5 家族の食卓(2)
シエルの額に一筋の汗が流れた。
シエルはフォークを動かしながら、今自分の
ひとつは敗北を認め、素直に撤退して傷口を拡げない考えである。要するに以後は無言を
ふたつめはより積極的に動くことである。失地を回復するために
というよりシエルはこれ以上痛々しい目で見られながら、無言で食事をする空気に耐えられなかったのだ。シエルはこの食事会の最後まで、知らず知らずのうちに泥沼に嵌り込んでいく自分を知覚することが出来なかったが、出来たとしても自重したかどうかははなはだ疑わしかった。
シエルはさっそく行動を開始した。
「お父様は
唐突に娘から声をかけられた皇帝ムルニッタは食事の手を止めた。他の皆も動きを止めた。うら若き少女から「この紅茶を
皇帝は娘の真意を
「あ、ああ、棍棒だけというわけではないが……」
「
愛娘の次なる問いに皇帝は本格的に押し黙ってしまった。シエルの言葉に他の皆は、
(棍棒に業物があるのか!?)
と一斉に心の中で突っ込んでいたが、皇帝は娘の問いには
「ああ、樹齢三百年の樫の木から
「素晴らしいですわ、お父様。一度ワタクシにも拝見させてくださりませ」
「あ、ああ、執務室にあるのでいつでも見に来たらいい」
「
執務室の
次にシエルは皇后イゼルネの方を向いた。
イゼルネは優雅に食事をとっていたが、その怜悧な瞳がぴくりと動いたような気がした。
「お母様は魔術の研究をなさっておられるんですよね」
「そうですが、それが何か」
イゼルネはこの娘を愛したことはない。生まれてすぐに
「第五階位の空間魔術の正体は、時間操作の魔術だそうですわね」
イゼルネの目が見開いた。優雅な仕草のその指は、
「どうしてそのように思ったのです?」
イゼルネは内心の
「えっと、操作する範囲の空間内で、圧縮、凝縮、濃縮、爆縮を行う場合、その細やかな粒の操作を素早くかつ精確に行う為の補助として、時間を短縮、伸長することにより思い通りの事象を空間内に現出できるかと」
実はこれもゲーム内の知識であった。魔術は第一階位(初級)から第八階位(神級)まであるが、勇者パーティの中に第七階位までの魔術を使いこなす賢者リリンがいたのだ。勇者をやっていたとき、よく彼女が魔術構築について語ってくれたものだった。
正直勇者としては全く興味がなかったのだが、リリンが実に熱心に話しかけるので、仕方なくそれを聞いているうちに覚えてしまったのだ。毎回同じ話をするので途中からは
(まさか……私が長年研究してきた魔術の
いや、結論を出すのはまだ早いとイゼルネは思い直した。魔術はひらめきだけでは構築できない。確かな基礎を習得して、かつそれを精確に積み重ねていって次の階位の魔術に至るのだ。
「魔術に近道なし」と、いわれる
専門的な勉強をしたことがないこの娘にそれが出来るわけがないのだ。化けの皮を
「同じ空間に異なる属性の魔術を二種類以上存在させると、お互いが干渉しあって効果が
「それは異種かつ同位の魔術を共存させるための無属性魔術を間に
イゼルネは匙をぽろりと離してしまい、その匙はスープの中にぽちゃんと落ちてしまった。
(盲点でしたっ! そんな発想がっ! 確かに無属性魔術を
ぶつぶつとひとり言を言い始めたイゼルネを見て、シエルは失敗したと思った。その無属性魔術を教えてあげられれば、母上の役に立ったのにと。リリンには教わっていたのだが、興味無いことはすぐに忘れるシエルであった。
さて次は、とシエルは考え始めた。
順番からいえばシエルはジャリカ兄と話すべきであるが、席順のために間にふたりの兄が挟まっていてなかなか話しづらい。シエルがどうしようかと思案していると、当のジャリカ兄がシエルの右側の開いた椅子に移動してきた。これにはびっくりした。そしてシエルがその兄をほけっと眺めていると、ジャリカ兄が爽やかににこっと笑いかけてきた。イケメンだ。
「シエルは凄いね。武具にも魔術にも興味あるんだ」
と、ジャリカ兄がとろけるような甘い声で話しかけてきた。え、何これナチュラルに言ってんの、信じられない。シエルは気をとり直して、目の前の兄には何の話題を振るか考えた。
(父上と母上にはタタロナ情報とゲーム知識を混ぜて話題を作ったけど。ジャリカ兄は何でも話が出来るっていってたな。逆にやりづらいな……)
