25 カンデラ城を発つ(1)

 ゼカ歴四九九年も十一月に入った。

 シエルはそろそろ領地のパンラウム高原地方に帰る準備を始めた。本来ならば祝勝会が終わったらぐにという予定であったが、予定はあくまでも予定となった。その代わりに今まで溜まっていた全てのわだかまりが解けたのである。シエルにとってどちらが良かったかは言うまでもなかった。


 その前にシエルは兄のブルセボに、許可を貰わねばならなかった。

 「すまん兄上、どうかわれに青鬼族オーク部隊を譲って貰えないだろうか!」

 シエルはブルセボ兄の私室を訪れて、そう言ってブルセボ兄に対して頭を下げた。これからの対王国戦を考えると、どうしてもシエルには気心の知れた基幹部隊が必要であった。だが、勇者の進撃速度が速すぎて、それを一から作り出すには、どうにも時間が足りそうもないのだった。


 そしてそれに対してブルセボ兄は、

 「うん、良いよ」 

 と一言で快諾してくれたのである。だが、

 「でも、妹ちゃんにはひとつお願いがあるんだけどなあ~」

 と続いた兄の言葉に、微笑みかけたシエルの口元が引きつった。

 「な、何でしょうか、兄上?」

 と恐る恐るシエルは尋ねてみる。こ、このパターンは……


 「『お兄ちゃん!』で、お願いして欲しいんだなあ」 

 とブルセボ兄は眼鏡をくいっと上げて言った。そのとき、きらりと眼鏡が光った。

(や、やっぱり……)

 とシエルは兄のしょーもない願いにがっくりとしたのである。 

 ブルセボ兄の後ろにはシェアラが立っていたが、首をかしげていて自分の主が何を言っているのか分からないようであった。


 「せ、せめてシェアラには席を外して貰い――」

 「駄目だよ妹ちゃん! ボクは兄としての威厳をシェアラに見せる必要があるんだよっ!」

 (そんなんで兄の威厳が示せるかあー!) 

 シエルは目の前の兄の顔面に、ずびしとチョップを叩き込みたい衝動にかられたが、こちらはお願いをする身である。辛くもそれを抑えた。

 「さあ、妹ちゃん! は・や・く! 、は・や・く!」

 と、両手を振ってブルセボ兄が催促し始めた。

 その仕草がまたシエルをむかっとさせるのだが、隠忍自重いんにんじちょうという言葉がぱっと脳裏に浮かんでシエルの軽挙をいさめた。


 ため息をついて疲れた表情でシエルは言った。

 「お、おに――」「ぶっぶーーー」

 言い切るまえにいきなりNGが出た。兄からのリテイクの要求である。

 「ちっちっち、駄目だよ妹ちゃん。照れは敵だよ。身を捨ててこそ、だよっ」

 恨みがましい目つきでブルセボ兄を睨んだシエルは、身を捨てて何を浮かべるつもりなのですか? 屍ですか? 脂ですかと兄を問い詰めたい気分になった。


  「おにいちゃ――」「ぶっぶっぶーーー」

 気を取り直して言った言葉も駄目出しが出た。

 (ぜ、前回よりかなり厳しいんじゃない?)

 とシエルは絶望を感じたが、自分の兄は一切妥協をするつもりはないようだった。

 ちらとシェアラの顔を見る。いまだに彼女は全く状況が分かっていないようだった。首を傾げてこちらの目線に気付くとにこっと微笑んでくる。

 (シェアラの助けは期待出来ないのか……)


 「駄目駄目だよ、妹ちゃん! 今回は妥協しないからねっ。さあ壁を破るんだよ!」

 何が壁を破るだ変態兄貴が。破ってそちら側なぞに行きたくもないわとシエルは心の中で吐き捨てた。これなら百万の敵の真っ只中にひとりで突っ込んだ方がましだと思い、是非そうしてくれ、そうなってくれと神に祈るシエルだった。

 だが、その必死の願いもむなしく、この部屋に神はいないようだった。

 いるのは兄の姿を装った変態悪魔だけであった。


 「んーふっふっふっふ、時間はたっぷりとあるからね、妹ちゃん!」

 と余裕そうに語るブルセボ兄。

 シェアラは突然目の前で始まったこの兄妹きょうだいの寸劇に、ああこれはふたりのスキンシップなのだわと納得し、慈母のごとき微笑みを浮かべる。

 シエルの額から汗が出てきた。『嫌な汗』と呼ばれる非常に身体に良くない汗だ。

 だが、シエルは踏ん張った。われは帝国を救うのだと言い聞かせて……


 「お、お、お――」「ぶっぶっぶっぶっーーー」


 切れた。

 見事なまでにシエルの忍耐は切れた。 

 羞恥しゅうちと理不尽の嵐の中で、シエルの頭は沸騰し切ったのだ。

 沸騰して茹で上がり、それは真っ白になって噴き出した。噴き出したのは悲鳴である。シエルは渾身の力を振り絞って言った。既に彼女の理性は臨界点を突破していたのだ。つまり自棄糞やけくそで叫んだのだった。


 「大好きだよぅ、お兄ちゃん!」


 その瞬間、ブルセボ兄の動きがぴたりと止まった。そして身体が小刻みに震えたかと思うと、段々とその震えが 激しくなっていった。それにつられてかたかたかたと、椅子と円卓の揺れる幅も次第に大きくなる。

 『遊星からの――』という映画を御存知だろうか。名作である。つまり突然だが何が言いたいのかというと――シェアラが「主様?」とブルセボ兄の顔をのぞき込んだまさにそのときに、ぶぼっ! という血煙がブルセボ兄の顔面を覆ったのだ!

