22 皇女、侍従、朋友(2)

 祝勝会は昼過ぎから始まった。

 近隣から参加してきた領民は、結局七百人を越え、総勢で二千人近くの宴になった。全員が城内に入ったところで門が閉められた。これ以降は入城することは出来ない決まりである。

 祝勝会の前に褒賞ほうしょう式があり、今回の戦いで活躍した十余名に褒賞が与えられた。アガリー、グラフ、近衛隊長の他に、特に活躍した者に褒賞金が与えられたのだった。


 そして宴会が始まった。かなりの料理と酒が用意され、今日ばかりは使用人たちも参加して良いという下達かたつが伝えられ、一同大いに喜んだのである。

 たださすがにブルセボ第三皇子とシエルレーネ第一皇女のふたりの帝族を放置するわけにはいかず、これはシェアラがそのそばはべってふたりの世話を受け持つことになった。


 城の重鎮たちは広間最奥に位置したが、ひっきりなしに参加者が訪れて、お祝いの言葉が贈られたのだった。兵士たちや下級の使用人たち、そして近隣の領民たちは滅多にないこのもよおしに、心から楽しんでいるようであった。

 シエルはこの宴の様子を見て、やはり中世辺りの時代は全く娯楽が少なかったのだなあと、あらためて認識するのだった。


 昼過ぎから始まったこの祝勝会は、辺りがすっかり暗くなっても続いていた。殆どの参加者はもうへべれけに酔っており、そこかしこで居眠りする姿が見受けられた。

 特にオークはその大柄な体格からよく飲み、よく食べた。

 両肩を組んで杯をわしている者もあり、詩歌を朗々ろうろうと吟ずる者もあり、酒に酔って笑う者、泣く者、怒る者もあり、この時ばかりと食いに走る者もあり、ひたすら飲みに集中する者もあり、様々な光景がそこら中で展開され、笑い声や泣き声、怒号が飛び交った。

 酔っぱらってどこから持ち込んだかわからない剣で、舞を舞おうとした兵士はさすがに周りの者たちに取り押さえられ、退場させられたのだが。


 グラフはアガリーと隣り合っていたが、このような大規模な宴会に参加したのはふたりとも初めてだった。というより、オークのほとんどが初体験であったのである。であるからやたらとはしゃいで、好き勝手に騒いだ挙句あげくにそのまま沈没するという者が続出した。

 近衛隊の面々はその辺はちゃんとわきまえているようで、崩れた者はいまだいないようであった。


 グラフはちら、ちらと上座にちょこんと座っている小柄な少女の方を盗み見ていた。その少女は時おり杯を口につけ、お祝いを述べにきた者がいるときは、笑顔で受け答えするのだが、いなくなるとまたつまらなそうな顔をするのだった。

 アガリーは普段は不愛想なこの同僚の顔を見ていて、

 「お前さんには手の届かない高嶺たかねの花だぞ。あきらめろよ」

 とグラフをからかったが、グラフはそんなんじゃねえと杯をあおるのだった。


 シエルはこの喧騒けんそうの中に身を浸していたが、常に皆とひとつに混ざれないという感覚を持ち続けた。それはシエルの意識の奥底に沈んでいるものが原因なのは自明のことだったのだが、一体あと何年経てばこれが自然分解して消えてなくなるのか、シエルには見当もつかなかったのだ。

 魔人族の寿命は人族の二倍以上あるが、その年月をともにしなければならないと考えると、シエルは本当に気が滅入めいるのであった。


 シエルは隣りにいるブルセボ兄とシェアラに「少し席を外すから」と言って外に出た。中庭の特設席には見慣れない領民たちが、楽し気に飲んで、食べて、笑い合っていた。その無邪気な姿に思わず笑みを浮かべてしまうシエルであったが、そこを通り過ぎて城壁の上に上り、組んである石の上に腰かけた。

 遠くを見ると黒瞳海は既に闇に落ちており、海面は見えなかったが、潮の香りとかすかに聞こえる波の音が、そこに海が存在することを示していた。


 ほろ酔いにわずかに頬を赤らめたシエルは、目をつむって足下で行われている宴の楽音がくおんと雑音に耳を傾けていたが、その耳にもはや馴染みの足音が近付くのがとらえられて、「何の用だ」と不機嫌そうに誰何すいかした。