「そういえばジャリカ兄様には婚約者がいらっしゃるとお聞きしましたが、どんなお方でしょうか?」
などと、タタロナが言っていたような気がする。ジャリカ兄は苦笑して答えた。
「いや、まだ一度も会ってないんだ。だからどういう
「いま付き合っている方とは一体どうなさるおつもりで」
と小さく言ったらイケメンが固まった。やはりか、とシエルは思った。
「い、いやあ、はは、まいったなあ……」
などと言う。シエルは
「ワタクシも女の
と、十四歳でしかも元が男か女か覚えてない人間がしれっと言う。我ながら何だかなあとシエルは思った。
「ははは、シエルレーネは怖いね――」
と言ってジャリカ兄は肩を落として自分の席に戻って行った。
「……」
シエルは去り行くジャリカ兄の後ろ姿を見て、自分は何かイケメンに恨みでもあるのだろうかと思い起こすのであった。当然何も思い出せないのだが。次はシャカル兄か。
シャカルは隣りにジャリカが戻ってきたときに、その横顔がやつれているのを見て一体何があったんだと息を
「シャカル兄様」
その声を
「ん、なにかな?」
そのような思いをけぶりもみせずに
「盆栽というものを知ってますの?」
「ボンサイ?」シャカルは聞いたこともない単語に目をぱちくりさせた。
「植物を
ああ、鉢植えかとシャカルは納得した。それなら部屋にいくつか置いてある。疲れたときに眺めたり、世話をすると何と無しに心が安らぐのだ。シャカルがそのようにシエルに言うと、
「鉢の中に世界を創るのですよ」
とわけの分らぬことを言い出した。シャカルがきょとんとしていると、
「わび、さびを解すると、宇宙の真理に到達します」
などと言い始めた。わび? さび? 宇宙? 妹よ、お前は一体何を言っているんだとシャカルは問いたかった。鉢植えは単に鉢植えではないのかとシエルに言うと、ちっちっちと否定され、
「
やってみてくださいましと言われはしたが、シャカルは自分の知っている鉢植えとシエルのいう盆栽は根本的に何かが違う気がした。しかも二十年とは。シエルは自分にどこに向かえと言っているのだろうか。だが、シャカルは次の言葉を吐き出すしかなかった。
「わ、わかった。やってみよう」
そのシャカル兄の返事にシエルはにっこりと微笑んだ。
実はシエルは盆栽のことなど何も知りはしなかったが、山から適当に若木を拾ってきて鉢に植えて、適当に世話をしてればなんとかなるんじゃあないかと思っていた。
実に
「そこへなおれ、
と気合を入れられてしまうこと
さて、これで家族四人と交流は出来た、とシエルは思った。シエルは自分の会話が家族団らんの潤滑油となって、和気あいあいの雰囲気づくりに一役買えたかな、と周りを見回してみると、皇帝は何やら思案顔だし、母上はしかめ面でぶつぶつとつぶやいている。ジャリカ兄は
シエルはこれはちょっとおかしいのではと思った。自分の意図したこととはまるっきり逆の光景が目に映っているではないか。おかしい、変だとシエルが悩んでいると、侍従長が皇帝に近づき何やら話し掛けている。皇帝はそれを聞いて
「皆、時間になってしまった。
突然名前を呼ばれたシエルは「は、はいっ」と言ってぴょんと立ち上がった。
「今日はシエルの新しい一面を見れて良かった。
小食堂に残されたのは四人の兄妹である。四人はそれぞれ顔を見合わせ、「じゃあ」と言ってまずジャリカ兄が退室した。次いでシャカル兄が、最後のブルセボ兄は「か、会話。会話」とぶつぶつ言っていたが、結局出て行った。小食堂にはシエルだけが残された。
食事係の侍女たちは動かずに控えている。シエルが退室しなければ片付けは出来ないのだ。シエルは肩を落として立ち上がった。家族とコミュニケーションをとろうとしたが、それはどうやら上手くいかなかったようだと察したのだ。
シエルは部屋を出る直前に振り返った。長机には料理の皿が運ばれた時と同じように並んでいる。しかしもはや椅子には誰も座ってはいない。
(
シエルは今日の食事会は忘れないだろうと思い、部屋を出た。侍女たちが一斉に片付けに入る。皇帝はこのような機会をまた持ちたいと言ったが、家族一同揃っての食事会は、これが最後となるのである。
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