「ひいいいっ⁉」


 鼻血であった。

 その鼻血をまともに被ったシェアラは腰を抜かして尻もちをついた。ブルセボ兄は椅子ごと後ろにひっくり返って、血の噴水を噴き出し続けていた。びくん、びくんとブルセボ兄の身体が痙攣し、我に返ったシェアラが「あるじ様! 主様ぁ」と泣きそうな声で介抱している。

 シエルは真っ赤な顔をして肩をいからせ、目には大粒の涙を溜めながらいいざまだとわらった。

 (ブルセボ兄上はそのまま自分の鼻血にまみれて逝くがいい)

 と涙目で願うのだった。


 シエルはあのあと練兵所を訪れた。

 彼女は兄とのやりとりで非常な脱力感を感じていたが、早めに伝えておいた方が良いかと思い、ここに来たのだ。

 そしてグラフとアガリー以下青鬼族オークたちに、今後雇い主はブルセボ兄から自分に移ったことを伝えた。すると青鬼族オークたちは歓声を上げて喜んだ。口々に「光栄です」とか「死ぬまでついていきます」とか言ってきた。

 シエルは冗談ではなく「お前たちの殆どが死ぬかもしれないぞ」と言ったが、青鬼族オークたちは「それでも構いません」と答えたのでシエルは「馬鹿どもが」と小さくつぶやいた。


 グラフとアガリーは、シエルが自分たち連れて行くと言ってくれたときにほっとした。もしシエルがそう言わなければ、自分たちの方から切り出そうと思っていたからだ。

 シエルのそばにいれば、まず間違いなく戦闘に巻き込まれる。それも苛烈かれつなものばかりであろうとふたりは思った。それこそが自分ら青鬼族オークたちの望みであったのだ。

 閉塞された現状を打破するには、出来るだけ派手な方が良いとグラフとアガリーは思っている。そしてシエルについていけば、必ずやそのような機会に恵まれることになるだろうと思われた。反吐へどが出るほどに。

 事実彼らはこの後の王国との戦争で、シエルとともにずっと戦い続けることになるのだった。


 国境の都市アルペルンの郊外で、どうやら数日中に帝国軍と王国軍の間で、大規模な戦闘が起きそうであった。

 メレドス公爵が早馬でシエルに知らせてくれたのである。

 帝国軍はレメン侯爵軍を主力にファファー公爵軍、ユハンナス侯爵軍の一部そして数名の子爵男爵軍合わせて五万の兵を集めた。

 メレドス公爵はそれに参加しなかった。というよりも、メレドス公爵は援軍を申し出たのだが、レメン侯爵がそれを拒否してきたと公爵は苦笑していた。手紙にはその様に書いてあったのだ。

 それを読んだシエルは、何故なぜか戦前の陸軍海軍を思い出した。全く一利もないと思われる愚かなことであった。


 対して王国軍は、勇者軍二万に加えて復活した王国貴族たち、ベリュグ公爵、デトンソン公爵、セレジネーレ公爵 、ハイライ侯爵、他数名の貴族を合わせてやはり五万の兵を集結させた。後方にはミリアネス王女自らが出馬していた。これは大きいとシエルは思った。王国兵は王女の見ている前で誰もがやる気になるだろう。


 帝国はいまだに総動員令を出していなかった。その判断のにぶさは、やはり皇帝の不慮ふりょが響いているのだろうと思われた。その為にジャリカ兄は帝都を離れられず、親征を行えなかった。

 シャカル兄は軍事にうといという認識は広まっていたので、軍から声はかからなかった。

 そして肝心な宰相が今回の戦に進退をかけていたので、周りの者はみな彼を避け気味で、近日中に行われるであろう大会戦の勝負の行方に、皆が注目していたのであった。


 シエルはブルセボ兄からアルペルンの戦いには参加しないの? と聞かれたが首を横に振った。シエルが現時点で動かし得る戦力は青鬼族オーク部隊の千名だけであったし、会戦の規模が大きくなるにつれて、一個人の武力は相対的にその影響力を減じるからであった。

 全軍を指揮させてくれるのならともかく、一部隊の末将として参加しても、あまり役に立てるとは思えなかったのだ。


 シエルはグラフとアガリーを呼び、パンラウム高原地方へは別行動を取って貰うつもりだと言った。

 「それはどういう訳で?」とアガリーが尋ねるとシエルは、自分たちはアルペルンに寄ってある人物を雇ってから戻ると言った。すぐにも戦闘が起りそうなアルペルンに寄ると聞いて、ふたりの青鬼族オークは微妙な顔をしたがシエルは、

 「まあ心配はするな。お前たちには故郷に立ち寄って、兵士になりたい奴を募集して来て貰いたいのだ」

と言った。


グラフは「何人集まるかわかりゃしませんぜ」と一応断りを入れたが、シエルは何人でも構わないが、ただし、「お前たちに課した訓練と同等のものをくぐり抜けた奴だけを雇う」と言ってにやりとした。その言葉にアガリーは「一万人ぐらい集まるかもしれませんよ?」と、やはりにやりとした。

 シエルはまた「構わない」と言って、訓練自体はパンラウムで行うと伝えた。そして出発するなら早い方がいいぞと助言してからその場を去った。


 シエルがいなくなって残ったふたりの青鬼族オーク、グラフとアガリーは顔を見合わせて相談を始めた。

 「今の姫様の話からすると、兵はいくらいても良いということか」

 「ホロドドの森だけでなく、青鬼族オークの部族全部に声を掛けた方が良いかもしれんな」

 そううなずき合うと、こうしちゃおれん、時間が足りなくなる、なるべくここを早く出ようということで話が決まった。

 そうして城を引き上げる為の片付けと兵糧の手配、経路の選定などをて三日後にはオークの全員が城を出発したのだった。

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