6 ”うず”の向こうに(2)

 ゼカ歴四九九年三月十四日。転生して百九十日目。曇り。

 土曜日。

 その日の深夜、カンデラ城の地下倉庫の最奥にシエルはいた。今は暗闇に身をひたして、丸まって座っている。いよいよ計画を実行するときが来たのだ。

 服装はなるべく地味なもの。持ち物は金貨銀貨にウィンドウを割るためのハンマー。その他の物は全て置いていくことにした。


 時刻はまもなく第十二刻(午前〇時)になる。辺りはしんとしていた。 

 前回確認したふたつのこと、”うず”を通り抜けられるかということと、通り抜けた先はちゃんとした場所かということは、クリアしている。ウィンドウケースの中というのは少々厄介やっかいではあったが、なんとかなるだろうとシエルは思った。

 明かり取りの小窓から差し込む青白い月の光が、憎々しいほどあの転生夜の色と似ていた。


 シエルは立ち上がった。

 こちらの世界に全く未練がないわけではない。転生してもう少しで二百日になる。大分この身体にも慣れたし、こちらの風習にも馴染んできたとは思う。

 だが根本が現代日本人なのだ、だからこちらの世界では――などと言ってはいるが、シエルには分かっていたのだ。理由がそうではないことに。 


 イェーナだった。

 全てはイェーナのことを忘れたいという一心からだった。

 転生直後から付き合い続けた有翼人。全く侍従に向かない侍従。天真爛漫、勝手気まま。だけど、何となく憎めない性格がシエルは大好きだった。


 ぼーん、ぼーんと時計の音が鳴り始めた。地下倉庫の壁際に、例の”うず”が発生し、次第に大きくひろがってゆく。

 シエルはもはや、この世界をゲームの世界、自分をアバター、そして周りのひとはNPCとは見ていなかった。

 ここは現実の世界なのだ。

 空があり、地面があり、山や草木、花があり生き物が生きている。全ての物は実在しているし、全てのひとはそれぞれが必死になってここで暮らしているのだ。ここが仮想というならば、現代日本もまた仮想である。

 シエルは、裏切られた心の痛みをもって、やっとこの世界を”現実”と認めたのだった。それが向こうの世界に帰ろうと決心してからだというのが、何とも皮肉なことだった。


 ”うず”の拡張が止まった。広がっているのは一分の間だけ。シエルは足を一歩”うず”の方に踏み出して、ふと横を向いた。何かきらきらと光るものが目の端に入ったからだった。 


 それは幾筋ものひびが入り、埃にまみれ、蜘蛛の巣が張ってあって、鏡面がにごってしまいもはや役目を終えた古い姿見であった。

 そこにシエルが映っていた。シエルはその自分の姿をじっと見続けた。

 一分。二分。三分。”うず”は?

 ”うず”は既に消失していた。

 シエルは持っていた荷物を足下に落とした。そして自分もそこに座る。膝を抱えてうつむいた。吐く息が白かった。


 分かっていたのだ。

 シエルは今の姿で向こうの世界に帰るということが、どんなに無謀なことか分かっていて、それでもあえて考えないようにしていたのだ。

 だが”うず”に飛び込む直前に、自分の現実の姿を見せられて、もう一歩が踏み出せなかった。あたかも古く年老いた姿見が、そんなことはおやめなさいといさめるかのように。


 ”うず”をくぐってあちらの世界に行く。ウィンドウケースの中に出る。”うず”は消える。真夜中なので、電灯は落とされ、店内には誰もいない。

 シエルは持ってきたハンマーでウィンドウケースを叩き割る。もしかすると警報が鳴るかもしれない。

 急いで【非常口】から外に出る。出れれば良いが。また、警備会社に通報するシステムがあるかもしれない。外に出たらそこから急いで離れる。誰にも見られないように。


 深夜零時である。じゅんらの警察官に見つかったらまず間違いなく補導される。シエルは十四歳の少女なのだ。

 それで見つからないようにどこかで朝まで潜伏する。午前六時頃になったらコンビニにでも行って朝食を購入する。

 勿論『移つ代の指輪』をしているから人間の姿になっていて、問題は無い。と、そこで問題が大ありなのに気が付く。


 かねがないのだ。きんはあるが。

 日本政府が発行した紙幣硬貨がなければ買い物は出来ない。金貨と銀貨を換金しなければ、おにぎりひとつ買えやしない。が、金を換金するには確か身分証明証が必要だった筈である。

 では質屋はどうだろうか。骨董品屋は?