 足音の主はやはりグラフであり、顔は赤かったがその足取りはしっかりとしていた。グラフは石の上に座っているシエルの側に寄って、口を開いた。

 「姫様が以前追い返したふたりのことでやすが――」


 グラフは最後まで言えなかった。電光の素早さで振り向いたシエルが、体重の乗ったストレートをグラフの腹に叩き込んだからだ。が、グラフは顔色ひとつ変えなかった。ちっと舌打ちしたシエルは、半眼の瞳をさらに細めてグラフにすごんだ。

 「お前はわれを不快にさせるのが趣味なのか、ああ⁉」

 それに対してグラフはゆっくりと、一言一言確かめるように尋ねた。

 「許可を、得たいと、思いやして」

 「許可? 何の許可だ」

 怪訝けげんな表情でシエルが聞き返した。グラフは大きく息を吸い、言った。

 「あのふたりの死体を片付ける許可です」


 シエルの動きが止まった。息をつくことも、もしかしたら心臓の鼓動さえも。

 ふたりはじっと見つめ合った。

 足下からは相変わらず宴の喧騒が聞こえてきたが、もはやシエルの耳に届くことはなかった。


 ――どの位の間そうしていただろうか。

 「……何処どこだ」

 とシエルは絞り出すように言葉を発した。グラフはことさらに明るい声で答えた。

 「いえ、姫様のお手をわずらわすことでは――」

 「何処だと聞いているっ!」


 グラフは目の前の姫様が怒鳴どなったのは初めてではないかと思った。いつも、いつも何かを押し殺してきた少女である。それはまぎれもなくこの少女の心からの叫びであったに違いないとグラフは感じたのだ。

 「城の崖下の洞窟――」

 またしてもグラフは最後まで言えなかった。シエルが城壁の外に飛び降りたからである。そして走り去っていく後ろ姿を見てにやりと笑ったグラフは――盛大に吐いた。

 吐きながら、グラフは思った。

 (こんなひでえこぶしを食らったのは親父以来だぞ……)

 胃に収まっていたほとんどのものを城壁の外へ吐き続けながら、グラフは上手くいって欲しいと願うのであった。


 シエルは走った。

 暗闇の中を、崖下の洞窟に向かって。何故自分がこんなにも必死に走っているのか、理解出来なかったシエルだが、もう時間はないことだけは肌で感じたのだ。それが、その恐怖だけがシエルの足を前に進ませた。

 『第二次カンデラ城の戦い』が終わって二週間ほどっている。そしてシエルがあのふたりを追い返したのが、その一週間は前のことだ。だからあのときから三週間は確実に経っている。シエルは全力で走った。


 心臓が今にも爆発しそうだった。息が上がり、苦しくなった。そのときに自分はふたりに何と言ったか。覚えていない? 嘘だった。自分についた嘘であった。自分の心を守る為の。自分はこう言ったのだ。

 「人知れず、野垂のたれ死にしろ」と。


 はあ、はあと吐き出す息が、段々と情けなくなってきた。足もふらふらであった。おかしい、とシエルは思った。シエルレーネ姫は、ゲーム中最高の能力を持つ超人ではなかったか? こんなちょっと走ったくらいで足がもつれ、息が上がるなんてことはありえないとシエルは疑問に思った。苦しくて涙も出てきた。


 シエルは自分の発した言葉の冷たさに、ぶるりと身を震わせた。

 それでもシエルは、こんな命令聞く奴なんてひとりもいないさ、うん、絶対そうだと思い、ひたすらにそれを願った。タタロナがいる。あの頭の良い狐人族の娘は、こんな馬鹿げたことで命を落とす無意味さを十分に分かっているだろう。

