその口の動きが止まり、その目を開いたのである。
「開いた?」
思わずつぶやいてしまった公爵と皇太子の周りに、薄暗い灰色の球状の膜が拡がっていく。
「⁉」
公爵はその膜が段々と大きくなっていくのを内側から眺めていて、背筋に寒気が走った。そして怒鳴った。
「魔術官! 魔術障壁はどうなっているんだっ!」
「正常に展開していますっ! ですがこの膜を防ぐ事が出来ませんっ!」
その魔術官の言葉を聞いて、公爵はシエルの手紙をうっすらと思い出していた。
『賢者リリンの魔術は障壁で防ごうとせずに、まず近づけさせないこと、次に熟練の弓兵を用意して彼女を狙撃すること』
メレドス公爵は自軍をすっかり覆ってしまった灰色の薄い膜を見て、これが賢者かと小さくつぶやいた。
ジャリカは膜を見渡し、もう愛する婚約者とも、やんちゃな愛おしい異母妹とも、二度と会えないことを直感した。
一指後、そこには勇者軍だけが存在し、メレドス公爵軍と近衛隊はきれいさっぱりいなくなっていたのだった。
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