 盗品対策にやはり身分証明が必要な気がする。よくは分からないが。

 当然、シエルは身分証明証を持っていない。免許証、学生証、保険証、パスポート、マイナンバーカード……。取得する見込みもなければ手当もない。


 では、自分から警察に行くという案はどうだろう? 身分証明証他全てを盗まれた旅行者をよそおって。何処どこの国を出身とすれば良いだろうか? シエルの外見は欧州のひとなのだが、適当なことを言うと後で詰むような気がするのだ。第一、その国の言語を喋れるのか。知らない言葉を喋れる筈も無いだろう。


 または記憶喪失を装うという手も考えられる。ワタシ、ダレダカワカリマセーン。そうすると病院に連れられて検査を受けさせられるだろう。もし、そんなところで『移つ代の指輪』を外されでもしたら、そのまま研究対象、モルモットコースに直行しそうだ。なにせ二本角の人間なぞ、滅多に見られるものじゃない。


 そうはならなくともこの身体、血液の成分とか地球のホモ・サピエンスと一緒なのだろうか。体内の臓器の位置とかも。変な寄生虫とか菌とかを知らず知らずのうちにあちらの世界に持ち込んだりしてしまうかもしれない。それが原因で人類が滅んだりとか? 逆にこの身体は向こうのウィルスとかは大丈夫なのであろうか。


 そもそも、『移つ代の指輪』の効果がどの程度続くのかも不明なのだ。街中で変身が解けたらどうなるのだろうかとも考える。二本角などアクセサリーと思って貰えるだろうか? 貰えるような気がする。日本ならば。

 ブルセボ兄似の友人曰く、日本は変態国家らしいから。

 とにかく『移つ代の指輪』は装着者の魔力を吸って発動し続ける。あちらの世界で魔力がどうなるのかは現時点では不明だ。魔術が使えるかどうかも分からない。

 まあこの点はひとまず置いておく。


 とりあえず、換金できたとする。としても、賃貸物件に入るのは無理そうだ。やはり身分証明がネックになる。すると基本はホテル暮らしになるのだろうか。ずっとだろうか。ずっとっぽい。


 では、金と身分証明の問題が解決したとしよう。衣食住の全てがそろっている。何の心配もない。何の心配もないがシエルは向こうで何をすれば良いのだろうか。記憶を失っているため、友人のひとりも思い出せない状態だ。では引き籠って、ネット三昧? 不毛すぎる。わざわざ帰ったのは、そんなことをするためじゃあない。


 では何をしに帰るのだろう。記憶を失っている限り、いや仮に記憶が戻ったとしても、自分のこの姿では友人とは認識して貰えない。「あんた誰?」と言われて終わりである。

 そう、どう考えても現状のままで帰るという選択肢はなかったのだ。ただ帰ることは出来るよ、ということだけであった。


 いつしか、シエルの両目からは涙があふれていた。ずっと望んでいた世界がすぐそこにあるのに。そこは手が届くにも関わらず、シエルには最も遠い場所だったのだ。

 そうしてしばらく地下倉庫にたたずんだ後、シエルは涙をぬぐって部屋に戻ることにした。肩を落として、荷物をずるずると引きずって。


 シエルがいなくなると、地下倉庫は物音ひとつしない深閑とした場所になった。筈であったが、ごそごそと何かが動いた。

 物陰から出てきたのはブルセボとシェアラである。ふたりは陰からシエルの動向を見ていたのだ。

 「妹ちゃん、本気で”うず”の向こうに行こうとしてたのかなあ」

 「そのようですね。前回は何かを確かめたのでしょう」


 ブルセボとシェアラはシエルの様子がおかしいのを感じて、それとなく気にかけていたのだ。前回も隠れて見ていたのだが、いきなりシエルが”うず”に飛び込んだのでびっくりした。

 急いで引き戻そうとしたが、自分から戻ってきたので慌ててふたりして物陰に隠れたのだった。幸いにして見つからなかったが、シエルが何ともなかったのでほっとしたふたりだった。


 「でも”うず”の向こうがあんな風になっていたなんてね……」

 「そうですね。姫様があんなことをしなければ、思いもよらなかったでしょうね」

 ブルセボとシェアラもシエルが無事だったので、この前”うず”に顔だけ突っ込んでみたのだ。そしてシエルが見たように、おもちゃ屋の店内を初めて眺めた。

 「あれは、どんな世界なのかな」

 ブルセボは体格上”うず”をくぐり抜けるのは無理そうであった。シェアラは何とかいけそうだった。

 「少なくとも、凄い技術のある国だという気はしますが」

 目の前を覆っていた硝子が、全くの透明なのにシェアラは驚いた。手で触って初めて分かったのだ。


 「しかし妹ちゃんも無茶なこと考えるんだなあ。でも止めてくれて良かった」

 「はい、さすがに主様の異母妹いもうと様だと思いました」

 それは一体どういう意味なのだろうとブルセボは思ったが、もう夜も遅いので部屋に帰ることにした。

 シェアラはシエルが落ち込んでいるのを見て、明日からどうしようと頭を悩ませるのであった。


 その日から一週間、シエルは自室に引き籠った。目はうつろで、ただ寝台の上で一日中膝を組んでいるだけだった。

 シェアラはこのことをあらかじめ予測していたが、これほどまでにひどいとは思わなかった。そんなに向こうに行きたかったのかしら、とも思ったが、シエルの心情をはかるなど、どだい無理な話であった。


 食堂にも来ず、食事はシェアラが部屋に運んだ。それだけでなく、シェアラがスプーンを持って食べさせた。しもの世話もシェアラがひとりでやった。シエルは全く自分から動こうとしなくなったのだ。

 シェアラは困り果てた。この姫様はずっとこのままなのだろうかと。


 と、そんな中、早馬がカンデラ城に飛び込んで来た。国境を監視していた兵士で、息も絶え絶えに言った。

 「王国軍が領地内に侵入してきました」

 シェアラはそのとき、シエルの目に光が戻るのを見た。

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