 タタロナが頼りだとシエルは思い、そう願いつつ、足を動かし続けた。


 そうして何度も転びそうになって、遂に洞窟の前まで来た。

 はあ、はあと息を荒くしたシエルは、ごくりとつばを飲み込むと、洞窟の中に向かって歩き始めた。

 入り口を潜る。中は真っ暗闇であった。

 さく、さく、という砂を噛む音だけが闇の中に木霊こだました。


 しばらく目を閉じれば歩くのに支障はない程度の夜目は得られる筈だが、今このときだけはそんな闇を見通す能力などいらないとシエルは真剣に思った。見たくない物は闇の中に閉じ込めておくべきなのだ。出来れば永遠に。

 シエルはこの暗闇の中に、何か恐ろしいものを見てしまうかもしれないと想像し、また身体を震わせた。


 この洞窟には以前一度だけ入ったことがあった。奥は行き止まりで、深さは精々五十歩あるかどうかといった浅い洞窟である。シエルは呼吸を静かに抑え込み、引き返したいという強烈な欲求を無視して、一歩一歩足を前に運んだ。

 さくり、さくりと足下で音がする。次第に波の音が小さくなっていき、聞き取るのが難しくなったとき、シエルは目の前に行き止まりの岩壁を確認した。


 「な、んで……」

 そうして視線を下にずらすと、暗闇の中にふたつの人影が転がっているのを見た。暗くてもそれが誰だかは、シエルにはすぐに分かった。

 イェーナとタタロナであった。

 ふたりは寄り添うように横たわっており、表情は穏やかで、まるで眠っているかの様であった。

 シエルはふたりの側に寄り、両膝を着いて髪に触れた。その髪はぱさぱさで、持ち主と同じく死にかけているようであった。

 シエルの瞳に涙がにじんできた。


 この世界に来てからシエルは、どうにも涙腺るいせんゆるくなって扱いに困る、と常々思っていた。ふたりの頬はこけて、肌はかさかさ、色は土色で、落ちくぼんでいて閉じているまぶたを見ていると、またその困る状態に陥ることになるのは確実だった。

 そのとき、そのまぶたが開いた。


 「……やあ、姫様、ご機嫌、うるわしゅう――」

 「……どうしてこんなところにいるのよ……」 

 イェーナの弱々しい声に、シエルは震えそうになる声を押し殺して抗議した。

 「いやだなあ……姫様がそう命じたから、そう、してるの……」

 どうしてこんなにイェーナって馬鹿なのだろうとシエルは思った。あんな言葉、真面目に聞く方がどうかしている。

 「タタロナッ! お前がついていながらっ!」

 シエルはつい怒鳴ってしまった。タタロナは笑みを浮かべながら言った。

 「……イェーナのやりたいようにさせるのが、私の役目ですから……」

 

 もう限界だった。

 シエルの両目に涙が溢れ、ぼろぼろとこぼれ落ちた。それはイェーナとタタロナの顔に降り注ぎ、ふたりの顔を濡らしてしたたった。

 シエルはふたりの頭を両腕で抱きかかえ、ぎゅっと締めた。その間にもシエルの瞳からは、後から後から涙が流れ出るのだ。

 「姫様……苦しい……冷たい……」

 「うるさい馬鹿っ、喋るなっ!」

 シエルはイェーナは馬鹿だと、本っ当に馬鹿な奴だと、泣きながら思った。

 シエルは、本当に間に合ったのだろうかという不安を押し殺して叫んだ。

 「グラフッ、いるんでしょっ! さっさと来なさいっ!」


 その言葉は洞窟の壁に反響し、入り口の方へ消えていったが、それに代わってざくっざくっという重みのある足音が近付いてきた。 

 グラフであった。シエルは泣き顔をグラフに向けて言った。

 「あなたはそちらのタタロナを運びなさい」

 そのシエルの言葉にグラフは「へい」と一言だけ答えてタタロナを抱いて、のっしのっしと外に向かって行った。シエルはイェーナを抱きかかえる前に、そのぐちゃぐちゃの顔をイェーナの耳に近づけて、ささやいた。


 「貴女あなたはわれとともに生きるの。いい? ずっと、一緒に」

 その言葉にイェーナの閉じた目から涙が一筋、こぼれた。

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